第5話 ハルト村へ


 頭がふわふわしてくらくらと目眩がするような感覚がした。時間にして僅か数秒。赤と黒の異様なる空間を漂った後、冷ややかな風が髪や頬を撫でる。

 もう大丈夫だよ。そう声がして、トラゲディの肩口に埋めていた頭を恐る恐る上げ瞼を開いた。

 そこにはかつて暮らしていた村が殆ど変わらない形で存在していた。遊んでいた広場も、たがやした畑も、自分の家族や友人が暮らしていた家屋も一見しただけでは分からないほどにそのままに残っていた。

 その光景に、驚き息を呑む。

 僅か数秒で別天地に移動したことも、それが本当に故郷の村であることも、何もかもがエーレンを驚愕させた。

 言葉を失い唖然としたままにトラゲディから離れ地に足を着ける。


「……本当に、ハルト村……?」

「そうだよ。……そのままでしょう?」

「……うん、そのままだ……そのまま、だ……」


 小さく返してふらふらと足を運び、ひとつの家屋に近づく。あの時は血に塗れ赤く染まっていた扉や壁が、一切の痕跡なく土や木の自然な色を有する。それはこの家だけの事ではなく、どの家も例外はなかった。


「……本当に、綺麗に、してくれたんですね……ありがとうございます」

「どういたしまして」


 にこりと微笑んだトラゲディと共に重い足取りのままに村を歩き、自宅に向かうより前に教会へと向かった。

 こぢんまりとした古びた教会はよく村人で集まってお祈りをした場所だ。エーレンも例外なく頻繁に訪れて礼拝を行っていた。

 古びた扉を押して中に足を踏み入れる。煤が溜まり蜘蛛の巣が張られ汚れてはいるが、それ以外はいつもの教会と同じであった。


「……トラゲディさん、ここも、本当は酷かったんですよね」

「うん。村の司祭さんが無惨に殺されていてね、とても君が見れたものじゃなかった」

「そう、ですよね……」


 地味な祭壇の前にしゃがみこみ手を重ねて静かに祈りを捧げた。村にいる時は習慣化していた祈りも、ここ最近は欠かすことが多く、故に新鮮な気持ちになる。

 トラゲディはそんな様子をじっと見て、教会の外へと足を向ける。

 祈りを済ませたあと外に出たエーレンは、トラゲディに呼ばれるがままに裏にある墓地へ向かうことにした。

 そこには簡素に作られた十字架が幾つも地面に立てられており、周りの土と少し色が異なることからこの辺り一帯を掘り返し遺体を埋めたのだろうと分かる。

 エーレンはそれらを悲しげな面持ちで見つめ、無意識のうちに胸のあたりをぎゅっと掴んだ。

 隣に立ったトラゲディが悲愴げに零す。


「本当は一人一つのちゃんとしたお墓にしたかったんだけど、遺体の損傷も酷くて、どれが誰なのか分からないものも多くてね。それに、ヤーコプさんの家族以外、殆ど名前が分からなかったから……ごめんね、こんな雑になってしまって」

「いえ、それでも、ホッとしました。俺は、何もできなかったから……」

「仕方ないよあれは。だから君は悪くない」


 優しい落ち着いた声が脳に響き、心を静かにさせていく。彼の言うこともそうなのだろう。自分にはあの悍ましい光景を見て正常ではいられなかった。ただ申し訳なさはどうしようもなく燻る。

 だがここで口にしても意味はないし、先程約束も取り付けたのだから、今はあまり気にしないでおこうと言い聞かせ、ただ無心で、暗い瞳で数分程それらを見つめ続けた。


「エーレンが平気なら家の方も見に行こうか」

「……いいですよ」


 覇気のない声で肯定して、トラゲディの手を借りて立ち上がり自分が住んでいた家へと向かう。

 あれほど赤くなっていた外装も、徐に引き開けた扉の向こうも、自分にとって馴染み深い家へと変わっていた。

 トラゲディは外で待っていると言うので、エーレン単独で足を踏み入れれば、教会と同じように煤や埃は溜まっているものの、悍ましいものなど何処にもない自分の記憶と変わらない家があった。

 それまでとはまた違うひどくほっとした気持ちが胸に溢れ、床を軋ませながら家族で食事をしていたテーブルや仕事道具が入った棚を見つめ、床に置かれた幾つかのブランケットに気づくと懐かしさを感じてそれに触れる。

