02_叙情的に解かれる距離の正体の一つ

――駅舎のような建物は途中で途切れていた。空に、無数のモノが浮かんでいた。



「ゆっくりでいいよ、足元がふらついたり……するかもしれないから」


 ナツと名乗った女の子に手を取ってもらいベンチから立ち上がって、そっと近くの質感から確かめていく。重力はちゃんと“下方向”に機能しているし、呼吸ができないなんてこともない。空気はほんの少し薄いのかもしれないけれど、ひんやり澄んだ層がちゃんと満ちている。それなのに、


「空……だよね」


「多分ね。あ、多分空であるよ」


 不思議な言い回しの言い直し。

 ベンチからの短い距離を真っすぐ正面に進んだ私たちは対岸ホームとの間の線路を覗き込んだ。想像通りと言えばよいのか、等間隔に並ぶ枕木と鉄の二本線は“青い空間”に浮かんでいる。敷き詰められたはずの石たちはどこにもない。格子の隙間から見えるのは紛れもない空なのだ。薄青色の奥底をじっと睨んでも地上大陸の輪郭がぼんやりと見えるわけでもなく、代わりに何か……遠近大小点々と……“モノ”が浮かんでいる。ここがあまりにも高すぎる場所なのか、そもそも認識の前提を改めるべきなのか。いつの間にか四つん這いになって一生懸命覗き込んでいたら、落下への恐怖をようやく思い出してきた。スノードームだっけ、あんな感じの球体の真ん中に私たちは……いや、でも――


「試しにさ、」


 しゃがんで足元の空を見ていたナツがふわりと立ち上がる。そのままホームの横線に沿ってパタパタと走って行って、すぐに手に何かを持って戻ってきた。


「これを」


 ゴミ箱の前に置いてあった空き缶だ。随分古いのか、少し色褪せているような。


「こうするとさ」


 狙いを定めて投げられた空き缶は放物線を描いてそのまま青い空へと飲み込まれていった。すぐにピントの合わない点になり、やがてそれも遠くへ消える。一つ分かったのは、焦点の結べる浮遊物たちの中には空き缶よりずっとずっと大きいものがありそうだということ。


「私とハルカの間に、物理法則っていうのかな、その辺りの認識に……差は無いよね?」


「無いと思う。思った通りに落ちていったよ」


「すると何故この駅……駅のような場所が浮かんでいるのか、」


「全く分からない」


「よし、まずは一つ確認できた。……できたさね。じゃあこっちに来て!」


(……さね?)


 ナツは私が座っていたのと同じ形のベンチからフラップ付きの肩掛けバッグを拾うと、くるりと反対に向きを変えて、そのままスタスタと歩き出した。二つ結びにした長い髪が残した滑らかな軌跡を追う。慣性も生きているようだ。駅のホームのような空間からは上に向かって階段が伸びていて、通路を通って反対側のホームや駅舎の中を行き来できる。はずだけど……


「まぁ、ここからでも見えるよね」


 駅舎は大きく抉れたように“欠損”していた。それから、気のせいだろうか、何か……。自分の首元から伸びる赤、半袖の白にアクセントの紺、いくらでも広がる空の薄い青。これらの色味は鮮明なのに、そう、さっきの空き缶も駅舎も、色が――


「ナツ、私の目がおかしいのかもしれないけれど、ナツは建物の色に違和感はない?」


 思い切って聞いてみよう。トンネルのように覆いの付いた階段を先に上り始めていたナツは、足を止めるとこちらを振り返った。


「さっきナツが持ってきた空き缶の色も、」


「色が物足りなく見えているのかい? それなら私も同じだよ。空はこんなに青いのにね」


 そう……いくつかのものが色褪せたように。よかった、見え方はナツも私と同じのようだ。

 階段一段分だけホームから高さを得た。それでも線路とほぼ平行に送った私の視線は、ホーム左右の壁が輪郭を作った青い虚空にどこまでも伸びていく。途中いくつか黒っぽいものを止まり木に、しかしやはり空に消える。


「さあ階段を」


 観念して幅の狭い角度の付いた階段を上がる。顔の前で小さく揺れるナツのバッグにはちゃんと深緑の色が付いていた。フラップボタンの銀色円に溶けた景色もくるりと回る。階段を上がりきってコンクリートで包まれた通路の途中で並んだ小さな四角い窓を覗いた。そこからはやっぱり小さな四角い空が見えて、反対側の窓も念のため覗いて、諦めたように確認した。ここは空の上で島のように孤立しているのだ。駅舎の中に入ろうとした私はその手前で一度立ち止まる。


「何だか……物悲しい景色」


 光景が足を止めさせた。


「物悲しい、か」


 私から零れた言葉を拾うナツ。


「もうちょっと聴かせてほしいな。叙情的な、って言うんだっけ。感情の方、景色の方じゃなくて」


「うん……?」


 そう言われたならやってみようか。言葉の前段にそっと意識を集中させて、けれど無意識の向こうを目指して。不思議なことに私は自分がその“辿り方”に慣れているような、そんな気がした。

 これは“廃墟”と、あるいはそのイメージと対面した時に生じる感情なのだと思う。都会のそれに限定されてしまうのかもしれない、「本来」と付けるのか「かつて」と付けるのか難しいところだが、駅舎の中は行き交う人々で溢れているはずで、目的と時刻と個々の物語とが忙しなく入り混じっている/いたはず。その前提が、思い描く姿があった上で、それとかけ離れた/変わり果てた姿を“現在”から観ている。時間の隔たり、事象の隔たり、温度の、熱量の、エネルギーの隔たり。それら不在の感覚が黙したまま滞留しているのが見えるかのような感覚。ただでさえピントの合わない視界がポラロイドカメラの解像度で視界を丸く切り取るようにして、想像の虚空を掴もうと手応えを求めている。――そう、物悲しさの正体とは、


「……喋り過ぎた?」


「いや……えっと、分かる気がする。ちょっと難しいんだけど分かる気がするんだ。でも……」


「でも……?」


 ナツはやっと言葉を取り出した。


「ハルカ、あなた何者?」


「……さあ? ……む。……あれ?」


 その言葉は一つの“現在”に照明を当てる。


「え?」


 確かに言葉はとめどなく出てきたけれど、記憶が出てこない。今私は『不確かな郷愁』のことを思い浮かべた上で意図的に口に出さなかった。欠損して色褪せたような駅舎の跡が、ホームや改札らしき影に比べて少し都会的で“ズレ”があるようなことも感じ取れている。言語と時代感覚の基軸はよしとして、私自身の“少し前”が――


「なるほどね……」


 ふと振り返ると階段が途切れていた、そんな顔をして私が説明したことを、ナツは一度受け止めた。それから少し考え込むようにして口元に手を当てて視線を落とすと、そのままゆっくり駅舎の中へと歩き出した。


「思い出したところ、思い出せないところ、どこか曖昧なところ」


 覚束ない脚でついていく。ナツは後ろ姿のまま肩掛け鞄を体の前に回してフラップを開けて、両手を入れた。


「三つとも、私にもあるんだ。だから、」


 取り出した左右の手に一つずつ、黒と銀の小型の道具。振り返らぬまま引き金に指をかけるようにそれらを握ったナツは


「やっぱり確認しておこうと思う」


 素早く身体を翻した。――二丁拳銃。腰を落とした構えは中々様になっている。



 大気が流動する音が聞こえたような気がした。遠くで、低く唸るように。風は静かなのに。



「……」


「びっくり……してないね」


「まだ寝ぼけているのかも」


 本音を言うと、それが本当に二丁の拳銃であって最悪の分岐を撃ってきたのなら、それでも受け入れたのだろう。その意味では本当にまだ私の意識は覚め切れていないのかな。


「そう……ですか」


 ナツは「やり過ぎたごめんね」と一言謝った。……追加で二回謝ってくれた。


「ということで本題だ。ハルカ、これが何かわかる?」


 射程も距離も忘れて私に近付いたナツは、拳銃のフリをさせていた銀色の端末を手のひらの上でくるりと持ち直す。本来の持ち方で私にそれを見せてくれた。『0』から『9』までの数字と『*』や『#』の記号ボタンたち、小さな四角い液晶画面が付いている。数は控えめに可愛いストラップを付けたくなる穴と、摘まんで伸ばせそうなアンテナらしき部分。手に取れば、まあそれらしき重さだ。


「携帯電話……ケータイ?」


「正解。じゃあ、こっちは?」


 黒い方の端末は四角い板のような形だ。元々黒い色だからなのか気付かなかったけれど、こちらは空き缶や駅舎と同じでどこか色褪せたように見える。多分下部にあたる方に小さな丸いボタンが一つだけ付いている。


「スマートフォン……?」


「スイッチを入れてみて」


「うん?」


 小さな丸ボタンにそっと触ったけれど反応が無い。それならばと縁にあるはずの小さなボタンを探して、見つけて、押してみる。もう一度、今度は長めに。……鳴りも光りもしない。ナツは私が黒い端末を起こそうとするのをじっと眺めていて、


「そっか、そんな名前なんだね、これ」


 ふと予期せぬ言葉を零した。


「私、これが何なのか知らないんだ」


 答え合わせを待っていたのに。意味を理解するのを拒むように小さな混乱が起こる。既知の情報からその理由を一つ導くとすれば、


「多分、ハルカは私よりも未来からここに来たんだね」


 そう、最初に浮かんだのはその可能性なのだ。


「……仮にそうだとして、私がナツから遠ざかる理由にはならない。ただの一歩もね」


 ナツは溜め息のような「ありがとう」をくれた。


「もう今のでボロボロだったから普通に喋るけど、実は適当な方言を使って私の出身地を誤魔化そうともしたんだよ。何回か不自然に言い直したでしょ?」


「あー……」


 そういうことだったのか。


「駅にあるものを呼ぶときも、先の時代に無いかもしれない気がしたものは気を付けて示した……示せてた? ともかく今の私にも覚えていることと覚えていないことがあるんだ。その上で、やっと見つけた自分以外の実体女子高生に見えるハルカのことを探ろうとしてた」


「ナツにも覚えていないことがあるのね。あとその……実体女子高生って?」


「こればっかりは見てもらったほうが早いから後でね。対義語は概念女子高生さ」


 実体と概念? ナツは銀色の、携帯電話の方を操作し始めた。


「え、そっちは生きてるの……?」


 液晶画面にハイライトされた上下逆さまの文字列はハイライトを『Eメール』から『新規作成』へ、そのまま白い小さな画面にナツの指先が文字を並べ始めた。小さなスクリーンは逆位置から正位置へ。


『渡良瀬 夏』


「これが私の名前。ハルカ、ケータイ使える?」


「……もちろん!」


 私は銀色のデバイスを受け取ると「テンキー」を操って、その下に自分の名前を記して見せた。

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