14_現象と意志を分かつ仮の彼方への轍
――自然と相対するのは常にヒトの生み出した何かだ。私に牙を向けるお前たちは自然法則ではない。だが私の知る物理法則でもないのならば、一体お前たちは何者なのか。
「伏せて!」
「うわっ」
「……っ」
薄く砂を被った石畳の地面にべたりと張り付く。ナツの言った通りだ、島に衝突する直前に透明クジラが頭を持ち上げるのが見えて、そのまま透明輪郭の巨体が私たちの頭上を通過していく。恐怖と迫力の境目はどこに。クジラの中心にある淡い光を一瞬捉える間に重低音と風圧がのしかかる。ここまで距離が近いからか、風を切る音、空を泳ぐ音、しかし錯覚にさえ思える圧倒が響く。
思わず息を止めていた。できるだけ身を縮めてただ過ぎ去るのを待った。強者に怯える小さな生き物、そんな表現がなんとも相応しい。
「ふぅ……」
起き上がって、腕に付いた小さな砂粒たちを払う。離れていく透明クジラを睨むオゥルくんと肩に戻ったナレィ。ナツは曲げた人差し指を口元に腕を組んで考え事の顔。――思い付いた顔?
「ナツ、どうして透明クジラがぶつからないって分かったの?」
「んとね、最初にあれを見た時もギリギリで島を避けてたでしょ?」
「……言われてみれば」
確かにオゥルくんたちが力を使わないなら条件は一度目の時と同じになる。空に浮かぶ島に空を飛べない私たちがいるだけ、透明クジラは恐らく私たちを認識していない。透明クジラは思ったよりも生き物に近い存在なのだろうか。行動原理があるというか、少なくとも何かを判断しているというか。
「ハルカ、あの透明クジラは逃げていると思う? 追いかけていると思う?」
ここでナツのQ。しばし私は考えて、
「んー……どっちでもない答えでいい?」
「いいよ、それはそれで聞きたい」
「住処に帰っている……とか?」
「なるほど面白い」
「俺たちを探してたのに見失ったから?」
「そう……なのかな。正直なところ追いかける相手も逃げる相手も見えなかったから、どっちでもないのかもって」
「あれの巣があったらすごいだろうね。ナツねーちゃんはどう思ったの?」
ふふん、とナツ。
「私は“まだ追いかけている”と思った。もちろんオゥルくんとナレィ以外の何かをね」
「何を……?」
「それは……分からない」
例えば重力に関する何かを? でもそれって、目に見えたり手に取れる“モノ”ではない何かになってしまうような気がする。
「真っ直ぐに進んで行ったことの理由にはなるんだけどな。探しているようには……でも……」
ナツは考える顔のまま思考を言葉にしながら、透明クジラが飛んできた方角に歩き出した。そのまま島の端まで行って足を滑らせないようにね……。
「あいつらはどれだけ離れてても重力操作に気付くのかな」
見えなくなりつつある小さな輪郭を睨んでオゥルくんが呟く。肩に乗っていたナレィがふわりと羽ばたいて今度は頭の上に乗った。
「透明クジラがずっと遠くに行ったら試してみる、とか」
「……いいの?」
『ホゥ?』
「うーん、ナツに相談しようか」
やっぱりナレィは私たちの言葉を理解しているようだ。本音を言うとオゥルくんの重力操作が一体どんなものなのか近くで見てみたい。彼らがずっと遠くで透明クジラから逃げているのは見たけれど、……そう言えば、島を真っ二つにしたあの衝撃波は何だったんだろう。断絶とは違う現象なのか、
「あー!」
「え?」
「また!?」
ナツが叫んだ? 慌ててナツの方に振り返る。しまったいつの間にか距離が、でも透明クジラの姿は……見えない?
「じーてーんーしゃー! こっちきてーはやくー!」
大声でそう伝えてくれたナツ。私たちが駆け寄って行く間にナツが指差す先の空――この島から少し離れた空に、見覚えのある白銀のママチャリが。ナツの目まで白銀に輝いているような。あれ、でも緩やかに……落ちて……
「ハルカあの自転車だよ! オゥルくんお願いだ、あれ拾えない!?」
「重力操作を使えば拾えるけど、使ったら透明クジラが戻ってくるかもよ?」
「ぐぅ……それでも!」
ナツの気持ちはよく分かる、オゥルくんは人間一人なら運べると言っていたけど、あの自転車があれば皆でこの島から飛び立てるはず。……3人乗りもできないかな。
「じゃあ重力操作を使うよ?」
「どうぞ! いいよねハルカ?」
ナツに許可を貰おうと思っていた私の方が聞かれてしまった。
「うー、うん!」
もちろん断らない。あの透明クジラは随分遠くまで行ったし、大丈夫だろう。……多分。
「よし、二人ともちょっと離れてて!」
「はいよ!」
「りょーかい!」
「ナレィ!」
『ホーゥ!』
黒い生地に金色の模様が描かれた不思議な衣装を着た少年。彼が合図を出すと銀河模様のフクロウがそれに同調して黒い光を球状に広げた。その中心でオゥルくんの身体がナレィと同じ色に変わり、
「わぉ」
「浮いた……」
ふわりと、黒いスリッポンのような靴を履いたオゥルくんの足が地面から離れた。
「透明クジラが戻ってこないか見張っててね。急いで取ってくる!」
そのまま空中で身体の向きを変えると、ゆっくりと落下していく自転車をめがけて――飛び出した。
「空を……飛んでる」
「かっこいぃ。あ、しまった、私も見たいけど背中は私に任せて!」
ナツの言葉に甘えて飛び去った透明クジラの念のための監視はナツに任せる。まるで横方向に落ちていくように加速したオゥルくんは自転車に辿り着くと急ブレーキ、そのまま黒い光の球を少し大きくして自転車を取り込むと、Uターンしてこちらへ。ラジコン飛行機なんかよりもずっと自由に空を舞っている。私たちもあんな風に空に浮かべて運んでもらえるのかな。……そうか、私は気を失っている間に彼らに一度運んでもらったのだっけ。
「ハル……カ」
ナツの背中がくっついた。声色が、自転車と一緒に戻ってきたオゥルくんの表情も――
「急いで!」
「くそっ! 間に合え!」
もう分かった、二人とも透明クジラに気付いたのだ。どこから? いつの間に? 私が振り返る間に答えは目前に用意されていた。目の前の空に大きな裂け目が、そこから屈折率と中心の淡い光だけで描かれる巨体が、ゆっくりと現れていく。
「なにこれ……そんなの、あり?」
オゥルくんが石畳に滑り降りてママチャリも不時着、だが透明クジラの大きな二枚のヒレは既に裂け目から抜け出た後だ。もう気付かれているとして、今にも振り向いて突撃して――
「あれ?」
「気付いてない……のか?」
空の裂け目から突如現れた透明クジラ。偶然に、さっきの一頭が飛んで行ったのと同じ方向を向いて空へ抜け出たのだと思った。けれど重力操作を使っていたオゥルくんたちに見向きもしない。それどころか同じ一点を目指して空を進み始めた……?
「やっぱり……何かを追いかけてる。ナツねーちゃんの言った通りだ、俺たちを追ってきた時と飛び方が同じだもん」
「オゥルくんから有力な証言を得たよハルカ。するといよいよ気になってきた、あれが一体何を追いかけているのか」
「追いかけてみる?」
「え?」
オゥルくん今なんて
「その言葉を待っていた!」
「……ちょっと待って!」
「……ハルカのその言葉も待っていた。透明クジラを追いかけた先にもし何かがあるとすれば、オゥルくんたちはともかく、少なくとも私たちの範疇を超えたものだと思うから。そうだね?」
「うん……。自転車が戻って来たからまた探索を続けることはできる。透明クジラを追いかけて進まなくても」
自分で言葉を並べながら、「でも、」とナツが切り返すのは分かっていた。私だって直感でしかない何かを受け取っていたから。
「でも、“答え”に近付くための近道は」
「きっと透明クジラを追いかけた先にある、……だよね」
「私が言わせたみたいじゃないか」
「ううん」
分かっていたとは言えないまでも、自分もそんな気がしていたとナツに言う。オゥルくんも大きく頷いた。
「よし決まりだ。その乗り物で二人とも空を飛べるんだよね?」
オゥルくんが鈍く輝くママチャリを指差した。彼らの生み出す重力(無重力?)から離れたママチャリは特別な秘密など知らぬ顔で浮島の地面に鎮座している。ちゃんとΣ型のスタンドで後輪を浮かせて。急いでいたはずのオゥルくんがちゃんと着地させた……のだろう。
「まあ見ててごらんなさい」
ナツは得意先な表情でそう答えるとママチャリの横に回ってハンドルを握った。駅の形をした島でのやり取りを思い出した私は微笑んでしまう。何かを確かめたらしき素振りでナツがスタンドを蹴ると、後輪も浮遊する島の石畳に降りる。
「さあハルカ、二人乗り」
なんだか久々に“船長”ナツの声を聞いた気がする。私がさっと荷台に跨ると、ナツがぱたぱたと地面を蹴って自転車の向きを微調整した。真っ直ぐ透明クジラが飛んで行った、その方向に。
「じゃあ行くよ? 私たちは一気にスピードを上げて島の端から飛び立つから、オゥルくんも一緒に飛んで!」
「オーケー」
ナツ船長の肩にしっかりと手を置いた私は、ふと砂の積もった石畳の島を振り返る。平坦で何も無い浮島。これから滑走路になってくれるはずだが、これは一体何を切り取った島なのだろう。石畳は30センチ四方くらいの黒く滑らかな色味の石材で延々と均等に組まれていて、そこに砂が薄く積もっている。けれどただそれだけ、野球のグラウンドがこのくらいの大きさだろうか、広大な地面には建造物一つの痕跡すら無い。
「ハルカ?」
「ごめん、いいよ出発しよう」
「ハルカは私じゃ気付けないものに気付けるような気がするから、ペダルとハンドルを私に任せてる間は何でも見ておいて。でもうっかり落ちないでね」
「……うん、ありがとう」
呼吸を合わせて地面を蹴るとナツがペダルを漕ぎ始めた。二人分の体重を受けた二つの車輪が短くじゃりじゃりと音を立てて自転車は少しずつ加速していく。オゥルくんもゆっくりと走り出して、かと思えば一足先に空へと浮かんだ。間もなく浮島の地面が途切れる。まだ二回目か、空への期待に胸が膨らんだ瞬間に、
「うわ、」
「大丈夫ちょっと離れてる!」
開けた視界、足元前方の空が大きく裂けた。
「飛ぶよ!」
「はい船長!」
重力と釣り合うだけの何かが私たちに手を差し伸べる。慣れない浮遊感を思い出す間に、真下に現れ出た透明な巨体が緩やかに速度を上げ始める。中心に僅かに見える淡い光、大きな二枚のヒレが一度空を掻く。
「これで3匹目……? どうなってるの!?」
「分からない、とにかく追いかけるよ!」
この個体も同じ一点を目指して進んでいくようだ。一生懸命にペダルを漕ぐナツをどうにか手伝いたいけれど……
「もうちょっとスピード出ないかー」
少し先を飛んでいるオゥルくんが叫ぶ。そう、空を走り始めてからの自転車様は決して“飛ぶような速さ”ではない。巨体を思わせぬスピードに乗った透明クジラはぐんぐん離れていく。
「すごいっ……ことをっ……思い付いたっ」
上半身を上下させながらナツが凄そうな呪文を唱えた。「何か手は」と私が考え始める前に。
「オゥルくん! 後ろから押して!」
顔に『!』マークが出たように見えたオゥルくんが華麗に私たちの背後に回り込む。オゥルくんの表情から全てを理解した私はナツにくっつくようになるべく荷台の前に寄り、オゥルくんは“ビート板”につかまるような姿勢で荷台の端を掴んだ。
「ちゃんと掴まっててよ!」
「分かった!」
「いっけぇー!」
『ホーゥ!』
急加速。重力少年と重力フクロウを味方につけた白銀のママチャリは遂に空を駆ける!
「はや……」
「うわぁぉ」
恐怖感一歩手前の風圧疾走感があっという間に私たちを包んだ。自転車の下り坂トップスピードを既に超えているんじゃ、落下するときにはもっとすごかったのかもしれないけど、ナツが盾になっているからもっと大変なのはナツだ、姿勢を低くして空気抵抗を――
「4匹目……」
うめき声でナツが知らせる。少し離れた位置の空にまた巨大な裂け目、透明クジラ。――今の私たちは彼らと変わらない速度で空を往けるはず。
「ハルカ、あれの後ろにぴったりくっついて飛んでいけるかオゥルくんに聞いて」
「了解! ……オゥルくん!」
ナツにしがみ付いたまま荷台を振り返りオゥルくんに伝える。進路と速度を調整して、私たちは加速する透明クジラの真後ろに回り込んだ。
「ナツねーちゃん! あんまり前見えないから指示して!」
「はいよ!」
「ナツちょっと屈んで、私も見るから!」
「はいよー!」
色褪せて『く』の字になった巨大な水道管が一つ、かなりの速さで視界の端に過ぎ去っていく。疎らに点在する瓦礫のような浮遊物に注意しながら速度を維持して、恐らく最高速度になった透明クジラがレモン型に歪めた空の向こうをじっと睨む。ずっと遠くにピントを合わせようとするがまだ何も捉えられない。
「さて……何が出るかな」
ナツの呟きはどこかワクワクしているように聞こえた。恐怖が全く無いわけじゃない、好奇心か探求心か、未開未踏の地を海を進むまさに船長のような、あるいは“答え”に迫る探偵のような、そんな呟き。透明クジラを追う私たちは薄青い空に一直線の軌跡を描いていく。
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