第4話 屋敷の者達
エーレンの部屋から出たトラゲディは、廊下で一匹の黒猫と遭遇する。
長い尻尾と首元を彩る赤いリボンを揺らして、金の丸い瞳を瞬かせた黒猫は「にゃあ」と小さく鳴いてトラゲディの足へ擦り寄る。
その姿と温度を確認して、息をついた彼は、猫の前にしゃがみこみ頭を撫でて相手の名を口にした。
「まったく、趣味が悪いね
笠原と呼ばれた猫は尻尾をぱた、と振って恥じらいも物怖じもしない落ち着いた声を響かせる。
「何を仰るのかトラゲディ殿よ。吾は猫だ。猫というものは神出鬼没なもの、詮無し」
何処となく古風さを感じる口調で喋りだした猫にもトラゲディは全く動じない。何故ならばこの猫はずっと前から友人であるのだから。
笠原はもう一度自分の匂いをつけるようにトラゲディに擦り寄る。猫らしい仕草に少し心を和ませながら、それでも呆れたようにトラゲディは息を吐く。
「君が自由人であることは分かってる。でも勝手に覗かないで」
「そいつは失敬。しかし少し前まで死人同然であった貴殿が、随分幸福そうにしていたもので気になってな。その要因となった相手の顔を見たくなったのさ、是非もなかろう?」
目を細めて首を傾げた笠原に対し、徐に立ち上がったトラゲディは、暗い廊下の壁に背を預け思案し、溢す。
「……そういわれてしまえばそうかも。でもそれなら食事時にでも来たら良かったろう。普通にエーレンの顔見れたし、美味しい肉でも出したのに」
「その時間は友人と約束があった故に、足を運べなかった。御免。だからこのような邪魔をしてしまった。重ね重ね申し訳ない」
耳と尻尾を下げ謝罪する笠原に怒りをこれ以上ぶつける気はない。そもそも、そこまで怒り心頭というわけではないのだ。見られていたこともわかった上でエーレンに口づけをした。だから別に気にしていない。
そう伝えると笠原はほっとしたように耳を戻す。
「
トラゲディが返事をするよりも早く、笠原は尻尾をしゃんと振って金の瞳を瞬かせた。
「……何故エーレンフリート殿にあんな嘘をつく?」
途端に、トラゲディの目付きが鋭くなり纏う気配が一気に冷える。耐性のない者であれば震え上がっていただろう氷のような空気にも動じることなく、笠原は続ける。
「ヤーコプ・バウアーなどという相手、会ったこともないくせに」
僅かに怒気を込めたようにも感じられる低音にも怯えることなく、トラゲディは目を尖らせたまま口元を緩めた。
「流石君はなんでもお見通しか。ならば理由なんて、少し考えたら分かるだろう?」
「……貴殿の口から理由を聞きたかった」
「そんなの、そういう繋がりを示された方がエーレンも警戒しないだろうからね」
トラゲディは口角を吊り上げ顔を顰める笠原の前にしゃがみこむ。瞳孔が大きく開いた金の瞳が猫の影を捉えて不気味に蠢く。
「僕は五百年待ったんだ。今までの平均の千年やラジャメリア陛下から
笠原はその問かけにはなにも答えない。ただ不安さを示すように尻尾を速く動かしぽつりと口にする。
「そんなことをして、エーレンフリート殿に露呈し嫌われたらどうする。いつか
「そんなの君が心配することじゃないし、それに大丈夫。もうこれ以上変に信じ込ませることはやらない。ここまで来たらもう大丈夫。エーレンの家族のこともうまく辻褄を合わせるさ」
あっさりと返され笠原はまた沈黙し、ぱたぱたと尻尾を揺らす。猫の習性から考えるになんと言うべきか思案しているのだろう。トラゲディは何も言わずに返答を待った。
それから数秒経ち漸く笠原は、実に落ち着いた、いや、どこか冷めた表情で口を開いた。
「……如何なる理由であれ、吾は貴殿が活気を取り戻したことを幸甚に思っている。それが貴殿の幸福と思うならば何も言うまい。ほんの数年の間としても、貴殿が彼と幸福を築けるよう祈っておるよ」
「そう、ありがとう」
「あぁ。……妙なことを言ってすまなかったね」
淡々と声を響かせた笠原はにゃあと猫らしく鳴いて突然走り出し、暗い闇の中へと自らを溶け込ませる。
その黒を見送り踵を返したトラゲディもまた、依然として鋭い顔つきで闇の中へと混ざり消えていった。
朝の風が吹き始め明るさが訪れる頃。不相応としか思えぬふかふかのベッドの中でエーレンは飛び起きる。
早く着替えて準備を済ませなくてはと慌ててベッドから降りたところで、ここが狭苦しく不衛生な寝室でないことに気づいて部屋を見渡す。
清掃が行き届き整えられた綺麗な部屋に、ふかふかの温かなベッドに質のいい寝間着と靴。そんな現状を確認して自分はついにあの場から脱したことを思い出した。
起床時間を告げる荒々しい鐘の音もない静かな目覚めは実に久々のことで、信じられないという気持ちから頬を抓った。当然痛みはある。
「夢じゃ、ないんだよね」
そうなるとやはりこれは現実なのか、痛いと感じるだけで夢なのではないのか……と考えるが、あまり考えすぎるのはやめようと思いなおして、用意されていた高級そうな布地の上着へと袖を通した。
恐る恐る廊下へ足を踏み出して、綺麗な床の上を落ち着かない気持ちで歩く。とりあえず顔を洗いに行こうと水場を探して使用人に井戸の場所を聞けば、彼は快く案内してくれて、タオルまで貸してくれた。
使用人にレバーを動かしてもらって溢れる冷水で顔を洗い、タオルで水気をとって顔を上げる。冷たい空気と水がエーレンの意識をしっかりと覚醒させ、広い庭やその中に建てられた小屋へと目を向ける。
敷地はとにかく広く、綺麗に整えられているところとそうでないところが妙に乱立しているが、遠くに植えられている木々は見事に剪定されているらしい。改めて自分はとんでもない所に来てしまったと認識したそんな時、視界の端でちょこまかと動く白いものに気づく。
不思議に思い目を向けると、そこにいたのは小動物を追っている様子の大きな猫たちだった。
普段見ることのない大きさの猫に一瞬面食らった直後、彼等がヴァイノの家族であったことを思い出しほっとした。その証拠にヴァイノも子供達と遊んで、いや、狩りをしている真っ只中だ。子供たちと共に広い庭を全力で駆けまわり、鼠を捕まえたらしい子供を褒めていた。
そんな彼等にエーレンは思い切って声をかける。
「あ、あの、ヴァイノさん、おはようございます……!」
少し緊張しながら声をかけると、エーレンに気づいた子供たちがわあっと駆け寄る。挨拶だけでなく口々に狩りの成果を報告する彼等はとても元気で、慌ててヴァイノが止めにかかった。
「こらお前たち、そんなに一気に話してもエーレンくんがびっくりするだろう。少し落ち着きなさい。……おはようエーレンくん、わるいねうちの子達が」
「いえ、元気なのはいい事で――」
「なあなあエーレン! 今暇? 遊ぼう!」
エーレンの声を遮ってまでじゃれつく子供達は、大人の静止に耳も貸さず楽しそうに会話を繰り広げる。
「あのな、エーレン、ここネズミまだいっぱいいるんだ、捕って遊ぼう!」
「あれ、でも人間ってネズミ嫌いだよね、じゃあ虫捕って遊ぼう!」
「そうしよう、そうしようエーレン!」
「え、えっ、でも、俺仕事が……」
「君は別に下働きとして雇われたわけではないから気にしなくてもいいぞ」
「あっ」
子供たちの元気の良さとヴァイノの言葉に驚くエーレンの周りでは、子供たちが溌剌とした声でぴょんぴょんと跳ね回る。精神年齢的にはまだ幼いのだろうが、体格は自分と大差ない大きな猫がいるというのも妙な感覚だ。だが折角の機会だ。ヴァイノも見ていることだし、今のところ下働きとしての仕事もないのなら少しくらいはいいかと子供たちの手を取った。
