第6話 市場へ
村での話を終えたあと、再び奇妙な赤黒い裂け目を通って場所を移動したエーレンは、玩具が入った小さな袋を手に、地面を見つめながらトラゲディの後ろに黙々と続く。
彼から聞いた犯人の詳細は、奇天烈なものであった。
人間家畜の種を問わず食い荒らしたものと頭部を持ち去ったもの。そんな恐ろしいことを出来るものがいるのか、と反論したかったが、エーレンはあの日その惨状をこの目で見ていた。ならばそんな嘘のような話も信じる他ない。
更にトラゲディはあの後こう続けた。
『あと、確定事項も伝えておこう。その犯人は絶対人間じゃない。人間に見えたとしても別の何かだ』
ある程度予想していたこととはいえ、それを聞いて頭がくらくらするような感覚がエーレンを襲った。
エーレンはなんの技術もないただの人間である。戦いの訓練なんて積んだこともなく日々農作業に勤しんでいただけのただの農民だ。
そもそもの基礎体力もたかが知れているし、仮に相応にあったとしても犯人を捕縛する為の技術はない。だから今後の鍛錬をこなせば問題ない、大丈夫というトラゲディの言葉を信じる他ないが、そこについてはエーレン自身も同意だ。
相手が訳の分からない存在だと予想した上で犯人を捕まえると宣言した。このくらいで弱気になってはどうする――エーレンは心の中で自らを鼓舞し顔を上げて、何の気なしに周りに目を向ける。
前述の通り謎の裂け目を通って移動し、ひたすら荒れた道を歩いていたが、どうやらここは屋敷周辺の街とは大きく違うらしい。
屋敷があった都市は相応に発展しており、道も整っていた。しかしこの道はさほど手入れもされていないのだろう。人通りは多いが道は荒れており、石がいくつも転がっている。
西の方には鬱蒼と茂る暗い森林があり、近くの村の者であろう人々が家畜の豚を連れてきているのが見えた。何頭もの豚が森の中を歩き、地面に落ちているドングリを食している様は、エーレンには見慣れたもののはずなのに、どこか懐かしい光景であった。
冬になれば雪が多く降り積もるこの国では、冬季の食料調達は非常に困難だ。そのため厳しい冬に備えた保存用の肉のために、秋になったばかりのこの時期から農民達は必死だ。今のうちから可能な限り豚を肥えさせ、冬本番前に解体し処理をする。
解体した豚は燻製やソーセージにするのがお決まりだ。エーレンも、カイやゲルダとともにそれらを何度も行ってきた。本来ならば今年も越冬のために必死に働いていた筈で、その様子を見ながら、場所が多少変われどどこも同じなのだなとぼんやりと考えた。
「エーレン達もこの時期から大変だったんだよね?」
「はい、そうです。食料の準備も薪の用意も沢山しなくてはいけませんでしたからね。あの屋敷では、毎年どうしてるんでしょうか」
「うちでももちろん越冬準備は大変だけど……お手伝いさんが結構頑張ってくれるからエーレン達とはかなり違うと思うよ」
笑みを零すトラゲディに、エーレンは素直に驚く。お手伝いさんに任せているという彼の言葉は、改めてあの屋敷が
衝撃を受けるエーレンの傍らでトラゲディは続ける。
「当たり前だけど僕らにとっても越冬は課題だからね、僕も人任せにしてないでやることはやるよ? 人外ばかりだし、ワープ術で温暖地域に移動するとしても、それで解決する訳じゃないからねぇ。――例えば、僕達はこれから市場に行くのだって、ミーカのためのお肉を買うためだけど、よさげな保存食もあったらいいなあとは思ってるんだよね」
「えっ、あ、市場に行くんですか?」
「あれ、言ってなかったかな? ごめんね」
困ったように眉を下げたトラゲディは改めて説明のために口を開く。
出発前にミーカが肉を欲していたことはエーレンも覚えているし、トラゲディは狩ってくると言っていた気がする。だから森にでも行くつもりと思っていたのだが、しかし、近くの市場町の存在を思い出してそちらへ足を向けることにしたそうだ。
「ミーカ用に適当な肉と干し肉と……あとちょっとした日用品があれば買っていこうかなあって。もちろん、エーレンにも好きなの買ってあげるからなにか考えておきなよ」
「あ、ありがとうございます……」
少し躊躇しながら返事をして、エーレンは欲しいものを考える。現状、特に物不足で困っていることは無いし、このままの生活を続けられるならば、衣食住も全て満ち足りることになる。
考えても思いつかないならば、実際に市場に並ぶものを見ながら考えてみよう。そう決めて足を進めた。
暫く歩き、石でできた柱の間を通った先の様々な小屋やテントが並び立つ市場に辿り着く。老若男女様々に市を行き交い、客を呼び込む店主の声や、品物を吟味する利用者の声、人々が世間話をする声などが溢れて活気立っていた。
予想外の賑やかさに驚愕したエーレンは、熱気に押されたように思わずトラゲディの方へと距離を詰めると、彼は嬉しそうに手を取った。はぐれないようにと繋いだ手はごつごつとしているが温かい。
人混みの間を通りながら、肉屋に行こうと呟いたトラゲディと共に歩く。
様々な声や匂いは、どれもエーレンには新鮮だった。引き取られるまでの数ヶ月はずっと重労働を強いられていたためそんな余裕はなかったし、村に居た頃も市場に出かけることは多くなかった。故に、この場を構成する全てがエーレンフリートの気持ちを掻き立てる。そんな感覚にすらなった。
口元を綻ばせて辺りを見回すエーレンに、トラゲディは安堵したように柔らかく笑う。
「少し、元気になったみたいだね。よかった」
村の跡地で目撃したものやその後受けた説明は、決して穏やかなものではなかった。まだまだ純真無垢なエーレンの心が削られていたとしてもおかしくはない。恐らくそれを気にかけていたのだろう。
もしかしたら、狩りではなく市場町に変更した理由は、エーレンを元気づけるためというのもあったかもしれない。勝手な推測だが、もしそのように気を使われていたなら、嬉しいような申し訳ないような、複雑な気持ちだ。
しかしそんな表情は微塵も見せず、エーレンはトラゲディへ礼を述べ笑って見せた。
「いらっしゃいお兄さん。何をお求めで」
「干し肉が欲しいんですけど……あと、そこの、裏で解体してる途中の豚もください」
「はいよ。どのくらいの量で?」
「そうですね、では……」
とある肉屋の店先、トラゲディが主人らしき老齢の男性と話している傍ら、エーレンはじっと手際よく解体されつつある豚を見ていた。まだ解体するには少し早い体格にも見えるが大丈夫なのだろうか、一人で行うのは少々大変じゃないか。そんなことを気にする子供の気持ちなど露知らず、男性は売り渡す分の肉を用意していく。
「はいどうもありがとねお兄さん」
「ありがとうございます」
笑顔で返して2人は肉屋を後にし、引き続き市場を歩く。袋に入れられた肉の塊はずっしりと重いが、それをエーレンは自ら持つと言った。
重くないかと心配するトラゲディに平気だと返し隣を歩きつつ、辺りのそこかしこに目を向ける。
「そんなに珍しい?」
「はい。やっぱり、とても新鮮です。なんだか、歩いてるだけで楽しいです」
「そっかあ、楽しんでもらえたなら僕も嬉しいよ。何か見てみたいところとかある?」
その問いかけに、暫し悩んだエーレンが指をさした先は様々な装飾品を売る店だった。今まであまり見たことがない装飾品に興味が湧いたらしい彼は、そちらに行こうとトラゲディの手を引く。
当然トラゲディもそれに倣うつもりであったが、足を踏み出した直後、目を尖らせて辺りを見回し始める。
「トラゲディさん? ……どうしたんですか?」
「村から感じ取ったものに近い気配がする。絶対、僕から離れないで」
「……っ! は、はい……!」
トラゲディの忠告に身を正して再度手を握り直し、トラゲディが先導する形で目的の店へ歩き始めたその時だった。
浅黒い小さな手が、エーレンの服の裾を引いた。
「あなた、いいものもってるね、ぼくにちょうだい」
振り向いた先にいたのは、見慣れぬ雰囲気の変わった衣服を身に纏う幼い子供だった。
白い布で頭を覆い隠し、ふんわりとした袖がひらひらとはためいている。それだけなら変わった子供で済むが、そうならない理由があった。
声を上げようとしたその時目に入ったのは、片手に握られた抜き身のナイフ。その切っ先が、エーレンの首を狙っていた。
その現状が理解出来ず体を強ばらせたエーレンだったが、そのナイフは体に突き立てられることはなく、首根っこを掴まれ少々乱暴にトラゲディの背後へと回される。
何も無い虚無を、幼い子供が手にするナイフが切り裂き、その細腕をトラゲディが掴む。
「僕の前で、エーレンに手を出せると思うな!」
怒りを込めて叫んだトラゲディが、子供の体を突き刺すように鋭い蹴りを入れた。果たしてどれほどの威力が出たのか、苦痛に顔を歪ませた子供の体は宙に浮き、石が転がる硬い地面の上に投げ出される。
ここまでくれば他の市場を行き交う人々も何かしらの騒ぎに気づいたようで、足を止め、地面に転がる子供や、エーレンを庇うトラゲディに視線を向ける。
「なんだ、何があったんだ」
「泥棒でもされたか? だったら懲らしめないと」
「だとしてもなにか様子が変じゃない?」
周りがざわざわと騒がしくなっていくが、トラゲディはそれらに気を取られることもなく、大きく息を吐いた。続けて様子を確かめるようにエーレンを一瞥し小さく指示を出す。
「エーレン、今すぐ逃げて。敵は二人、狙いはどうやら君みたい。戦いの技術もなにもない君は、逃げるのが一番いい」
「でも、逃げるってどこに……?」
トラゲディの言うことも理解出来るのだろう。敵を捕まえると決心したところで、今のエーレンにはなんの技術もない。見ているだけでも邪魔になる可能性だってある。だからこそ拒絶を飲み込んだか。しかしどこにどう逃げろという疑問があるだろう。ここはただの市場で、隠れられるほどの建物もなければ教会も近くに見当たらない。故の不安げな問いに、トラゲディは新たな指示を出そうとした所で、倒れ込んでいた子供がゆらりと立ち上がった。
ここから何か行動を仕掛けてくるのかと感じ、トラゲディは一旦言いかけていた言葉を飲み込み、一気に警戒体勢へと切り替える。
しかしその子供は漆黒の丸い瞳を数度瞬かせたあと、ふわりと姿を消した。
「えっ!? 消えた……!?」
「おい、あの子供、どこに行った?」
観衆から様々な驚きの声が上がり、周囲がざわつき、エーレンも突然消えた子供の姿を見つけようとあたりを見回した。
だが、トラゲディは気づいていた。子供がいなくなった直後、その場より突然鳥が現れたことを。そしてその鳥から子供と同じ気配かつ『魔力』が感じ取れることを。
