日常 バイト編

 陽介と別れた後、俺は電車で隣の天見市にやって来る。

 そこから徒歩で天見山の頂上を目指す。

 天見山は標高五百と少しの低い山で、この山の頂上には色波博士の研究所がある。そう、何を隠そう俺のバイト先は色波博士の研究所なのだ。やっていることは雑用がほとんどであるが、たまに作業を手伝わせてもらえる時もある。今朝ニュースでやっていた検査機も、少しだけ手伝わせてもらった。


 日差しが照り付ける灼熱の山道を、ただひたすらに歩き続ける。いくら通いなれた山道と言え、八月の気温は辛いものがある。

 汗だくになりながらやっとの思いで研究所に辿り着くと、色分けされたパネルを順番通りに入力して研究所内に入る。この研究所は色波博士が世界的に有名になる前に作られたため、見た目は少し古い。ただ、最新技術が開発されるたびに改装しているので、内部は最新鋭の技術が揃っているのだ。

 俺はまっすぐに色波博士の部屋を訪れる。


「やあ、三日ぶりだね、明人君。待っていたよ」


 部屋に入ると、機械の部品などで散らかった部屋の壁際に置かれている、デスクの椅子に腰かけた色波虹希博士が軽い調子で挨拶を交わしてくる。

 色波博士は今年で六十四歳なのだが、全く衰えを見せず、見た目も五十代、下手したら四十代で通用しそうなくらい若い。


「早速で悪いが、この部屋を片付けてはくれないか?」

「あの……いい加減にしてくれません? たった三日でどれだけ散らかしているんですか」


 俺は文句を言いながらも、機械の部金を掻き分け、部屋の奥に設置されている白い棚を開き、種類別に分けてある部品用の箱に片づけていく。

 色波博士は研究や開発をすることにしか頭になく、片付けは主に俺の仕事となっているので仕方なくやっているのだ。


「はっはっは。済まないね。ここ二日間は会見などで忙しかったので散らかすことはないと思っていたんだが、気が付いたらこの有様だよ」

「つまり、今日の午前中だけでここまで散らかしたんですね」


 俺が呆れた様に言うと、色波博士は全く悪びれない様子ですまないねと言う。このやり取りは俺がバイトを始めてから毎回行われており、一応注意はするものの、色波博士が部屋を散らかさないようにすることを半ば諦めている。


「それにしても、検査機が完成したばかりなんですから、他の研究員みたいに休みを取ったらどうですか?」

「何を言っているんだ。休みとは仕事をしているものに与えられるものだ。私は仕事をしているつもりはない。ただ、興味のあることを突き詰めていった結果がこれだからね。もはや趣味みたいなものだよ」


 謙遜するわけでも、威張るわけでもない。世界の誰もが認める研究を、趣味だと言い切れるから天才と呼ばれるのだろう。

 色波博士をずっと間近で見続けてきた俺としては、とても天才だとは思えないけれど。だって、この人たった数時間で足の踏み場もないほど散らかすんだぜ?

 いや、ある意味では天才なのかもしれない。


「それで、次に創るものは決まったんですか?」

「そんな簡単に決まると思うかい? 前回の検査機だって、製作に取り掛かるまで半年もかかったじゃないか。製作に至ってはほぼ五年だ。君が働き始めてから、検査機しか作ってないだろう」


 ごもっとも。

 俺がここで働き始めたのは中学一年の時。その時は確か五ミリくらいの超小型カメラを開発したばかりだった。それから五年半、ずっとここで働いているわけだが、開発出来たのは今回発表された検査機のみ。物を創るのは大変なことだと思い知らされた。


