第3話 化け物


 手を机の上で組んだトラゲディは少しだけ頬を朱に染めたかと思うとにこりと微笑んでひとつひとつ話をする。自分たちについて、商売について。ゆっくりと、瓶に入った液体を注ぐように。

 エーレンからの赤い視線を浴びながらまずトラゲディは自身について口にする。

 彼は言う――自分は人間ではないと。


「……人間じゃ、ない?」

「うん。まるで人間みたいに見えるかもしれないけど、僕は化け物なんだよね」

「化け物……そんな風には見えないけど」

「まぁ、そうだろうね。どう見ても背が高いだけの男だろうし」


 たおやかに髪を揺らすトラゲディの『化け物』と自称する言葉をエーレンは一蹴すべきものだったのだろう。彼がもつ艶やかな若葉色の髪に煌めく黄金の瞳、白く滑らかな肌は非常に美しく、彼は人にしか見えない。

 しかし、トラゲディの姿をじっと見つめている中で妙な感覚が巻き起こることに気づく。それは『トラゲディは化け物である』ということを、ずっと前から知っていて懐かしく思うような奇妙な感覚だ。


――懐かしい? なんで?


 しかしそんな疑問も『そういうこともあるさ』と異様に胸に落ち溶け込み、エーレンに心の裏で手を拍たせる。


「……そっか、化け物、なんだ」

「うん。どんな化け物か見せてっていうなら、見せるよ?」

「うーん、んん、いや、大丈夫です。そんなことしなくても信じます」


 エーレンの言葉にトラゲディが目を瞠り、子供たちの汚れた口元を拭いていたヴァイノが耳をぴくりと反応させた。トラゲディはふわりと笑って小さく礼を述べたが、ヴァイノは子供たちをエルナに任せて席に戻ると、納得がいかないように怪訝に言葉を投げかける。

 開いた口には町を彷徨い歩く猫たちと同じような並びで、それよりも大きく研ぎ澄まされた白い牙が並んでいた。


「少し待ってくれ、エーレンくん。君、あっさりと受け入れすぎではないか?」 


 恐怖を感じさせるような牙とは裏腹にヴァイノの言葉は実に落ち着いて、誰もが抱いたであろうことを口にしたが、エーレンは意味が分からないというように目を瞬かせる。


「人間じゃないなんて君からしたら馬鹿らしいことだろう。特に彼は私のようにわかりやすい訳では無い。それなのに何故そこまであっさりと受け入れる? トラゲディから聞いたぞ、建設現場からも特に嫌がることもなく着いてきたそうじゃないか」


 冷たい海を思わせる色合いの瞳に見つめられてエーレンは一瞬たじろいだ。

 ならばヴァイノに出会った時に騒げばよかったのかとひねくれた意見が浮かぶが、そうではないと自分で答えを出して引き下げる。彼が言いたいのはそういうことではないだろう。

 確かにエーレンはトラゲディに会ってから受け入れ難いことに面している。

 屋敷の立派さや食事の豪華さはともかく、見知らぬ相手に引き取られることや彼の自称化け物という言葉を何故容易に受け入れられるのか。父の知り合いだから、御伽話で聞いた気がするから。それだけでここまで信じきれるものなのか。

 そのようなことをして、ヴァイノは違和感があると考えたのだろう。その結論に辿り着くことにも頷ける。

 何故エーレンがこんなにも安易にこの事態を受け入れられるのか。その答えはトラゲディにあるような気がした。


 不思議なことに、エーレンがトラゲディを見ていると、抱いた違和や疑問がなにもかも崩れ落ちていく感覚がある。何かしらの形でエーレンを納得させたり、疑問などを抱いていたこと自体を疑問に思わせる。

