21_過去と未来の虚像
「アルシャさんがWITHGRAVを見たのか、WITHGRAVがアルシャさんを見たのか、どっち?」
大きな黒板がほとんど図で埋まってしまってから少し話して、ついに問いは放たれた。私の知る言葉で表すならば“天才物理学者”に向けて、……平凡女子高生から。くるりと白衣を翻したアルシャさんは言葉で説明する代わりに答えを見せると言って奥の部屋へと何かを取りに行った。
学校の理科室の奥にも同じような小部屋があったっけ。生徒たちには中々お目にかかれない試薬や機器が並んでいて、何かきっかけがないと入れない部屋。引き出しを開ける音、金属とガラスが軽く触れる音が聞こえて、すぐにアルシャさんは戻ってきた。微かに嬉しそうな表情に見えたけれど、その理由は分からない。
「こうやって、こうかな」
深緑色の長机――そういえば私の知る理科室のそれと同じ色――の上に『コトン』と小道具が置かれた。小さな支えのついた四角い鏡が一つ。それからWITHGRAVと同じような形の、こちらは少し重い音、反射鏡と接眼レンズを備えた装置。顕微鏡で言えば観察対象を置くはずの台には何も乗せられていない。このまま覗き込めば下部についた丸鏡に反射した景色が映るはず。窓のない部屋には天井に等間隔に備えられた細長い照明が自然光の代わりをしている。少し暗めに設定された光が微かに作る物の影を確かめて視線を戻す。アルシャさんの指が丸鏡の角度を調整して小さな四角い鏡に合わせた。
「その装置から覗いて」
私は指示に従って装置の上から小さなレンズを覗く。
「これは……」
どのくらいの視野が切り取られているのか一瞬混乱したけど、そのまま顕微鏡のような装置が見えているだけ?
「そのまま見ていて」
アルシャさんがそう言うと、見えていた丸い景色が急に動いた。
「見えた?」
ひらひらと、鏡に見えるように手を振るアルシャさん……? 片手で鏡の向きを変えて自分が映るようにしたようだ。――あれ、上下左右はどうなっているんだっけ。
「やっぱり説明が要るかな。一旦置いてこっちに来て」
黒板の前に、教師と生徒に戻る。教師は特別な意味を持った顕微鏡――未来のWITHGRAVの方を少し眺めてから、言葉を続けた。
「研究者アルシャ・ユニルと彼女の重力観測器が示した理論は、少なくとも周りの人間がそれを覆せない程度には正しかった。観測者アルシャが研究室を去った後、周りの人間は彼女の示した全てを研究室から消し去ることにした。まだ彼女の研究は外に出ていなかったから、そうすれば彼女の示した全ては忘れられることになる」
一切表情を変えずに、話し始める前に用意した少し残念そうな表情のまま、アルシャさんは一度そこで言葉を切った。
「どうして……」
アルシャさんの示した何かが周りの研究者にとって不利益となるから? 彼女は重力の神秘性に迫ろうとしただけだ。……それに、聞かなければいけないことがある。
「アルシャさんはどこに行ったの?」
彼女自身が研究成果を持ち出すことはできるはずだ。外に出ていないというならば、例えば研究棟の奥へ?
「私はここに、忘却の海に辿り着いた」
その言葉を聞いた時、見えないところで屈折していた光の線が角度を変えるような感覚があった。部屋の様子は何も変わっていない。では……二つ目の問いの答えは。捉えられるはずのない微細な違和感をアルシャさんは肯定する。アルシャさんがこの先どうなるかを、アルシャさん自身が知っているのだから。
「その通り。今の私は“未来の私”と重なっている」
曰く、WITHGRAVの力に気付いたアルシャさんは最初にその核となる部品のひとつを――今そこの机に置いてある小さな顕微鏡に備えられた小さな丸鏡を、似た形の代替品に差し替えたのだという。鏡一枚こそ模造品だが、部品を継ぎ足していくことで重力観測器WITHGRAVは十分な機能を発揮し、彼女を次の場所、“忘却の海”へと到達させた。彼女の同僚である研究者たちにも重力に関する疑いようのない証明を何度もしてみせた。だが彼女は理解していた。重力の神秘、底知れない何かに足を踏み入れた彼らが何を思うか、何をしようとするか。自室の奥に隠した小さな顕微鏡のような装置に託された最後の、たった一つの役割は、忘却の海へと旅立ったアルシャ・ユニルを観測し続けることだった。
「やがて忘れ去られたWITHGRAVもここへ来ることができた。私がWITHGRAVを見たのか、WITHGRAVが私を見たのか。あなたの言うように重力観測器に意思があって、この場所でアルシャ・ユニルという最もらしい過去を描こうとしているのなら、まさしくそうなのかもしれない。ただ私から言わせてもらえば、私は重力観測器を通して重力の本当の姿を見ようとしていた。忘却の海に辿り着いたことは終わりではなくて、私はここでまだやるべきことがある。本当のWITHGRAVが見ていたものは最初から重力でも忘却の海でもなかった。見ていたのはアルシャ・ユニルというちっぽけな人間、ただ一人よ」
優しそうな瞳が小さな顕微鏡の形をしたWITHGRAVの方を見た。青い光が瞳に反射して、その色を宿しているように見えた。それから、アルシャさんはそっと私の方に向き直って――微笑んだ。
「忘却の海へと辿り着いた理由、ここから抜け出すための記憶。あなたは、思い出せる?」
瞳の中の青い光に、あの空の景色が見えた。時間が止まった景色が眠ったまま切り取られたように浮かんで、クジラみたいな形の透明な何かが泳いでいて、それから、ハルカと、オゥルくんとナレィが……。あの場所が“忘却の海”なのだろうか。アルシャさんは“忘れられた”と言った。それが、私たちにとっても同じ“辿り着いた理由”であるなら、私たちは。
「アルシャさん」
今私が持っているもの、この場所で私が新たに得られるもの。二人いれば見られるもの、三人いれば変わること。そして、失えるもの。アルシャさんは何を知っていて、私は何を選べるのか。
「いいえ、もうひとつのWITHGRAV。答えて」
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