18_内在過去/実像
瞳が私を覗いていた。私の中を通るその青い光。私の簡素な身体に備えられた数枚のレンズを通って、私がずっと大事に抱えているガラス球の中へと届く。
「ユニル、ちょっといいか」
同じ白い服を着た別の誰かに呼ばれたようだ。瞳が私から離れる瞬間、反射する景色がくるりと狭い研究室の全容を映した。いくつかのガラス容器、褪せた紙を埋めた数式と図、そして私と同じ類の機械たち。
アルシャ・ユニルは物理学の領域に足を踏み入れた学徒だった。専攻を決める前に広く浅く学ぶ間は優れた思考能力を寡黙なまま示していたが、“重力”に魅入られてからは共にその神秘を解明しようとする何人かの人間たちを同士と認め、自分の思想や理念を共有するようになった。
「なあユニル」
「分かってる。私自身が立証するまで私は嘘つきでいい」
だが、「普遍的な力の一つ」と錆びた色眼鏡で重力を見る周囲の人間たちとは何か根本的な違いがアルシャにはあるように思われた。重力のことを知れば知るほどにその普遍性は彼女にとって特別な意味を持ち、やがて彼女は重力に関する独自の理論――意思を持った重力が時間と空間を包括するような、“世界観”とさえ思えるような定理法則群――を唱え始めた。仲間たちは困惑した。アルシャが重力のことを強く想えば想うほど数式の示す難解な理想が朧げに形を得ていき、理の深淵が縁取られていくように思われた。彼女の示すものはどれも既存の枠組みでは見えぬ基盤の上にあるようで、しかし不思議なことに一定の説得力を持っていた。彼女の生み出した“重力観測器”がそれらを裏付けていたからだ。
その装置は原始的で迂遠な手法によって行われていた重力の観測を次の段階へと飛躍させた。初めは小さな顕微鏡のような大きさだったらしい。せいぜい二、三年前の話であるはずだ、今と変わらず白衣を着たアルシャは、探究に疲れて実験室の机に伏していたかと思えば、思い付いたように小さなガラス球が取り付けられた古い装置のレンズを覗いていたという。装置はアルシャが別棟の金属加工室に通い始めてから少しずつ大きくなっていった。アルシャの理論が否定された日は目に見えて大きくなったように思えた。やがて装置は研究室一つを埋め尽くすほどの大きさになっていた。
重力観測器『WITHGRAV』。重力と共に在れるように名前を与えられたその装置は、やがてアルシャに“本当の重力”を見せる。彼女が思い描いた、その重力を。
――X軸、Y軸、そしてZ軸。縦と横、そして奥行き。空間を意味するその場所全てに『時間』は一方向的に作用しながら存在する。重力も同じだった。だから“空間ごと切り取った”。空間の1ブロックを観察した私は手応えを得た。やはり重力はそこに、時間の流れと同じく一方向的に在るように思えた。私は思考と試行を次の段階に進めた。切り取った空間の中で迷子になった時間の流れを円環状に繋げてしまうのだ。こうすることで“重力も同じようになる”のではと考えた。
「なあユニル」
「分かってる。私自身が立証するまで私は嘘つきでいい」
「そういうこと言ってるんじゃ――」
「ごめんなさい、一人にして」
白衣の女性が会話を切った。同じ白衣を着た分厚い眼鏡の男性は諦めたように机から離れていく。残された女性は男性がドアを閉めるのを待ってから大きな溜め息をついて、小さな木の椅子に座った。それから実験机に置いてあった装置をそっと引き寄せた。顕微鏡だろうか。真鍮製の年季の入った装置は、私の知るものと比べて随分と簡単な作りをしている。台座の部分には透明な丸い球が取り付けられていた。……私の知るもの――私?
「誰?」
女性が振り返る。
その瞬間に“自分がそこに存在する”ことに気付いた。私は誰かの記憶を見ていた? その“私”は誰だっけ。問われたが、答えられない。通学カバンは持ってない。何か自分を示し表すものがないかとスカートのポケットを探る。ケータイが入っていた。私がそれを手に取るのを見た女性は警戒して椅子から腰を上げる。
「あれ……」
慣れた操作で開いた画面、どういうわけかプロフィール欄が空っぽになっている。自分の電話番号とアドレスと本名くらいは入れていたはずだ。ではメールの受信ボックスの、そう、私宛てのメールなら? ……これも空っぽ?
「その機械は何? 何をしているの?」
アドレス帳にデータが一件も残っていない。焦った私は撮り溜めたはずの写真を開く。≪データなし≫の表示が冷たくあしらう。何でもいい、何か私に触れたことのあるもの、私と繋がっていたもの。あとは……メモ帳?
「答えて」
(……あ)
苗字と名前があった。『メモ帳1』に、ぽつんと、たった一人分だけ。
「私は――」
そう、でもこれは私の名前じゃない。そうだよねハルカ。
「私の名前はナツ。えっと……高校生です」
「高校生? どうやってここに……」
あの底の見えない空はどうにも記憶を奪ったり封じたりするのが得意なようだ。でも少しずつ思い出してきた。確か私とハルカは黒い手に捕まえられたはず。意識が途切れる直前にWITHGRAVから何か伝えられた。なんだっけ、……そうだ、
「あなたは、WITHGRAVを作った人?」
「どうして……その名前を」
私は何故そう思った? 彼女の動揺の理由は? 思い出して繋げて考えて問いかける。私は今、何のために、どこにいる? その顕微鏡のような小さな装置は……。
「WITHGRAVはまだこの世に存在しない、これから私が完成させる重力観測器の名前。私の名前はアルシャ。重力の研究者よ。……もしかして、あなたは未来から来たの?」
私の質問で一瞬動揺したけど、アルシャさんは深い青色をした瞳で探るように私を見つめた。きっと聡明な人。とんでもなく。化粧や着飾ることに意味など見出さず、白衣の下の細身の身体は食べ物にさえ関心が無いことを示すようだ。代わりに熱量は瞳の奥、知識と世界の探究に向けられている。
「未来……」
そして、私の疑問の一つに示された答え。――いや、断定するのは早い。
「多分、そうだと思います。でも、」
アルシャさんの表情が一瞬緩んだように見えた。未来から過去への矢印、私の存在が何かを“裏付けた”のか。
「少し確認させてください」
「ナツ、丁寧語じゃなくていい。時間の前後はもう意味が無いようなものだから」
時間の……前後。
「分かり……分かった。その顕微鏡みたいな装置がWITHGRAVになるの?」
「そのつもりよ」
透明クジラが空に穴を開けて、吸い込まれて落下した私たちは広い空間に出た。その中心には巨大な要塞のような、くすんだ真鍮色の夥しい数の部品を纏った何かが待っていた。あれはきっとWITHGRAVだ。机の上に置かれた小さな装置はあれと同じ色をしている。
「今、その装置でアルシャさんが見ているものは何?」
「一言では説明できないな。こっちへ来て」
年季の入った四角い木の椅子に導かれる。アルシャさんが同じ形の椅子をもう一つ引き寄せて、白衣の裾がふわりと降りて右手に触れた。机の上に置かれた顕微鏡のような装置――未来のWITHGRAV。上から覗き込む部分は顕微鏡と同じように筒状になっているけど、微生物やら葉脈やらをガラスで挟んで観察する台の代わりに金属製の四本の支えがガラス球のようなものを支えている。すると見えるのはガラス球の中? アルシャさんが自分の目で見てみてと言うので、WITHGRAVに手を添えて恐る恐るレンズを覗いた。
(……?)
