褒めて伸ばして企てて。
「兄さん、おはようございます」
「兄さん、御飯のお味はどうですか?今日の魚の焼き加減には自信があるのですが」
「兄さん、トイレですか?私がお手伝いしま──……分かりました。どうぞ。ですが、ドアの前で待ってますね」
「兄さん、兄さんは何もしなくて良いんです。私に何もかも任せて、何もかも委ねて下さい」
「兄さん、兄さん、兄さん、兄さん、兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん──」
毎日毎日、コレだ。気が滅入りそうになる程の、妹からの呼び掛け。おはようからおやすみまで妹尽くしだ。
あの日から、外の空気を感じる事は無くなってしまった。起床時の陽射しは、やはり窓越しだと眩しさはあれど暖かさは感じられない。代わりに感じるのは、身体に引っ付く妹の体温と身体の柔らかさだけ。
家の全ての窓に鉄格子が填められ(ご近所さんに見られたらどうするつもりなのだろうか)、玄関には最初から備え付けられていた鍵に加えて、外からしか施錠開錠の出来ない鍵が付けられている。妹が俺をどれだけ家に留めておきたいのかが分かる扱いだ。
勘違いしてもらいたくないのは、俺は自宅から出ないのではなく出られないという事だ。自宅に引き篭もっているのではなく、自宅に監禁されているだけなのだ──と。
妹曰く、『兄さんは私が一生養います』だそうだ。学校は中退させられ(学校側には、中退してでもやりたい事がある、と告げたらしい。これでは俺が進んで辞めたみたいだ)、俺が歩けるのは自宅内だけとなった。妹が朝早く起きて炊事洗濯をし、学校に行く。帰ってきたらすぐさま俺に抱き着き、一時間程俺の匂いを嗅いでから夕飯の準備に取り掛かる。風呂にまで同行され、現在俺が一人になれるのはトイレの中だけだ。まぁ、いずれはトイレも……。
うんざりだ。妹は可愛いが、ここまで自由を剥奪されると疲れの方が上回ってくる。
と、いう事で。
俺、脱走を試みようと思いまーす。
トチ狂った訳ではない。吹っ切れたのだ。やりたい事を見付けたという理由で中退したのだから、本当にやりたい事をやってやろうじゃないか。可愛い可愛い妹から自立(妹離れ)をするのだから、兄離れをしてもらわなければ。
読者諸君。俺はやってやるぞ。妹離れをし、自由を手に入れてやる!
「さて……」
唯一俺が自由になれる空間ーートイレの中。腕を組んで考える。脱走するのに必要なのは大きく分けて三つ。
・脱走経路。
・脱走した後に使うお金。
・信用出来る人間。
だ。この三つの中で俺が悩んでいるのは三つ目、『信用出来る人間』。妹によるワクワク監禁生活がスタートした初日──つまりは『あの日』の夜に、俺のスマホから妹以外の連絡先が抹消された。男友達も女友達も、学校の電話番号も、果てにはクーポン等の目的で登録していた飲食店のアドレスも、全てだ。
参った。誰にも連絡が取れない。警察に連絡するという手もあるが、俺は妹を警察に突き出すような真似はしたくない。この件の原因の一端は俺にあるのだし、俺は妹に殺人と監禁の罪を償ってほしい訳ではないのだ。
ただ、兄離れしてほしくて、妹離れさせてほしいだけ。
我儘だろうか?我儘なのだろうな。妹を褒めるだけ褒めて、突然突き放す俺は最低のクズだ。
「……兄さん?随分と遅いのですね」
ドア越しに聞こえてくる、妹の凍えるような声。そろそろ限界か。
俺は脱走について考えていたが、それと同時に行っていた事がある。
鉄格子と窓枠の間を鑢やすりで音を立てずにゆっくりと削る作業だ。作業時間は多くて十分。それを一日に三回。妹が学校に行っている間に作業すれば良い?馬鹿言え。鉄格子を削った時に出てくる粉を隠す──証拠隠滅も楽じゃないんだぞ?鉄の臭いも消臭剤では限界があるかも知れない。僅かに削り、それを数多く地道にこなす。そうじゃないとバレる。
毎日毎日地道に(バレないように)削り続け、そろそろ鉄格子が外れそうな所にまで漕ぎ着けた。
このままバレなければ、妹が学校に行っている間に簡単に逃げられる!
「おまたせ。ごめんな」
平静を装い、トイレから出た。
「いえいえ、お腹の調子は大丈夫ですか?私の料理で当たったのでしたら……」
「妹の作る料理で腹を下す訳ないだろう?この寒さだ。多分腹が冷えていただけだと思う」
物憂げに俯く妹に、優しく諭す。見れば見る程良く出来た妹だ。脱走を企てているのが申し訳無く思えてくる。
……いや、駄目だ駄目だ。俺はもう決めたんだ。見てろ、妹よ。兄の本気を見せてやる!
「……」
カリ、カリ、
「……」
カリ、カリ……。
時間と己の精神力との戦い。気が狂いそうになる程の、長い(実際には十分も経っていない)時間。例えるならば、問題を全て解き終えた後のテスト最中。俺はここまで考えて、苦笑した。あの生活も懐かしいな。あの苛立たしさも今では愛しさに変わっている。
……って、いけないいけない。集中しなければ。
息が荒くなるのを抑えながら、作業を続ける。焦るな、焦るんじゃない!
鼓動がバクバクと喧しく存在を主張する。ドアの向こうには妹が立っている。バレたら一巻の終わりだ。
まだ妹からの呼び掛けは無い。チャンスだ。ヘマさえしなければ、今ここで脱出経路を完成させる事が出来る。
「兄さん?」
「もう少し待ってくれ」
……どうやら、ここで時間らしい。鉄格子の鑢で削った部分が見えないようにカモフラージュし、トイレの水を流してドアを開く。
「おまたせ。ごめんな」
「いえ」
「……やったぞ」
小さく、掠れた声で呟く。喜びのあまり笑いそうになるのを必死にかみ殺す。
脱出経路が、遂に完成したのだ。妹との生活におさらば出来るのだ!いざ脱出する時に不作用が無いように、一度鉄格子を外してみる。少々縁に引っかかるが、外す事が出来た。しかし、今脱出する事は出来ない。脱出の際には音を抑える事が難しくなるので妹にバレてしまうし、そもそも俺はまだ準備をしていない。仮に、準備も何もかも完璧な状態だったとして、俺と妹の今の距離なら逃げ切れない。
決行は明日。妹を見送った瞬間だ。
決行当日。
自室の窓を間に挟んで見えた空はとても晴れていて、俺の門出を祝福しているようだ。妹が家を出るのが七時五十分。着替えやら何やらの準備の事を考えたら、俺が家を出るのは八時半位になるな。
いつも隣で寝ている妹の姿は、この部屋には見当たらない。もう朝食の準備に取り掛かっているのだろう。
俺は大きな欠伸あくびを一つし、妹の居る一階へと向かった。
「おはようございます、兄さん」
「おう、おはよう」
妹に挨拶をし、洗面台へ。頭を働かせる為に冷たい水で顔を洗っている最中、作戦をもう一度頭の中に浮かべてみた。見落としは無いか。足りないモノは無いか。先程の妹との会話は不自然じゃなかったか。
……OK、大丈夫だ。普段通りに朝食を済ませ、妹を見送ってやろうじゃないか。
「兄さん、御飯はどれ位お召し上がりになりますか?」
「いつもと同じで良いよ」
「分かりました」
「「いただきます」」
目の前に並ぶ朝食のメニュー。どれもこれも美味しそうで、自分の腹が鳴るのが分かった。この朝食が最後の妹の手料理となる訳だし、しっかりと味わおう。美味しい。
チラリと、さり気なく妹の顔色を伺う。うん、いつも通り。作戦がバレているという事は無さそうだ。
「私の顔に何かついていますか?」
「い、いや。何も」
視線を感じた妹が俺に微笑みながら問い掛けてきたので、微笑み返しながら視線を下に戻した。
他愛も無い会話をちょくちょく挟みながら食べた朝食。
食器を(妹が)洗った後に突然抱き締められて匂いを嗅がれて。
時計を見れば、いつの間にか妹が家を出る時間。
「お昼は冷蔵庫に入れてありますので、電子レンジで温めて下さいね」
「おう、分かった。気を付けてな」
「はい、いってきます」
「いってらっしゃい」
バタン、玄関のドアが閉まる。それから鍵を掛ける音が何回か聞こえる。遠ざかる足音はやがて聞こえなくなり……。
「よし、よし、よし!」
俺は小さくガッツポーズをした。
俺の勝ちだ、妹よ!
リュックに入る程度の荷物を詰め込んで、立ち上がる。部屋を見渡すと、物心付いた頃からずっと使ってきた自分の部屋が映る。もうこの部屋とも今日でお別れだ。本棚に置いてある本を読む事も無いし、机に向かう事も無い。そう思うと、少し心にクるモノがあるな。
……えぇい、何をウジウジしているのだ俺よ。リュックを背負い、ドアを開ける。
「……は?」
ドアを開けて目に入るのは、見慣れたクリーム色の壁でも茶色い廊下でもない。視界に映るのは、居る筈が無い、居てはいけない、先程自分自身が見送った筈の──
不気味に微笑む妹の姿だった。
「そんなリュックを背負って、どこに行くおつもりですか?」
「……」
言葉が出ない。
冷や汗が背中を伝う。
グルグルと視界が歪む。
「この家から出て行くつもり……そうですよね?」
「ち、──」
「違う訳ありませんよね?私、知っていますから」
「何をだ」
「【トイレの鉄格子】と言えば、分かりますか?」
「っ!」
バレていたのか?いやしかし、カモフラージュは完璧だった筈。トイレに入って、目に入ったとしてもわざわざ確かめようとはしないような配置だったのに。
「不思議そうな顔をする兄さんもとても愛らしいです」
俺に一歩近付く妹。見えない力に押されるように一歩退く俺。妹がドアを閉めた。
「まず違和感に気付いたのは二十日前でした。その頃の兄さんに、自覚はありましたか?」
自覚?何か不自然な事をしたか?
「いつも褒めて下さる兄さんが、私を褒める回数が減っていったのです」
「あ……」
言われてみればそうだ。最近、妹を褒めた記憶が無い。俺は無自覚に妹を褒めるのではなく、良い所を探して意識的に褒めるのだから当たり前だ。脱走の事ばかり考えていたら、妹を褒めなくなるのは当然である。
「それから一週間程経ってから、トイレで僅かに鉄の臭いがするようになりました。同じように、兄さんの身体からも」
鉄格子を削った際の臭いが残ったか……!消臭剤を撒いていたので平気だと高を括っていたが、妹にはバレていたらしい。馬鹿か俺は。臭いが移るという大前提さえ頭から抜けていたとは。自分の甘さに、どうしようもない感情を覚える。
「そして今日の朝。何気なく窓を見たら、光に照らされて見えたのです。縁の微妙なズレが」
燦々と光を放つ太陽をここまで恨めしく思った事が今まであっただろうか。いや、ある訳無い。
後退あとずさる。マズいマズいマズいマズい!包丁を向けられた時何かの比じゃない。この状況はマズ過ぎる!
「ねぇ兄さん?兄さんは鉄格子を外して、ここから出て、どこに行こうとしていたんですか?」
「……」
「黙っていたら……分からないじゃないですかッ!!」
強い力で突き飛ばされる。背中に柔らかい感触。ベッドがスプリングを軋ませながらも、俺を受け入れた。突然の出来事に目を白黒させている俺に、妹が近付く。
「く、来るな!」
近くにあった枕を投げるが、妹は難無くそれを躱かわした。歩みは止めない。止まってくれない。
「私の兄さんはどこにも行きませんよね?私の兄さんはずっと私の隣に居てくれますよね?私の兄さんは脱走を企てたりしませんよね!?」
妹が制服のポケットから何かを取り出す。嫌な予感がして、咄嗟とっさに布団を投げた。
「きゃっ!」
空中で広がった布団を妹は避ける事が出来ず、数秒動きが止まる。
妹が布団に四苦八苦している間に、俺は妹の横を通り抜けた。急げ!この部屋から出れば、何とか逃げられる!
一度家から出た妹がこうして帰ってきているのなら、玄関の鍵は──少なくとも外側からしか施錠開錠の出来ない鍵は開いている筈だ。内側から掛けられる鍵は一つだけ。ロスは一秒も無い。
部屋から出る瞬間に妹に手を掴まれるという有りがちなオチも無く、俺は転げ落ちるように階段を降りた。玄関の鍵は閉まっていたので、靴も履かずに震える手で取っ手を捻る。カチャリと開錠を示す音が聞こえ、ドアを押す。
押す。
押す。
押す。押す。押す。押す。押す。押す。押す。押す、押す、押す押す押す押す押す押す押す押す!
「何でだ!開けよ!このッ……!」
押しても引いても殴っても蹴ってもドアは一寸たりとも動かない。
「ドアは開きませんよぉ……?」
振り返ると、丁度階段を降りてきた妹と目が合った。ドアに背中を預ける。
「知らない内に鍵を増やしたのか!?」
「いいえ、増やしてませんよ?」
「なら何で──」
「私、玄関から入ってませんから」
「……は?」
惚ける。妹の言っている意味が理解出来ない。ハイスペックな妹はいつの間にか壁を通り抜ける力でも手に入れたのだろうか。
考える俺に一瞬で詰め寄った妹は、吐息を俺の耳に吹きかけるように言った。
「トイレの窓、開いてましたよ」
「まさか、お前……!?」
「はい、兄さんが数十日もかけて作った脱出口から入って来ちゃいました♪」
可愛らしく、どこか恐ろしく感じる妹の口調に俺は笑う事しか出来ない。
「は、ははは……」
そうか、通りで、俺が準備をしている時にドアを開く音が聞こえなかった訳だ。
ガチャガチャガチャガチャ。後ろ手でドアを開こうとする。開かない。
「無理と分かっていても尚なお諦めないその姿勢はとても素晴らしいですが。兄さん、私から逃げようとするのは感心しませんね」
肩に手を置かれたので、反射的に払い除けた。払われた手を見てから、驚いたような目で俺を見る妹。枕ではなく、直接手を上げたのはどうやら失敗だったようで。妹の周りの空気が変わったのを肌で感じた。
「……兄さん?」
息が上がる。怖い。目の前の妹が、恐ろしい化け物に見えて。
「助けてくれ」
口から漏れた呟きは、やがて叫びに変わる。
「兄さん?」
「俺に近寄らないでくれ!怖い!」
手を振り回す。妹の髪に当たり、綺麗な髪が揺れる。
「……」
無言で歩み寄ろうとする妹に、傘立てに立て掛けてあった傘で攻撃を仕掛ける。上段から振り下ろすが、いなされてバランスが崩れた。その隙に握っていた傘を取られ、へし折られる。反撃に身を竦めるが、返ってきたのは、顔を覆いながら弱々しく呟く妹の声。
「嗚呼、兄さんが可笑しくなってしまいました」
馬鹿を言うな。可笑しいのは妹だろう。人を殺して、兄貴を監禁するなんてどうかしている。
「兄さん、お医者さんごっこをしましょう」
顔を両手で覆いながらも、指の隙間からこちらを見詰める濁った双眸。
「は?」
「私がお医者さんで、兄さんが患者さんです」
「何を言っている」
「大丈夫です、すぐに治してあげますから──」
反応も出来なかった。気付けば俺は、妹に投げられ廊下に背中を強かに打っていた。肺から強引に空気が吐き出される。
「カ、ハッ……」
仰向けになった俺の胴体に妹が跨る。デジャヴ。
制服姿で妖艶に微笑む妹は、こんな状況じゃなければ世間一般的な『萌え』に分類されていたのかも知れない。
右手で喉を掴まれ、ゆっくりと力を入れられる。徐々に塞がる気道。
「ぐぅぅぅゥゥ……!」
口の端から唾液が垂れる。妹はそれを左の指で掬い、舐めた。
「病気が治れば、兄さんは逃げ出したりしなくなる。病気が治れば、兄さんはいつも通り私を褒めてくれる。病気が治れば、兄さんは私と一緒にいてくれる。早く、早く治さなきゃ……!」
「や、め」
「安心して下さい。すぐに終わりますから」
ふふふふふふふふ、と笑いながらポケットから何かを取り出す妹。先程はそれを視認する前に逃げたが、今やっと分かった。バチバチと音を鳴らすその物体が何なのか。それは人に当てたらどうなるのか。止めろ!もう逃げ出したりしないから!
喉を締められた俺は、呻き声の一つ上げられない。近付く閃光。笑う妹。
────意識は、ここで途切れた。
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