褒めて伸ばして失って。





「……ここは」

 

 霞んでいる視界。目を擦って焦点を合わせる。

 見えてきたのは天井。という事は、俺は眠っていたのだろう。

 上体を起こす。ジャラリと何かが鳴った。

 

「?」

 

 左足首に填められている枷。枷をガッチリと噛んでロックしている大きな南京錠。南京錠の穴を通して伸びる太い鎖は床に打ち込まれた釘で固定されている。

 触ってみると、硬い。

 外す事は出来なさそうだ。

 

「そもそも」

 

 俺は誰だ?

 自問。枷などの日本語は分かるのだが、俺に関するアレソレが全て思い出せないのだ。鏡を見なければ、自分がどんな顔をしているのかも分からない。今自分がいる場所が部屋の中だという事は分かるのだが、誰の部屋というのは思い出せない。……まぁ、他人の部屋だったら記憶の欠如云々は関係無くなるのだが。

 俺の今の状態は所謂いわゆる、記憶喪失というやつなのだろうか。

 だとしたら何故俺は記憶喪失に?何故俺はこんな所に?何故俺の足首には枷が填められている?

 尽きない疑問。

 部屋を見渡してみる。本棚、タンス、机。部屋はどこも綺麗に整頓されており、持ち主はとても綺麗好きなのだという事が分かる。

 俺をこんな状態にしたのはこの部屋の持ち主による犯行なのか?

 兎に角、何か行動を起こさなければ。俺は枷を外してみる事にした。

 ……まぁ、当然のように外れはしなかったのだが。

 どうしたものかとボーッとしているとドアが開いた。そこから入ってきたのは、黒髪を腰の辺りまで伸ばした美少女。その美しさに思わず息を呑む。

 

「目が覚めたのですね」

 

 安心したようにそう言ってきた美少女。

 

「なぁ、ここはどこだ?」

 

 まず、いの一番に聞かなければならない事だ。いつの間にか俺が座っているベッドまで近づいてきていた美少女が誰なのかという疑問よりも、ここがどこなのかを俺は知りたかった。

 

「私の部屋です。中々起きなかったので、心配したんですよ?」

「俺はどれ程寝ていた?」

「三十九時間と五十分程です」

 

 つまり、一日と半分くらい眠り続けていた訳か。我ながら何とも深い眠りだ。

 一番聞きたかった疑問が解決したので、次々に疑問をぶつける。

 

「君は、誰だ?」

 

 そう言うと、美少女は今までの応答とは明らかに違う反応を見せた。

 驚いている。

 俺に誰だと問われて、驚いている。それから、

 

「……覚えて、いないのですか?」

 

 と、一言。

 どうやら彼女とは知り合いらしい。

 俺は全く記憶に覚えが無いので(記憶喪失なので当たり前だが)、「覚えてない」と言った。

 

「ッ──」

 

 それを聞いた美少女の表情を、俺は何と表現すれば良いのか。

 哀しんでいるような、驚いているような、何かを考えているような、喜んでいるような。

 その表情の理由を知らない俺は、彼女との関係性を問うてみる事にした。

 

「悪いが、君の事は何も知らないんだ。俺と君は、一体どんな関係だったんだ?」

「……婚約を誓った男女の関係です」

 

 返ってきたのはそんな答え。

 何てこった。俺はこんな美少女と婚約していたらしい。やるじゃないか、俺。

 記憶の無い俺は彼女の言う事を信じるしかない。

 いや、信じたいな。彼女といずれ結婚するという事実が本当だと信じたい。

 

「そうだったのか……。悪い、何も覚えてなくて」

「別に覚えていらっしゃらなくても──いえ、これからゆっくり思い出していきましょう。私がついてますから」

「よろしく頼む」

「はい、〝兄さん〟」

「……兄さん?」

「あっ──覚えていないのでしたね。兄さんが記憶を失くされる前、兄さんがそう呼ぶように言ってきたんですよ?」

「俺は婚約者にそんなプレイを要求していたのか……」

「私は嬉しいので大丈夫です」

「なら良い、のか?」

 

