15_サテライト・ライトハンド

――統計的に有意とはならなかった。旧規格無線通信網が役目を終える直前に発信されたメッセージに見られる特有の共通点。解釈可能であるはずの意味文字列。それが僅か一度だけ加算された、ただそれだけだ。



『ピロリン』


「ん?」


「何の音?」


「あれ……おかしいな」


 ハンドルから放した右手で腿の辺りをポンポンと叩くナツ。


「……ある。ハルカ、私のポケットからケータイ出してくれない? スカートの右ポケット。落とさないようにね」


 言われるがまま前に座るナツのポケットに手を伸ばして、緑色のストラップが一つだけ付いた銀色のケータイを取り出した。駅の島でナツが鞄から取り出したあのケータイだ。あれ、でもナツの鞄は。

 オゥルくんを加速装置にした空飛ぶママチャリで進む私たち。点々と浮かぶ浮遊物を含めて代わり映えのしない空を果たしてどれくらい進んだのだろう。一頭の透明クジラを追いかけているうちに別の個体が一頭また一頭と合流して今では五頭、小さな群れに私たちが紛れる形になっていた。いつの間にか透明クジラたちのスピードが少し落ちたので「泳ぐのが遅い一頭に合わせた」とか「俺たちがスピードに慣れた」とか話しているうちに『ピロリン』と小さな電子音が鳴った。


「メール来てない?」


 その音は確かに自分のケータイのメール受信音だと言うナツ。しかし、私の記憶が確かならナツのケータイは彼女の肩掛け鞄に入っていたはずで、その鞄は自転車の前カゴに入れたままだったはず。鞄は無くなっていた。空を降りて私たちのもとに戻って来たのは自転車だけなのだ。


「新着メールが一件」


「えっと、電波はどうなってる? 圏外になってない?」


 圏外の時の表示はともかく、階段状に縦棒が並ぶマークは昔から変わらない。ケータイの小さな液晶画面はハッキリと次のように示している。


「一本立ってるよ。圏外じゃない」


「なになに、どうかした?」


 荷台を押していたオゥルくんが身体を引き寄せて私の横から顔を出した。重力操作はそのまま、ナレィと同じ銀河色に透き通った彼の身体に一瞬見入ってしまう。


「ちょうどいい、ハルカ、オゥルくんもちょっと聞いて」


 初めのうちは凄いスピードで空を駆ける自転車に(私はナツに)しっかり掴まることに必死だったけれど、ナツはペダルを漕がなくてもよくなり、オゥルくんもナレィに身を委ねていればよくなり、私もそんな感じになった。それでも片手運転をしたくないらしいナツは首と上体を捻ってなるべく後ろを振り返って言葉を続ける。


「もう一度確認するけど、ハルカもオゥルくんも“この空に来る前のこと”は覚えてないよね? 場所のことも、人のことも」


 私もオゥルくんも肯定。


「ケータイを知らないらしいオゥルくんのために説明すると、実はその小さな機械には人の名前と連絡先を記録できる便利な機能があるのです」


「そりゃすごい」


「ところが、」


 私を見つける更に前。一人で空を探検するナツが“ケータイが生きている”ことに気付いた時、真っ先に確認したのは電波強度だったという。彼女の常識では、ここが本当に空の上ならば、電波強度は『圏外』を示すはずだと。小さな液晶画面に映る小さなアイコン表示は確かにその通りになっていたが、しかしここが空の上であることを確信させるには至らなかった。日付と時刻が『1900/01/01 00:00』になっていたからケータイが初期化されたのかと思いきや、使いやすいように設定したメニューやショートカットは残っている。それならばと次に確認したのはケータイが保持しているはずのデータ、つまりは“ナツ自身の記憶に纏わるデータ”だ。電話帳、メールボックス、カメラ機能で撮った写真、エトセトラ。しかしその全てはきれいさっぱり消えていた。何か一つでもいい、どうやっても思い出せないものをケータイから手繰ることはできなかったのだ。キーを操作してメニューを辿ることはできたがそこまで、圏外のままでたらめな番号を叩いても淡白な機械音声以外に誰も答えてくれない。


「そんなはずはないんだよね。何かを思い出せないことと、何かが消えていることは分かるのに」


 ナツがケータイの仕組みと便利な機能をざっとオゥルくんに説明したところで、それを持つ私の手が緊張感を帯びた。


「……で、今突然メールが届いたのさ」


 先を泳ぐ透明クジラにピントを合わせる。斜め左下の別の一頭にも。透明クジラたちがこちらを気にする素振りはない。――ケータイが電波を掴んだ? どうやって、どこの……?


「誰から……?」


 そう、何よりも、メールは……誰から?


