03_航るママチャリ波動理論

――波動スクーターはひとつの理論を超越してみせた。故に、ペダルを踏んでクランクが回る自転車が「漕がれる」音を出していたことに私は気付けたのだろう。



 ぴったりヒト一人分の幅を開けて並び立つ複数の門番たち。二枚の小さな板を閉じて『通るな』と私に言っているかのようだ。その中から一人を選んで、少し申し訳ない気持ちで突破する。思えば手を触れたことなどなかった気がする腰の高さの黒い板はすんなりと動いた。単なる思い付きだけれど、仮に色褪せたものは時間が止まっているのだとして。それらは力を込めれば動かすことができるのだろうか。……さっきの黒いスマートフォンも大丈夫だったから心配しなくてもいいのかな。

 眩しさを感じて手でサンバイザーを作った。頭上に無限遠ベタ塗りの青空が覗いて、空を覆っていたものが無くなったことに気付く。ホームの一角もチューブのような階段も通路もこの駅舎の半分も、全て影に守られていたのだ。振り返れば数歩先の境界線の向こうで影に塗られたそれらがまだ残っている。先を行くナツは既に光の中、制服から伸びた手足の肌色が一段明るい色に光っていた。ふと思い付いたように太陽を探してみたが、どこにもその姿は見当たらない。そういえば漂う雲たちの姿も。建物と同じように主の分らぬ開放的な光に照らされて、私たちは傷跡のような断面に近付いた。


「近くで見ると迫力があるね」


「そうだねー。巨大怪獣でも現れて削り取ったのかな」


「怪獣ときましたか」


 でも本当に、何か超越的な存在が建物を強引に切り取ったのだとしたら。

 改札を出た正面の空間は空に面していた。左右に通路が伸びて分かれているから、元は大きな地図でも置いてある壁面だったのだろう。今では剥き出しの鉄骨やらコンクリートやらが無残に晒されている。重機で取り壊されている途中の建物のような姿だが、傷口はそれよりも幾分綺麗なのかもしれない。映画館のスクリーンのように四角く開けた空にもやはり別の浮遊物たちが見える。ずっと遠くまで、大小疎らに。そのままついでに左右の通路を見ると、どちらの通路も奥で同じように途切れているのが分かった。


(――ということは)


 ここはやっぱり陸の……ではなく空の孤島ということになる。


「ナツ?」


「なんだい?」


 赤いフレームの眼鏡がきらりと反射する。


「ナツはずっとこの駅にいたの?」


「……よくぞ聞いてくれました!」


 私が空や周囲を観察するのを見ていたナツは嬉しそうに言う。「いいえ違います実は」と続く顔だ。


「まさか、空を飛べたり……?」


「ふふ、その通り……だったら良いんだけどね。いやあ苦労したんだよ。ついてきて」


 答えを秘めたナツは右側の通路の方へ軽快に歩き出した。この通路にはまだ部分的に屋根が残っている。

 大きなコンクリートの塊は悠然と空に浮かんでいるのに、人間の、しかもうら若き乙女の重さしかないナツが空に浮かぶなんてことはなかったらしい。だから足元に広がる底の見えない空は彼女にとっても“ある種の恐怖”を生むのだ。「落ちたらそこでおしまい」になるのだろうと。役目を終えたあの空き缶のように、空に飲まれて消え失せてしまうのだろうと。二人とも高所恐怖症じゃないことには感謝しなくては。

 色褪せた点字ブロックに沿って通路を進んでいくと、空に面した分岐を一つ曲がったところで壁際に銀色の自転車が一台ぽつんと停めてあった。いわゆるママチャリの形をしている。ハンドルは一直線じゃないし、変速ギアも無ければ電動式でもなさそうだ。子どもを乗せるシートはついておらず、後ろの簡素な荷台が『座り心地いまいち割引』付きで二人乗りを待っている。けれど何故、駅の中に自転車が置いてあるのだろう。……ふむ?


「この自転車が……何かあるの?」


 例えば驚くような仕掛けや秘密を持っているとか。ナツがとってもニヤニヤしている。


「実はね、やっぱり私は魔法使いで、空が飛べるんだ」


「……ホント?」


 それならそれで素敵なことだ。


「と言えなくもないんだけど……やっぱりちょっと違うかなあ」


 表情を元に戻したナツは自転車のハンドルに手を触れると、「見てて」と言ってそれを押して歩き始めた。抉れた通路の分岐点、つまりは真っ直ぐ空の方向へ。タイヤが回って、連動したペダルが回る音、チェーンが回る音が微かに聞こえる。自転車と地面との間に摩擦は残っている。


(っと)


 慌てて後を追う。ナツはハンドルから片手を放すと、自転車のフレーム部分を持って、倒れないようにバランスを取りながら今度はサドルを持って、


「ちょっと待った、危な「いいからいいから」


 それから後輪に付いた荷台を持って――


「……え?」


 私は自分の目と、それから疑いかけていた常識を遂に疑った。

 自転車の前輪が、透明な地面の上を進んだ。何も無いはずの空間に前輪が浮いて、自転車はその半分を空に投げ出したまま“平行”を維持しているのだ。


「この自転車、空を走れるんだ」


 唖然とする私にナツが得意気な表情で説明を続ける。私に会う前、別の孤島を探索していた彼女は偶然にこの自転車を見つけたという。宙に浮いた白銀のママチャリに手を伸ばすと、自ら使い手を――勇者を選んだ伝説の剣のように、ナツに応えて降りてきたとか。


「勇者じゃなくて魔法使いだった」


「どっちでも頼もしいよ」


 ナツが再び引き寄せた伝説のママチャリを観察する。手を触れてみれば想像通り硬くて冷たい金属とブニブニとした合成ゴムの質感があり、銀色に輝くフレームを見ても色が褪せているようには見えない。……と思ったけれど、