その鳥に警戒心を向けながら、いつでもエーレンを守るために策を練るが、しかし策は浮かべど実行には移せない。
トラゲディは一般人に馴染みのない術を使って戦うことを最も得意とする。
既にトラゲディが人間でないことを知るエーレンにならさほど躊躇わず使用できるが、無関係な人間達の前で使うのは気が引ける。騒ぎをこれ以上大きくしたくないという理由もあるが、トラゲディの個人的な事情で、後々の面倒事を極力避けたい気持ちもあった。
悩むトラゲディの気持ちなど露知らず、あの子供が姿を変えたのであろう鳥は、こちらの様子を窺うようにあたりを飛んでいる。
民衆も、喧嘩が終わったかと何事もなかったように去るものもいるが、姿を消した子供にやはり驚きが隠せないのか騒ぎ、トラゲディに行方を聞くものもいる。正直邪魔だが、エーレンに危害を加えようとしている訳でもないただの一般人を、それこそ愛しき者の眼前で斬り捨てることを選択したくなかった。
だがそれはそれとしてやはり民衆は邪魔だ。これでは愛しき者を万全に守ることも逃がすことも、鳥の襲撃に備えることもできない。こんなことならもうひとつの気配がこの場を乱さないか……そんなことすら思ってしまうほどだった。
そんなことを考えた直後――まるでトラゲディの感情に呼応したかのように遠くから甲高い悲鳴が響く。
それはひとつではなかった。いくつも、いくつもの老若男女様々な悲鳴が反響し、人々はその発生源を目にし逃げ惑う。トラゲディ達の周りにいた人達の興味も悲鳴の元へと向けられていく。
何があったのか? それは逃げ惑う人々の恐怖に歪んだ顔つきやバキボキと聞こえる歪な音と、僅かに感じられる腐臭と鉄のにおいから充分に察することができた。
「っ、トラゲディさん、なにが……!?」
「……村で感じた『魔力』はふたつあるってことは言ったよね。その内のひとりがさっきの褐色肌の子供。もうひとりが、どうやらなにか暴れてるらしい」
「えっ」
「大丈夫。今のうちに、君は逃げて。あれは今の君が見るものじゃないからね」
「でも……俺、平気です。確かに俺なにもできないけど、でも、せめて犯人の顔ちゃんと見たいです!」
「気持ちは分かるけど、ごめんね。あとでちゃんとどんな顔だったか教えるから。あと……」
「あと……なんです?」
「あぁ、いや、なんでもない。とにかく君は避難して」
「でも、トラゲディさん顔色が……」
「いいから、早く」
傍らの少年への回答を切り捨てて、トラゲディは手を振り急いで空間に小さな裂け目を作り上げていく。
エーレンが瞳に写した赤黒い裂け目は、今日だけでもう3回ほど目にしている。それでも身じろぎをしてほんの少し後ずさることからしてどうやらまだ慣れていないようだ。その姿すら愛おしく感じてしまうが、今は決してそんな状況ではないのだ。
今だってエーレンを狙う視線も、血のにおいもあるのだから。
「僕のことは心配しなくても大丈夫。今は自分の安全を考えて。早く行って、ここを通れば屋敷だから」
「っ、わかりました、トラゲディさんも、お気をつけて……!」
大きく頷いたエーレンは二つの袋を抱え直し、慌てて赤黒の淵に手をかけるが、それを阻止するように市場にいた多くの鳥達が一斉に彼を狙いをつける。
『にげないで』
そんな声がどこからが聞こえたが、トラゲディは無視を決め込みエーレンの背を押す。裂け目に飲み込まれる際の感覚によってか悲鳴のような声が漏れたが、完全に裂け目が閉じれば全てが消え失せる。
