09_梟と蝶の踊るワルツの意味は
――彼は教えてくれた。もし自分の力が及ばない世界があるとすれば、そんなことは有り得ないと思うが、それはあなた以外の全てが消えて無くなった世界だと。力無く笑う私は真っ先に思い浮かべていた。“世界から私が”消えて無くなった時には同じことが起こるのだと。普遍にさえ思えた彼の両腕の中から零れ落ちるのは思いの外容易いことであると。
何かが視界を横切った。――鳥? 透明クジラとはまるで違う、ハッキリと真っ黒な色をした翼が一度だけ羽ばたいて私を追い越した。落下し続けて速度を得た私よりももっと速く、“空を知る”形は更に加速して真っ逆さまに落ちていく。色はカラス、フォルムはハヤブサ。でも不思議なことに私の頭は異なる解釈を残していた。真っ黒に見えた身体に宇宙の模様を見た気がした、と。科学の教科書で見たような暗闇に浮かぶ虹色の粒子と渦が見えたのだと。
「キミは、味方なの」
残像の正体を考える前に問うべきことを口に出した。鳥のような影が何か超越的な存在であるとして、それは真っ直ぐに“ハルカを目指して”落ちている。私では追い付けない。
また一つ、もはや帯と呼べる長さのない靄が近付いてくる。前の一つとだいぶ間隔を空けて。取り逃がすものか。私が靄に触れることが回収を意味すると信じ抜いてやる。
――ファインダーは確かに『虹』を捕らえた。あるいは捉えようとした。白黒の『写真』が一枚吐き出される。それを手に取って、ある者は「まだ七色である」と言い張った。ある者はただ肩を落としてヒトに与えられた奇跡に感謝した。カンバスに真新しい紙を乗せたまた別の者が絵具箱に手を突っ込み七色を探すのを見て、ある者はその数を訂正にかかる。写真を撮った者はもう一度、今度は色のついたままの虹を四角く切り取って、それを『輪』ができるまで繰り返し並べていくことを考え始めた。
黒い鳥がハルカに追いついたように見えた。その瞬間、鳥を起点に何かが一気に膨らんだ。
――この風船が宇宙で、油性ペンで打ったこの点々一つ一つが宇宙空間にある星だと思ってくれ。じゃあ、見ててね。
そう、風船。科学の教科書がどうとか考えていたから? 手繰り寄せた記憶、分厚い眼鏡にぼさぼさ頭で白衣を着た先生は、白衣のポケットからオレンジ色のゴム風船を取り出した。宇宙の起源が大爆発で、宇宙が広がるにつれて星と星との距離が離れていくことを生徒たちに示すと言って。膨らませた風船の表面上で確かに星たちは離れていった。先生は得意気に私たちの表情を眺めていたっけ。
(止まっ……た)
その風船の中に取り込むように、黒い半透明の球空間が膨らんでハルカを取り込んだ。鳥は連続で羽ばたいて落下を止め、空間も鳥に付随して高度を維持する。ハルカも、落下を中断した。
(助けてくれた……のかな。あれ、でも――)
あの鳥は私のことも拾ってくれるだろうか。鳥が広げた半透明の丸い空間は多分3メートル程度、私がこのまま上手に落ちていけば引っかかるかもしれないけど、もう少し広げてくれると……。靄を掴もうと強烈な風圧の中でもがくうちに赤い伊達眼鏡はもうどこかへ行ってしまった。しかし勝手が分かった今では涼しい顔で、
「ぬぅぅ」
……やや必死の形相で片腕片脚だけを体に密着させ、気流を制御し軌道を修正、急接近する小さな球空間に飛び込もうとする。落下している間に相当な回数の瞬きをした。いよいよ細く目を開けるのでやっとだ。……と、黒い鳥が空中に羽ばたいて浮かんだままこちらを認識した。ホバリングできるのってハチドリだけだったような。それからやっと分かった、キミの体は“フクロウ”の形をしているんだね。
「……っ」
フクロウにぶつかる覚悟で空間の中心へ突っ込んだ。柔らかいものに包まれた感覚はない、急に止まることで生まれるはずの負荷衝撃さえも感じなかった。ただ身体から重力が抜け落ちるように、そっと。閉じてしまった目を開けると――
「あり……がとう?」
黒い半透明な空間の中で私は逆さまになったままだ。無重力? 底の辺りにキャッチされた? この中には羽ばたくフクロウのような何かと、
「ハルカ……!」
やっと追い付いた。眠るように浮いているハルカ。球空間の中、もう少しで手の届く場所に。推進力の得方も分からないままバタバタともがいて、その手を掴んだ。
「よかった……」
身体が冷たくでもなっていたらどうしようかと思った。突き刺す空気で少し冷えてるかもしれないが手はちゃんと温かい。
「……ん? え?」
しかし、一つ、フクロウは鳴かないし翼の音も聞こえないけれど、妙に一生懸命に羽ばたいている。その上で、恐らくフクロウが作りだした黒い半透明の空間、そういえばちょっと大きくしてある? 私とハルカを助けた救命ボートにも等しいこの空間がゆっくりと“落下を再開している”。もう一つ、ハルカの体が“まだら模様”になっている。二人では重すぎるということ? ハルカのこれは一体何? ……何一つ答えを持ち合わせていない、何一つ力になれない。それならいっそ、ハルカを助けて私を空に捨てて――
フクロウが、大きな声で鳴いた。
何故だろう、叱られたような気がする。
「わ」
目の前で何かが光った。一瞬で凝縮した青い光は、見間違いじゃないのなら、ハルカの中に溶け込んで、
(……?)
今度は、小さな蝶のような何かがハルカの身体から抜け出た。フクロウと同じ色、遠目には真っ黒で、近くで見ると星々を散りばめた宇宙空間の模様。とうに追い付かない私の理解をそっと宥めるように、ふわふわと、綺麗な青い線の入った大小四枚の羽が動く。
「待っ」
いや――きっと大丈夫だ。蝶はハルカを持ち上げた。直接身体に触れてはいない、蝶と同じ色の光がハルカを包むような輪郭を作って、私の手から離れて行った。
「――頼んだよ」
今では私を一人を包んでいる空間の主、宇宙の色をしたフクロウの表情を覗き込む。顔の輪郭はあるのに、瞳や嘴のようなあらゆるパーツがはっきりと映らない。……フクロウが頷いた。少し余裕をもって羽ばたいて、空間ごと上昇していく。少し先には同じ色をした蝶がハルカを運んでいる。フクロウと蝶の大きさは本来のそれと変わらない。捕食被食の関係にあっても不思議ではない。でもそんな前提は消し飛んだ。彼らの姿がどこか神秘的だから? もはや空の上ではあらゆる前提が意味を成さないから? 分からない、ただ言語を超えた直感が、ひとまず彼らに任せよと、そう告げる。
「ぅ……」
ダメだ、少し安心して、気が抜けたのだろう。あの自転車に乗っている時とも違う、無重力に今更驚いている身体の感覚が薄くなって、フクロウとその先を見る視界が暗くなっていく。気を失うなんて初めてかもしれない。そうだ、もう一つが解決していない、ハルカの……まだら模様の……
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