第2話 はじまり


 失ったものは全て埋めてしまう――本当はそうしたかった。

 家族の遺体の状態がもう少し綺麗であれば、せめて家に入って目にしても耐えられるものであればそうしただろう。実の家族でなくとも村の人達は家族同然だ。直視できる状態の人達がいればエーレンは穴を掘っただろう。

 しかしできなかった。見ることすら耐え難くおぞましい状態の彼等を見て、これ以上自分の中の綺麗な家族や村の人達が塗り替えられていくことに耐えられなかった。


「……ごめんなさい、みんな。お墓も、つくれなくて」


 鮮やかなオレンジ色に染まる天の元で、エーレンは最低限の荷物だけを腰に提げて自らが生まれ育った家屋の前に立つ。

 脳裏に浮かぶのは、昨日まで楽しく話していた元気な家族の姿。父親、母親、カイ、ゲルダ、そしてユッタ。一人一人の名前を口にして、エーレンは暗い瞳で背を向けた。

 嘗て幾つもの家族が暮らしていた村は、おぞましい状態のまま時が止まることになった。

 この村がとある事件の「一例」として認識されるのは、もう少しあとの話である。




 それから暫く経った夏のある日のこと。エーレンは帝国の首都であるベルリンへと辿り着いた。

 僅か13歳の子供の足では容易ではない道であったが、荷馬車に紛れたり旅の者に混ぜてもらったりしながらただ只管ひたすらに人が多くいるであろう都市を目指した。

 何故知り合いがいるわけでもないベルリンを目指したか。それはあのまま全てが消え失せた村にいるよりも、いっそ外に出てみる方がまだ希望はあるのではないかと、子供でも生きていく術が見つかるのではないかと期待しての事だった。

 しかし現実は甘くない。保護者もおらず身元もよく分からない、更には特になにか技術を持っている訳でもない農村出の子供をそう簡単に雇ってくれるところはなかった。

 日雇いで生活をしようと思えばそれだけのことが出来る技術が必要だ。『多くの手仕事ができる者は、何一つまともにできない』というような格言もあるが、本当になにもできないよりはマシである。

 結果的にエーレンは農作業で培った体力などを活かして建設現場にて人足としてなんとか働くことにしたが、当然賃金は安い上に扱いも理不尽にひどいもので、心休まる時はなく苦しい環境に身を置いていた。

 重労働に見合わぬ質素な食事でなんとか空腹を誤魔化すエーレンの中に渦巻くのは、どうしようもない虚しさと孤独感だけだった。


 だが、秋のある日のこと。そんな生活が突然終わりを告げることになる。


「お前の親と知り合いだったっていう奴が来てるぞ」


 ある日、そんな言葉で親方に呼びだされたエーレンは、親の知り合いという心当たりのない人物に内心首を捻る。

 己が知らない親の知り合いは勿論多くいるだろう。しかしこんな所にまで訪ねてくる相手とは? そもそも両親の知り合いがこんな都市部にいたのだろうか。

 疑問は浮かぶ。だが断っては折角面会に来た相手に申し訳が立たない。それは嫌だと感じて親方に大人しく着いていくと、その先にいたのは大きく見上げるほどに背の高い美しい青年だった。

 若草を思わせる爽やかな色合いの髪に優しげな目つきの金色の瞳。見るからに高級そうな黒を基調とした衣服を纏う彼の胸元には、白のスカーフが色を添える。

 貴族と言われてもなんの疑いもない高貴的な雰囲気を纏う青年だった。その証拠にいつも高圧的な態度をとる親方が丁寧に話してっている。そんな姿は役人や貴族といった力のある相手以外で見たことがなかった。

