第3章 白金連続殺人事件 参
結果から言うと骨折り損のくたびれ儲けだった。いくら目撃証言を募ろうと全く出てこなかった。事件現場から帰路につこうとした時だった。
「ピピピピピ…。」
新木の携帯が鳴った。ポケットからそれを取り出し電話にでる。
「お疲れ。・・・。おう、すぐ行く。」
多分5秒も話していなかった。
「どうされました?」
新木の顔を覗き込むように穂積は言った。
「五人目の検視結果が出たそうだ。署に戻るぞ。」
検視結果。それを聞くだけで血の気が引くのがわかった。半年通ったとはいえいまだにあの匂いには慣れない。解剖医という仕事がこの世で一番過酷な仕事だなと本気で考えていた時期があるくらいだ。
「あ・・・はい。」
足取りは先ほどより一層重く、あの匂いをかぐことになるのだと思うと一目散に逃げだしたい気持ちでいっぱいだ。嫌なものを目の前にするととても時間が遅く感じるのはいい加減やめてほしい。解剖室を出た後まで時間が進めばいいのに。
「お楽しみの時間だ。」
新木は無表情で穂積の顔色を窺った。まるで穂積が苦しむ姿を楽しむようにその奥では笑うのが見えた。それを横目に地獄の入り口がもう目の前にあった。覚悟を決めて中へ入った。
「うっ。」
動物の本能が発動するといくら人であってもひどい顔になる。鼻と口を両手で覆って息を止めた。我慢するだけでやっとだった。
「新木主任、お疲れ様です。」
解剖医である東郷が会釈をした。
「検視結果ですが、過去の事件同様死因は大量出血によるショック死です。更に4か所の咬創があり、いずれも唾液などのDNAは検出されませんでした。やはりアンドロイドの仕業かと。」
「犯人に繋がる痕跡はあったか。」
淡々と会話を続ける。その最中穂積は止めていた息が限界に近づいていた。息継ぎをしたその瞬間だった。言葉では言い表せない音を発しながら穂積はそばだったものを床に撒き散らしていた。
「あーあ。穂積君はそんなに嬉しいことがあったのかね。」
そんな皮肉を受け入れられるほどの余裕は残っていなかった。全てを出し切り2,3回えずいた後、朦朧な意識の中答えた。
「ごめんなさい・・・外で休んでます。」
穂積はもう22回目の誕生日を迎えていた。それなのにも関わらず我慢が足りなかった。否、耐えようとするのが間違えだ。なぜ彼らは平気で仕事が続けられるのかが不思議でしょうがなかった。そんなことを考えながら近くにあった自動販売機で水を買った。10分程だろうか、ドアが開きそこには呆れた顔の新木が立っていた。
「東郷君は君の虹を何回片付けたのだろうか、数えたことはあるのかい。」
「申し訳ございません。」
ドアから顔を覗かせた東郷は
「気にしなくていいよ、捜査に集中してね。」
仏というのはこうあるべきだ、と穂積は感じた。すると新木はペットボトル片手に項垂れている穂積に対し、
「まだ始末書のお楽しみが残ってんだろ、行くぞ。」
現実は厳しい。自分がどんな状況に置かれていてもやることはやらなくてはならない。しかも時間は決まっている。そんなことはわかっている。ただもう5分だけ。そんな弱音を頭の中でかき消し、穂積は立ち上がった。
「いやー、疲れたー。」
デスクに向かって早2時間。やっと始末書の作成が終了した穂積は安どの息を吐いた。
「主任、確認お願いします。」
新木がこちらに振り返る。
「おう、お疲れ様。もう10時過ぎてんのかー。穂積、もう帰っていいぞ。」
期待もしていなかった言葉に穂積はあっけを取られた。
「え?でもまだ捜査の途中報告が終わっていませんよ?」
「いいや、あとは俺がやっておくから早く帰りなさい。君の彼女も心配するだろう?」
間髪入れずに言った。
「あまり大きな声で言わないでください!」
自分の口に指を当てて小さな声で放った。その後、穂積は態勢を整え声のトーンを戻して言った。
「分かりました。ありがとうございます。お先、失礼します。」
「おう、お疲れ。」
愛想の無い返事が返ってきた。帰れると決まるとそんなことどうでもよかった。穂積は支度を早々に済ませ、署を後にした。
10月の夜は冷え込む。先日まで30度を超えていたのは嘘だったかのように思えた。ハードな1日を過ごした穂積にとっては心地の良い風だった。ネクタイを緩めイヤホンから流れるロックを口ずさみながら歩いていた。穂積が借りているアパートはそれほど遠くない。警察学校を卒業と同時に所属する茅間署の近くにわざわざ引っ越した。もともと実家暮らしだった穂積にとって親からの解放が何よりの目的だ。そんなウキウキの帰り道。もうそろそろアパートに辿り着く所、何かが聞こえた。イヤホンをしている穂積でも分かるくらい耳につく、何かの金切り声だった。それは住宅街に佇むマンションの駐車場からだった。屋根がついていて街灯が思うように届かないその暗闇の先からそれは感じた。イヤホンをゆっくり外すとイヤーピースから漏れる音でさえ感じる程静かだった。立ち止まって暗闇の方へ目を凝らす。すると一瞬、か細い一対の赤い光が暗闇を横切った。それを確かめると穂積はゆっくりとその方へと歩み寄った。次第に血生臭い匂いが鼻を衝いた。
「こんばんわー。」
まるで誰かに問いかけるよう穂積は言った。しかし応答はない。
「あのー、どうかされましたか?」
するとまたさっきの一対の光が表れた。
「あ、こんばんわ。いやーすみません、ちょっとゴミが散らかっちゃって。」
想像とは裏腹に気さくな声が返ってきた。
「え?大丈夫ですか?」
とっさに答えた。
「ええ、大丈夫です。これから掃除するところなので。」
明らかに怪しい言い訳が返ってきた。さっきの金切り声が仮にこの男性のモノであったとしてもこの匂いはおかしい。知る限りゴミ捨て場はマンションの裏にあるはずだ。怪しまれぬようにカマをかけることにした。
「あ、そうだったんですね。夜も遅いんでお手伝いしますよ。」
「いやいや、人様にご迷惑かけるほどのことじゃございませんから。」
だめだ、このままじゃ埒が明かない。こうなったら。
「私、こういう者でして。」
胸ポケットから警察手帳を開いて見せた、その時。その男は駆けだした。それに反応した穂積は瞬時に男の腕を掴んだ。オイルのようなものが腕に付着しており、ヌルっとはしたもののがっしりとこの手で掴むことができた。その手の先には血にまみれた雑巾のようなものが握られていた。次の瞬間にはさんざん訓練をしてきた逮捕術で男を倒し動きを封じることができた。実戦で使うのはこれで二回目だ。そのもみ合いでいつしか街灯の照らされた場所へ移動していた。握られていた異様なものはよく見ると動物だった。片手に収まるそれは力なくだらんと身を任せる形で血にまみれていた。
「これは一体なんだ!」
男の上で穂積は言った。男はまた口を噤んだ。すかさず片手で携帯電話を取り出し新木に電話をした。数秒と経たずに声が聞こえた。
「おう、どうした。差し入れでも買ってきてくれたのかい。」
最後まで聞かずに状況を報告した。
「路上にて怪しい男確保。動物の死体らしきものを持っていました。至急応援願います。」
「了解。」
トーンが変わった。詳しい場所を伝えると穂積は電話を切り男に手錠をかけた。
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