「ナツが読む……よね?」


「ちょっと怖い。ハルカ、件名と差出人だけ読める……?」


「うー……分かった」


 封筒マークのボタンを押して、十字キーを上下に、ハイライトを確認して決定キー。一呼吸置いて、もう一度決定キー。


「ウィズ……グラブ?」


「え? 誰? 何?」


 短い英字の意味を解釈せずに件名を読み上げる。「ひきかえしてください」と、私はそう声に出していた。


「ダブリュー、アイ、ティー、エイチ、ジー、アール、エー、ブイ」


『WITHGRAV』


「どういう意味の英単語……じゃないか、差出人か」


「ウィズグラブ? 変わった名前の友だちだね」


「いや、私にそんな名前の友だちはいないんだオゥルくん。……あれ、覚えてないけどいないはず。『ひきかえ』って、引換券のひきかえ?」


 ナツの脇から腕を伸ばして画面を直接彼女に見せた。差出人に書かれた『WITHGRAV』は私も意味が出てこない。件名は全て平仮名で書いてあるせいでどちらだか分からないが、それらしい解釈は「戻れ」の方だろう。


「ハルカありがと、引っ込めて、そのままメールを開いてくれるかなー」


「……ナツって怖がりだっけ?」


「全然! ハンドルから手が離せなくて!」


「はーい……」


 あまり慎重に考えすぎる前に決定キーを押した。現れた文字はやはり全て平仮名、スペースで区切られた奇妙な本文を走り読ん……声に出して読んだ。


『はじめまして わたしはけいそくき あなたたちがむかうさきに わたしのあるじがいる あるじがあなたたちとであうと あなたたちがあぶない どうかひきかえしてください』


「なんとも不穏な」


「計測器って何だ? 距離とか重さを測る機械?」


「そうだと思うけど、計測器と……主?」


 ナツもオゥルくんも、もちろん私も疑問符を浮かべた。『計測器』を名乗る私以外の人物がこの空に、浮島のどこかにいて、……いや、それにしたってケータイにメールを届けるだけの大掛かりな装置がここに存在しているとは思えない。空飛ぶ自転車に重力を操る少年、クジラのような不思議な何か、空に浮かぶもの、空で停止したもの。私が頭の中で階層やら役割やらを並べ始めたところで、


「ともかく」


 ナツが一刀両断。


「ここで止まる? このメールの送り主の言う通りに」


「待って、まだ続きがある」


『とくにじゅうりょくつかいは あるじにどんなえいきょうをあたえるか あるじからなにをされるか よそくできません どうかひきかえしてください』


「名指しで俺に来るなってことか」


「そう聞こえる……。メールの中身はこれで全部だよ」


「最初にオゥルくんの答えを聞いていいかい。透明クジラたちはスピードを落としたけど、キミが今重力操作を止めたら私たちは彼らから置いていかれちゃう。キミが止まりたいと言えば私たちは従うよ。ね、ハルカ」


 頷く。その通りだ。


「俺はこのまま進むよ。ナツねーちゃんたちが嫌って言わなければね」


「頼もしい。しかしオゥルくん、私はこの計測器とかいう人は敵じゃないと思うんだよね。味方とも限らないけどさ。敵なら『危ないから来るな』なんて言わないだろうし」


 私もナツと同じ意見だ。警告文にさえ思える文字列から読み取れた送り主のイメージは中立。そして“主”なる存在への信頼服従と、微かな……陰り? でもそれだけじゃない、


「……ハルカ先生は?」


「ナツと同じ考えだよ。メールの送り主には私たちのことが見えてるのか、どこかから見てるのかなって考えてた」


「あ……ちょっと待ったまさか」


 ナツは前方周囲の空を泳ぐ透明クジラたちを順番に睨んだ。メールの発信者が透明クジラなんじゃないかと私も疑った。しかし時々大きなヒレをゆっくり上下させて透明クジラたちは知らぬ顔。尾ビレがない巨体の後方も緩やかに動かしているけれど、推進力の源は別のところにあって動作は後付けかもしれない。


「違うか……メールには透明クジラのことは書いてないんだよね?」


「うん、書いてない」


「じゃあちょっと情報が足りないね。このまま進んでたらもう一通くらい送ってくるかな」


「そうなんじゃない? とりあえず進むよ」


「オーケー」


「うーん……わかった進もう」


 オゥルくんが自転車後方に戻った。そう言えば相槌を打つようなタイミングで鳴くナレィの声が聞こえなかったけれど、重力操作に専念しているからかな。


「浮かない顔だねハルカ。浮かんでいるのに」


 笑ってしまった。正面を向いているナツが背中を見せたまま言う。


「私の顔まで見えてるの?」


「……浮かない声だねハルカ」


「……安全運転で何より」


「やっぱり止まったほうがいい?」


 今度は軽く振り向いて。


「ううん、ナツの言う通り本当にまずいなら計測器さんがまたメールを送ってくると思うし、一旦このまま進んでみよう。後ろでちょっとだけ考えてみるよ」


「じゃあ私も私で推理してみよう」


 是非。さて、私たちは透明クジラたちが目指すところに向かって進んでいる。その場所に私たちが来るのが『NG』で透明クジラは『OK』? 多分そうではなく、計測器なる存在は“私たちには警告することができた”のだろう。透明クジラとの意思疎通は困難で、ナツがたまたまケータイを持っていたから私たちとは疎通できた、そんなところ。警告に従わずこのまま進んで“第2報”を待つのは悪い手ではない気がする。それでも距離感を変えずに警告してくるなら信じて一度考え直すべきだし、少々申し訳ないけれど慌てた相手が新たな情報を出すかもしれない。――と、何だか自転車のスピードが遅くなったような?


「オゥルくんどーした?」


 振り返ってナツが聞く。


「透明クジラたちが減速したんだよ」


 オゥルくんの言った通り前を行く透明クジラがスピードを落としていく。やがて先頭の一頭が止まって、一本の横線を前にしたみたいに他の四頭も横に広がって停止した。


「到着した……のかな?」


「でも何も見えないよ?」


 透明クジラたちが見つめている空の一点にピントが合わせられるようなものはない。もしかして本当に見えない壁があるのだろうか。パントマイム師が作ったような壁ではなく、透明クジラたちだけが認識して止まるような壁が。


『ォォォォ』


「うわっ」


 低く、唸るような音。


「しばらく起きてないと思ったらここで!?」


「違う、あの透明クジラから!」


 音ではなく――鳴き声? ナツが慌てたのも分かる、確かにあの世界が途切れるような断絶の予兆かと思った。でも違う、透明クジラの一頭がそれに似た音を発している……?


「ちょっと離れるよ!」


 オゥルくんの声がして自転車ごと上に引っ張られるのを感じた瞬間、鳴き声を発していた透明クジラが身体を垂直に持ち上げてから大きく曲げた。


「力を溜めて……まさか、頭突き?」


 ナツの予感が的中、透明クジラが勢いよく突き出した半透明の頭部が見えない何かに衝突した。空にガラス板のように亀裂が入り放射状に広がって割れた? 空の裂け目はクジラたちが出てきたものと同じ色、破片が内側に吸い込まれて行く。


「これマズいんじゃ、オゥルくん撤退!」


「後ろに回って押すからそっちも漕いで!」


「りょーかい!」


 透明クジラの鳴き声が大きくなる。何かを解放するように他の個体も鳴き始めた。ここでぐるりと私たちの自転車が回転、元来た方角に向き直る。


『ピロリン』


 私のポケットに預かっていたナツのケータイが“第2報”を知らせるが、


「ハルカ私に掴まって!」


 前屈みでナツが叫ぶ。透明クジラが広げた大穴が強烈に辺りの空を吸い込みだした? 割れた空の縁が崩れて穴が広がっていく、荷台の私はせめて見張るくらいは。一頭が大穴に飛び込ん……滑り落ちた。一瞬身を引こうとした別の一頭が今にも引き込まれようとしている。想定外だったのはどこから? 裂け目の先には何が……?


「このっ……」

「ぬぅー」


 前にも後ろにも身体が引っ張られる奇妙な感覚。息が詰まる一瞬をナツにしがみついてギリギリですり抜けた。



「危なかった……」


「助かった、ほんとに助かった」


「ほとんどオゥルくんのおかげ。ペダル重くてあんまり漕げなかったもん」


「二人ともありがとう……」


 オゥルくんが一瞬早く状況を読んでナツも一生懸命漕いだおかげだ。どうにか空に開いた穴に吸い込まれずに済んだ。もう一度自転車の向きを変えてその穴を観察する。


「一頭残らず吸い込まれちゃったみたいだね」


「うん……透明クジラが穴に吸い込まれるところを見てたんだけど、逃げようとして吸い込まれたように見えたんだよね」


「自分たちで開けたのに?」


 そう、そうなのだ。穴をあけた勢いでそのまま頭から消えていった最初の一頭を除いて、それを見ていた透明クジラたちは何か想定外の力に作用されたように見えた。180度向きを変えて逃げようとして、それでも吸い込まれてしまったかのように。裂け目の奥は見えない。真っ黒な紙にシャボン玉の虹色を張り付けたような空間がまだ空を吸い込み続けている。


「んー……鳴き声がまだ聞こえるんだよな」


 そう、不思議なことに透明クジラの鳴き声が、


「って違う! これホン



 途切れた。



 本物の断絶。直後、私たちの見ていた景色が反転した。シャボン玉の虹色が流動する真っ黒な空間に、空だったはずの色が小さな裂け目の向こうに見えている。認識が間に合わない。一体何が、何故。断絶直後のズレが都合よく私たちを蹴落とした? まだ三人とも自転車のそばにいる。でも次の瞬間には強力な引力を身体に感じていた。


「掴まって!」


 ナツが叫ぶ。一方向を目指して落下が始まる。重力操作では抜け出せないとオゥルくんが伝えた。幸い呼吸はできる。声も出せる。自転車でも誰かの身体でもいい、どうかみんな手を離さないで。

 急速に遠ざかる空の裂け目の小さな明かり。その対極に待つ不気味な闇に向かって、落ちていく。

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