「よく見るとタイヤだけ色褪せてない?」


「言われてみるとそう見える。気付かなかったな」


 スタンドを立ててママチャリ様を自立させるとナツもしゃがんで観察し始めた。駅は浮いている。私たちは空を飛べない。そして“部分的にそうである”自転車も浮いている。


「色がポイントだと思う? ところがあの空き缶は落ちて行ったよ」


「そっか、確かに。ナツの持ってるケータイとスマートフォンも片方が浮いたりしてないものね」


「そうなんだよねえ」


 空に浮かぶものと浮かばないものの違いは何なのだろう。色褪せたように見えるものとそうでないものとがあるのは、これに関係しているのだろうか。


「でもハルカの目の付け所は正解だと思う。もう一つ、概念女子高生を見に行こう」


 何度か耳にしたのにまだ聞き慣れないそれは一体。


「さあ、二人乗りだ」


 肩掛けカバンをカゴに放り込んだナツが銀色のスタンドを蹴り上げる。唸りを上げた伝説のママチャリに颯爽と飛び乗った選ばれし勇者……魔法使いは、私が動く前にこちらを見て……素早く何かをチェックした?


「問題です」


「……はい」


「今、私が自転車に跨る時に何気なくやったことは何でしょう。スタンドを蹴ったとかじゃなくてね」


 何だろう。特に変な動作を入れたようには見えなかったけれど。


「この場合は気付かないほうが自然なのかな。まああれだよ、私たちは女の子で着ているのは制服だね?」


「うん? あー……」


 さっと折りたたむ。向かい風を受けることになる足元に気を使って。


「そうそう」


 荷台となると乗り心地にも割引券がついているくらいだし、横向きの選択肢があっても気を付けることや我慢することは増える。大したことはないけれども。


「いいよ、このまま荷台で」


「ごめんよ。別に誰も見ていないと思うんだけどね。まだハルカ以外に動ける人間とは会っていないし」


「そう……なのね」


 動け“ない”人間がいるのだろうか。


「そもそもそれ、ナツにしか操れないんじゃ?」


「いや普通の自転車と同じさ。浮遊感って言うのかな、最初は変な感じがするけど慣れちゃえばハルカでも運転できるよ。時々上下に進まなきゃいけないからちょっとコツが要るだけ」


 なるほど、浮遊感に上下に。……上下? そうだ、それより一つ確認すべきことが残っている。


「私からも問題ね。というより質問かな」


「どうぞ」


「伝説の自転車様は、二人乗りしても重量オーバーで沈んだりしない?」


「……盲点だった」


 隙だらけに答える魔法使いナツ様。


「とりあえず乗ってハルカ。乗ってた感じからすると大丈夫だと思うけど、こればっかりは試すしかないね」


 その通りだ。自転車はまだ駅舎の通路の上に、重力の影響を受けているようにしか見えない姿でナツを乗せて立っている。私は普通の自転車と同じように、でも落ちたら困るので横向きに座るのではなくしっかり跨るようにして荷台に乗り込んだ。ナツが両脚に力を入れて、私の足は地面から離れて自転車に全体重を預ける。


「肩じゃ危ないよ、腰に手を回すんだ」


「妙な言い方を。じゃあ、失礼して」


「ひゃっ」


「あ、ごめん」


「うそうそ、大丈夫だよ。安全運転するけどしっかり掴まっててね」


 二人の共通認識、“落ちたら危ない”から。


「それだけじゃないかもしれないんだ。まあ今は気にしないで」


 ナツは他にも何かを知っているようだ。


「じゃあ行くよ。ほんのちょっとだけ前のタイヤを空に出してみて、大丈夫そうならそのまま進むね」


「分かった」


 ナツの後頭部から少し視線を右にずらして、大口を開けた空を見る。単なる瓦礫のようにも見えるいくつかの浮遊物がすぐ近くと、ずっと遠くに。浮島のように。焦点の合わない青い空間はどこまでも。

 ナツは両足をコンクリートに着けたまま慎重に、ぺたぺたと歩くようにして少しずつ進み始めた。まだ重力の感覚は変わらない、このまま途切れたコンクリートの向こう、空へ飛び出せば落下するようにしか思えない。境界線はどこにあるのだろう。空の一部に触れた瞬間から物理法則が書き換わるのだろうか。もしかして、私たちは徒に落ちていくだけなのではないか。多分ナツも緊張している、巻きつけた私の腕にも力が入って、彼女の背中に密着した私の身体が体温も鼓動も気持ちでさえも感じ取ってしまう。きっとそれはナツにとっても同じ。瞬時に巡り膨らむ不安と期待の風船、どうか私たちを釣り上げて。


「……む」


 行ける、と大魔法使いのナツ様は唱えた。私は息を止めた。目に見えぬ道を走れると錯覚した自転車はそのまま空を走り始める。一瞬、浮遊感が身体を駆け巡ったような感覚。それからしっかりと、空を行く自転車に“乗っている”感覚。自転車が重力を相殺しているのは疑いようがない、その上に重力の影響を受けた私たちが乗せてもらっている。そうやって私たちは――


「と、飛んだ……」


 空を、飛んでいる。浮いていると言えばいいのか。


「行けたね! ちょっと上がるよ」


 上がるって、どこに、どうやって?

 曰く、男勝りな女の子なら小さなころに自転車のハンドルをつかんだままジャンプしたことがあるのだという。実際には前輪が僅かに持ち上がる程度だが、身体と一つになった金属製の乗り物は確かに空へ“跳ね”ようとするのだ。

 そっと足元を見た瞬間、私たちが360度の空に包まれたことをようやく理解した。

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