「ふう……。つまり、今のところ俺の仕事は特にないわけですか?」


 俺はようやく片付いた部屋を見渡し、額に浮かぶ汗を拭う。

 雑巾がけなどは一切していないが、部屋の中は入った時と見違えるほどに綺麗になっており、いかに部品が散らかっていたかを証明している。


「うん、そうだね。他の部屋には入っていない訳だし、明人君の仕事はなさそうだね」

「そうですか。色波博士の邪魔をしても悪いですし、今日はもう帰りますね」


 俺が鞄を持って部屋を出ようとすると、色波博士に呼び止められる。


「まあ、待ちたまえ。せっかく、研究所まで来たんだ。少し、話し相手になってはくれないか?」

「それは構いませんけど、色波博士がそう言うのは珍しいですね」

「明人君とは一度、ゆっくりと話をしたいと思っていたんだ。だけど、今まで忙しかったからね。話をするなら、時間のある今しかないと思っていたんだよ」


 俺は、はぁと曖昧に頷きながら、いつもは研究員が使っている椅子に腰かける。


「それで、何を話すんですか?」

「十二年前のことだよ。私はずっと、君に謝らなくてはいけないと思っていた。あの時は私の技術不足で、左目しか治せなくて済まなかった」


 色波博士は深々と頭を下げた。

 確かに、俺が治療してもらったのは左目だけである。だけどそれは色波博士の技術不足ではなく、母親が莫大な治療費を払えなかったことが原因だ。

 そもそも、俺の病気は治療不可能と呼ばれていた病気なのだから、片目だけでも治すことが出来たのは、それは間違いなく色波博士の功績だ。

 俺はそう言ったが、色波博士は納得しなかった。


「それでも、私に全色盲の治療法があれば、わざわざ義眼の移植手術をしなくても済んだ。そうなっていれば、明人君の病気は、両目とも回復していただろう」

「そうかもしれません」


 俺が生まれながらに持っていた病気は、全色盲と呼ばれる視界に入る景色全てがモノクロに見える病気だ。

 今も、右目から見える景色は変わらない。黒と白と灰の三色だけしか、認識することが出来ない。

 俺は色波博士の話を肯定した上で、言葉を続ける。


「だけど、それで色波博士を責めようとは思えないです」


 何故なら、明確に変わったことはあるからだ。左目だけとはいえ、ちゃんと色が見えるようになった。色波博士に出会わなければ、恐らく一生見ることが出来なかった景色を見ることが出来た。


「それに、今の俺は状況に応じてカラーとモノクロを見分けられる、唯一無二の存在なんですよ。それって、凄いことじゃないですか」


 これは俺の本心である。左右の眼でカラーとモノクロを見分けられるのは、日本でただ一人だけの特権だと思う。

 ただ、そう思うだけでないのも事実。左目を隠しているのがその証拠だ。義眼の移植手術をしていなければ、俺が注目されることはなかったのだから。


「そうか。そう思ってくれるのなら、安心だ」


 色波博士は俺の相反する内心には気づいていないのか、ホッと息をついた。


「話は変わるが、明人君は十八歳になったのだったね」

「ええ。誕生日は一ヶ月以上前に過ぎましたが」

「いやあ、手厳しい」


 色波博士はそう言いながら、少し白髪の混じった髪の毛をかきながら笑った。その笑顔を見ていると、ただのお祖父ちゃんのように見えるから不思議だ。


「せっかくプレゼントを用意して来たんだが、いらないかい?」

「えっ、プレゼント? 色波博士が俺に?」

「ああ。正直、明人君が左右の見え方が違うことにコンプレックスを抱いているのなら、このプレゼントは見送るつもりだった。だが、少なくとも言葉の上では気にしている様子はなかったので、大丈夫だと判断したんだが、受け取ってくれるだろうか?」


 色波博士はデスクに仕舞っていた箱を取り出すと、俺に向かって差し出した。

 箱は赤い紙に緑のリボンが巻かれており、なんとなくクリスマスを連想してしまう。

 今の時期とは真逆な気がしないでもないが、俺はそのプレゼントを喜んで受け取った。


「開けてもいいですか?」

「ああ。構わないよ」


 俺が丁寧に包装を解くと、中には銀色のパッチンピンと呼ばれるヘアピンが入っていた。よく見てみると、根元の方に三つの真円が重なるように刻まれている。


「明人君が義眼を気にしているのはその前髪を見ていればわかる。けれど、義眼によって注目されることを克服しようとしていることも知っている。だから、このヘアピンで必要な時だけ、前髪を留めておけば良いと考えたんだ」

「ありがとうございます」


 色波博士が俺のことをしっかりと考えたうえでプレゼントを選んでくれたことに、俺は喜びを感じる。

 てっきり、研究一筋でプレゼントを贈るような人だとは思っていなかったから。


「研究所内は白色を基調としているから、帰ってからヘアピンをつけて左目の具合を確認すると良い」

「はい。そうします」


 俺はヘアピンを箱に仕舞うと、鞄の中に大切に入れた。

 ここで、会話が途切れて静寂が場を支配する。

 今まで色波博士と仕事上の話はしてきたが、こういう私的な会話をしたことがなかったので、少し気まずさを感じる。

 俺は沈黙を嫌い、適当に話題を作り出す。


「しかし、何故今年になってプレゼントを? 五年ここで働いていますけど、プレゼントなんて初めてですよね」


 何気ない疑問を口に出しただけだったが、色波博士からすれば都合の悪い質問だったのか、バツの悪そうに視線を逸らした。

 これは話題選びを間違ったかな。


「答えたくないなら、答えなくてもいいですよ? これはただの雑談ですから」


 色波博士はいや、と首を横に振る。


「答えたくないわけではないのだ。ただ、少し気恥しくてな。何しろ、誕生日プレゼントを口実にした感謝の印なのだから」

「感謝、ですか?」


 色波博士の答えが意外過ぎて、思わずおうむ返しに聞いてしまう。

 俺は色波博士の仕事を手伝っているので、感謝されるのはおかしなことではないが、手伝いの対価としてバイト代をもらっているのだから、プレゼントをもらう謂れはないハズだ。


「明人君は知らないだろうが、この研究所で最も長く働いているのが、明人君なのだよ。明人君を除けば、この研究所で三年以上働いた人はいない。皆、私の研究を目の当たりにして、劣等感を感じてやめていってしまう。妻や息子ですら、私と共にいるのを嫌がった。だから、これは感謝だ。私と共にいてくれてありがとう。明人君が私の理解者でいてくれたから、自分の力を余すところなく発揮できた」


 俺は色波博士の感謝の言葉に、しばしの間固まった。

 まさか色波博士の中で、俺がそこまで大きな存在になっているなんて思っても見なかった。


「人とは個性の塊だ。同じ人などこの世にいない。皆が皆、何かしらの違いを持っている。それは目に見える違いかもしれないし、目に見えない違いかもしれない。その違いは、人によっては苦痛になるだろう。私が孤独になりかけたように。だが、たった一人で良い。自分の全てを理解し、支えてくれる人がいるのならば、救われる。自分の道を突き進める。それを明人君、君に教わったのだ」


 全く、色波博士には敵わないな。そう思わずにはいられなかった。

 色波博士は自分のことを言っているだけなのかもしれないが、これは俺にも当てはまることだ。

 俺の場合は後天性であるが、義眼という他人と違うことで注目されるのが嫌だった。言い換えるなら苦痛を感じていた。


「これで、少しは感謝の理由を理解してもらえたかな?」

「ぷっ……はははっ」


 もしかしたら俺の為に言ってくれたのではないかと考えていた時に、色波博士があまりにも真剣な顔で言うものだから、思わず吹き出してしまった。

 色波博士は本気で、俺に感謝の気持ちを伝えたかっただけのようだ。


「ええ。理解しました。その感謝、ありがたく受け取らせて頂きます」


 俺が軽く頭を下げると、色波博士は優しく微笑んだ。

 その微笑みを見ていると、やはり俺のことを見透かしていたのではないかと思うが、口には出さなかった。

 それからしばらく、他愛もない話に花を咲かせていると、六時を示す時報が聞こえてきた。


 この時報は本来、山の頂上にある研究所には聞こえるはずがないのだが、研究所内の就業時間に丁度良いということで、色波博士が研究所内でも聞こえるようにしたのだ。

 もちろん、許可はとってあるので問題ない。むしろ、この技術が評価され、登山用携帯電話開発に携わったのだとか。

 俺が研究所で働き始める以前の話なので、どこまで本当かはわからないが。


「もうこんな時間か」

「それじゃあ、また明日ですね。明日は散らかさないで下さいよ」


 俺は軽口を叩きながら、鞄を持って立ち上がる。

 それに合わせて、色波博士も立ち上がった。


「あれ? いつも、見送りとかしてませんでしたよね?」

「いや、今日は私も帰ろうと思ってな。言い忘れていたが、明日からしばらく実家に帰ろうと思っているのでね。申し訳ないがバイトはしばらく休みだ。帰ってきたら、連絡を入れるようにするよ」


 確か、色波博士のお母さんが今年で九十七なんだっけ。

 科学技術の発展と共に平均寿命は延びているとはいえ、心配になる年なのだろう。

 特にここ五年は開発で休みが殆どなかったから、特に心配なのかもしれない。


「わかりました。それじゃあ、色波博士が帰ってくるまでには、俺も成長して見せますよ。この金色の左目──義眼に集まる、好奇の視線を今度こそ克服して見せます」


 俺が髪の上から左目に軽く触れながら言うと、色波博士は少し驚いた表情をした。

 色波博士は俺がここまではっきりと決意表明をしたことに面食らったのだろう。

 もしかしたら、俺の表情が決意なんてものから程遠い酷いものだったからかもしれないが。


「そうか。なら、楽しみにしているよ」


 それでも色波博士は微笑みながら、楽しそうにそう言ってくれた。

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