 解決してないような気もするが、彼女が良いのなら良いのだろう。

 

「じゃあ俺も、君の事は妹と呼ぼう。俺だけ名前で呼ぶのはなんか不公平だしな」

 

 美少女にそう言うと、とても嬉しそうに「はいっ」と返事をしてくれた。

 婚約関係なのに『兄』『妹』と呼び合う俺達はどういう事なのだろうか。

 まぁ良いか。

 

「あ、そうそう。この足枷は何なんだ?外してくれないのか?」

 

 そのままのテンションで問うと、妹から笑顔が消えた。俺は何か変な事を言ったのか?いやいや、足枷が填められている今の状況の方が余程変だ。

 

「……その枷は、外せません」

「何故。俺が何かしたのか?」

「はい、しました。兄さんが記憶を失くされる前に」

 

 また、俺が記憶を失う前の話だ。

 それを出されると俺はどうしようもない。記憶が無い以上、何もしてないとは言えないからだ。

 押し黙る。

 妹は、「お腹が減りましたよね?今お食事をご用意致します」とドアを閉めてこの部屋から出て行ってしまった。ドアを閉めてから数秒後に階段を降りるような音が聞こえたので、恐らくこの部屋は二階。

 

「……変な同棲生活だなぁ」

 

 じゃらりと枷から伸びる鎖を手で持ち、そう呟く。

 これじゃあまるで監禁──いや、これ以上は何も言うまい。

 気になる事は沢山あるが、それに関しては妹の言う通り、ゆっくりと思い出していけばいいだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなこんなで始まった、俺と妹の同棲生活。

 一週間程生活して分かったのは、妹は俺を家から出す気は無いらしいという事。

 

 

「そろそろ冷蔵庫の中も寂しくなってきたんじゃないか?俺が買い物に行ってこよう」

 

「暇だし、散歩でもしてこようかな」

 

「ほら、もしもの時の為に合鍵って必要じゃないか?」

 

 

 タイミングを見付けては、外に出る口実を作ってみる。

 が、

 

 

「買い物には私が行きますから」

 

「お散歩なんてしなくても生きていけます」

 

「合鍵は渡せません」

 

 

 等。

 全て効かず。

 全て聞かず。

 何故なのかは分からないが、妹は俺に外出してほしくないらしい。

 外に出したくないのかも知れないが。

 俺が生活するのは家の中のみ。

 家の中と言うと、家の中ならどこでもうろつけるという意味だと思われてしまうが、部屋から出られるのはトイレと風呂の時だけ。それ以外は部屋の中で過ごさなければならない。

 足枷を付けられ、一日の大半をベッドの上で過ごす。妹にくっつかれて、イチャイチャと仲睦まじく会話をしながら。

 美人は三日では飽きないが、この生活には三日で飽きた。

 妹よ、何を想って俺をここから出さないのかは、俺には理解出来ない。妹という婚約者の事を思い出せない俺には、何をどうやっても理解する事は出来ない。

 だからせめて、理由を教えてはくれまいか?

 

「理由、ですか?」

「そう、理由。俺が外に出てはいけない理由を教えてほしいんだ。ただ駄目というだけじゃあ、相手は納得しない。そうだろう?」

「……と、言われましても。特に大それた理由は有りません。『外に出てはいけないから』、その事実だけで充分ではないですか?」

「だから、それだと納得出来ないと──」

「して下さい」

「ッ」

 

 昏く濁ったその瞳に怯む。ただの恐れではない。本能的に──俺はこの瞳を知っている。

 実体験なのか?思い出せないが、俺は何回かこの瞳を見た事があるような気がする。

 妹の瞳から目が離せずに口をパクパクさせていると、妹が「兎に角、外に出る必要は有りません」と言って、それ以上の追及は受け付けないと言わんばかりに話を変えてしまった。

 結婚したら和風洋風どちらの家に住むか。

 都会と田舎どちらに住むか。

 子供は何人欲しいか。

 子供の名前はどんな名前が良いか。

 色々聞かれる。

 ベッドに座っている俺に密着しながら。

 そもそも、妹はこんなに俺の事を愛しているのに(自分で言うのはとても恥ずかしいが、この際気にするまい)、何故まだ『婚約』関係なのか。

 結婚はしないのか?

 事実婚だとでも言いたいのか?

 それとも出来ないのか?

 金銭的な理由で出来ないのか?

 親の許可的な理由で出来ないのか?

 〝それとも、法律的な理由で出来ないのか?〟

 考えてから、我ながら面白い思考に辿り着いたモノだなと心の中で苦笑する。

 法律的な理由?そんなまさか。妹との関係が実は本当の兄妹でしたというオチじゃあないだろうし、恐らくは、俺の年齢がまだ結婚出来る年齢に達していないから──もしくは、妹の年齢が結婚出来る年齢に達していないから。

 そんな理由だろう。

 妹からの質問に答えながら、足枷に視線を落とす。

 結婚出来ない理由は納得出来ようとも、俺の足首にコレが填められている理由を考えてみても、納得は出来そうにない。

 ふと、俺と同じような状況に置かれた外国の映画の話を思い出した。と言っても、映画の方が俺よりももっと絶望的な状況だったが。

 確か、最後は足を鋸のこぎりで切ったんだったか?

 うぅむ、俺には理解も実行も出来そうにない。

 

 それからも、映画の内容は覚えているのにどこで誰と見たのかは全く思い出せないなとか考えたりして、色々脳を回した。

 

 同棲生活は続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

「どうか致しましたか?兄さん」

 

 昼ごはんの途中。突然手の動きを止めた俺に、妹が怪訝な顔をして問い掛けてきた。

 

「──いや、何でもない。妹の作るご飯は美味しいなと思っていたんだ」

「あら、嬉しいです」

 

 俺が褒めると、妹も微笑みで返す。

 この生活は、満ち足りていた。

 あくまでも、妹にとっては。

 俺にとっては、だと?

 可笑しな事を聞く。

 満ち足りていると思うか?足首に枷を填められ、入浴と排便以外ベッドの上での生活を強いられているこの生活を。

 満ち足りている訳がないだろう。

 美人は三日経っても飽きは感じない。

 だが、怒りは感じる。

 何故俺をこの部屋に閉じ込めるのか。

 何故俺が外に出てはいけないのか。

 怒りは積もる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この生活が始まって何十日が経過しただろう。テレビも無ければカレンダーも無い(と言っても、カレンダーがあったとしても目覚めた日が何日なのか分からないのでどうしようもないのだが)。壁掛け時計はあるが、もう何周したのかを数えていない。

 

 妹は夕飯の買い物に行くと言って、つい先程家を出て行った。

 何とかして外に出たいモノだが、自力で脱出するのは不可能。足枷の鍵なんか持っている訳が無いし、物語のように針金やらで解錠する事は出来ない。

 どうしたものかと溜め息を吐く。首の骨をゴキゴキと鳴らしながら頭を左右に動かしていると、視界にとある物が目に入った。机の上、文房具が一つの瓶に纏められている。

 その中の一つ、カッターに。

 

「……」

 

 手を伸ばす。鎖が伸びる最大の距離まで近付く。ギリギリで指は届かない。

 繋がれた左足を無理矢理引き寄せるように、更に身体と腕を伸ばす。枷が足首に食い込む程伸ばして、瓶を指が掠めた。

 ガシャン。机の上に鉛筆シャープペンシルボールペンシル定規分度器マジックペンーー文房具が散らばる。勿論カッターも例に漏れず、俺の手の届く所に。

 カッターを握り、カチカチと刃を伸ばす。

 一瞬外国の映画のラストシーンが頭を過よぎるが、俺のやりたい事はそうじゃない。

 

