07_全天球は重力少年さえも取り篭める

――水平に置かれた方位磁針は健気に信じるものを示し続けていた。だが無邪気な指先が円盤装置を摘まんで手首を捻るようにして垂直に傾ける。針先は真横に傾いた視界でまだ懸命にそれを示している。しかしそこから更に90度軸を変えて回転させると、円盤は遂に信じていたものに背を向けて、いくら針を回転させてもそれが見えなくなってしまった。針先は再びそれを示し見ようとするだろうか。自らを縛る身体を、破壊してまで。



 比較的大きな浮島を見つけた私たちはすぐに緊急着陸した。この島は一風変わった様子で、砂の地面に石材が四角い区画の跡を残している。古い建物の遺跡なのだろうか。背の低い『L』字型の壁に二人と一台で身を寄せてじっとその瞬間に備える。……備えていた。


「来ない」


「でもまだ音が……」


 石壁越しの視界から鎧を着た屈強な戦士たちも迷彩服を着た歴戦の歩兵たちも向かってはこないが、重く低く唸る音、恐ろしい断絶の前触れは鳴り続けている。……鳴り続けて、少し時間が経っていた。


「なんだか音も遠退いてない?」


「そんなことない、耳が疲れたんじゃ」


 その微妙な時間が絶妙に短くて長い。ナツは先に時間切れに……どういう仕組みか冷静になったようだが、やかん一杯に詰まった私の緊張感は加熱されたままだ、間もなく沸騰することになるのも知っているはずだ。


「今までにないパターンかもしれない」


 ナツが妙に落ち着き始めたので彼女に密着していた私の心拍数も元に戻ろうとしている。今までにないパターンって、すると一体何が……


「あ、待って」


 立ち上がったナツはL字瓦礫と自転車と私を置いて小さな円盤島の端まで歩いて行く。空と浮遊物の境界に着いたらすぐに地面に膝をついて両手をついて、重心は後方に、威嚇する猫のような姿勢になって斜め下の空を覗き込む。


「音の方向はこっちだよね」


「うん、私もそう聞こえる」


 指先が触った砂粒がさらさらと大穴のような空に逃げていく。石の敷かれた上に砂が厚く積もっていたのか。空と島の境界線では千切られた地断面が露出していてそれが分かった。


「ハルカ、何か見える?」


 底の見えない虚空を漂う浮遊物たちに焦点を合わせていくが、空の“歪み”は見つけられない。――と思ったら、


「あれ……」


「どれ!? ……え?」


 違う、断絶じゃない。不意に奇妙な迫力が襲ってくる。なんだっけこれ、地図の、同じ高さを示す線。山の周りがぐにゃぐにゃになっているあれ。そうだ等高線、もしくは天気予報の等圧線。それが下から中心を思いっきり持ち上げられるようにして“こっちへ迫ってくる”。空が――突き破られる?


「っわ」


 思わず立ち上がった。走るため。逃げるため。声を上げたナツも同じ、そう見えた、空がそう歪んだ。


「自転車!」


「了解!」


 駆け出して数歩、恐らくナツも既に軌道予測結果を弾き出していた。私たちが向こうに見えている自転車に辿り着く前に猛スピードの等高線先端がこの島の高さに到達する。掠める? 直撃する? 私たちは無事でいられる?


「……のっ」


 視界の横でナツが身体を回転させるのが見えた。1ステップ遅れて私も振り向く。そうかせめて正面から受け入れ――


「な……」


「おぉ……」


 巨大な何かが通過していく。島の端を掠めてそのまま上に。それはほぼ透明で、空が屈折して朧げな輪郭だけが……最初に浮かべた選択肢が選ばれたのは偶然?


「く」


「く?」


「クジラ……」


「へ?」


 ナツが突然発した言葉は鮮烈に私の思考を繋げた。島に直撃しなかったのではない、あれが“衝突を避けた”のだ。レモンの両端を掴んで伸ばしたような胴体に大きな二枚のヒレが対称に付いているようにも見える。生き物の定義を纏う姿形に確かに見える。海に潜って真横で見たことなんてないけれど、きっと最大級のクジラスケールの何かは空を駆け上るようにそのまま上昇していく。


「シロ……ナガス……クジラ……でも尾びれが……無い……」


 開いた口が塞がらないナツ様は不思議な呪文を唱えて思考を整理している。私は少しでも空と、透明なクジラのような影の全体を見ようと島の反対端へ駆け出した。


(上って、どこへ?)


 それが生き物であると仮定した途端に思い浮かべてしまったのだ。透明クジラは“逃げている”のか、それとも“追いかけている”のか。例えばあの巨体でさえ簡単に消し去る断絶から。例えば実体女子高生である私たちなど気にも留めないほど重要な何かを。



「はぁ……はぁ」


 息が切れたのか忘れていたのか、呼吸を整える間もなく石壁に背中を預けて座り込む。けれど視線は上空へ、透明クジラの飛んで行った方向へ。


「……ってー……ハルカー、待ってー……」


 目を離さないように走ってきたが離れて小さくなっていく透明クジラを捉えるのはいよいよ厳しい。


「追い付い……た」


 でもほぼ真っ直ぐに上へ進んでいるのは変わらない。それならばと予測経路を先になぞる。


「……ん?」


「どこ行った? 何か……見えるの?」


 答えずただ無言で空を指差してしまう。ナツには申し訳ないけれど一瞬視認したものが信じられないから。自分の目が信用できず、すぐに言葉が出てこなかったから。


「ヒト……?」


「え?」


「あの黒い影、ヒトの形をしてる」


「どれ……?」


 浮島と浮遊物群の間を示す。だが本当にそんなことが有り得るのか。そう、例えばあれがヒト型のヒト以外の存在である可能性だって残っている。点のように小さな何かは飛行しているように見えた。ただその軌道は鳥のものでも蝶や蜂のものでもない、停止と、自由方向への落下を繰り返すような不思議な飛行。幾度も空を夢見た人間が得たのは機械の翼や熱気の籠だったはずで、あれはヒトの形のまま空にいる。


「もしかしてあの点? これ伊達メガネなんだけど見えな……あ、今のは忘れて。……ちょっと待った」


「二匹目……」


 あれは流石に見えるとナツが、愕然と。今空を駆け上がっている透明クジラとは別の個体が、進路を読んで先回りしたはずの空域に新たな透明クジラが現れたのだ。でもどこから? いつから? はっきりと捉えられるわけではない。屈折率の違う輪郭、水に沈めたガラス瓶のような質感は浮島の影から突然転がり出たようにしか見えなかった。


「追われてる……?」


 多分ナツの言う通りだ。クジラがヒトを追っている。小さなヒト型の影は浮遊物を縫うように蛇行したり大きな島の裏に一瞬消えたりしてクジラを振り切ろうとしている。凄いスピードで空を飛びながら。


「ハルカ、音が」


「このタイミングで……」


 遠退いたと思った警告音、断絶を知らせるはずの重低音が別の方向から響き始めた。一瞬慌てたナツはしかし冷静に視線を走らせる。


「ハルカ、ハルカはあのクジラとヒト型から目を離さないで。自転車を取ってくる」


「離れるのは危ない」


 私たちは自転車から少し離れてしまっていた。それはいい、ナツと私は離れちゃダメだ。


「大丈夫まだ少し時間がある。走って行って乗って帰ってくれば1分以内さ」


「でも、」


「あれはどっちも見失っちゃいけないと思う。ハルカもそう思うでしょ。特にヒト型の方は遠いし速いし私じゃよく見えないから」


「……分かった」


「すぐ戻る!」


 頷いてしまった。ナツは燃料を出し惜しみしない走りで自転車へと駆ける。……確かに突如現れたターゲットたちは見逃せない。正体について皆目見当のつかない透明なクジラ型の何かと空を舞うヒト型の何か。大丈夫、概念女子高生たちがいた島でもそうだった、断絶の発生には少し時間がかかる。道路の端に停めた自転車に二人で走って戻るだけの時間があった。ナツはきっと断絶を何度か見るうちにそれを確信している。1分なら、


(……?)


 ずっと先にいる透明クジラ、ヒト型を近くで追いかけているクジラが輪郭を崩した。……違う、真っ二つになった? それも違う、何か淡い球体のようなものと脱皮した後の皮のような二つに分かれて――


「あ」


 ヒト型も二つに分かれたように見えた。スピードを緩めてクジラを振り返ったのか、その瞬間に黒っぽい何かがヒト型から抜け出るように離れて、……鳥? ヒト型の方は……落ちていく?


「まずい」


 その周囲の島が次々と二つに分断されていく。無数に空に浮かぶ物まで? 瓦礫の島だけ? ともかくそれが遠い方からこちらへ向かってくるのが分かった。驚異的な速度で不可視のまま、音速を優に超えて空を伝わるように。認識理解把握が必死にその速度を捕捉しようとしている。時間を止めようとしている。ナツは? まだ自転車に触れたところ、ここから一番遠いところ、あの衝撃波のような何かに気付くのは無理だ、気付いたとして走って戻るのは――


「ナツ!!」


 私の悲鳴が聞こえたナツは私の顔色を見て続く言葉を読み取ろうとしている。ダメだ間に合わない。どうして了承してしまったんだろう、優先するべきは二人が離れないこと、何よりも優先してと、そう誓ったばかりだったのに。


「動かないで!」


 けれど私は大声で叫んだ。こちらに駆け出したナツは急ブレーキ、何かを言いかけて硬直した。足を止めてくれた。直後“私のいる側を多めに切り取る”ようにして足元に湾曲した裂け目ができる。音もなく一瞬で強引に。島が、二つに割れたのだ。その片方は浮力を失い落下する。短い瞬間上空を見てそれが分かっていた。そして落下するのは、


「どうして! ハルカ!!」


 私の方。


「    」


 ふわりと、何かが身体を掴んだ気がした。私より重い島の地面が足から離れる。少し先に空の底へと向かう。ナツに、最後になんて伝えよう。気持ちだけが先走って、かっこ悪く開いた口はいつまでも言葉を貰えない。

 危機に直面した人間の演算速度は中々優秀だ。ともすれば理不尽な衝撃波に追いついたのだから。空に浮かぶ全ての配置物が“およそ半分”に分かれていくように確かに見えた。しかし私とナツの間に亀裂が入るとは限らないと願おうとした。そしてすぐに否定した。これは推測だけれど、衝撃波は丁度天秤の両皿に乗せるように何かを計って分けている。確度の立証間に合わぬまま言うならきっと役割や価値がそれだ。ヒト型は鳥と人間に分けられたように見えた。身体の真ん中から二つに分かれるようなことはしなかった。すると、ナツと私と自転車の“三つ”を前にした衝撃波はどう振る舞うか。島の質量は融通が利く。空飛ぶ自転車を半分にはできない。それならナツと自転車と島の一部が片方で、私と島の大部分がもう片方。きっと自転車と島、ナツと私と僅かな足場という具合には分けないのだろう。ただの直感かもしれなかった。それとも何かを思い出しかけたのか、私には天秤が計っている重さが何であるのか分かったような気がしたのだ。少しも嬉しくないことに推測は正解だった。


 いいえ、これで良かったのかも。


「――――」


 ナツが浮島から身を乗り出して何かを叫んでいる。危ないよ、戻って。ナツと自転車が残ったから探索は続けられる。どうか私の代わりに新しい誰かを見つけて。

 私は空に仰向けになって、膨張していくような縮小していくような不思議な光景を見ながら、落下していく。

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