それから十数分後、広い庭には激しく息を切らし座り込むエーレンと、弄んだ末に捕えた鼠や小鳥を貪る子供たちの姿があった。
子供たちは元気で無邪気で残酷でもあった。野良猫と似たものだから鼠や小鳥を追い回すのは当然だが、必ずしもそれを食べるとは限らず、腹がいっぱいでなくともただ弄ぶことも多い。村にいた猫を覚えているから大方予想はついていたが、彼らが笑いながら鼠や小鳥を弄ぶものだから複雑な気分にもなる。
「エーレン、大丈夫?」
「疲れちゃった?」
「あ、そうだね、ちょっと疲れたかな。体力には自信あったんだけどね……」
子供に手を差し伸べられて起き上がる。子供はまだ遊びたい様子で目を輝かせていて、エーレンを置いて走りまわる。
「ありがとう、子供達と遊んでくれて。俺一人では体がもたなくてね」
「そうなんですか?」
「あぁ、俺はもう言ってしまえばおじさんだからな。狩りは教えるが子供たちの本気の遊びにはついていけないこともな……」
「……知り合いの大人と似たようなこと言いますね」
「はは、まぁそういうものさ」
ヴァイノと適当に会話をしながら何気なく子供達の動きを観察する。
四足で走ったり二足で走ったりを切り替えながら、叢の中に飛び込み、獲物を追って走り回る。ひとりが失敗してももうひとりが獲物を逃さず追い詰め、鋭い爪でトドメを刺してはヴァイノに褒めて褒めてと言わんばかりに見せに来て、ひとしきり頭を撫でてもらってはまた喜んで草むらへと走り出す。それを何度も繰り返して、よく飽きないな、よく獲物がそれだけいるなと漠然と思いながら眺めていたそんな最中。走り回っていたひとりの動きが突然鈍くなり糸が切れたようにぱったりと倒れていくのが確認できた。
突然のことに驚き声を上げたエーレンは、先に反応していたヴァイノに続いて慌てて駆け寄る。
まさか怪我でもしたのだろうか、なにかの病か、淡い不安を胸に抱いて駆け寄った時には、既にふたりが手際よく状態を確かめていた頃だった。次第に焦りの色が消えていき、ふう、と安堵の息をついて一言。
「大丈夫、眠ってしまっただけだ」
予想外の原因に素っ頓狂な声を上げてしまったが、取り繕うように慌てて言い直す。
「えっ、あぁ、眠っちゃったんですか?」
「あぁ、限界まで遊びすぎて突然眠ってしまうことがあるんだこの子は。驚かせて悪かった」
「いえ、別に大丈夫ですけど、びっくりした……頭とか打ってないですか?」
「大丈夫、こいつ、すーぐ疲れて寝ちゃうの」
「こいつとか言うな。……そうだな、触った感じは大丈夫そうだな、怪我はない」
すやすやと眠りにつく子供の頭を撫でてほっと息を吐いたヴァイノはこのまま子供を部屋に運ぶようだ。どうする? と振られ、保護者がいるのにそこまで着いて行くのは邪魔だろうと、暫し考えたエーレンはとりあえず食堂に行ってみようかと考える。
また後で、とヴァイノ達と別れてエーレンは廊下を歩くと、焼けたパンの匂いが鼻についた。あの白いパンの匂いだろうか。そう思うと腹も減るが、どうやらまだ朝食にはもう少しかかるらしい。ならば部屋に戻るべきだろうと思い直す。
まだ正確な案内も受けておらず、屋敷は分からないところが非常に多い。勝手に歩き回って迷って迷惑をかけてはいけないと、道順を思い出しながら部屋に戻る途中で、エーレンはとある影にぶつかった。
「いてっ、あ、ごめんなさい!」
「おっと」
若々しい男性の声が響き慌てて顔を上げると、犬のような獣耳とふさふさとした尻尾をもつ銀髪の男性と、長い茶髪や髪飾りを揺らして抱きかかえられている幼い少女の姿があった。
少し驚いたように目を瞠る彼等に、もう一度謝罪をして慌てて別の道に行こうと踵を返した。――が、それを鈴の音を振るような声が呼び止め、思わず心臓が跳ねる。足を止めて徐に振り向くと、男性に抱きかかえられた少女が大きな丸い瞳でじっとエーレンを見つめていた。
「待って怖がらないで。大丈夫だよ、私たち、なにも酷いことしないから」
とん、と軽やかに少女が着地する。温かな色合いのロングスカートがふわりと靡いて、甘い花の香りと爽やかな木々のような香りが広がった。
不思議な香りの中心にいる華やかな少女は、じいっとエーレンを見上げてにこりと微笑んだ。
「あなた、見かけない人ね。初めまして。私はサフィラよ。サフィラ・モストヴァヤ。こっちは夫のアガーピムーよ」
「リュビーマヤ、アガーピムーじゃ彼はわかんないよ。初めまして、もしかしてトラゲディさんが言っていた子かな? 俺はミハイル・ニカノーロヴィチ・モストヴォイ。ミーカって呼んで」
「あ、初めまして、俺はエーレンです」
それぞれと握手をして、この二人がトラゲディが食事の際名前をあげていた二人かと思い出し理解したのも束の間、エーレンは妙な引っ掛かりに首を傾げる。
アガーピムーやリュビーマヤという聞き馴染みのない呼称もそうだが、その前にサフィラがミーカを『夫』と紹介した。更にトラゲディもふたりの名をあげた際に夫婦と言っていた気がする。
――この二人が、夫婦?
淡い疑問を抱きつつ彼等に改めて目を向ける。
ミーカは一見二十歳前後だろうか、若々しく見え、羽織ったコートの裾からは濃い灰色のふさふさとした尻尾が垂れ、頭には犬のような耳が生えている。トラゲディは確か狼男と言っていた気がするが、あまり怖いひととは思えなかった。
一方サフィラはどう見てもエーレンより年下だ。背も低く顔つきも幼い彼女とはどう見ても夫婦とは思えず、素直に疑問を口にする。
「お兄さんと妹さん見たいですけど、ほんとに夫婦なんですか?」
「あ、そう見える? でも夫婦なんだよね、リュビーマヤの方が実はずっと年上なんだ」
「そうなんですか?」
サフィラの頭を撫でながら柔らかく笑ったミーカに相槌を打てば、サフィラが溌剌とした声を上げる。
「アガーピムーの言う通りよ。今の私はこんなだけど、本当はもっと大人なの。もちろん外見もね! 実年齢だって、五十にも満たない子犬のアガーピムーの十倍どころじゃないの!」
自慢げに胸を張るサフィラの隣では、ミーカが複雑な表情で自分は狼だと主張し、まだ子供だから子犬でいいなんて言い返されている。
もしかして主導権はサフィラが握っているのだろうかなんて思いながら、夫婦の微笑ましいやり取りを見つつタイミングを計らい他の疑問も投げかける。
何故子供の姿なのかを問えば、それは秘密と言われてしまったが、ふたりの呼称――アガーピムーやリュビーマヤについては快く教えてくれた。
どうやら彼等の故郷での恋人や配偶者を呼ぶ際によく使用される呼び方であったらしく、いい呼び方だと口にすればふたりは嬉しそうに笑っていた。
「エーレンも恋人とかできたらそういう呼び方してみたら? きっと喜んでくれるよ!」
何気なくサフィラに言われてそうですねと頷いて、少し寂しくなる。特別な呼び方をしても喜んでくれそうな相手といえばユッタしか思いつかないのだが、彼女にはもう会えないのだから。
朝食の時間になり食堂に向かうと、足を踏み入れた瞬間に豊かな香りが鼻につく。
テーブルには籠に盛られた白いパン、ソテーにした魚料理とスパイシーに味付けされた肉料理が並ぶ。ザワークラウトなども別皿に並べられ、クリーミーに仕上げられた野菜のスープも器に満たされていた。
朝から随分と豪華な食事に驚き目を奪われ、エーレンは思わず溜息を吐く。丸く赤い瞳がキラキラと輝いていた。
「すっごーい……ほんとにこれ食べていいのかな……」
「もちろん、エーレンには沢山食べてもらわないと」
独り言のつもりで吐いた言葉に反応があって思わず肩が跳ねた。驚きのままに振り向くとその先ではトラゲディがにこやかな笑みを浮かべている。
「あっ、おはようございます、トラゲディ、さん」
「おはようエーレン。よく眠れた?」
「はい、ベッドもとてもふかふかで、気持ちよかったです」
「ならよかった」
ぎこちない話し方でも満足げに顔を綻ばせたトラゲディは空いた席に腰を下ろす。エーレンも好きなように座っていいと言われて、とりあえず昨日と同じように向かいに座ることにした。
部屋を見渡せば長いテーブルに向かうのは僅かに4人。トラゲディ、ミーカとサフィラ、そしてエーレン。ヴァイノやエルナ、子供たちの姿はなかった。
トラゲディに訊ねると、彼等は自室で食事をする方が多く、昨日のようなことは珍しいという。
そういえばトラゲディがエルナに頼み事をしていたなと思い出してパンに齧り付いた。
食事はどれも美味なものだった。白いパンは香ばしく肉も魚も柔らかくスープも濃厚だった。あっという間に完食して、せめて片付けを手伝おうと申し出たが断られてしまう。
なら自分は何をすればいいのか、こんな贅沢なものを受けながら自分はまだなにも彼等に貢献していない。悩むエーレンに食事を終えたトラゲディが提案する。
「なら今日は僕と出かけようか。それでいい?」
「あ、はいっ。何処に出かけるんですか?」
「それは後で話すよ。今は秘密」
人差し指を口元に添えて微笑むトラゲディに頷き、一方で話を聞いていたらしいミーカが言葉を投げかけた。
「どこかに出かけるなら、肉とってきてくれませんか?」
「覚えていたらね」
「やったぁ!」
目を輝かせていたミーカが、更にわかりやすく元気のいい声を上げて尻尾をぶんぶんと振って、上機嫌そうにサフィラを抱っこして足どり軽く食堂を後にした。
「確実な約束はしてないのだけどねえ、あぁも喜ばれたら仕方ない。適当に狩ってきた方がいいかな」
「えっ、狩りに行くんですか」
「ちょっとそれは考え中。どうしようか。とりあえず出かける準備をしよう」
たじろぐエーレンに微笑みかけたトラゲディは、優し気に手を差し出す。
おいで、と口にし誘う彼の手をなんの躊躇いもなく取った。
エーレンの部屋にて、トラゲディに手伝ってもらいながら身支度をして、厚めのコートを羽織る。言われた通りに準備を終えたのを確認したトラゲディはやっと行き先について口にした。
「そういえばエーレン。行き先なんだけど」
「あ、はい」
「ハルト村に行こうかなって思ってるんだけど、いいかな」
金の瞳を見上げながらトラゲディの言葉を待ち、口にされたその場所にエーレンフリートは思わず足を止めた。
「どうして、村に……?」
なんとか形にした声は微かで震えていたがちゃんと聞き取れたようで、トラゲディは『ちゃんと君に確認してもらいたくて』と続けた。
彼が言うには一度エーレンの父、ヤーコプに会いに村に行ったことがあるそうだ。その際に村の惨状を目にし、トラゲディは村の教会の傍に多くの遺体を埋めたという。
「どれが誰のお墓なのかっていうのは分からないと思う。だけど、一応皆埋めて眠ってもらったし、家屋も可能な限り綺麗にした。だから、確かめてほしい。嫌なものはもう何もないよ」
「……埋めたって、ここの人達で?」
「いや、殆ど僕一人でやったよ? あぁ、気にしないで、僕が勝手にやったことだから」
その言葉に目を瞠る。亡くなった村人の数は非常に多かったろうに、それを一人でとは。本当だとすれば大層な重労働だったに違いない。トラゲディは気にしないでと笑うが、気にするなという方が無理な話だろう。
更に家屋も片付けたというから驚きだ。エーレンでは見るに堪えなかったあの血に塗れた惨状を、腐敗も進んで酷かっただろうに、それを全てという。流石に疑わしくも思ったが、トラゲディの言葉を聞いているとやはり疑わしさが消えていく。本当に彼は一人でやったのだろうと信じ込んでいた。
だからこそなにか恩を返そうと焦り申し出るも、トラゲディは気にしないでいいよとやはり断った。
「僕が勝手にやったことだし、恩返しをというなら既にしてもらってるからいいんだよ」
「……俺、まだなにも……それに、やっぱり申し訳ないです……」
「律儀だなあ。じゃあなにか考えておくから、とりあえず今日は村に一緒に行ってくれる?」
「はいもちろんで――」
困り顔から笑顔へとくるくると表情を変えるトラゲディに流されて頷きかけたその時、大事なことを思い出した。
ハルト村は、決して数日で行って帰ってこれる距離ではないのだ、と。
振り返れば、エーレンが村からこの街にたどり着くまで数ヶ月を要した。大人の足でもきっと同じように期間を要するだろう。それなのにこんな程度の準備しかしていないなんて何を考えているのか。
「ト、トラゲディさん、村に行くまでどれだけかかると思ってるんですか! それなのにこんな身軽で、それにここ何ヶ月も空けることになるかもしれないんですよ、いいんですかそれ! ちゃんと皆さんにも話をしないと――っ」
「大丈夫だよ。心配しないで」
太い指が唇に添えられて口が閉じられ声を封じられる。大丈夫、落ち着いてと笑みを湛えるトラゲディは、エーレンの小さな手に、赤い宝石がつけられた首飾りを握らせる。
自分の瞳と近い色合いのその石は光を反射してキラキラと煌めいて、思わず感嘆の溜息が漏れた。
「それ、首に掛けて。無くさないでね」
「これ……なんなんですか」
「お守りかな。僕とはぐれても直ぐに対処できるように。……さて、今から村に行くから、少し待っててね」
トラゲディは片手でエーレンの手を握り、もう片方で手刀を象って空を割くように腕を振るった。
その瞬間だった。空中に裂け目が発生し、獣が口を開くようにその裂け目が一気に開く。
突然の超常現象に驚き絶句するエーレンの前には、完全に開き切って楕円に近い形を成す、赤黒い謎の空間が出来上がっていた。
「……は、え? な、なに、これ……」
今まで不思議なことをあっさりと受け入れていたエーレンも、これには硬直し、言葉を詰まらせる。体を震わせて、赤黒い空間から逃げるようにトラゲディの後ろに隠れた。
当のトラゲディはというと、そんなエーレンの反応に一瞬頬を赤くさせ、落ち着かせるように頭を撫でて、話す。
「これ通ると村に行けるんだよ」
「はあ!? なに、それ、そんな、あるわけが……」
「正確には村だけじゃなくてどこにでも行ける。僕と一緒にいればね。大丈夫、無事到着できるから。それともこんなもの使わないでワープした方がいい? 僕はそれでもいいんだけど」
「えっ、ワープ、ワープってなんです!?」
「村に移動するんだよ。大丈夫、どっちにしろ僕といれば安全だから。さ、しっかり僕にくっついててね」
「えっ、え、なに、これに入るんですか!?」
「そうだよ、大丈夫怖くないから」
現状に理解が追いつかないエーレンは顔を青くして不安げな目をトラゲディに向けていた。
当の本人は落ち着いた様子で軽く笑って、エーレンの体を胸に抱く。
「ほら、くっついていたら問題ないから」
恐怖、困惑、不安といった感情の中で、優しげな温度を感じながら、エーレンはその言葉を信じて強くめを瞑り、トラゲディと腕をいっぱい握りしめた。
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