 母はこのような防寒具を沢山拵えてくれて、子供たちのものには小さな刺繍を施してくれることもあり、自分の好きな柄をよくリクエストしたものだった。見ればそれは、数年前に拵えてくれたエーレン、カイ、ゲルダそれぞれのものであると分かった。

 脳裏に母との思い出が蘇って目が潤むが、それをぐっと堪えてふらふらと立ち上がり、他の部屋へと向かう。


 先に向かったのは両親と弟妹が眠っていた部屋。綺麗に片付いていることにもう驚きはしない。ベッドが4人分あって、畳まれた毛布がちょこんと鎮座する。

 ユッタがやってくるまではここで自分も家族と眠っていたことを思い出す。冬にはできるだけ暖をとろうと弟妹達とくっついて眠ったものだし、眠れない時には母より聞いた物語を聞かせることもあった。


「でも、もう、そんなこと、できないんだよなあ……」


 重い心で呟いた声は思ったより幽かで虚ろに消えていく。目を閉じれば寝る前に話をせがむカイとゲルダの声が思い返される。そういうものは母に言った方がいいと言えどもねだられて、下手くそながらも頭を捻って話を紡いだものだった。めでたしめでたしまで二人が起きていたことは殆どなかったのだけれど。


『エーレンはそういう話を聞かせるのがうまいのかもな』

『エーレンが二人の面倒見てくれるから助かるわ』


 そんなふうに褒められて頭を撫でられたこともある。少し照れくさかったけど嬉しくて、今はその暖かさが恋しく、気がつけば自然とぽろぽろと涙が零れ落ちていた。

 そんな中、ふと棚に木製の玩具が置いてあることに気づく。涙を拭い、二つの玩具を手に取る。それは犬を象った荒削りの置物であり、以前珍しくも大雨で仕事が出来なかった日の暇潰しに、カイとゲルダに作ってあげたものだ。

 あまり自信作ではないが、二人は大層喜んでくれて随分楽しそうに遊んでくれていたから、作った甲斐が有ったと感慨深く思ったものだ。

 なんてことを考えて唐突に思い出す。

 あの日ユッタにもプレゼントを作ったことを。


 もしかしたら寝室にあるかもしれないと急いでユッタとの部屋に足を踏み入れる。

 やはり扉の先は綺麗になっていて、天井まで届いていた赤は一切姿を消しており、あるのは戸棚やベッドくらいという殺風景な部屋に戻っていた。

 あれは何処にあるのだろうときょろきょろと探して、ベッドの上に目的のものがあることに気づく。

 エーレンがユッタに渡したもの、それは鳥のシルエットを象ったネックレスだった。


 カイとゲルダに玩具を作ったあの日、思いつきでユッタにも木彫りの何かをあげようと考えた。彼女は鳥が好きだから鳥の人形をあげようと思った。だが、子供っぽいと嫌がられたらどうしようと思い直して、最終的に造形を変えて上部に穴を開け紐を通した。これで首にかけられるようになる。

 しかし、何故多く居る同性の友人でもなく、当時は婚約の話も出ていなかった彼女にあげようと思ったのか。そんな疑問を抱きつつも完成したそれは、自分の中ではだいぶ上手くできたもので、次の日同性の友人に茶化されながらも適当な理由をつけて渡したことを覚えている。

 その時ユッタは、突然のプレゼントに目を丸くしつつも、嬉しそうに破顔した。


『ありがとうエーレンくん。大事にするね』


 愛らしい声色で頬を綻ばせた彼女を見てとても安堵し、嬉しかった。顔や胸の内が少し熱くなり妙に高鳴る。それがとても変な感覚で、それから彼女がネックレスを身につけてくれているのが嬉しかった。

 婚約してここで暮らすようになってからもそれは変わらなかった。寝る前に外して枕元に置いていた日もあったことから、あの日もそうだったのかもしれない。


 そんなふうに今までの日々のことを思い出して、徐々にエーレンは己の感情を理解していく。頭の中で複雑に絡まっていた思考が解けていきエーレンはゆっくりとあることに気づいた。


 自分は、ユッタのことが、家族や友人とは違う意味で好きだったのではないかと。


 そもそも好きとはなんなのか、なんて考え出したらキリがないが、エーレンは誰に言われるでもなくこのネックレスを作って渡した。前述のように喜んでもらえて嬉しかったし、その際には妙に胸が高鳴っていた。

 婚約が決まった時も決して嫌ではなかったし、寧ろ彼女でよかったとすら思った。ユッタとの生活は妙に緊張したけれど、彼女と話すことは単純に好きだった。

 だけど家族や友人に対する『好き』と異性に対する『好き』の違いがイマイチ分からず、胸の高鳴りや秘めたる熱もどういう訳で感じるのか理解できなかった。

 だからだろうか、幼いエーレンは気づくことができなかった。


「……なんで、気づかなかったんだろ……俺、ユッタさんのこと……好きだったんだ……」

 

 手にしたネックレスを強く握り締めて、糸が切れたように膝をつく。瞳からは涙がとめどなく溢れて床にぽたぽたと落ちてシミを作り、後悔が押し寄せるがどうしてなんて今更考えてももう遅い。

 悲しみと後悔を吐き出すように、エーレンは蹲って声を我慢することもなく泣いていた。




「……俺、恋とか愛とか、全然分からなかったんですよね」


 畑があった場所付近に腰を下ろして、首にかけたネックレスを握りしめる。足元には家から持ち出した犬を象った玩具が二つ。それらに目向けた後、ぼんやりと地面を見つめながらトラゲディに語る。


「そのうち結婚して、神様が望めば子供が授かるっていうのはわかってたけど、なんか、家族や友人と違う『好き』がよく分からなくて。父さんや母さんに聞いても、なんか自分の中ではっきりしなくて、ずっとわかんなかったんだ」

「……そうなんだ」

「……でも、なんかさっき色々思い出して、そんなに難しいものじゃなかったんだなって思って……」

「そうだよ。でも分からなくても仕方ない。本当は、大人になるにつれてゆっくり理解していくものだからね」


 トラゲディの大きな手が優しく頭を撫でる。暖かくて、少し心が落ち着いた気がした。

 

「でも、もっと早く気づきたかった。……そうしたら、ユッタさんにも、もっと優しくできたかもしれないし、大事にできたかもしれないのに」

「君は充分優しくしていたと思うよ? ヤーコプさんが言ってたよ。二人とも仲が良さそうでよかったって」

「……そうなんですか?」

「そうだよ。君はとてもいい子じゃないか。それはこの短い間でもよく分かってる。……だから自分を責めずに、彼女への気持ちを少しでも大事にしてあげて。その方がきっと彼女も喜ぶから」

「……うん」


 慈愛ある声が体に染みて優しく抱き寄せられる。厚い胸板に顔を埋めてされるがままにトラゲディの慈愛を受け入れ飲みこんだ。

 そしてトラゲディは、落ち着かせるようにエーレンの頭を優しく撫でて、静かに、以前にも問いかけたことを口にする。


「ねぇエーレン、昨日も聞いたけどもう一度聞くよ。君の大事な家族や婚約者を奪った相手を始末したくないかい?」


 穏やかに発せられたこの言葉に、エーレンは慌てて顔を上げ、揺らぐ瞳でトラゲディを見つめた。言葉を返す前に彼は言葉を続ける。


「君がやりたいなら僕は協力を惜しまないし、気が引けるなら君が手伝うことを条件に代わりに僕が始末してもいい。……一応この事件に関しての調査はそれなりにしてるんだ」

「…………っ、なにか、分かったことがあるんですか?」


 体を離したエーレンは真剣みを帯びた視線を受けて、トラゲディは落ち着いた様子で口にする。

 ヤーコプに会いに来た日に悲劇的な村の惨状、死体有様を目にし、またこの村から『魔力』の残滓を感じたことから、犯人は人間以外の魔力を有するものだと。


「まりょく? ってなに?」

「人間やそれ以外を問わず、不思議な術を扱える人達が持つ力の総称だよ」

「不思議な術……さっきの、ワープっていう、あれみたいな?」

「その通り。そういうものを使える場合は、多かれ少なかれ『魔力』っていうものを持ってる。……今回のことはそういう者達の手による虐殺の一例だよ」

「……一例? 一例ってことは、もしかして他にも……?」


 エーレンの疑問に頷いて、トラゲディは話を続ける。

 ここ最近ハルト村のように村単位街単位での虐殺がヨーロッパだけでなく世界各地で頻発しており、酷いところは都市が一瞬で謎の能力により更地にされた所もあるという。

 殺害方法は様々だが、それらに共通するのは膨大な魔力による攻撃であることと言う。

 薄く口角を上げてトラゲディは続ける。


「恐らく、強力な力をもつ者達が組織して何人もいるんだと思う。……発生地はてんでバラバラだけど、僕が使えるようにワープ術はあるし、やり口が全く同じものが全然違うところで発生しているっていうことから、これは確実だと思う。それに、普通それだけ暴れてたら僕には分かるんだよね。でも得られる情報が少なすぎていまいち分からない。ということはその組織の誰かが何かしら隠蔽工作をしていることは確かだと思うんだ」


 淡々と話すトラゲディの言うことはエーレンにはよく分からない話であるが、それでもなんとか掴み取ったのは、犯人とされる相手が非常に強敵であるということだった。

 困ったように眉を下げ口元を緩め、途切れ途切れに問いかける。


「えっと、そんな相手を、俺に、始末しろと……?」

「うん。実際は僕やあの屋敷の人達を手伝う、でもいいのだけど、君にはやり返す権利があるからね」

「……やり返すとかはともかく、あなたの言うこと、本当に信じていいんですか?」

「勿論。僕は君には嘘は言っていないよ。……だから、今までの話と同じように、信じてほしい」


 顔を曇らせて目線を落とすエーレンだが、トラゲディは安心させようと穏やかに笑うのだ。大丈夫、君は決してただの子供ではないからと、トラゲディは静かな声をエーレンへと注ぐ。


「エーレン、君ただの農民農奴や人足で収まるにはとても惜しい。君にはなんのことか分からないだろうけど、君ならその相手を封ずることができる」

「……なにを、いって……」

「いつか分かるよ。……でもそうだね、いきなり始末するだのなんだのが怖いなら、捕まえるでもいい。悪いことをした人は、捕まえて罰を与えないといけないだろう?」


 トラゲディの純真な眼差しに葛藤する。

 捕まえるという風に考えれば彼の言い分も確かに理解できるが、しかしすんなり受け入れられるものではない。始末にしろ捕まえるにしろ自分にできるわけがない。

――他にもやれそうな人がいるんじゃないの?

 混乱のままに胸の内で彼の言葉を否定しかけて、唐突に気づく。

 トラゲディの言うように、本当にこの村のような事件が世界各地で発生し続けているならば、とても大変な事態でないか? と。

 当然その分犠牲者も増え、残された者にとっては酷く残酷な世界へと変貌することになる。

 寝る前にいつものようにおやすみと言い合った相手が朝起きて死に体になっているなんて、そんな恐ろしいことは経験するものではない。そんな悲劇のせいで村から人が消え失せるなんて、あってはならない。

 だが犯人をこのまま放置すればそんな悲劇は繰り返され、哀しみを背負う人も増えていく。

 そんなことがあってはいけない。

 そう認識して、エーレンは更に考える。

――もし本当に、俺に、そんなことができるというなら、これは、トラゲディさんの言う通り、俺が頑張るべきなんじゃないか?

 エーレンは頭を抱えてぐるぐると思案する。

――俺にできるわけがないだろ。でも、一人ではなくトラゲディさん達がいるじゃないか。始末じゃなくて、捕まえるだけだ。いや、どっちにしろ危ないし、相手は人間じゃないかもしれないし、魔力なんていう訳の分からないものを使う相手だ。大丈夫なのか?

 自問自答を何度も何度も繰り返して、こんがらがった頭を落ち着かせようと、エーレンはゆっくりと深呼吸をして、単純に考えることにした。

――俺は、父さんや母さん、カイやゲルダやユッタさんを殺した相手を、放っておくのか? 捕まえられるかもしれないのに、何もしないのか?