そして虚空となったその場を、鳥の群れが音を立てて通過し、それを嘲笑うかのようにトラゲディは口角を上げた。
「遅いよ。エーレンが欲しいなら、もっと早く行動しないと。まぁ、何をしようとあげるつもりはないけど」
小屋の上にて羽を休める小さな鳥に目を向けると、その鳥は考え込むように首を動かし、音を立てて飛び立った。
彼は何処へ向かうのか。それは、騒ぎにより多くの人が姿を消した市場では一目瞭然だ。
土の上に幾つも出来上がった血溜まりの中心で、何かを貪る化け物がいた。体は人型ではあるが、襟元より露出する頭部は異形であり、トラゲディには鯨やイルカのような海洋生物に見えた。その異形の肩に鳥は足をとめる。
「……ねえそこの海洋生物くん。ここは海じゃないのに、何してるの」
淡々としたトラゲディの声に丸い目がギョロリと動き彼の姿を捉え、次の瞬間その頭がみるみるうちに人の頭へと変化した。
広大な海のような色合いのアシンメトリーの髪が風に靡き、いっそう深さを感じる青の瞳がこちらを向いていた。
その主はただの子供。長いローブをその身に纏う普通の子供に見えたが、しかし先程の異形体といい、今の赤く濡れた口元といい、ただの子供でないことに間違いはなかった。
「何をしとる言うたら、食事やけど……海じゃないなんて見りゃ分かるわ。なあ、クッシ」
「うん」
「やけどなぁアンタは……なんのためにここまでやったと思っとんのや」
「ごめん、バレーナ」
「まぁええよ、直ぐにあの子捕まえられるなんて思とらん」
訛りのある声を響かせて、バレーナと呼ばれた子供は肩に乗る鳥に目を向ける。クッシというのがあの褐色の子供の名だろう。そう推測してトラゲディは瞳に朱を宿らせて静かに言葉を続ける。
「……お前達は、エーレンを捕まえるつもりだったのか」
「せやな。オレは全然あの子のこと好みっちゃうんやけど、ちょっと色々事情があってな」
「そう、だったら、僕が君達に対して怒ってる理由も分かるよね」
眉間に深くシワを刻んで光が消え失せた冷ややかな眼で彼等を睨みつけて、空中に新たなる赤々とした裂け目を生じさせた。縦に現れた二つの大きな歪み。そこから現れたのは大小様々な無数の剣だった。それらが、一斉にバレーナとクッシを狙う。
「覚悟しろ」
殺意を孕んだ重々しい声とともに鋭く手を振り下ろしたと同時に、それらの剣が一斉に彼等を目掛けて急降下し劈く音が響き、土煙が舞い上がるが、彼等を貫いたとは断定できない。
地面に突き刺さった剣を霧散させながら、新たなる裂け目をつくり、茶のマスケットを何本も取り出し、そのうちの一丁を構える。しかし既に土煙の中に彼等の姿はなく、周囲にも気配はない。
――あのクッシっていうやつは気配を消す術に秀でていた……なら、それで隠れてるのかな。……探るか。
念の為目視でも周囲を確認をするが、どこにも姿は見受けらない。あるのは散乱した物品と食べかけの如く放置された人々である。とりあえず子供が隠れられそうな小屋や物陰を目掛けて引鉄を引いた。
一発撃っては銃を捨て、もう一発撃っては捨てを何度も繰り返す。鉛玉が何発も叩き込まれ小屋はバラバラと崩れていくがいくら壊してもあのふたりの姿は見受けられない。
――逃げたのか? そんなまさか……。
そんな考えが脳裏に過ぎったその時だ。突如上空より飛来した殺気が爆発的に膨れ上がり、トラゲディの背筋を震えさせる。
身を翻し目を向けると、空より落下してきたバレーナがローブを靡かせながら襲いかかってきた。
――まずい、ここから更に近接戦なんて、僕には無理だ!