 例えば先程の『化け物』という話をあっさりと信じた時に感じた『そういうこともあるさ』といった感覚のように。

 妙なことではあるが、エーレンの中ではその異様な感覚が確かにあった。それを確かめ、同時に薄ら寒いものを感じながら、素直にヴァイノへと言葉を返す。


「ヴァイノさんが思うこともわかります。……でも、なぜかトラゲディさんを見ているとそんな疑問も何もかも吹っ飛ぶんですよ」

「吹っ飛ぶ?」

「はい。……彼についていくことは、別に、特に怖いとか嫌だとか思わなくて。トラゲディさんが『化け物』って話も、なんか、前から知ってたみたいな……」


 眉間に皴を寄せて考え込みながら口にしたエーレンの答えに、ヴァイノははたと目を見開いて、トラゲディに視線を向ける。

 だが、問う前にトラゲディは『静かに』と言うようにジェスチャーで示して、瞳を緩やかに細めた。ヴァイノに聞き馴染みのある故郷の言葉で『秘密にしてね』と口にし、にこりと口角を上げた彼の笑みは、優しげなようで不気味だ。

 細められた瞳の奥にある真意は見えぬが、僅かに感じ取れる闇がトラゲディの言葉を自ら否定しているようにも感じ取れた。

 しかしヴァイノはそれに突っかかるような真似はせず、発しかけた言葉を飲み込んで笑顔を作る。優しげな瞳がエーレンへと向けられた。


「そうか、事情はわかった。それならいいんだ」

「え? わかったんですか?」


 トラゲディとヴァイノのやり取りに気づいていない様子のエーレンが、突然のことに不思議そうに声を漏らす。


「俺、ちゃんと説明しきれてませんよ?」

「……いや、いいんだ。君の持つ違和感についてはもういい。……話を中断して悪かった。続けてくれ」


 困惑した様子のエーレンを置き去りに、トラゲディは頷いて断たれていた話を再開させる。


「なら、次はここがなんなのか、ということを話そうか。……まず、ここには見てわかる通り、いや、話したように人間以外のものが多く存在する。それは、なにもこの屋敷だけのものでは無いんだ」

「……ほかの所にも、いるの?」

「そう、その通り」


 エーレンの言葉を肯定して、トラゲディは続ける。

 彼曰く、人間以外の存在というのは分からないだけで案外近くに多くいるのだという。

 ベルリンだけでなくそれこそ世界中に様々な種族が各テリトリー内で基本的に生活をしている。

 人に擬態できる種族であるならば人間と共存することも可能だがその術をとるものは少ない。共存するメリットも当然あるが、露見した際のデメリット、いや、リスクが大きすぎるそうだ。


 人間と言うものは残酷だ、とトラゲディは言う。

 敵とみなせば人間であれそれ以外であれことごとくを、目を覆いたくなるような方法で殺し尽くしてしまう。慈悲なんていうものは持ち合わせていないかのように。

 同族でさえそのようなおぞましい行為が行われるというのに、異種族となると火を見るより明らかだ。実際に残虐な方法で殺されたものも数え切れないほど存在する。

 トラゲディの話に、エーレンは背中がすうっと冷たくなるような感覚を抱きながら、膝の上に置いた握り拳に力を入れた。少しだけ汗ばむその掌の感覚が気持ち悪い。


「嫌な思いをさせてごめんね。勿論人間全てが残酷な訳じゃないし、人間の中に溶け込む種族もいるし、君のような素晴らしい人もいる。……でも、人間以外のものは結構人間を恐れることが多いんだ」

「そう、なん、ですか……」

「うん。でも、君は僕が見初めた素晴らしい人だし、君はそんな酷いことをしたことはないから、僕は心配してないよ」

「……はい」


 ぎこちなく頷く裏で、トラゲディの言葉に引っ掛かりを覚えるがやはりその疑問も彼を見ていると瓦解する。

 視界の端ではヴァイノが呆れたように短く息をついて席を立ち、一方でトラゲディは小さく頷いたエーレンにほっとしたように目元を緩ませて、話を戻す。


「さて、じゃあ仕事の話をしようか。僕達の仕事は簡単に言えば人外が起こした事件を上手く片付けることなんだ。実際、簡単なものじゃないけどね」


 曰く、人外にも各種族や国毎に法というものがある。基本的にそれらの法は彼等は人間に関わらない上で彼等はひっそりと暮らしているのがではあるが、稀に人間に危害を加えようとしたり、また逆に人間に殺されそうになったりすることもある。

 他にも人外が人間を襲うなどなにかしらの事件を起こす場合も多くある。

 その際に仲裁役として間に入る、解決のために調査を行う。そういったことがトラゲディ達の仕事のひとつだという。


「実際は他にも色々やるけど、意外と多いのはこのふたつかな。いろんな種族とも人間とも関わらないといけないから大変だし、種族それぞれのルールを尊重して上手く解決するのは意外と大変。それが僕達の仕事」


 赤いワインが注がれたグラスを軽く傾けて、トラゲディは僅かに残っていたワインを飲み干す。こく、と喉を鳴らして飲み込んでテーブルクロスの上に戻したグラスには、再びワインが注がれた。 

 エーレンはその姿を呆然と見つめながら、崩れなかった疑問を口にする。


「もしかして、父さんもその仕事を手伝ってたんですか?」


 父はいつも仕事の手伝いがあると言っていた。ならば、父は多少なりともトラゲディの仕事に関与していた可能性は高い。

 漸く繋がったかもしれない線に恐る恐る問いかければ、トラゲディは緩やかに肯定し、口の端をあげて愛嬌のある笑窪をつくり頷いた。


「そうだよ。君のお父さんには少しだけこの仕事手伝ってもらってたんだ」

「本当に!?」

「本当だとも、ねぇ、ヴァイノ……あれ」


 トラゲディと、言葉に釣られたエーレンが向けた先にあるのは、空っぽになった席。食器は順に片付けられ気づくと席に着いているのは若草と黒の2つの人影のみだった。

 いつの間に、と驚くエーレンの傍らで、トラゲディは整然とした空間を見つめて近くにいた男性の使用人に声をかける。


「ねぇ、ヴァイノ達どこいった?」

「お二人が話に夢中になっている間に、ご家族と共に退室なさいましたよ」


 無機質に響く男性の声にトラゲディは目を丸くして意外そうに声を上げる。


「そうなの? なんだ、全然気づかなかった」

「貴方は話に夢中でしたからね。……ところで片付けの障害となるので、出来れば部屋を移っていただきたいのですが」

「そう、ごめんね。いいよ、折角だし場所変わろう。僕の部屋に行こうか」

「えっ、あなたの部屋、ですか」

「なにを驚くのさ。 大丈夫、ちょっと机の周りは散らかってるけど、普通の部屋だから」

「は、はい……」


 雇い主に向けた言葉とは思えない物言いにエーレンはぎょっとしたが、トラゲディの軽やかな返しにおっかなびっくりながらも胸を撫でる。そして直後の『トラゲディの部屋』にまた妙に緊張してしまったが大人しく彼に倣うことにする。

 椅子から降りたトラゲディの様子は上機嫌だ。エーレンフリートも徐に椅子を降り絨毯の上に着地する。

 トラゲディがおいで、とジェスチャーを示すので慌てて着いていくと自然に手を繋がれた。とられた手の温かさに安心感を覚えながら、ふわふわとした妙な気持ちで絨毯の上を歩く。

 煌びやかと表現するのが相応しいだろう廊下にて、徐に足を進めながら、エーレンは話を戻す。


「父さんは……あなたの仕事の手伝いをしていたんですか?」

「そうだよ。……といっても彼はそんなに人外に会うなんてことはなくてね、ここでお手伝いしてくれたりちょっとした補佐をしてくれたりね。信じてくれる?」

「……もちろんです。きっと父さんもそんなこと俺たちに話せなかっただけだと思うんで。それに、あなたのお陰でお金が増えたりお肉が食べられたりしたのは、ありがたいことですから」

「そう思って貰えたならよかった。こっちも支援した甲斐があるよ。その分、亡くなってしまったのは、悔やまれるよ」

「…………そう、ですよね」

「ヤーコプさんは勿論、他のご家族もいい人だったって聞いてたんだ。皆もっと長生きしてほしかったね」


 エーレンは口を噤み沈黙に身を置き、優しく紡がれたトラゲディの言葉をするりと胸に溶かした。父だけでなく、母も弟妹も婚約者も皆とても素晴らしい人だった。それがトラゲディにも伝わっていたことは嬉しいのだが、家族を思い出すと胸が痛む。思わず、空いた手で痛みのある箇所を掴んだ。


 その後言葉通りトラゲディの部屋に辿り着く。緊張に少しだけ胸の鼓動が早くなるも、彼に続いて踏み込んだ先で目にした多くの物が置かれた雑然たる光景に、唖然とする。

 内装自体は豪華で美しい部屋といえよう。しかしよくわからない本が多くの棚にびっしりと揃えられて更には床にも積まれている。机にも筆記具とこれまたエーレンにはよく分からぬ文字列が書かれた冊子が複数。

 何とも言えぬ光景に呆れたような声を溢したエーレンは、一方の机の反対側の空間に気がついた。

 机周りとは違い綺麗に片付けられているそこは異国情緒に満ちた空間が形成されており、壁には幾つもの肖像画が飾られている。その空間が『特別』な場に感じられて、思わず自然と足が向いた。


 エーレンは丁寧に飾られた異国の物品の前で足を止める。

 綺麗な棚に置かれた透明の箱の中にあるのは、やけに年季の入った物品がいくつか見受けられる。花をモチーフとした髪飾りや、硬い装甲の手袋、色とりどりの宝石が散りばめられた首飾りや腕輪、綺麗な細工が施された櫛――他にも、よく分からないものが沢山。


「……きれい……」


 素直な感想を口にして壁に目を向けると、そこには四つの肖像画が飾られていた。

 性別も人種もバラバラで着込む衣服や髪型も大きく異なる人物たちの絵は、エーレンの目を惹く。

 白く簡素な衣服を纏い髪に花飾りを添えた白い肌の女性、弓を携える浅黒い肌の男性、黄金の派手な装飾品を身に着けた風格ある男性、長い髪を靡かせどこかに腰を下ろす女性。

 全く繋がりのないような絵ではあるが、彼らは皆黒い髪と赤の瞳を有し、自分と同じ色であることにシンパシーを抱く。

 それもひとつの理由なのだろうか、絵から目が離せず引き込まれるような気持ちが巻き起こって魅せられ、思わず息が漏れ、再び『綺麗』と口から素直に零れた。

 刹那、背後から降り注いだトラゲディの落ち着いた声がエーレンを引き戻し、慌ててその身を振り返らせる。

 背後に立ったトラゲディが瞳を輝かせて屈み込むと金の瞳が一気に近づいた。


「それ、気になる?」

「え、あ……ごめんなさい……」

「なんで謝るの。いいんだよ、別に見たって。……これはね、大切なひとたちを描いた絵なんだ」


 すっと立ち上がった彼の愛おしそうな目線は四つの絵画に順に向けられて、小さな溜息を零した後に静かにエーレンに問う。


「エーレンはこの絵、どう思う?」

「どうって……」


 トラゲディに訊ねられるままエーレンは再度絵を見上げる。筆遣いは違えど人物はどれも美しいものだった。精悍せいかんかつ勇ましい男性たちと愛らしく上品な女性たちは、見る者の心を奪うだろう。学も教養もなにもないエーレンだが、この絵が素晴らしく愛情を込めて描かれたものだということは感じ取れた。だからこそあれだけ惹かれたのだろうと理解し、思ったままを口にする。


「……とても、美しい絵だと思います。女の人は美人だし、男の人はとてもかっこいい。それだけじゃなくて、描いた人は、それぞれ描かれた人を愛してたんだろうなって、思います。……素敵な絵ですよ」


 しん、と静かになった空気の中で息を呑む音が小さく聞こえ、思わずトラゲディを見上げた。その先で見たのは、下からでもよくわかるほどに深い愛を宿した瞳を、幸福に満ち溢れたような視線を向けていた。

 彼にとって描かれた人物がどのような対象であったかは知る由もないが、愛情や尊敬を抱く尊く気高き相手なのだろうとすぐに分かる。

 エーレンは改めて引き込まれそうにな絵に目を向けて暫し心を満たす。

 それからどれほど経ったか、正気に戻ったらしいトラゲディが突然あぁ、と声を上げた。


「そういえば大事な話をしてなかったね。ごめんね」

「大事な、話?」

「うん。エーレンに聞きたいことがあるんだけど――」


 エーレンと目線を合わせ真剣な瞳で告げられたその問いかけに、彼は目を瞠り、大いに戸惑った。



 エーレンは、トラゲディに案内された自室だという豪華な部屋のベッドに横たわる。

 トラゲディの部屋よりは多少狭いといえども、充分すぎる程に広く、清潔で寝心地のいいベッドとその他多少の家具、部屋に色彩を加える装飾は、自分には身に余る程の部屋だ。

 暖かな布団に包まりながら思い出すのは、先程告げられた大事な話の内容。


 トラゲディは言った。『僕達と共に、君の家族を殺した犯人を捕まえて始末しないか?』と。

 つまりは仇討ちをしないかと、エーレンに持ちかけたのだ。

 どうやら以前、ヤーコプに会いにハルト村を訪れた際に村の惨状を知ったらしいトラゲディは、現地調査の末にここ数年世界各地で発生している、人間以外の者の手による殺人事件に酷似していることを突き止めた。

 トラゲディは続ける。事件解決のための調査をすると共に、仇討ちをすれば君の家族も浮かばれるのではないかと。

 トラゲディからの提案に、エーレンは頷くことができなかった。


 確かに彼の言うことは一理ある。理不尽に失った家族の仇を討つ機会があることはまたとない幸運ではあるのかもしれない。本来ならばチャンスだとこの話に乗るのがいいのかもしれない。

 だが、果たしてそれを行ってよいものなのだろうか? そんな疑問が重くのしかかる。

 家族を奪ったものはなんであれ憎く許せない。しかし家族のためという名目で、相手と同じようなことをやってしまってもいいのか、家族はこんなことを望んでいないのではないかという憂慮。それらがエーレンの肯定を阻止したのだ。


「別に今すぐ決めなくてもいいよ。君にとっては重要なことだからね。ゆっくり決めていい。……ただ、受け入れてくれるなら僕は協力を惜しまない」


 その心境を察したらしいトラゲディの厚意を素直に受け入れて、エーレンはこの部屋に案内された。

 今すぐ決めなくてもいい。そう言われても、さほど軽くならない重みに頭を悩ます。

 トラゲディの仕事の手伝いは一向に構わない。あのような食事ができてこんな温かい布団で眠れるのだから相応の仕事はすると決めていた。だが、それがまさか仇討ちとは。


「……俺、どうしたらいいんだろう」


 エーレンの悩みを孕んだか細い声は、暗闇に溶け込んで消えていった。



 それから数時間後、エーレンの部屋の扉が音もなく開く。顔を覗かせたのは寝巻き姿のトラゲディだった。真っ暗闇の中、彼は何につまづくことも迷うこともなく部屋を歩いて、ベッド脇に佇む。

 眼下にて安らな寝息を立てて眠るエーレンを見つめて、トラゲディは愛おしげに口を緩ませたかと思うと、ベッド脇にしゃがんで手を伸ばし黒い髪を撫でる。


「漸く会えたね、エーレン。僕、君に会いたくて会いたくて仕方なかったんだ」


 艶のある髪がさらさらと指の間を通って、頬をつぅとなぞり、布団からはみ出たエーレンフリートの小さな手を握る。温かい温度がじんわりと掌に伝わって心身ともに満たされて彼に対する愛が溢れ出る。

 トラゲディはこの日を少なくとも五百年は待ったのだ。今までを思えば五百年なんて短い期間ではあるが、それでも、それだけの歳月を待つのは苦行だった。だが遂に報われた。たった数十年の短い歳月であろうと、彼といられることは、トラゲディにはこの上ない幸福である。


「今回はエーレンフリートって名前なんだね、とってもいい名前」


 慈愛を湛えてエーレンを見つめた彼は、敬愛するように唇を手の甲に落とし、額、頬と優しく触れて、自然とエーレンの唇を塞ぐ。眠りが深いのだろうか、起きる気配は微塵もない。残念なような安堵するような複雑な気持ちを抱えながら、トラゲディは約束するようにゆっくりと口にした。


「今回も、ちゃんと僕が守るからね。君を絶対に支えて守ってみせるから。安心してね、エーレンフリート」


 力のない手を強く握りしめたトラゲディの姿を、黒猫がじっと見つめていた。

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