「何が見えた?」
「ちっちゃな点々が……」
小さな小さな塵ようなものが見えると言えば見える。もう少し拡大できないかな。
「点々……ね。倍率はそれが最大よ。右側のねじを回せば別の点にピントを合わせられる。直接手で球を触っていいから、動かしてみて」
一旦(顕微鏡で言えば)接眼レンズから顔を離して位置を確認する。言われるがまま、右手はピント調節ねじへ、左手はガラス球のような球へ。どちらもひやりと冷たい。金属と、ガラスのような手触り。もしかしてこれは占い師が使う水晶玉なのだろうか。調節ねじは滑らかに動いて接眼レンズを上下できた。ガラス球を支える4本脚の先端には布切れが巻いてあって球を傷つけないようにしてある。指に少し力を入れてそっと転がすように球を動かす。重さもガラスの塊くらい。
「んー……」
レンズを再び覗き込む。球を少し回して一生懸命に点々を睨んでみるも結局それが何なのか分からない。私が唸っているとアルシャさんが口を開いた。
「そのガラス球には空間が閉じ込めてある」
「空……間?」
「そう。ガラスを丸く加工したように見えるかもしれないけれど、そこには空間が詰まっている。時間と、重力と一緒にね」
そんなことができるのか。空気ではなく? 確かに空気を詰めただけならば球はもっと軽いはず。じゃあ、
「と、私は聞いている。きっとただのガラス球よ」
「……えぇ」
冗談……ってこと? 気の抜けた反応しかできなかった。ただのガラス球ではないと私が勝手に思っていたからだ。そうでなければ、そのくらいの何かを持っていなければ、アルシャさんがこの小さなWITHGRAVをあの大きなWITHGRAVにすることなんてとても――
「でもね、あなたが点々と言ったそのガラス球に閉じ込められたものを観測することは私にもできていないの。装置を変えてもレンズを重ねても何故か像は大きさを変えない。認識されることを拒むように」
……そう、そういう特別な何か。手応え。言葉とは対照的にアルシャさんはどこか嬉しそうだった。私もきっとそんな表情に変わった。
「あなたはここに長時間居られるのよね? 今からあなたに私の考えていることを話したい。なるべく噛み砕いて説明するから、未来で明らかになったことが一つでもあるなら私に教えて欲しい」
WITHGRAVを大事そうに抱えたアルシャさんについていく間、私はここがどこであるのかを探ろうとした。どうやら巨大な施設のようで、ドアの閉まった部屋をいくつも通り過ぎた。中からは人の気配がして、会話も聞こえる。一度だけアルシャさんと同じ白衣の研究員ともすれ違った。ただ、何というか、
「何か気になる?」
アルシャさんが立ち止まり振り返る。床、天井、部屋のドア。アルシャさんが最初にいた小さな部屋で見かけた器具たちと比べて、建物を構成する建材の“時代”に手応えがない。私は少し質問を考えて、どこかに窓はないかと聞いた。この質問で多分もう一つ分かることがある。
私たちは黒板のある部屋に来た。長机の周りに四角い木の椅子が四つ、正面に黒板。アルシャさんはWITHGRAVをそっと机に置くと、黒板の下に収まった小さな箱を引いてチョークを取り出した。私はなるべく近くで話を聞こうと机を背にして黒板の前の椅子に座った。
「私は重力を観測しようとしているの。手を離せば物が下へ向かって落ちていく、この力は“あなたの世界”でも同じ?」
高校生の私でも理解できるように、新しい言葉は一つ一つ意味を確かめつつ、図を交えて。頭のいい人は説明するのも上手と聞いたが本当にその通りらしい。“この世界”に存在する法則、私の知るそれとほとんど変わらない“いくつかの約束事”が私の前に展開され、私がまだ知らなかったそれらの関係性が糸を撚るようにして太い流れを作っていく。ある特定の場所でのみ成立する仕組みがあるならば矩形に切り出して扱えばいい。観測し得ないと言われたなら彼らの目の前で見せればいい。物理法則と呼ばれるものの全てはヒトの以前から在る。ヒトの尺度では測れない、計れない、量れないと理解してから、初めて研究者たちはその向こうにあるはずの何かを探す準備ができるのだという。
重力は特別で、普遍で、どこまでも手が届く。全てを見守っている。そう話すアルシャさんはきっと重力のことが好きなのだろう。私がいつか誰かに恋をしたのなら、こんな風に話すのだと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます