第197話、わたくし、想い人の人魚姫の、そのまた想い人の王子様の、更にそのまた想い人に、なってしまいましたの。
……人魚の下半身が、鱗でびっちりと覆われた魚体だからこそ──
そう言われてみれば、王子の両手は、先程からずっと、人魚姫の下半身を、ねっとりじっとりとなで回し続けていたりして……。
──ま、まさか、こいつ、本当に⁉
「……それを何だと? 将来僕のところに人魚姫を寄越す場合は、せっかくの尾びれを取っ払って、人間の下半身にしてしまうなんて、舐めているのか、てめえは⁉」
もはやとても王侯貴族とは思えない、ドスが利いた声音で脅してくる、目の前のプリンス。
その瞬間、視界のすべてが、赤黒く塗りつぶされてしまった。
──ただし、『恐れ』や『絶望』のためなんかではない。
むしろ文字通りに、『怒り』に目がくらんでしまったのだ。
「……ふざけているのは、どっちじゃ?」
あたかも、地の底を這うかのような、重く昏い声音。
それは間違いなく、己の唇から放たれたものであった。
「──なっ、貴様⁉」
驚愕に目を見張る、王子様。
なぜなら私が、彼の目の前の
「……私が、何度、人魚姫の──アグネスの死に様を、予知
そして、下半身を海面下に残したままで、私の上半身はするすると、上空へと上昇していく。
「『
そのように怒鳴りつけながらも、すでに私の上半身は、王子のいる岩場よりも、十メートル以上の高度に達していた。
しかも海面下にはなお、十数メートル以上の、白い鱗にびっしり覆われた『蛇体』が、とぐろを巻いていたのだ。
もはや先ほどの憤りもすっかり鳴りを潜めて、ただただ目を丸くして、こちらを仰ぎ見るばかりの王子様。
「……貴様は……一体」
「──私は、セイレーン。人魚とは似て非なる、もう一つの深海棲種」
いつしかその身にまとってした漆黒のローブは、顔をほとんど隠していたフードともども、どこぞに消え去っていた。
月の雫のごとき銀白色の髪の毛に縁取られた小顔の中で煌めいている、人にはあらざる縦虹彩の
──まさしく、蛇や邪竜の類い、そのままに。
「……セイレーン、もう一つの深海棲種」
今やただ呆然と、私の台詞を繰り返すばかりの王子様。
そして、すでに常軌を逸してしまったのか、岩場から水面へと一歩踏み出すや、そのまままったく予想外の行動へと走りだす。
「──ひぇっ⁉」
その時、真珠のごとき小ぶりの唇から漏れいずる、可愛らしい悲鳴。
何とそれは、もはや海蛇の大怪獣と化していた、私によるものであったのだ。
なぜなら、海面を泳いできた王子が、私の蛇体に抱きついて、いきなり頬ずりを始めたのだから。
「──ちょっと、貴様、何をしているのじゃ⁉」
「これだ! これぞ僕の求めていた、理想の肌触りそのものだ!」
「……お、王子様、どういうことですか? 王子様は、この私のことを、愛していたのではなかったのですか⁉」
「すまない、人魚姫。僕が本当に欲していたのは、人魚ではなく、彼女──セイレーンだったのだよ!」
「……そ、そんな? ──ちょっと、これは一体、どういうことなのですか⁉ 魔女様!」
「えっ、私か⁉」
「そうですよ! せっかく私と王子様がいい感じでいたところに、いきなり乗り込んできて、自分の蛇体を王子様に、これ見よがしにアピールするなんて!」
「い、いや、私はあくまでも、おまえを不幸にしないようにと思って──」
「──だったら、名案があるよ!」
そのようにいきなり口を挟んできたのは、いまだスリスリと私の下半身に頬ずりし続ける、『アホ王子』その人であった。
「貴様は、黙っておれ! ──つうか、いつまでも人の身体を、スリスリするな!」
「いいや、黙らないし、スリスリもやめないね! だって、このまま君が僕のものになれば、万事解決なんだもん!」
「「はあ?」」
「そもそも、人魚姫を人間にしなければならないのは、なぜなんだい?」
「そ、それは、実は『姫』の称号のある人魚だけが、『生殖機能』を有しているゆえに、たとえ相手が人間であろうと、次代の人魚を生ませないと、人魚族自体が滅亡してしまうからじゃ」
「あなたのようなセイレーンのほうは、どうなの? かなり幼い外見とはいえ、一応は女性なんだろう?」
「このエロ王子、何も着けていない人の上半身を、じろじろ見つめるんじゃない! ──まあ、私のようなセイレーン族も、『姫』以外の人魚同様に生殖機能を持たぬが、『姫』を含めて妊娠することができなかった人魚が泡となって消えるのに対して、セイレーンのみは事実上不老不死そのままに、一定年数ごとに自己増殖するわけなんじゃがな」
「──だったら、まさしく理想的じゃん。セイレーンである君だったら、別に王子である僕に嫁ぐために人間の身体になる必要も無く、妊娠しなくても海の泡として消え去ることだって無いってことでしょう?」
「──いや、そもそも私は、貴様なぞに嫁ぐつもりは無いわ!」
「あれ? だったら、人魚姫の希望通りにさせるつもり? どうやっても失敗して、海の泡と消え去ることを、予知能力で知っていて?」
「──うぐっ」
「と言うわけで、
──何が、『スリスリ』じゃ! そんなおとぎ話のハッピーエンドがあって堪るか!
……と、胸中で全力で抗議する私であったが、確かにこの場を円満に収めるには、王子の言う通りにする他は無く、私自身苦渋の選択を選ばざるを得なかったのだ。
その一部始終を心底呆気にとられた表情で見ていた、人魚姫アグネスの視線が、殊更に痛かったのは、言うまでも無いことであろう。
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