登山
昼食を終えて病院を出た俺達は、そのまま色波虹希博士の研究所に続く道ではなく、整備されていない方の前に立つ。
草木が生い茂る道なき道を行くためだ。
「そういえばいーちゃん、日傘はなくても良いのか?」
俺は隣に立つ白鳥さんに問いかける。
現在の白鳥さんはいつも持っている折り畳み式の日傘を持っていなかった。
「ええ。登山時は木々が太陽光を遮ってくれますし、研究所内で行動することが多いでしょうから病院内にあるロッカーに入れてきました」
「そうか」
白鳥さんの言葉に納得すると、前方に視線を向ける。
「それよりも本当にここから登るんですか?」
白鳥さんが不安そうに呟く。
その気持ちはよく理解できた。
天見山は標高の低い山であり、危険な動物が出てくるわけでもなく、大きな危険はない。
ただし、それはきちんと整備された山道を通ればの話だ。
裏手側は全くと言っていいほど、整備されておらず、斜面も山道を通るときと比べて急である。
「もちろんだ。さすがに山道は研究員達に固められているだろうからな」
「山道と比べて危険だからこそ、研究員達に見つからずに登れる可能性が高い」
「そうだ。例え積極的に攻撃されることはなくても、透矢に報告されれば研究所の入り口に研究員を固められてしまう。そうなってしまえば俺達はただ無駄に時間を浪費しただけとなる」
陽介の説明を聞き、そいうことも考えなければならないのかと反省する。
入り口は一箇所のため、その付近に見張りを集中させるのは当たり前の話である。
そうなると三人では研究所内に入ることすらできないと考えた陽介は、その見張りを油断させる方針に切り替えたのだろう。
「そうか。研究員が油断していれば良いのは入り口付近にいる奴らだけなのか」
なるほど。それだけならなんとかなりそうだ。
一人納得している俺を、陽介と白鳥さんは不思議そうに見つめている。
しばらくして、陽介は俺の言っていることが理解できたようだった。
「あ~、あの時は論点が本当に油断しているのかって方向に向かってたもんな」
「あっ! そういうことですか。あっくんはずっと、油断しているのは相手の研究員全員だと思っていたということですね」
「だろうな。普通に考えてありえないけど」
……。
「ですね。大多数がモノクロ化に反対しているというのは、裏を返せば少数は賛成しているということですからね。当然、最深部に近づくほど、賛成派の人達を配置してるに決まってますよね」
「ああ、俺の推測では入り口付近にはモノクロ化に対して、どちらかというと反対くらいにしか思っていない奴らが集められてるはずだから、油断してくれなきゃ突破は難しいんだよな」
…………。
「ええ。本当に油断してくれるのか怪しい人達ばかりでしたから、上手くいくか不安だったんですけど、よく考えれば賛成しているわけではないので、言われたことをやるくらいが関の山ですよね」
「そうそう。かといって山道を堂々と歩くと入り口から丸見えになっちまうし、上に行けば行くほど仕事をちゃんとこなすような奴が増えるからな。だったら、回り道をしたほうがいいわけさ」
「なるほど。よく考えられてますね」
………………。
「だろ? しかし、白鳥さんはよく入り口付近にいる人達のことを指していると気付いたな?」
「いや、赤木さんは研究所の入り口に付いた時の時刻を、昼食の時間になるように設定にしていたじゃないですか。だったら油断していて欲しいのは研究所の入り口から内部にいる人達。しかし、透矢さんや黄賀さんには通用しないということは、研究所内の人達には効果は薄いってことですよね? だから入り口付近の人達だと思ったんですけど……」
「すげえな……。さすがの俺もそこまで深く考えて発言したわけじゃないんだが、俺の考えと一致してるな」
……何言ってるかわかんない! 全く、話について行けないんだけど。
陽介と白鳥さんは蚊帳の外になっている俺をそっちのけで、熱く議論を交わしている。
恐らくその全てが今回の決闘についてなのだろうが、何一つ理解できなかった。
さすがに自分を卑下することはなかったが、格の違いというものを見せつけられた感じだ。
元々、陽介は金庭高校、白鳥さんは白銀女学院の生徒会長ということで能力が高いことは知っていたけれど、学生レベルを遥かに越えている。
贔屓目も若干入ってるだろうが、誇大ではないと言い切れる自信があった。
「やっぱり二人共、すげーなぁ」
ポツリと溢れた呟きの声量はそれほど大きくなく、俺も独り言のつもりで発した言葉だった。
けれど、その直後。
「何言ってんだ? 明人だって凄えだろ?」
「何言ってるんですか? あっくんだって凄いじゃないですか?」
陽介と白鳥さん、二人揃って反論してきた。
まさか呟きが聞かれているとは思わなかった俺は、思わず固まってしまう。
そんなことはお構いなしに、二人は声を揃えてその理由を口にする。
『だって透矢(さん)をここまで追い詰めたんだから(ですから)』
全く同じ理由を語った二人が微笑みかけてきた。
正直、俺には透矢を追い詰めたという認識はなく、素直に喜んでいいものか悩むところである。
けれど、二人が俺のことを凄いと言ってくれたのは素直に嬉しかった。
「実際、透矢を決闘の場に引きずり出しただけでも凄えよ。確かに決闘に勝たなきゃならないのかもしれないが、この状況は透矢にチェックをかけてるんだぜ」
「そうですそうです。本来であれば警察を呼ぶという最も簡単な解決法があったのにも関わらず、それをしなかった。最善手ではなく悪手を選択し、圧倒的ディスアドバンテージをひっくり返したのですよ」
「だな。トゥルーエンドではなくベストエンドを求めるその姿勢。少なくとも俺達には出来ないことだ」
「はい。ということで最後の一手、チェックメイトをかけに行きましょう」
二人の言葉は聞いているこっちが恥ずかしくなるような台詞のオンパレードだった。
それでも――あの時スカウトを受けたことを肯定されたような気がして、胸のうちが熱くなった。
「ああ! 行こう!」
俺は大きく一歩を踏み出した。
俺が先頭になり、草木が生い茂る中を歩く。
道がないところから登るのは俺も初めてなのだが、誰が先頭に立っても同じだということで、単純に山に入った順に進むことになったのだ。
ちなみに三人ともそこそこ荷物を持っているため、ペースは少し遅い。
この調子で予定通りに研究所に着くのかという不安はあるが、無理にペースを上げて体力がなくなったりする方が困るので、ゆっくり進む。
季節は秋ということで、足元に落ち葉が敷き詰められたかのように広がっており、一歩一歩進むたびに落ち葉を踏む音が鳴る。
誰も喋らずに歩くので、非常に気になってしまう。
……居心地が悪い。
もちろんここは既に敵地であることは分かっているのだが、非常に気まずいというか、沈黙が重いのだ。
まだ十分ほどしか歩いてないにも関わらず、誰か喋れと念じている自分がいる。
俺が喋るという選択肢もあるにはあるのだが、この雰囲気の中で喋る勇気は持ち合わせていない。
そんな重苦しい空気のまま歩き続け、研究所まであとどれくらいだろうと考えたところで、陽介が口を開いた。
「あと、半分か」
その言葉に俺と白鳥さんは足を止めて、陽介の方を見る。
「なんでわかるんだ?」
「ほれ、あそこ。ちょっと見づらいかもしれないが、中間地点の標識だ」
陽介の指差す方向には、研究所に向かう時に毎回目にする標識が立っていた。
しかもその奥に研究員らしき人影が見える。
木々が邪魔で少しわかりにくいが、確かに研究所まであと半分といったところだった。
というか……。
「ここって、山道の近くなのか!?」
「おい。声がデカイ」
陽介に注意され、思わず口を抑える。
陽介は標識の方向を注視し、敵にバレていないことを確認すると、ほっと息をついた。
「ったく、危ねえなぁ」
「わ、悪い。けど、こんな近くに道があったとは……」
「気づいてなかったのか? 遠くをよく見ていればチラチラと道が見えてたが」
「そんなとこ歩いてて大丈夫だったのか?」
「今のところ敵に気づかれた様子はないし、そもそも俺達がこんなところを歩いてるとすら思ってないだろう。それに俺達が迷子になったら困るからな」
確かに斜面を上に登れば良いとはいえ、闇雲に歩くのは駄目だろう。
それに標識が見えていた方が、現在位置を把握しやすいのも事実だ。
「そもそも登り始めた位置が山道からそこまで離れていなかったから、山道に近づくのは予想できたしな」
「なら、このまま登って大丈夫なんだな?」
「ああ。ただ、これ以上山道に近づくのはマズイからな。加減は間違えるなよ」
俺は頷き、先へ進もうとしたところで気が付く。
あれ? 白鳥さんは?
陽介も同じことを思ったのか、俺が振り向いたときには陽介は既に下の方を見ていた。
「おい、明人。そういえば白鳥の体育の成績は良いみたいだけど、体力とかってどうなんだ?」
「さあ? 聞いたことがないけど、運動しているところを見たことないし、何より目の前の光景が物語ってるんじゃないか?」
「だよなぁ……」
俺達の視線の先には、手を膝について肩で息をしている白鳥さんの姿があった。
「どうするんだ?」
「言っておくが、休憩してる時間なんかないからな」
「この鬼!」
「なら休憩するか? そうなると多分体力気力共に充実した研究員と一戦交えることになると思うけど」
「くっ……!」
それは嫌だ。相手が消耗している時に戦いたい。
しかし、しかしだ!