 そして疑う。こんな上流階級らしき人が両親の知り合いというのは本当なのか? と。ただの庶民きに貴族との縁なんてないはずだ。

 驚愕し怪しむエーレンに気づいたらしい青年は、軟らかな表情で眉を下げて口にする。


「疑うのも仕方ないよね。僕は今の君と会ったことはないから」


 身を屈めてエーレンと目線を合わせた青年は優しげに己の名を口にする。


「初めまして、エーレンフリートくん。僕はトラゲディ・H・ライト。君のお父さん……ヤーコプさんの知り合いだったんだ」


 その名は確かに亡き父の名前であった。

 聞けば、数ヶ月前まで定期的に父に仕事を依頼して報酬として金や肉を渡していたという。

 その話に漸くエーレンはひとつの心当たりを得た。


 思い出すのはあの悪夢の前日の夕食。町に出かけて知人の手伝いに行っていた父が中々な報酬と日干しした肉を持って帰ってきた。

 まさかその知人が、目の前の彼なのだろうか。そんな疑問を口にすれば、トラゲディと名乗った青年は表情を晴れやかに変貌させて頷いた。


「そう、その通り、その知人が僕だよ。……信じてくれるかな」


 トラゲディはエーレンの汚れた手を白い手で包む。金色の、宝石のような瞳は情に訴えかけるようにエーレンを見つめる。

 それでも完全に納得したのかというとよく分からない。何故父がこの貴族風の彼と交友関係があったのか、どのような仕事をしていたのか、疑問は尽きない。

 それでも、本当に父の知人だったのかもしれないという可能性が、エーレンの警戒を僅かに解く。


「……一応、信じます」

「ありがとう。なら、一時的に君の保護者になってもいいかい?」

「……保護者?」


 エーレンの小さな呟きを聞き取ったトラゲディは頷いた。

 父兄等の代わりにでもなるつもりだろう。その存在があることはまだ幼い当人にはとても大きなものとなる。それに、彼が本当に貴族であるならば、村にいた時よりも今よりもきっと豊かな暮らしを送ることができるだろう。

 しかし初対面かつ父の知人であったということくらいしか分からぬ彼に今後の全てを託すことに躊躇いはあった。相手が悪人でエーレンを貶めるつもりである可能性も否めないし、確実に豊かな暮らしが保障されているとも限らないのだ。しかし、何故だろう、彼は大丈夫だという気持ちがどこからか溢れ出す。

 エーレンは頭を悩ませたが、現状と彼の庇護に下ることの利点を本人なりに考えて、頷いた。


「ありがとう、エーレン」


 その頷きに、トラゲディは僅かに目を瞠り微笑したかと思うと滑らかな動きで立ち上がり、親方に体を向けた。


「では、先程のお話通り、エーレンさんを引き取っても宜しいでしょうか?」

「え、えぇ、構いませんよ」

「では、あとのことはこちらでやっておきますので」


 小さく会釈をしたトラゲディに倣って慌ててエーレンも頭を下げ、今までの気持ちを込めて一応『今までありがとうございました』と口にする。

 チラリと見やった親方の表情は、なんとも言えない複雑なものだった。



「家に着いて落ち着いたら色々と説明するから、とりあえず着いてきてもらえるかな?」

「わかりました」


 トラゲディの大きな手に引かれて町中を歩くと、傍目には異様な組み合わせにでも見えるのだろうから通行人の視線が刺さる。貴族と農民、そうでなくても大柄なトラゲディと小柄なエーレンの組み合わせは少々目立つだろう。

 エーレンは落ち着かずに顔を伏せるが、トラゲディは一切気にしていないようで上機嫌に自宅まで歩いた。

 辿り着いたのは一目見て立派な邸宅とわかる屋敷だった。正面から見ると少し縦に長いように見える屋敷は小さな城のような雰囲気であり、見上げれば三角の屋根が見えた。古めかしい屋敷なのかもしれない、門や壁が土色に汚れていた。

 初めて見るものに目を丸くするエーレンは、どのような形になるかは不明とはいえ、ここで世話になることに仰天した。その傍らで、大仰に反応をする彼にトラゲディは嬉しさで頬を緩ませる。