 素直に問題を提起して目を閉じる。素直な気持ちで考えてた彼は、ゆっくりと息を吸って、吐いて、決して軽くない結論を出した。


「――分かりました、トラゲディさん」


 力強い声にトラゲディは息を止めてエーレンを見つめた。彼の目の先にあったのは、強い決意を抱いた鋭い瞳。

 首に下げたお守りとネックレスを握りしめて、エーレンは強く口にする。


「俺は、やります。あなたたちと共に、その犯人を捕まえる。……俺の家族を殺した相手がまだどこかにいるのに、なにもしないなんて、嫌です」


 苦しげに言葉を吐いたエーレンは息を飲み、続ける。


「だから、そのために、俺に色んなことを教えてください、お願いします」


 その言葉にトラゲディは大きく瞠目し金の瞳を揺らして、わなわなと体を震わせて唇を噛み締めた。そして、ゆるりと笑みを湛えてエーレンの細い体を抱きしめる。

 予想外のトラゲディの反応に肩を跳ねさせたが、彼は解放することはない。ただ、妙に嬉しそうに熱い息を吐いて、呟く。


「ありがとう、エーレン。やはり君は素晴らしい人だ。――決心してくれて本当にありがとう。僕は全力で君を支えよう」


 エーレンを解放しかしずいたその姿は、まるで従者のようであった。

 真摯な瞳に射抜かれて思わず目を逸らし、妙に熱くなった頬を掻いて、ぎこちなく問う。


「……それで、その、犯人はどんなひとなんでしょうか。魔力を持ってるとか、そういうの以外で、なにかありませんか」

「うん、そうだね。これは魔力の形質から判断したものなんだけど、今回の件の犯人はふたりいる。人間家畜問わず食い荒らしたものと、頭部を持ち去ったもの。そんな感じの、趣味の悪い組み合わせだよ」




 現在より時は遡る。ヨーロッパ北部の某都市、真夜中の立派な邸宅。光が殆ど消えたその中は目も当てられないような凄惨なものだった。

 壁紙や室内の装飾品に飛び散る赤い液体、床に散らばる四肢と何人もの遺体。一部は頭部を切断され地に伏している。

 そんな惨劇の中心では、海のような色合いのアシンメトリーな髪型をした白い肌の少年が、小さな体で精一杯威嚇する犬を捕らえていた。

 小柄な背丈の割にがっしりとした腕を伸ばしてその犬をじっと見つめた彼は、自らの頭部を異形へと変化させる。

 嘴のように長く、丸みのある口を大きく開けて、それを口に含む。悲鳴が漏れるがそんなことには一切動じずバリバリと大きな咀嚼音を響かせて飲み下す。

 瞬間、彼の頭部は元に戻り、少年は深海のような瞳をある一方へ向けた。

 そこにいたのは、目の前の惨状に声も出せずに体を震わせて涙を零す青年だった。彼は珍しくも金髪碧眼で、かつ、誰が見ても美しいと思える程に顔立ちが整っている。

 品定めをするように青年を見やり口元に付着した血を舐めとった少年は、静かに青年の前にしゃがみ込み、囁く。


「なぁアンタ、オレのモンにならんか?」


 少年は青年の頬に手を添えて恍惚とした表情で迫る。青年は短く悲鳴を上げ逃げようと体を動かすが背後は壁だ。片側は少年の手により遮られており、逃げ場など無く、青年は真っ青な顔でただ目の前の少年の言葉を聞き続ける。


「オレのモンって言うても大丈夫、アンタが生きとるうちは食わへん。オレの相手をしてほしいだけなんや。大丈夫、痛いこともなんもない、オレもアンタも死ぬほど気持ちいいくらいやでなぁ、どうや?」


 光のない瞳で少年は更に迫る。頬に添えた手のせいで青年の顔が赤く塗られ、顎へと続く。

 青年は恐怖で何も答えられないが、そんな様子も少年としてはお気に召したらしく妖艶に笑ってみせたその時。

 その少年の長いローブがくい、と引かれ、反射的に振り返る。

 少年が目を向けた先にいたのは中東風の衣服を纏い頭を白い布で覆い隠した褐色肌の幼い子供だった。


「……バレーナ、だめ」


 中性的な愛らしい声を響かせて、大きな黒い瞳をバレーナと呼ばれた少年へ落とす。その先でバレーナは見るからに不機嫌そうに頬を膨らませる。


「ダメもなにも、クッシ邪魔せんといてくれるか、オレはこの美形の兄ちゃん欲しいんやから!」


 十歳前後の容貌に見えるクッシという子供の淡々とした物言いにバレーナは憤るが、そんな彼を無視してクッシは大きな瞳を青年へと目を向けた。

 蜂蜜を煮詰め溶かしたような金の髪に、煌めく青い宝石を嵌め込んだような美しい切れ長の瞳。そして、男女問わず魅了できそうな非常に美しく整った顔立ちの青年を見つめて、バレーナ、と小さく名を呼んでもう一度否定を口にし、指をさす。


