19_相対現在/サナトルアハ


 白衣を着た誰かが、遠くの空を眺めている。私は、その後ろ姿をただ見ていた。でも……運が良かったのだろうか、ただ見ているだけでは永遠にこのままであるような、そんな気がした。


 焼き上がる前のクッキーの生地がヒト型の枠に型押しされて、大きな平面からぽろりと抜け落ちた。何も見えていないのにそんな感覚があって、後追いでイメージが浮かぶ頃には両足が地面についていた。


(――ただし、空の上の地面に)


 やっと視覚も取り戻した。途切れた地面から全方位に広がる無限遠の薄空、点々と浮かぶ瓦礫や浮島。ここもその一つ。ということは、巨大な要塞が隠れていたあの空間を抜け出したのか。


(……?)


 ナツがいない。オゥルくんもナレィも、私たちを一掴みにしたはずの黒い手も、透明クジラたちも。一体何がどうなったのだろう。みんなはどこに? 手応えのない空と殺風景な浮島をいくつか流し見るがヒントをくれる様子はない。それならばと唯一の相手に意識を向けた。白衣を着た華奢な後ろ姿は女性のように見える。栗色のくせ毛は肩の辺りまで。この空には風が吹かないようだけど、大気が流れるような音が遠く微かに聞こえる。完全な静寂を隠すその音で“時間が止まっていないこと”を確認した私は次に女性の生物的な微動を探った。

 ひとまず、彼女が私が既に知った誰かであるとするならば。

 黒い手に潰されそうになる直前の出来事を思い出す。透明クジラたちは空に裂け目を作って要塞の隠れ家を突き止めたように思えた。私たちより先に筒のような穴を落ちて行き広い空間に出て――その際に何かの反動で気絶したのかもしれないが――目を覚ましたら一直線に要塞に突進していった。その時に現れたのが黒い手だ。WITHGRAVらしき機械の要塞を守ったように見えたのに、あろうことか要塞は黒い手の方を攻撃していた。……登場人物は限られている。“主”と、計測器WITHGRAVは呼んでいたっけ。


「あの――」


 軸足は左、白いスニーカー。両手を白衣のポケットに入れたままゆっくりと女性は振り向いた。深い青色の瞳。その顔立ちは美しいとか健康的だとかそんな言葉を呼ばなかった。叡智の深淵にあって尚も揺るがないような、緩やかに更に奥へと潜り続けているような、そんな印象をしていた。


「……」


 だが、女性は私の声に答えない。焦点は確かに私に合わせている。ちゃんと呼吸をしていて、温度もあるように見える。近付いて手を触れれば確かめられること。そうしなければ確かめられないこと。


「それなら、あなたは……」


 WITHGRAVの主ではない?


「っと」


 驚いて一歩退く。視線を遮って何かが落ちてきた。いや、目の前に突然現れて足元に落ちた? 黒い、色褪せたデバイス。


「あれ、これって……」


 確かナツが銀色のケータイと一緒に持っていたあの個体? どこから、何故? 女性が動こうとしないのを見て、運良く背面から落ちた小さな板状の精密機械を拾い上げた。脆いガラスにヒビが入ろうと今はお構いなし。あの時はどうやっても電源が入らなかったけれど、


「こうすればいいの?」


 画面には目もくれずにそれを耳元に近付ける。女性は語らず私を見つめたまま。瞬きはしている。でも――何かが欠けている。恐らくこの道具は意図的に持ち込まれた。たった今、誰によってかは分からない、しかし一つの役割をもって。

 右耳に意識を集中させた。


『ピィィー……トゥー……』


 色褪せた通話装置から妙な電子音が聞こえる。高音から低音までをなぞるような、ヒトの可聴域を探るような音の波形。


「……もしもし?」


『この声は』


「……え?」


『私の声ではない』


 白衣の女性は動かない。もちろんその口元も。別の誰か、抑揚がないけどこの声色は……電話の相手は、ナツ?


『この声は あなたの記憶から借りた声だ』


「ナツ……じゃないのね」


 良かった。何故そうあって欲しくなかったのかすぐに答えられないけれどそれは後、今はナツの声を借りた誰かに問う。


「あなたは誰?」


『私は この海を夢見た者 自らの名を “サナトルアハ” と定義する』


 この……海? イントネーションは私の理解を阻害しない程度に付けてある、しかし一切の抑揚が欠けたナツの声は不思議な言葉の続きを並べていく。


『計測器WITHGRAVの思想は 私の見たはずのものを映した 故に 私はWITHGRAVの記憶に手を伸ばし 今あなたが対峙している存在を結像し得た』


「ちょっと待って、えっと……」


 声の主は新しい登場人物であり、白衣の女性ではない? するとやはり女性はWITHGRAVの主なのだろうか。それと、“記憶”。WITHGRAVはナツのケータイを通して私たちと意思疎通を図ってきた。知能や知性と呼べるものを有した機械へのイメージと、あの要塞のイメージ――大小の歯車が駆動する無秩序に肥大化した姿は私の中で”結び付いていない”。やっとそれに気付けた。


『忘却の中でよく見えるものだ その繊細な解釈に 私の存在は支えられている』


 褒められ……違う、そんな頼りないものに?


『私とあなたとの対話は 限定的にしか叶えられないが あなたとアルシャとの対話ならば あるいは』


 声は私の理解を待ってくれない。サナトルアハ、それからアルシャ? あっという間に砂浜を覆う波に手を突っ込んで小さな貝殻を、記憶すべき音の並びを懸命に拾う。両手で一つずつ、たったの二つ。足首をくすぐる波は瞬きする間にどこまでも引いて、顔を上げると、白衣の女性が私を見て――


「こうなったか」


 欠けていた何かを、取り戻した。


「はじめまして。あなたの聞いたアルシャは私の名前。私がWITHGRAVを作った人間よ」


 そこまで告げて、女性は小さく息を吐いた。もう一度、今度は少し長く。それから静かに薄青い空を大きく吸い込んだ。空よりずっと深い青色が二つゆっくりと開いて、私の返事を待っている。


「はじめまして、アルシャさん。私は……ハルカという名前で……」


 この後になんと続ければいいのだろう。途切れた自己紹介の続きはアルシャさんが拾ってくれた。


「ハルカさん、今の私は自分がどういう状態にあるのか漠然としか分からない。そのかわりに“今の”あなたのことは分かる。WITHGRAVと、それからあなたの記憶が私を作ったから。一時的に成立させた、と言う方がそれらしいかな」


 私の記憶が? 私はこの空に来る前のことが思い出せずにいる。過去にアルシャさんと会っていたのだろうか。それから、アルシャさんも同じ言葉を使った。WITHGRAVの……記憶。


「先に一つだけ確認させて。ハルカさんは、この場所にいられなくなってもいい?」


 それは私が“元いた場所に戻る”ことを意味するのだと、そう解釈して私は答えた。


「もし私一人でなら、断れるのなら、断ります」


「分かった。それなら――」


 これから私が話すことをあなたはすぐに忘れてしまう。けれどお友だちのところへは戻れる。これでいいか。アルシャさんは私にそう聞いた。もちろん、何の不満もない。


「向こうで座って話ましょう。寂しい景色に見えるかもしれないけれど、遠くまでよく見えると思うから」


「……はい!」


 ふわりと翻った白衣の背中を追いかけようと足元を見た。手のひら大の四角に区切られた灰色石畳がいつの間にか質感を得ている。私が普段歩くような舗装された道ともまた少し違うけれど、ローファーの作る足音を感触を思い出すように確かめながら浮島の縁へとわずかな距離を歩く。



 アルシャさんは空と切り取られた地面の境界に座った。ピントの合わない空を怖がる様子もなく足を投げ出した彼女の真似をして隣に座ると、僅かに下がった視界が手応えのない空をもう一度捉え直した。


「あなたたちの見た大きな機械、あれは確かにWITHGRAVと呼ばれた装置だった。私が重力を観測するために作った機械であり、私を証明してくれた機械よ」


 どこか懐かしそうにそう教えてくれた。彼女の焦点はきっと空ではなく、どこか遠い記憶に合っている。重力の観測。木から落ちるリンゴのイメージ……は安直すぎるとして、もしかして物の浮かぶこの空と何か関係があるのだろうか。


「証明……ですか」


「そう。宝の地図じゃないけれど、目で見て初めて納得するなら誰にでも見えるように示せなければ、存在しないのと同じ。私の周りにいた人たちは皆そう思っていたから」


 探究者らしい考え方。でも気になったのは目的語だ。


「アルシャさんの見つけた何かではなく、アルシャさん自身を?」


「そう。証明するものが人間でも同じこと」


 アルシャさんはさらりと返した。何かを読みとるべきだったのかもしれない。


「WITHGRAVには……意思があるんですか?」


「あったのだと思う。私たちに見える形で喋ったり動いたりができなかっただけで。もう気付いたと思うけれど、私が最後に見たWITHGRAVとあなたたちの見たWITHGRAVは別の姿をしている」


 アルシャさんの言うそれは、この空に至る前後の時間軸にある物語? ここへ来たものは一様にそれ以前の記憶を封じられるのではないのだろうか。アルシャさんは――覚えている?


「サナトルアハは私と同じ研究者よ。この海を探した無数の誰かであり、たまたま私たちと波長が重なった存在」


 私があなたに教えてもらえたことを持ち帰れないのは、この空の真実を含んでいるから? この――海を探した人たちは、一体何を見つけたのだろう。

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