「びっくりしてるね」

「だって、こんな立派なお屋敷、初めてで……」

「そっか、そうだったんだ。君が嫌でないなら、ここが君の家となるんだけど、不満はない?」

「あるわけないです」


 即答したエーレンに安堵したトラゲディは、手を引いて更に進む。

 整えられた庭は、見たこともない色とりどりの花が沢山ありとても美しく色を添える。屋敷の中へと続く扉の脇にも飾られており、世話が大変だろうなあなど思いながら屋敷の中に踏み込んだ。



 その中は、エーレンにとってはまさに別世界だった。

 天井は高く、窓から差し込む光と壁に設置されたランプに灯された火が室内を照らす。床は不思議な模様を織り成す絨毯が所々に被せられていて、どうみても高級感があるこの場は、自分に似つかわしくない異空間とも言えよう。

 衝撃的なものに目を丸くして立ち尽くすエーレンだが、トラゲディに心配そうに声をかけられて慌てて我に返る。返事をした際に声が裏返ったのが少しだけ恥ずかしかった。


「緊張しなくていいんだよ。ここが君の家になるんだから」

「それは、下働き人として……ですよね」

「何言ってるの、君をそんなふうに扱うわけないよ。……そりゃ、それなりの仕事はしてもらうことになるけど、僕は君を愛してるし支えていきたいんだ。そんな相手にひどいことするわけないでしょう」

――なんか変なことを言われた気がしたぞ。


 そんな引っ掛かりは覚えたが、ともかく、目線を合わせて真剣に言った彼の言葉が嘘とは思えなかった。だけどやはり何故ここまでしてくれるのか、父は一体どんな縁があって彼との繋がりを得たのか、トラゲディからの説明を聞きくまで警戒は解かない方がいいだろう。


 そう考えるエーレンの意識をトラゲディの声が引き戻す。目を向けると彼の視線は大きな階段を降りてきたシンプルなワンピースドレスを纏った若い女性に向けられていた。彼女の手には毛の長い猫が抱かれており、軽やかに階段を降りた彼女は、トラゲディの前で立ち止まる。


「その方が、エーレンフリートさんですか」

「そうだよ。今日からここで暮らしてもらう予定だけど、いいよね?」

「いいと思いますよ。ヴァイノさんも了承していましたから」


 女性はトラゲディからエーレンへと視線と体の向きを動かすと、後ろで纏めた髪が僅かに揺れた。目元にかけられた眼鏡の奥にある、黒みを帯びた緑色の瞳と視線が合って少しだけ胸が跳ねた。女性と話すのはやはり慣れない。


「初めましてエーレンフリートさん。私はエルナといいます。この子はラウリです」

「初めまして、エルナ、さん。えっと……トラゲディさん、の、奥さんですか?」

「いいえ違います。私には夫はいますが、トラゲディさんではありませんよ」

「あ、そうなんですか、すみません」

「残念なことに僕は独り身だよ」


 あっさりとエルナが口にする隣でトラゲディが小さく笑ったのが見えた。

 ならば先程言っていたヴァイノとかいう名前の人が彼女の夫なのだろうかと片隅で考えながら、エーレンはまた別の些細な問を投げかける。


「その猫、貴方の飼い猫なんですか? 随分懐いてるように見えますけど」

「飼い猫じゃありません。ラウリは私の息子ですよ」

「えっ」


 息子、そうエルナは確かに言った。再度訊ねてもエルナは息子というが、抱いているのは猫だ。どう見ても毛の長い猫。それが息子?

 理解出来ぬままエーレンはエルナの胸に抱かれた息子だという猫のラウリを見つめる。彼は機嫌良さそうにゴロゴロと喉を鳴らしながら彼女の腕を揉むように動かし、そんな猫をあやすようにエルナは撫でる。


「はい、私の夫は猫の獣人ですから。この子は夫に似たので」

「ネコ、の、ジュウジン……?」


 はい、と頷いたエルナに対しエーレンの頭はいきなりの単語に混乱し驚いて喉を詰まらせた。ジュウジンとはなんだ。それが夫とは一体どういうことだ。

 混乱必至ではあったが、トラゲディに簡単な説明を受け冷静さを取り戻していくにつれ、辛うじて母や親戚が語ってくれた不思議な物語とある程度結びつけることができた。

 御伽噺でしか存在しえぬ生き物の話。その中にはまるで人のように動き生活する獣の話や、とある条件により獣に変身する人間の話があった。エルナの夫はそれの猫版ということなのだろうか。

 思い起こした記憶により、本人なりの理解を得たが、突然遭遇した不思議な存在に直面し面食らう。物語だけと思っていた不可思議な存在が、予想外すぎるほどに身近にあるのかもしれない事実が全く信じられない。勿論この目で見ぬまでは実感はない。だが、単純に少しだけ胸が踊った。疑いや恐怖といった感情がゼロという訳では無いが、実際に見てみたいという好奇心もある。


「エルナさん。……あとであなたの旦那さんに、会ってみてもいいですか」

「ヴァイノさんがいいなら、勿論」


 優しげに口にしたエルナの様子に少し安堵したエーレンの傍らでは、ひとり放置されていたともいえるトラゲディが思い出したように口にする。


「そういえばエーレン。仕事したあとだから汗かいてるし体も汚れてるでしょ? 清めないと。風呂場行こう」

「えっ、風呂場があるんですか」

「勿論! さ、こっちだよ」


 仰天するエーレンをトラゲディが風呂場へと誘う最中、ふとエルナに振り返った。


「今日は折角だからここの仕事仲間の紹介もしたいんだ。だから君たちも一緒にご飯、いいかな?」

「構いませんよ」

「ありがとう、なら、お手伝いさん達に伝えておいてくれる?」

「分かりました」


 肯定する返事に緩く手を振った彼は、エーレンと共に風呂場へと消えていった。


 

「やっぱり貴方って、貴族とかそういう裕福な人だったんですね」


 風呂場に向かうと待っていたのは作業着に身を包んだ男だった。彼にエーレンを任せたトラゲディは、他にも用事があるからと風呂場から去っていく。そのため男に洗髪をされ身を綺麗に清められ、今までにない経験をし入浴を終えた。屋敷に居た子供のお古だからと貸し出された綺麗な衣服は、今まで着ていた服のどんなものより品質のいいもので、どこか気が引ける。

 立派な屋敷と広い敷地に内装、風呂場や使用人といった存在に衣服の高級感。それらを踏まえてやはり貴族なのだと思っていたのだが、トラゲディは緩く否定するのだ。


「違うよ。僕は爵位なんて持ってない。ただの商売人だ」

「それなら随分儲かってることになりますね。こんな立派な浴室まで持ってるなんて」

「ここは一応僕以外の家族も幾つか住んでるからね。大きな風呂場はいるでしょう」


 トラゲディ曰く、ここは集合住宅のような作りとっており、二階部分より上部にはエルナ達家族を始め他にも異種族の夫婦やその他異種族などが住んでいるらしい。

 トラゲディ達はこの屋敷を拠点としとある商売を営んでいる。ここに住むものはその商売に関わる仕事仲間だそうで、皆で使うこともあるからだから浴室も広いのだろうという。

 広い浴室に置かれていたのは木製の丸いバスタブ。そこに溜められた湯を沸かすための薪も充分にあった。一般家庭にはなかなか存在しない浴室は、あるだけで裕福であるという証拠にもなっており、それが男女それぞれに分かれているとなれば費用も多くかかるに決まっている。

――この人、若いのにすごい人なんだなあ。

 そんなことを思いながら、案内されるままにエーレンは食堂へと通された。


 いい匂いが立ち込める食堂は綺麗な装飾が壁に施され、赤い絨毯の上にテーブルクロスが敷かれた長机があった。そこに揃えられた幾つかの椅子が、この家に住む人数の多さを物語る。トラゲディとエルナ、その夫であるヴァイノと子供たちが何人か。それの分を差し引いてもあと4、5人は住んでいるらしい。思ったより大所帯だ。

 そんなことを頭に、自分は何を手伝えばいいのだろうなどと思っていると視界の端に大きな陰を捉えた。自然と目を向けると、そこには礼服を着込んだ毛の長い大きな猫の姿があった。


「……えっ」


 距離が離れていても大きいと分かる体躯、恐らくトラゲディよりも大きいだろうその猫は、ラウリを腕に抱えるエルナやいつの間にか食堂に来ていた数匹の猫に囲まれていた。ピンと尻尾を立たせてエルナに擦り寄るその猫が恐らくヴァイノというのだろうと察する。

 一応聞いていたとはいえ、その存在を目にし僅かながらの恐怖を抱くが、僅かに勝る驚きと好奇心により、エーレンは感嘆の声を上げた。


「ほんとに猫だ……」


 その声に気づいたらしい彼が耳をピクリと動かし、大きな目と足をエーレンに向けた。


「初めまして、君がエーレンくんかい?」

「えっ、あ、はい、そうです!」


 予想外に大きく出た声に自分で驚きながら目の前に立った彼を見上げるが、最大限見上げても顔が視界に映らない程に大きく少し首が痛い。顔を歪めるエーレンに気づいた彼が慌ててしゃがみこんで漸く視線が近づいた。距離が近くなってはっきりと分かるが、目の前に映るものはやはり長毛の猫。

 愛らしい黄を目の奥に宿す彼は白い毛色に黒や茶の色が混ざった毛でふわふわとしており、触り心地が良さそうだ。しかしその毛が見えるのは顔や尻尾だけであり、体や下半身、手は非常に大きいサイズの礼服や手袋に被われていた。

 皮製の手袋を外して、白い毛に被われ肉球を有した手を差し出して彼は徐に口を開く。


「初めまして。私はヴァイノ・ユーティライネンという。エルナの夫で、見ての通り猫の獣人だ。良ければヴァイノと呼んでほしい」

「ヴァイノ、さん」

「あぁ、宜しく。私は人間じゃないから怖いかもしれないが、できればあまり警戒しないでほしい」

「えぇ、あ、はい。俺のことは……エーレンって呼んでください」


 白い手を握れば柔らかい毛とぷにぷにとした肉球が掌に当たって気持ちいい。どう見ても猫であることや、体が大きいことはまだ少し怖くはあるが、この肉球の感触はいいものだなと少しだけ思った。

 ヴァイノを見て、エーレンは色々気になることもあった。どうして猫なのにそんなにも体が大きいのか、どうして人の言葉を話せるのかなどあるが、聞いてもいいのかよくないのか分からない。恐怖や警戒心と、純粋な興味が混ざった結果、いっその事本当に訊ねてみるかと思っていた頃。


「皆様、お食事の用意が整いました」


 食堂に響く凛とした涼やかな女性の声に、その願望は一旦絶たれ、示された大人しく席に着くことにした。



 今回ここで食事をとる者達が集まって適当に長机に向かう。エーレンはトラゲディの向かいに座るように指示をされて、ヴァイノやエルナ、子供たちはそれぞれ好きなところに腰を下ろした。

 皆の前に用意されていた食事はご馳走だった。

 籠に多く積まれた白いパンに銀食器に盛られた肉料理が2品ずつ。厚くスライスされ程よく焼かれた豚肉にソースを掛けたものと、牛肉と玉ねぎを柔らかく煮込んだシチューにマッシュポテトが添えられている。瑞々しいサラダもボウルに山盛り乗せてあり何やら調味料がふんだんに振りかけられている。隣に置かれた小皿にはブドウが艶やかに並んでいた。

 ビールやワインといった飲み物も全員分充分に用意されており、ご馳走という他ないだろう。


「これ、ほんとに、食べていいの?」


 これらが自分の前に出されているということが信じられなくて、恐る恐る投げかけた問を向かいに座るトラゲディはにこやかに肯定した。


「もちろん。好きなだけ食べていいよ」


 そう言われてしまえば我慢も効かなくなるものだ。嘗て家族と行っていたように食前の祈りを済ませたエーレンは、真っ先に白いパンに齧り付く。柔らかい食感と豊かな風味が口いっぱいに広がっていく。


「……おいしい」

「そう? そりゃよかった」


 にこにこと満ち足りた様子のトラゲディには目もくれず、1つ2つ3つとパンを口に頬張った。彼にとっては作ることも買うことも出来ぬものであった白いパンがこんなにも沢山あって、いくら食べても怒られもしないというのは、この上なく幸せと言えよう。

――みんなにも食べさせてあげたかったな。

 叶わぬことを心の中で思いながら、無我夢中で肉にもありつく。分厚くスライスされた豚肉も牛肉と野菜のシチューも本当に美味だ。特に牛肉なんてそう簡単に食べられるものではない、今までで一番のご馳走を堪能できて心身ともに満たされていった。


「すみません……がっついてしまって」

「いいんだよ。君はいつも料理を美味しそうに食べてくれる。それを見るのは僕好きなんだ。だから問題ないよ」

「私達も充分に頂けた。君が悪く思う必要は無い」


 トラゲディとヴァイノからそう言われて胸を撫で下ろすが、前者の不思議な言い方に首を傾げる。

――この人とご飯食べたの、今日が初めてだよな……?

 トラゲディは最初『会うのは初めてだ』『初めまして』などと口にしたはずだ。ならば食事風景など見ることはあるまい。

 だが考えてもよく分からないので、エーレンは特に気にしないことにしてグラスに注がれたビールを飲んで息をつくと、ワインを飲んでいたトラゲディが真剣な顔つきになる。


「さて、ゆっくり話できる時間がなかなか取れなくて申し訳なかった。ここにいるみんなの紹介と、君の疑問に順に答えていこうと思う。いいかな?」

「もちろんです」


 漸くか、というのが正直な感想だった。

 トラゲディと出会ってから数時間、未だ解かれていない疑問は多い。風呂や食事のせいでかなり絆されているが、それでもいくつかの疑問は解消されねばならない。

 ふぅ、と息を吐き、机の上で手を組んだトラゲディは改めて名乗る。


「改めまして、僕はトラゲディ・H・ライト。トラゲディ、もしくはトラゴと呼んでほしい。この屋敷の主で、君のお父さんの知り合いだったんだ。……そしてヴァイノは僕の仕事仲間で、エルナさんはその奥さん。あと2人の子供たちだね」


 目を向けると、食後のフルーツを食べていた猫達が口々に自分の名前を言う。いまここに居るのは三匹、あと今外出中の子供が二人いるらしく、大家族だと素直に思った。

 続けてトラゲディは、ここにいる他の住人の名前を指折り数えていく。


「あと、ミーカとサフィラ……狼男とニンフの夫婦、鬼のキラと、キメラの静麗ジンリー。あとは笠原カサハラっていう妖怪、レベッカっていう女の子がいるんだけど……今はそれぞれ外出してる。ここにいたらまたそのうち会えるよ。――で、君に何から話そうか」


 そこで言葉を区切ったトラゲディはエーレンの瞳を見つめる。真剣に、しかし僅かに笑みを口元に湛えるトラゲディに戸惑いながらも、エーレンは暫し考えて口にした。


「……いろいろ気になることはあります。でも、そうですね……やっぱりまずは貴方達が何者なのか、商売って何をしてるのか……あと、なんで、人間じゃないものが、いるのかとか……そのへんを聞きたいです」

「いいよ、じゃあ説明しよう。長くなるけど、しっかり聞いてね」


 酒のせいかそれとも別の理由か、赤い顔で嬉しそうに声を上げたトラゲディは軽やかに手を叩いた。

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