一つだけ言わせてもらえるのなら、こう言いたい。
休憩することも考慮して登山をしろと。
とはいえ、陽介に任せたのは俺であるし、ここで口論をしても何の益にもならない。
代わりに打開案を提案する。
「なら、俺がいーちゃんをおんぶして登る。その代わり、陽介は俺の荷物を持ってくれ」
「……仕方ない。それが一番現実的か」
陽介に荷物を手渡すと、転ばないように注意しながら白鳥さんの元へ歩み寄る。
「大丈夫か?」
「え、ええ。大丈夫、です」
全然大丈夫じゃなさそうだった。
俺は白鳥さんに背を向けてしゃがむ。
「ほら、乗って」
「え、でも……」
「大丈夫だから」
白鳥さんは少しの間逡巡していたが、やがて恐る恐るおぶさってきた。
白鳥さんが首元に手を回してきたときに、白鳥さんのいい匂いが鼻をくすぐる。さらに女性特有の柔らかさが感じられ、思わず顔を赤らめてしまう。
頭を振って、邪念を追い払う。
太ももの下に手をやり、白鳥さんの体を支える。
「立つぞ?」
「うん……」
一つ深呼吸をし、ゆっくりと立ち上がる。
前方を見ると、陽介が時折振り返りながらも先へ進んでいるのが見えた。
きっと、時間のロスを気にしているのだろう。
この語に及んで妙な気を使ったとかではない、はずだ。
「あの、重くない、ですか?」
白鳥さんが不安げに質問してくる。
「大丈夫。バイトで力仕事をやらされた時よりマシだから」
「なら、安心です……って、それ喜んでいいんですか!?」
「さあ、どうだろうね」
「う~イジワルです」
白鳥さんが優しく背中を叩いてくる。
しばらくされるがままになっていると、俺を叩く手が止まった。
遊びは終わりと言わんばかりに、ギュッと、さっきより力強く抱きつかれる。
「あっくん。私達も行きましょう」
「ああ、そうだな」
白鳥さんに促され、陽介を追って歩き始めた。
時折、山道の方を見て、俺達の存在が気づかれていないかを確認しながら、少しずつ研究所へ近づいていく。
そして最後の標識を通過したあたりで、白鳥さんがか細い声で問いかけてきた。
「あっくんは、どうして色を取り戻したいと思ったんですか?」
「どうしてって?」
「あ、えっと、確かに色があった方が便利ですし、この景色も鮮やかに見えると思うんですけど、あっくんに何か個人的な理由があるのかなって、ただの知的好奇心です。忘れてください」
マズイことを聞いたと思ったのか、後半は申し訳なさそうな声音になっていた。
別に聞かれて困るようなことでもないので、素直に思ったことを答えた。
「……やっぱり、色が見えるようになった感動が忘れられないからかな」
「え?」
白鳥さんの困惑したような声が聞こえてくる。
答えが返ってくると思っていなかったのか、それとも……。
「これはいーちゃんは知らないことだと思う。何せ手術後の話だからな」
「手術後の……」
「そう。手術が終わったからといってすぐに退院出来るものでもない。しばらくは様子見ということで入院していたんだ」
最もほんの数日な上、連日検査ばかりで決まったところにしか行けなかったけれど。
そんなことを言うと、白鳥さんはクスクスと笑っていた。
「その気持ちはわかります。私も手術後、そうでしたから」
「そういえばいーちゃんはどんな手術をしたんだ?」
「すいません。良くわからないんです。私だって当時五歳ですからね。けど、今まで低視力だったのが、よく見えるようにはなりました」
「それって手術前、託児所にいた時は俺の顔がよく見えてなかったとか?」
「はい。実はそうなんです。写真がありましたから、顔自体は知っているんですけど、当時はよく見えてませんでした」
今、とんでもないカミングアウトをされた気がする。
「なら、どうやって俺とか陽介を見分けてたんだ? それに本も普通に読んでいたような記憶があるんだが」
「別に低視力だからって全く見えないわけではありませんし、声や雰囲気で判別はつきます。あと、本については当時の私の性格から察してください。私の口からは絶対言いません」
有無を言わさぬ迫力に、俺はこれ以上の追求を諦めた。
正確には察せてしまったため、追求をしてはいけないと理解したのだ。
「それより! あっくんの話はどうなったのですか? 手術後の話です」
「ああ、そうだったな。実は義眼になったとはいえ、手術後だったため、左目には包帯が巻かれていたんだよ。唯一包帯が外せたのも殺風景な部屋で、正直手術をした意味が理解できなかった」
けれど、と続ける。
「退院の日に、初めて病室で包帯が取られたんだ。研究所の窓から見えた景色はキラキラ輝いていて色鮮やかだった。丁度、これくらいの時期だったかな」
そのあたりは記憶があやふやでよく思い出せない。
けれど、秋、だった気はする。
「あの時の感動は今でも覚えている。むしろ、感動が大きすぎて他のことはよく覚えていないくらいだ」
「その感動を他の全色盲の人達に見せてあげたいってことなんですか?」
「それもある。けど、一番の理由は俺がもう一度あの感動を味わいたい、ってことさ」
もちろん今まで一度も色を見たこともなかった時と、既に色を見たことのある今では感じる気持ちは違うだろう。
それでも、感動することは間違いないから。
「そうですか……」
白鳥さんはその後は何も言わず、黙って俺に身体を預けていた。
それから会話はなかったが、登山開始直後の重苦しい雰囲気はなく、どこか和やかな、安心できる雰囲気になっていた。
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