「ぼくも、このひとほしいから、だめ」

「はぁ!? あかんあかんあかん! なんっでアンタに譲らなあかんのや!」

「だってこのひと、とてもきれい、ぼくもほしい」

「やらん! お前にあげたらどうせ首チョンパするだけのくせに! そんな勿体ないことできるか!」

「バレーナ、きんぱつであおいめのかっこいいひとほかにもたくさんいるのに、ゆずってよ」

「やだよ! つーかお前黒髪赤目のあの子気になるって言ってたろ!? どーせならその子狙えよ!」


 当然のように聞こえた物騒な言葉に更に顔を白くして怯える青年の前で彼等はぎゃんぎゃんと騒がしく言い合いを続けるが、埒が明かないと思ったのか、バレーナは青年へと問いかける。


「なぁ、アンタはどっちがええ?」

「……え?」

「首刎ねられてここで死ぬか、オレのモンになって搾り取られるか」


 にぃ、と弧を描くいやらしい笑みに青年は更に顔を青くして身を震わせた。どちらも嫌だと首を振って必死に否定をするが、青年を逃がす選択肢はないようだ。

 バレーナは膝下までを覆う長いスカート状の衣服からコインを取り出して、青年に渡す。


「アンタが決めてくれへんなら、アンタの運命はコイントスで決めよか」

「それ、いいね」


 ひゅ、と青年の喉が詰まって、今まで以上にガタガタと全身を震えさせる。碧い瞳は大きく見開かれガチガチと歯がなる音が聞こえる。絶望に染まった彼は、失神してもおかしくない程に血の気が引いている。

 青年を恍惚と見つめるバレーナは、手の中のコインの図柄を軽く叩く。


「こっちの人の横顔が表、武器が描いてある方が裏な。んで、裏が出たらオレの勝ちってことで、アンタはオレのモンになってもらう」

「ならぼくがおもて」

「さ、トスしてや」


 青年の向かいでバレーナは笑みを浮かべ、クッシは無表情で青白い顔を見つめている。青年から見ればそれはさぞ恐ろしいものだったろう。か細い呼吸の音がひゅうひゅうと響く。

 逃げ出してしまいたい。そう思ったかもしれないが、立ち上がろうにも彼には立ち上がれるだけの力もなく、コインを弾くしかできなかった。

 何度も何度も深呼吸をして、覚束無い手でコインを弾く。手の甲でうまく受け止められず音を立てて床の上で流れ、数秒、コインは一方の面を向けて倒れ込んだ。

 刹那――それまで無表情だったクッシが僅かに目を見開いたか思うと、上着に隠した短剣を引き抜き、あっという間の早業で青年の首を斬り落とした。

 両断された切り口からどくどくと血液が溢れ出してずるずると力尽きて体が地に伏していく。

 バレーナが目を向けた先にあったコインは表を向いていた。


「ああぁあああ!! 折角の金髪碧眼の美形が!!! 勿体ない!!!」

「コインがおもてむいたから、しかたないよね」

「ちくしょうコイン空気読めや!! やけどしゃーないな、せっかくやから残り食うか!」

「きりかえ、はやいね」


 頭を抱え落胆するもすぐさま気持ちを切り替えたらしいバレーナは、青年の服を破いて鍛えられた体に齧りつく。ブチブチと肉を噛みちぎる音を立てて全身を赤く染めていく彼の傍では、クッシが小さな手でボールを掲げる無邪気な子供然として、もの言わぬ頭部のみとなった青年の目を閉じさせ、嬉しそうに見つめぴょんぴょんと跳ねる。


「やっぱりこのひとかっこいい! かっこいい!」

「楽しそうやなお前。……この前の黒髪赤目のようわからんあの子より、その人のがええやろ」

「うーん、それはそうだけど、あのこもきになるといえばきになるんだよね。よくわからないままころせなかったから、よけいに」


 バレーナの言葉に思案したクッシは、金の髪を撫でて記憶を探るように目線を動かしたあと、何処と無く悔しげに眉を顰めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます