08_落下/指向する第四の残影
――思えば私は抗い続けていたのかもしれない。四人の中で一番最初に抜け出して、一人だけずっと遠くの世界にまで手を伸ばす彼から。誰一人見落とさずに在ろうとする彼から。身を委ねて初めて同じ速度で世界を見たのだと思う。彼の一面にすぎないのだろうその視界は、どこまでも弱々しくて、寛容で、普遍的だった。それは、孤独な神様のようだった。
髪を結んでキャップにしまうこともせずゴーグルも着けずシャワーも準備運動もすっ飛ばして、その短い時間に懸命に答えを探る。ハルカは何故私に「動くな」と言った? きっと、少し先で何が起きるか予測ができたから。私だけでも浮島に残そうとした。落下させまいとした。
「ハルカ」
でもそれだけだろうか。私には彼女が“何かを受け入れて諦めた”ように見えた。最後の瞬間にそんな表情が一瞬だけ見えた。「どうして」と私が叫んだ後、薄青色の大穴に飲まれる瞬間に。
「そうはさせない」
強く短く息を吐いて、空になった肺に手応えのない澄んだ空気を一気に送り込む。私たちは空気抵抗が無いならば羽毛も鉄球も同じ速さで落ちていくと習ったはずだ。私は飛び込み専門じゃないけど、水と触れ合う術を少しは知っている。相手が空気でも似たようなもの。先に落下したハルカとの距離はどんどん開いていく。時間が無い。答えが得られぬ疑問も無茶苦茶な理論も強引に抑え込んで彼女を追う。折角貰ったものを捨て去った足が動いた。砂地から覗く石材の崖を蹴って、空へ。
水の中に入る時の、一つの境界を越えるような感覚が好きだった。指先からつま先まで自分の全身をその境界線がなぞるようにして包み込んで、私から重さを奪い去る。上で聞こえていた音が一気に遠ざかって、次の瞬間には水の中の音が聞こえてくる。ゴーグルがあれば上と変わらぬ鮮明な視界が青いフィルターを纏って広がる。脚をついて立ち上がれば容易に行き来できる境界線。市民プールでは青い視界に色鮮やかな魚たちなんていないけど、無心で長く泳いでいるとレーンを分ける線さえ曖昧になっていく。それでも水の中を進んでいると、不思議なことに最後には、遠くの“海”まで意識が繋がるような気がしてくる。
行き来しているのは水と空気の境界線だ。当たり前のことだが、空と海の間にも同じ境界線がある。
息継ぎの要らない空をどれだけ落下したのだろう。強烈な風圧と奇妙な高揚を穿つ集中。視界の先にどうにかハルカを捉えていた。ゴーグル代わりの眼鏡があと一歩のところで踏み留まって、刺さるように無尽蔵に襲い来るただの空気を防いでくれている。手のひらを重ねて腕を伸ばしていては落下先を見るのに都合が悪く、結局手探りで抵抗の少ない姿勢を探って時々切り替えては速度の維持に努めていた。電車から見える景色と同じだ、遠くの浮遊物はゆっくりと、近くの浮遊物は高速で浮上していく。でも今は安全じゃない。接触も直撃も致命傷かもしれない。少しずつハルカに近付けているようだけど――
「ん?」
何かぼやっとしたものが迫ってくる。薄い靄のような球状の……
(ちがう、)
真上から見たからそう見えただけ、靄は長く続いている。転がった巻物から伸びた紙のように、ちょうど人間の身体くらいの幅で。避けようとしてしかし身体を掠めそうになったので無意識に手を伸ばした。
『私より先に』
「……え?」
『島の一部が落ちて、それより小さいものなら壊してくれるから』
声が――
『真っ直ぐ落ちれば、何かにぶつかっておしまいってことはなさそうだけど』
「……ハルカ?」
声が聞こえた。間違いない、ハルカの声が。どうにか身体の向きを変えて飛び去って行く上空を睨む。落下を続ける私を無視して靄はその高度に留まっている。もう一度手足で空気を掻くようにして身体を捻り下を向く。視界の先に別の靄が見える。
(もう一回――)
次の靄に狙いを定めて、わざとそれにぶつかるように落下を続ける。
『最後になんて言えば良かったんだろう』
顔から突っ込んだ靄が形を崩し縦に裂かれて、
『ごめんなさい、後は頼んだ、ありがとう、』
声が伝わってくる。
(どういうこと? まさか)
『動かないで、でよかったのかな』
「……いいわけない」
間違いない、この靄はハルカの思考だ。落下しながらハルカが考えていたこと、言語化までされていたハルカの頭の中だ。触れた私がそれを読み取れることはいい、ではそれが空に滞留しているのは何を意味する? そもそも何故思考が溶け出したように空に残っている? 推測が気味の悪い答えを突き付けようとしてくる。悪い予感とやらが勢いよく膨らみ始める。
『またどこかで目を覚ますのかな』
一つの靄を腕を伸ばして掴もうとする。手触りの代わりに声になった言葉が溶け込んでくる。
『でも、もう……いいかな』
また一つ靄に触れて、掻き分けられた靄が空に留まろうと上に逃げていく。それはだめ。絶対だめだ。なるべく全ての靄に触れて、しかし可能な限り速くハルカに追い付かなければ。
更に一つ靄を裂く。硬いもの、人間の手に掻き分けられた煙はどんな表情で形を戻して空気に溶けていくのだろう。
「ダメだって……」
靄から読み取れるハルカの言葉は少しずつ少なくなっていった。靄は短く、小さくなっていった。それから、その言葉は“諦め”に向かっていた。何か漠然とした手応えが、感覚が、意思が、彼女の思考を海の底に沈めていくようだった。言葉は一方通行、今私が何をどうやっても私の声はハルカに届かない。
『 』
もう少し、もう少しで追い付けるから。だから――
「お願い、」
忘れないで。
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