朽葉色の空
篠岡遼佳
秋の四角形
彼と並んで寝転び、少し肌寒いねといっていたのは春だった。
彼は夜空を指さし、私のまったく知らない星の名を次々に教えてくれた。
ギリシャ神話や中東の言葉を由来とする彼らの中で、ひとつだけ覚えているのは、私の星座、乙女座の一等星の「スピカ」だけ。意味は忘れてしまったが、有名な曲もある。
君の星だね。彼はそう言ってこちらを見て笑った。
私も笑った。繋いだ手からは、ちゃんと彼のぬくもりが伝わってきた。
夜道に、ぽつぽつと街灯が並んでいる。
車も通らないから、車道に出て私は歩いている。チューハイの缶を握りつぶして、近くの自販機のゴミ箱に捨てる。
夏が前触れなく猛威を振るったのと同様に、今年の秋は急に来た。
台風がいくつか過ぎ去り、ふと気付けば、落ち葉の朽ちていく匂いと金木犀の香りが、涼しい風と共にやって来ていた。
右ポケットが無音で振動している。このバイブレーションは通話の着信だ。
しかしポケットから出した私はそれを無視し、表示された名前にも注意を払わないようにした。
――ケンカなんてしてる場合じゃないことはわかってる。
彼はもうすぐ、いまや経済成長真っ最中のシンガポールへ、新しい仕事に旅立ってしまう。
つまり、実は関係はもう精算してあって、恋人同士のケンカですらないのだ。
着いていこうという気持ちはあった。
でも、私も彼も、まだ若者と言える年齢で、将来のことが決まっていたわけではなかった。
私は、平気だと笑ってみた。それが意外と、すんなり上手く笑えたものだから、そのまま続けた。
いってきなよ、君の人生は君のためのものだよ。
私は私の人生を生きるから。
彼はなんとも言えない表情で、私の台詞を聞いた。
そうか、とひとこと言って、その日は別れた。
それから、彼の電話にもメールにもメッセージにも返信していない。
――いま、となりに、ただいて欲しいと思ったのははじめてだった。
だって、恋をして、相手にも好きになってもらえたのは、はじめてだったから。
そのくらい寒くて、冬よりもずっと胸のあたりがぎゅうっと寒くて。
彼に手を引いて、歩いてほしかった。
歩いていてほしかった。
ずっと一緒にいたかった。
出会いがあるなら別れもあると知っていても、まだ私にはその経験が薄すぎて、どうやってこの気持ちを仕舞っていいかわからない。
それとも、こういうことにどんどん慣れていくのが、大人になるということなのだろうか。
それなら、そんなに辛いことばかりなら、慣れていきたくなんてない。
ひとりのほうが、ましじゃないか。
二本目の缶チューハイを飲み干し、またぐしゃりと握りつぶす。
そして、次の曲がり角をどちらへ行こうと悩んだ時。
キキーーッ
背後から自転車のブレーキがきしむ音がした。
そして、いきなり右手をがっしりと掴まれた。
振り返ると、そこには、自転車に乗って息を切らしている彼がいた。
そんなはずは……、だってここ君の家から10kmはあるじゃん、なんで? どうして?
私が口を開こうとした時、彼は言った。
――どこにいっても、忘れないから。
君の幸せを祈るし、大事な思い出になるから。
いつかこう言ったことが嘘になってしまうまで、ずっと覚えてるから。
君はそういう、僕の大切な人なんだから、心配させないで。
――ああ、そうだっけ、このひとも、初めての恋人が私なんだっけ。
私は、冷めている自分を自覚している。
絶対にその言葉は嘘になるだろう。
そして私も、おそらくこんなふうに彼に追いかけられたことを、思い出にする日が来るだろう。
けれど、その日までたくさんのものを抱きしめて、ずっと大切にしておくことは、きっと許されている。恋人同士とはそういうものだと、私は思いたい。
「春の星座を、教えてくれてありがとう」
何度も思い出すよ。春になる時、自分の星座占いを見る時、スピカの曲を聴いた時、あなたに言われたことを。
やがて、私の家の前に着いた。
彼は繋いだ手を、何度も振った。握手するように。
私は笑った。それからちょっと泣けてきた。
自転車、缶チューハイ、秋の夜、金木犀の香り、あなたの手の感触も、
きっと思い出すだろうから。
そうだ、別れって、きっとハサミで切るような終了ではなくて。
陽に絵が焼けていくような、存在は消えず褪せていくような姿の変え方なのだ。
そうか。そうなんだ。
「さよなら」だけで、終わらないものがここにある。
だったら大丈夫。君とのこと、ぜったい大事にするから。
私はそうしてゆっくりと彼から手を解き、笑って、じゃあね、と言い、
アパートの鍵を開け、パタンと玄関を閉めてから、
その場で、しばらく泣いた――――。
朽葉色の空 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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