「……」

 

 肌に刃先を触れさせる。少し手が届きにくいのが難点だが、この際どうでも良い。

 

「……!」

 

 刃を肌に押し込み、一気に引き抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──兄さん!兄さん!しっかりして下さい!!」

 

 目を閉じていた俺の頬に、妹が気付けの為に張り手を何度もしてくる。

 

「……よう、妹」

「挨拶をしている場合ではありません!嗚呼、血が沢山……!」

 

 俺の手を取る妹。手首を中心として結構な量の血がベッドを赤く彩っているのを見て、焦っている。

 

「どうしましょう!病院に──」

 

 妹がポケットから携帯を出し、電話を掛けようとする。そのまま妹が電話を掛ければ、十分程で救急車が到着するだろう。そうすれば俺の足枷は外され、病院へ搬送。

 妹は警察に捕まり、俺はこの部屋から出られる。

 

 だが、俺のやりたい事はそうじゃない。

 

 妹の手を血だらけの手で掴み、止めさせる。

 

「電話は……しなくて良い」

「ですが、このままだと兄さんが!」

「それで良いんだ」

「良い訳がないでしょう!独りで逝かないで下さい!」

「もう疲れたんだ。終わりの無いこの生活に」

 

 声を震わせながら妹に語り掛ける。妹が息を呑んだ。

 

「それに、どの道、この出血量だ。間に合わない。……なぁ、妹よ」

「な、なんですか?」

 

 俺の手を触ったものだから、妹の手の平にも血が付着した。その手で涙を拭う妹の顔は、拭った方向に合わせて赤が広がっている。

 

「最期の望みだ」

 

 俺がそう言う。

 妹も、もう俺が死ぬ事は覚悟したのだろう。「何でも、言って下さい」と嗚咽交じりの声で応えてくれた。

 

「この枷を外してくれないか。最期だけでも、枷を外した状態でお前を抱き締めたいんだ」

 

 いくら抱き締めても抱き締められても、ジャラリと音を鳴らして邪魔をする枷と鎖。

 どうしようもなく邪魔で鬱陶しいソレを、外してほしいと頼む。

 妹も快諾。携帯が入っていたポケットとは別のポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。捻って、南京錠を外した。そして、足枷も外される。数十日数ヶ月の間填められ続けていた枷はようやく外され、俺の左足首は久し振りに外気に触れる事が出来た。

 

「妹」

 

 俺は妹に抱き付いた。しっかりと力を込めて妹を抱き締めれば、妹も俺の背中に手を回して抱き締め返す。

 

「愛してるぜ。──妹としてな」

 

 カッターを握り締め、後ろから妹の首を掻っ切る。

 俺の時とは比べ物にならない程夥おびただしい量の血液が傷口から噴出する。暖かいソレを全身に浴びながら、妹を突き飛ばした。

 受け身も取れずに妹が床に倒れる。然程時間は掛からずに、床に真っ赤な水溜りが広がっていく。

 

「に、兄さ、ん。な……に、を」

「悪いな、妹。全部思い出したんだよ」

 

 もう返事をする元気も無いのか、妹の反応は目を見開くだけに止まった。

 このまま妹からの問いを待っている訳にもいかないので、問われそうな事を勝手に答えておく。

 冥土の土産だ。真実を受け取れ。

 

「まず、いつ思い出したのか。これに関してはもう、切っ掛けは無い。数日前、お前と会話している途中にふと思い出したんだよ」

 

 

 

『……』

『どうか致しましたか?兄さん』

『──い、いや、何でもない。妹の作るご飯は美味しいなと思っていた』

 

 

 

「驚いたぜ。過去にもお前に監禁されてたんだからな」

 

 

 

『病気が治れば、兄さんは逃げ出したりしなくなる。病気が治れば、兄さんはいつも通り私を褒めてくれる。病気が治れば、兄さんは私と一緒にいてくれる。早く、早く治さなきゃ……!』

『や、め』

『安心して下さい。すぐに終わりますから』

 

 

 

「今回の足枷コレは、前回の反省を踏まえて……だろ?

 前回は、家の中の移動は自由に出来た。そのお陰で俺は脱走を企てる事になるが、お前に見つかってスタンガンで眠らされ──起きたら足枷を付けられてベッドの上。

 ここまでは、お前の手のひらの上だ。予想の範疇だろう。……だが、目覚めた俺に予想だにしない出来事が起こっていた。

 記憶喪失。

 俺が何も憶えてないのを良い事に、有る事無い事吹き込みやがって」

 

 

 

『婚約を誓った男女の関係です』

 

 

 

「何が婚約者だ。そりゃ婚約止まりな訳だよ。何せ実の兄妹なんだからな!……って、もう聞こえてないか」

 

 妹はもう動いてはいなかった。手も足も瞼も口も心臓も。何も動いてはいなかった。

 

 ついでに白状しておくと、俺がカッターで切ったのは手首ではない。

 背中だ。

 前にどこかで『背中の動脈を切ると、痛みをあまり感じずに多くの血を流す事が出来る』といった内容の話を聞いた事があったのだ。手に持ったカッターを背中に伸ばし、切る。手が届きにくいのが難点だが、上手くいった。

 血が流れてしばらくは仰向けで待機し、ある程度血でベッドを汚したら、身体の位置を横にずらす。ベッドの血を手首に塗りたくり、手首を汚されたベッドの上に置けば──あたかも俺が手首を切って自殺を図ったかのように思わせた。手首に血を塗るついでに身体の各部位にも適当に血を塗れば、背中から流れ続ける血にもあまり意識がいかなくなる。

 イカれたカモフラージュって訳だ。

 妹はまんまとそれに引っ掛かり、俺の策略に嵌まった。

 他の場所を切るよりかは痛みが少ないとは言え、それでも痛い事は痛いし、そろそろ止血をしないと本当に死んでしまう。

 しかし病院に行けば、俺が妹を殺した事がバレる。

 どうしたものか。考える。

 まぁ、取り敢えずここから出よう。

 玄関からは出られない。

 唯一鉄格子が填められていないこの部屋(前回の時も、妹の部屋には入らなかったからな。妹の部屋には入ってはいけないという俺の倫理観を利用したんだろう)の窓から飛び降りても良いが、ここは二階。飛び降りたら無傷では済まないだろう。これ以上の傷を負うのは出来るだけ避けたい。

 階段を降りる。

 玄関も駄目、妹の部屋の窓も駄目、そんな俺が何故一階へ降りるのかと聞かれれば。

 

「……やっぱり。足枷で捕らえてしまえば、わざわざ鉄格子を嵌め直す必要もなくなるもんな」

 

 着いたのは一階のトイレ。そこには、前回の俺が鑢やすりで削った鉄格子が、そのまま填められていたのだ。

 足枷で俺の行動を完全に封じる。

 なんて強引な再犯防止だろうか。

 まぁ、そのお陰で俺は外に出られる訳だ。今は感謝するべきだろう。

 鉄格子を外し、床に置く。

 窓枠に身体を通らせ──着地。

 数ヶ月ぶりの外。俺は記念すべきその一歩目を素足で踏み締めた。

 空を見上げる。窓越しじゃない、本物の空。夜なので真っ暗だが、そこにある。何物にも隔たれずに、確かにそこにある。それだけの事なのに、俺は感動した。

 加えて、雨。

 冷たいこの雨は、果たして俺の身体の血を洗い流してくれる清めの雨なのか。

 それとも、妹が俺を失ったが故の悲しみの涙の雨なのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハァ……ハァ……!クソ!」

 

 住宅街の塀を支え代わりに、雨の中を歩く。

 息は切れ、段々と足取りも覚束おぼつかなくなっていく。失血してから時間が経ち過ぎた事によるものだ。

 失血故か、雨による視界の悪さ故か、視界が霞む。

 遂には、足の力が抜けてその場に崩れ落ちた。

 

「……折角あそこから出られたのに」

 

 手を付き、立ち上がろうとするが上手い具合に力が入らない。

 

「俺は死ぬのか……?」

 

 俺にも、それ以外にも、雨は平等に降り注ぐ。

 ………………、

 …………、

 ……。

 

 

 

「……お兄さん?」

 

 深い眠りに落ちかけていた俺の意識が、その一言によって引き戻される。言葉だけでは、ここまでの反応はしなかった。

 声。

 聞き覚えのある、懐かしささえ感じるその声に、俺は反応したのだ。

 声の主は俺の身体をペタペタと触り、背中の傷に気付いて「ひっ」と小さな悲鳴を洩らす。そして、顔を確認したのだろう。

 

「お兄さん!」

 

 と、確信めいた声色で俺の肩を揺すった。そんなに揺らされると傷口に響くのだが。しかしまぁ、コレに対する反応を何かしら見せないと続けそうだったので、「痛い」と返す。

 

「──ッ!」

 

 グイッと上体を起こさせられ、抱き締められる。妹の時とは違う、苛立ちの感じない優しい抱擁。思わず涙が出たが、幸いにもこの雨だ。バレはしないだろう。

 それから肩を貸してもらい、移動する事になった。

 怪我人である俺の歩幅に合わせてもらい、移動している最中。俺は問うた。

 

「な、何故ここに?」

 

 妹に殺された筈では?そう問うと、相手も返してきた。

 

「それはこっちの台詞だよ!交通事故で死んじゃったって聞いてたのに!」

「……は?」

 

 泣きながら(いや、もしかしたら頬を伝っているソレは雨かも知れない)そう言われる。俺が交通事故で死んだ?そんな馬鹿な。

 

「俺も、お前は殺されたんだとばかり思っていたんだが」

「こ、殺された!?誰に?」

「妹に」

 

 自分で言ってから、気付く。

 妹はあの場で両親も幼馴染も殺したと言っていたが、それを事実だと決定付ける証拠が何も無かった事に。

 

「アイツの嘘だった、って訳か」

「……そう言えば私も、お兄さんが交通事故で死んじゃったって情報は妹さんから聞かされた」

 

 成る程。

 幼馴染がいないという俺の疑問は、幼馴染を殺した事にして解消させた。

 俺がいないという幼馴染の疑問は、俺が死んだという事にして解消させた。

 死んだのなら、会う事は出来ない。俺の置かれていた状況も『会えない』という点でソレに通じる所がある。

 そうして辻褄を合わせようとしていたって事かよ。やられた。

 

「ま、まぁ。こうしてまた会えたんだ。良いじゃないか」

 

 そう言って、この話題を終わらせる。

 先程から身体の震えが止まらないのだ。

 これ以上の会話は本当に拙い。

 

「──そうだ!怪我、大丈夫なの!?」

 

 大丈夫だったら、雨の中道端で転がってはいないだろう。

 そう言い返す余力も無くなっていた俺は、もう全体重を幼馴染に預け始めた。何だか異様に疲れた。足が一歩も動かない。

 

「お兄さん!」

 

 そう言えば俺は、幼馴染に肩を借りて、一体どこに向かって歩いていたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まだ脈はあるし、呼吸もしている。特に不規則な呼吸でもない。急いで私の家に帰って治療すれば助かるかも」

 

「……それにしても、妹さんにも困ったものだよ。本気で兄妹で結ばれるって信じてるんだから。兄妹で結婚なんて出来る訳ないのに」

 

「それを気付かせる為に色々見せ付けてみたけれど、逆効果だったみたい。失敗失敗」





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