驚愕の声をあげそうになるのを堪えて、なんとか近接戦を回避しようとすぐさま身を躱し、距離を置くために走りだした。
だがバレーナの行動は非常に速い。着地したすぐさま地面を蹴って再びこちらへと襲いかかった彼は異様とも言える速さだった。
あっという間に追いついたバレーナの白い手が、トラゲディを捕まえると、その拍子にバランスを崩したか、音を立てて地に伏してしまう。
「なんや、えらい呆気ないなあ。お得意の裂け目はどうしたんや。まさか、こんな状態やと使えんのか?」
「……んなわけ、ないじゃん」
「じゃあなんや、単なるスタミナ切れか? よーけ剣出して銃だして、ちょっと走って体力切れ? あーアホらし」
彼の言葉に、トラゲディはなにも言えずに押し黙る。
悔しいことではあるがバレーナが言うことは完全に当たりであったのだ。
トラゲディは近接戦が苦手である――というよりも、彼は見た目の割に非常に貧弱であった。
以前トラゲディが伴侶として過ごした多恵の死去よりおよそ五百年。その間の彼はほぼ引きこもり同然であった。
百年単位での引きこもりから突然活動を起こし、愛するものを守ろうと躍起になったところでやれることなどたかが知れている。日常生活ではなんとかなっても、戦闘はどうにもならない。嘗ては剣や銃をこれ以上に出したところで影響はささほどなかったが、なにもせぬうちに様々なものが衰えてしまったのだろう。だからこそトラゲディはエーレンフリートをこの場にいさせたくなかったのだ。
――こんなかっこ悪いところ、エーレンに見られなくてよかった……。
そんなトラゲディの心境など知る由もないバレーナは、伏せられた広い背中の上に腰を下ろし、手を後ろ手に拘束した。直後何かが背中に突き刺さった感覚が生じたが、恐らくナイフでも刺されたのだろう。痛みも何も無く死を恐れる必要もないが、これ以上の体力消耗は避けたいトラゲディは頭を働かせる。
さて、ここからどうするか。エーレンフリートは避難させた以上彼にこれ以上の危害はないが、ふたりに対する怒りは今も尚燃え盛っている。それなのに消耗した己ではどうにもならない。こんなことならきちんと体を鍛えておくべきだったと、遅すぎる後悔が脳を巡り始める。
せめてもの抵抗として、トラゲディは指を動かし、僅かな裂け目からナイフを出現させ、バレーナへと振り下ろす。
しかしそれはどこかから羽ばたいた鳥が人型へと変化し、直前で掴んだ。
「……ずいぶん、よわっちゃったね」
「情けないな、アンタ。まぁ、せっかくだ、少しだけアンタを食ってからまたあの子を探しに行くよ」
「そんなこと、させるか……!」
必死に身を捩るが消耗した体で拘束から逃れることは難しく、どうにもならない。
一瞬、トラゲディの目が彼の視線と重なる。見つめた深い青の中にあったのは単純な食欲。バレーナは今それを糧にし、拘束代わりに体にナイフを突き刺し、頭部を異形に変化させた。
体の一部を食われたところでトラゲディが死ぬことはない。だが、大きな支障となるのは確かだった。
何とかしてこの危機を脱さなければいけない。爆発しそうな焦燥を覚えながら必死になるトラゲディだったが、ふと、ある音を感じて我にかえる。
地面の上を駆ける音が地より伝わってくる。それは蹄の音だ。
教会の者だろうか。そんなことを考える間もなく、トラゲディは騎手が何者かを確信したその直後、放たれた二本の矢がバレーナとクッシの体を貫いた。
「――っ、げほっ」
「なんや、アンタ……!!」
思わず拘束を解いたバレーナに、もう一本の矢が刺さる。体を真正面から貫いた矢は彼等を激痛で苦しませるには充分であった。
その隙にトラゲディは体勢を整え、なんとか立ち上がり、傍らにて静かに足を止めた馬と、その騎手に目を向ける。
「なんだ、随分と情けない姿を晒しているな、トラゲディ」
「……キラ、まさか君に助けてもらえるなんて。……ありがとう」
「別に構わない」
低い声で所感を零した騎手の髪や肌は、異様に白く、嵌め込まれた黒の中で輝く青の双眼が、冷ややかにトラゲディを見下ろした。
貴族然とした長いコートに、白い肌。髪を覆い隠すように巻き付けた長い布。それらをはためかせながら、キラと呼ばれた騎手は、淡々と言葉を返す。
そしてその鋭い瞳を、敵意を向けるバレーナへ向けて、矢を再び放とうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます