Lightning

不知火白夜

第1話 村の生活


 暗く光のない道を男とも女と判断つかぬ人物が延々と歩いていた。己にとっての光ともいえるただ一つの眩い存在を求めて。

 何度も何度も探し求める者の名を呼んで幾つもの場所を渡り歩いて、足を止める。暗く重苦しい道に光が差しているのが見えた。

 捉えた瞬間、そのものの暗い顔が一瞬にして晴れやかになった。金色の瞳からはらはらと零れ落ちた雫が地べたへと落ちていく。

 追いかけた先で目にしたのは、黒く艶やかな髪と丸く赤い瞳をもつ幼い子供。衣服は実用性に富む細身の地味なチュニックや皮ズボン。庶民層であろう彼の暮らしは貧しそうではあるが、家族であろう相手と微笑み会話を楽しむ彼の場所は光に満ちていた。


「……やっと、見つけた」


 子供には決して届かない声を零して、幸せそうに微笑んでいた。



 中央ヨーロッパに存在するとある帝国にあるブランデンブルク、そのどこかに位置するとある農村、ハルト村。小さな農村に広がる淡い茶色のライ麦畑にて、黒い髪の少年が鎌を片手にライ麦を刈る。立派に育った作物を手で掴みザクザクと根本から刈り取っては、既に成されたライ麦の山に積み重ねる。

 周辺では同じように麦刈りや運搬に勤しむ者たちの影がいくつも見え、今新たにやってきた幼い男女も当然農作業に従事する者たちだ。


「兄ちゃん、刈るのぼくもやる」

「わたしも!」


 幼い弟妹に『兄ちゃん』と呼ばれた少年の名はエーレンフリート。この農村にて家族と共に農作業に従事しながら生活している13歳の少年だ。

 彼は頭巾から零れた黒く艶やかな髪を耳にかけながら、鎌を片手に声のする方へ振り向いた。赤い瞳に映るのは、丈の長い布製のブラウスの下にぴっちりとした長いズボンを身に着けた短髪の少年と、頭巾を被った上下繋がりのゆったりとした衣服を纏う少女だった。二人とも手には鎌を持ち、腰に巻いたベルトにはナイフや小瓶をぶら下げている。


「カイ、ゲルダ、お前らもやってくれるんだな。なら隣の列を頼む」

「うん!」

「わかった!」

「鎌危ないから気をつけろよ」


 兄であるエーレンフリートことエーレンの忠告に二人は元気よく返事をし、楽しげに話しながら作業に取り掛かる。

 鎌で手を切ったり運ぶ際に転んだりしないかといった心配事はあるが、あの二人ばかり気を取られて手を止めては意味がない。燦燦と輝く太陽の下、額に浮かぶ汗を袖口で拭って鎌を振るった。


 暫くして太陽が丁度真上に昇った頃、休憩にするかと畑の片隅でカイやゲルダと昼食をたべていると、遠方からエーレンの名を呼ぶ男性の声が聞こえた。

 淡い茶髪の髪を手ぬぐいで拭く彼は、母方の伯父であるべーティ。彼も農作業の休憩に来たのだろう、エーレン達の輪に混ざり腰を下ろし土瓶から一気にビールを煽った。かなりの量を喉の奥へと流し込んで漸くエーレン達に声を向けた。


「お疲れさん、ほら、皆ビールまだあるか?」

「ありがとうございます。まだ結構残ってるので大丈夫ですよ」

「そうかそうか」


 大らかに笑うべーティの隣で、エーレンはベルトに吊るしていた瓶を外しビールをぐびっと喉へと流し込んで喉の乾きを癒す。農作業で干からびた体によく染みる液体を堪能する。

 隣では、喉が乾いていたであろうカイとゲルダが、自分用の瓶からちびちびとビールを口にしているのがみえた。


 降水量が少なく飲料に適す水の確保が難しいこの地域において、貴重な栄養源でもあるビールは飲水の代わりとなっている。生水を飲むには危険性があり、このビールはアルコール度数がとても低いことから農作業の合間にも飲める。それは大人だけでなく子供にも同様だ。そのため幼いエーレン達でも体の渇きを癒すために躊躇いはない。

 カチカチに日干しした黒いパンをビールで湿らせ、柔らかくしてから口に含む。何とも微妙な味だがなんであれ食べなくては仕事にならない。世間話をしながら昼食を進めていると、ふとべーティがこんなことを口にした。


「そういやお前の母さんの調子はどうだ? 元気か?」

「ちょっとつらそうな時あるけど、最近はまだ元気そうだよ」

「そうかそうか、母子ともに無事だと一番いいんだが」


 エーレンの母は身重でもうすぐ子が産まれるのではという頃まで経とうとしている。重いお腹を抱えて自宅で縫製に勤しむ彼女は以前は体調が芳しくないようだった。しかし現在はエーレンの目から見ても大分調子よく見える。

 べーティにとっては妹である彼女を心配する気持ちがもちろんあったのだろう、エーレンの返事を聞いてほっとしたように息をつく。

 そんなやり取りを黙って見ていたカイが、黒パンをもそもそと咀嚼し飲み込んで、ねぇと声をあげる。


「なんだよカイ」

「兄ちゃんとユッタ姉ちゃんのところには、いつ赤ちゃんくるの?」


 純真無垢な瞳で投げかけられた言葉に思わず噎せた。不思議そうに見つめる弟の視線が逆に気恥ずかしさを煽り、べーティがけらけらと笑いながら背を摩った。


「いい反応するなあエーレンくん!」

「兄ちゃん、大丈夫?」


 心配する声が二人分重なって聞こえた。心配そうに見つめる弟妹の視線と重なり、何となく目を逸らした。


「大丈夫、大丈夫……で、えっと赤ちゃんだっけ? まだ俺達のところには来ないよ」

「そうなの? なんで?」

「どうしてこないの?」

「どうしてって……」


 裏のない疑問に、思わず言い淀んだエーレンは、なんと返すべきか悩み目線を宙へと向けた。それを見て、ベーティが助け舟を出すように軽い調子で言う。


「まだエーレンくんとユッタちゃんはちゃんと結婚してないだろう? 神様に誓いも立ててない。だからまだこないんだよ」

「そっかあ」


 べーティの答えに納得したらしいカイとゲルダは、楽しみだねと零し再び昼食を再開する。

 複雑な胸の内でべーティに軽く礼を言い、ふと考えるのは名前が出たユッタのこと。

 ユッタとは、このまま順調にいけば夫婦となるであろう近所の娘だ。小さい頃からよく知っており歳も近い。大病にかかったことも無く体も丈夫で、もう数年経てば子を生むにも問題はないだろうと親同士が話を進めた。

 結婚なんてまだ早いのではないかと思ったが、エーレンくらいの年齢になれば相手を探すこともよくある。

 だから、ある日突然話を持ち出された時は少し驚いたが、そんなものなのだろうとあっさりと受け入れた。親には相手がユッタで構わないかとも聞かれたが、そこに嫌悪感はない。それどころか彼女が相手でよかったと思うほどだ。

 一方ユッタもエーレンならいいと了承したため、上手くやって行けるのかと確かめる意味合いも兼ね、この家で共に生活し様々な農作業に従事し始めて暫くたつ。

 ユッタのことが好きか。それを聞かれるとまだ幼いエーレンにはよく分からない。彼女でよかったと思ったことは事実だが、それが好きだからなのかはハッキリと分かっていない。だけど、せっかく夫婦になるのだから大事にしよう、仲良くできたらいいと考えている。だが、子供についてはまだ早すぎる。もう少し大人になってからだ、そう、それでいい。

 落ち着かせるように漠然と考えながら残りのパンをビールでなんとか流し込んだエーレンは、午後からの農作業に集中することに決めた。



 午後からの農作業を終えて日が暮れた頃、エーレンはカイやゲルダと共にくたびれた状態で帰宅すると、ポタージュのいい匂いが鼻についた。

 各々「ただいま」と口にし扉を開けると、古びたテーブルに向かう母が大きなお腹を抱えて椅子にゆったりと腰をかけていた。声に気づいた母が茶の髪を揺らしながら振り返り微笑む。


「おかえりなさい、エーレン、カイ、ゲルダ。みんなお疲れ様」

「お母さん、ただいまー!」


 晴れやかな笑顔で駆け寄ったカイとゲルダは楽しげに今日の出来事を話し、母がそれを頷いて聞きながら頬に付着した土を払う。


「母さん、体調はどう?」

「ありがとうエーレン。今日は平気よ」

「そう、よかった」


 胸を撫で下ろしたエーレンは取っ手がついた壺に入れられたビールを煽り、いい匂いの元である台所へと向かう。

 台所では、婚約者であるユッタが夕食作りの真っ最中だった。火にかけられた鍋の中にあるのはじゃがいもや豆類を多く使用したポタージュで、黒パンも用意されている。


「おかえりなさい、エーレンくん」


 美しい碧眼を向けて優しく声をかけるユッタの声に、ふと昼間のカイとのやり取りを思い出して何となく目をそらすが、そんなことは微塵も知らないユッタは、普段と様子の違うエーレンに戸惑うばかりだ。


「エーレンくん、どうしたの? 元気ない?」

「あ、いや、そんなことないよ。……ただいま、ユッタさん」


 慌てて取り繕うようにではあるが、ユッタの方へ顔を向ければ、彼女は安心したように表情を緩めた。妙に感じる胸への不思議な感覚に心を乱されながらも彼女へまた言葉を投げかける。


「あー、えっと、なにか手伝う?」

「いいよ、エーレンくん疲れてるだろうし、お義母さんやカイくん達のところにいてあげて」

「ん、そう。ならなんか手伝えることあったら呼んで」


 軽く笑みを浮かべて頷いたユッタから離れ身を落ち着かせつつ、弟妹の相手をしながら窓の外を見る。

 徐々に外が暗くなっていくこの時間帯、直に町へ知人の手伝いに行っている父が帰ってくるだろう。今日はなにか土産はあるのだろうか。この前はじゃがいもを持って帰ってきてくれたが、もし肉でもあれば夕食も豪華になるのだが。

 その時キィと音を立てて扉が開いた。皆が視線を向けた扉からひょっこりと姿を現したのは、なにやら袋を抱えた父だった。


「みんな、ただいま」


 快活な笑顔を浮かべて帰宅した父に、弟妹はわぁっと表情を明るくさせてすぐさま飛びつく。


「お父さんおかえりー!」

「おかえりなさい!」

「ただいま、カイ、ゲルダ。お前達元気だなあ」


 はは、と軽く笑いながら子供たちの頭を撫で声をかけられた妻へと笑みと優しげな声を向けて、呆然と見ていたエーレンの頭も乱暴に撫でる。衝撃で少し長めの黒い髪が揺れた。


「ここ最近お前に任せっきりでごめんな。どうしてもって知り合いに言われて」

「いいよ別に。カイ達にも手伝ってもらったし。その仕事お金結構貰えるし。でも、明日はやってほしいな」

「あぁ、もちろん!」


 ボサボサの黒く短い髪にところどころ汚れた衣服。父も相当疲労しているだろうに、妻子たちへの気遣う彼はやはり優しく思えた。


「そうだ、今日はみんなにお土産があるんだ」


 上機嫌で口にした父は、手に持っていた袋をテーブルに置く。皆の注目を集める中彼が取り出したのは、日干しされ乾燥された肉の切り身だ。それを目にした瞬間、子供たちが嬉しそうに大きく歓声を上げる。お肉だお肉だとはしゃぐカイやゲルダと同じように気分が高揚しながらも、肉を持ち帰った理由をエーレンが訊ねると、父はにこりと笑って続ける。


「貰ったんだよ、今日の仕事の報酬のひとつってことでね」

「そうなの、ありがたいわ。今度お礼をしないとね」

「ねぇお母さん! せっかくだから少し食べようよ!」

「いや、今から煮込んだら時間かかるし、それに今後のためにとっとくべきじゃないかな。肉なんて貴重なんだから」

「えー、まだ秋にもなってないじゃん!」


 高揚のままに肉を食べたいと主張するカイをエーレンは冷静に諭すが、中々素直に聞き入れない。

 素直に言えばエーレンとて肉は食べたい。だがせっかく保存しやすいようにしているのだから別に今日でなくともいいのではとも思う。

 全部食べてしまうとは誰も言っていないにも関わらず、大真面目に考えるエーレンに、カイとのやり取りを聞いていた母がぽつりと言う。


「なら、少しだけにしましょう」

「やったあ!」

「エーレンだって食べたいでしょ? なにも全部食べるわけじゃないんだから、ね?」

「……そ、そっか……」


 きまりが悪そうに俯いたエーレンに朗らかな笑顔を浮かべて徐に立ち上がった母が、肉の切り身をひとつ手にして台所へと向かう。

 包丁で肉を適当な大きさに切り分けて鍋に放り込んで暫く煮ると、乾燥していた切り身も柔らかくなった。

 そんなこんなで今日の夕飯は少しだけ豪華さが加えられた。黒パンと肉にじゃがいもに豆と具沢山になったポタージュ、じゃがいもを蒸したものとビールである。

 食事の際の祈りを捧げて、今日一日の報告をしながら黒パンをポタージュに浸し、思いがけぬ報酬であった肉を食べる。

 汁を吸ったことで少し柔らかく解れた肉はやはり美味だ。美味しいね、と誰ともなく口にして穏やかに食事は進んだ。

 次第に食事も終えて簡単に身を清めれば、あとは明日の準備をして寝るだけだ。



 そう、寝室にいって朝まで眠るだけ。それが、エーレンにとっては少し戸惑いのあるものとなっていた。

 それは何故かというと、エーレンは現在ユッタと二人同じ部屋で寝るようになっていたからである。

 さほど広くもなく大したものもない部屋の片隅に並べられた2つのベッド。後に夫婦になることを考えればこの状況はおかしくはないのかもしれない。しかし前述のようにエーレンは未だこの状況に慣れず、毎夜のように戸惑っていた。

 それもそのはず、エーレンは母や妹以外の女性と共に寝るなんて一度もなかったのである。

 それなのにわいきなり婚約者相手といえ女性と同じ部屋で寝るという行為は、なんだかとんでもない事のように思えた。いや、婚約者でなければ絶対にアウトなんだからこれはとんでもないことだろう、確実に。

 たかが同室されど同室。同じ部屋で眠るだけでなにもする予定はないが、エーレンは複雑な心持ちで部屋に入る。

 そこでは既に寝る用意を済ませたらしいユッタがエーレンのベッドを整えていた。


「あ、ありがと、ユッタさん」

「どういたしまして。……顔赤いけど、大丈夫?」

「だいじょうぶ、なにもないよ」


 指摘されたことで更に赤くなりそうな頬をぺし、と叩きながらエーレンはぎこちなくユッタに声を向ける。


「ユッタさん、お、おやすみ」

「はい、おやすみなさい。明日もがんばりましょ」

「うん、そうだ、な」


 外や家族と共にいる時は意外と普通に話せるのに、二人きりになると簡単な会話でさえ取り繕ったようになってなんとも情けなくもある。同時に妙に胸がドキドキする不思議な感覚がエーレンの中にあった。昼間のカイとの会話も関係しているのだろうか、そうだとすれば引きずりすぎである。

 エーレンの気持ちなど知らぬように、ユッタは笑顔で返してベッドに潜り込む。夕食作りの際には頭巾の中に纏められていた金髪のサラサラとした髪が、ベッドに広がる。それをまじまじと見るのも良くない気がして、慌てて自分もベッドに潜り込んだ。

 ほんの少し遠くに彼女がいるのだと思うと眠れなくなりそうだからあまり考えずに目を閉じた。ユッタとの生活にもう少し慣れれば、二人きりでもうまく話せるようになる筈だ。

 ベッドの中でエーレンは次第に夢の世界に誘われる。忙しいながらも何処か刺激的で平和な日々は、明日も明後日も続くものだと信じて疑わなかった。

 しかし、そうでないこともあるのだと思い知らされる。



 何故なら、翌朝エーレンが目にしたものは、まるで赤い染料をぶちまけたように朱に染まった部屋と、頭部がすっかり無くなって、まるで獣に噛まれたように悲惨な身体へと変貌していたユッタだったからだ。


「…………は……?」


 凄惨な光景を、エーレンは暫し受け入れることが出来ずに呆然とする。床と壁には赤い染料と思わしきものが大量に付着している。天井の一部にまで斑ながらも赤色が飛び散り、室内には異様な空気と形容しがたい悪臭が立ちこめる。


「…………なんだ、これ……、なに……?」


 声に答えるものはどこにもいないが、それでもじわじわと現状を理解せざるをえなかった。鼻につく鉄のような臭いと、色んな嫌な臭いを混ぜたような臭いがエーレンの思考を無理矢理正していき、改めてその惨状を眼前に叩きつける。

 エーレンは直視してしまった。ベッドに横たわるユッタだったものを。


「っ、あ、ァあぁぁぁぁあ゛あ゛あ゛あ゛あァア゛ア゛ア゛ッッ!!!」


 絶叫し、エーレンは膝をつき、嘔吐した。吐き出すものなんて殆どない。それでも胸の内からこみ上げる気持ちの悪さに吐くしかなかった。


「う゛ぇええ゛っ、げぇっ、はぁ、はあ……」


 びちゃびちゃとこぼれ落ちる塊と唾液は床にシミをつくる。溢れ出る荒い息をなんとか整えて涙を拭い、ガクガクと震え力が入らない足を叩いてなんとか恐怖心に抗った。「逃げないと」わけもわからないままにその一心で壁を支えに立ち上がって部屋を飛び出した。

 ユッタの方へ目を向けることはしなかった。これ以上目にすることは彼女の嫌な姿を脳裏に焼き付けることになる。それは嫌だった。きっと彼女だって綺麗な姿を覚えていてほしいだろうと信じて。


 ユッタとの寝室を出て向かうのは両親と弟妹の眠る部屋だ。ユッタがあんなことになっているのだから彼等も無事ではないかもしれない。それでも一縷の望みをかけるように名を呼び部屋に踏み込む。


「父さん! 母さん! カイ、ゲルダ! 無事――」


 扉を開けた瞬間、エーレンは喉を詰まらせ、鼻につく血腥い悪臭に思わず嘔吐く。

 そこは予想通り、いや、それ以上の凄惨な光景が広がっていた。

 床に壁、天井をも覆う赤黒い色は、まだ乾ききっていないところからぽたぽたと滴り落ち、床に広がる赤を濁らせる。

 古いベッドの上に眠るのは頭部のない父の体と、頭部はあるが四肢や胴体の一部が何か獣に食われたように無くなっている弟妹の体。そしてもう1人、床に転げ落ちているのは母か。頭部はあるが、身篭って大きくなっていた腹部は抉り取られて空っぽになっていた。


「な、なに、なん、で、ぇえあ゛っ、お゛ぇええ゛え゛っ」


 フラフラと後ろの壁まで後退しへなへなと座り込んだエーレンは再び吐き気に襲われた。凄まじい臭いとおぞましい状況に息を荒らげ、自然と涙が頬を伝い、胸の内から深い悲しみや絶望が広がっていく。震えなんて収まる気がせず歯はガチガチと音を鳴った。

 ――なんだこれは、なんだ、これ、なんでみんなが……!?


 混乱する頭でエーレンは現状に答えを求めてなんとか叩き出したのが、少し離れた所にある森から、熊や狼といった獣がこの村に来たという可能性だった。ただ、もし獣だった場合ユッタがあんなことになったのに何故エーレンだけ助かっているのかという疑問が残るのだが、そんなことに気を回す余裕は彼にはない。

 ただなんとか震える体を無理矢理立たせて近所に知らせようと外に出るだけで精一杯だった。


 扉を開けた先には晴れた空が広がっており、畑があった。日が出てさほど時間が経っていないためか、まだ少々薄暗くもあるが、雲ひとつない爽やかな空は健在だ。あぁよかった、外に異変は無さそうだとぼんやり考えて気づく。――妙に、静かだ。

 いつもならこの時間外に出ている人が何人かいるし、そうでなくとも鶏や豚の鳴き声やが響くはずである。近所に住み着いた犬が走り回り、猫が屋根で寝ていてもおかしくはない。

 嫌な予感がひしひしと体に伝わって、自然と目が見開かれた。


「……まさか、そんなわけ、ないよね」


 誰かに確かめるように吐き出された声は小さく脆い。もちろんその言葉に誰も返さぬまま、エーレンはまず伯父の家へと歩を進める。

 最悪の事態を想定しながら訪れた伯父ベーティの家の前に立った瞬間、強く感じ取った血腥い臭いに噎せ、ドアノブに掛けていた手を止める。

 ――ここは開けちゃ駄目だ。

 震えた手を離して、ガクガクと乱れる足でゆっくりと後退し、嫌な予想を思わず脳裏に浮かべる。

 ――伯父さんと、伯母さんも、いとこのみんなも、あんなふうに……?


 嘘だと思いたいあの悲劇を想定し、胸が潰れるような悲しみと恐怖がエーレンを襲う。眉間に皺が刻まれくしゃくしゃになった表情でぼろぼろと涙と嗚咽を零しながら別の家屋へと向かう。

 底知れぬ悲しみと絶望、恐怖に気が狂いそうになりながらもそれでも彼は歩みを止めることはせず、次の家、次の家と可能な限り家屋を確認した。

 しかし結果はどの家も同じだった。血腥いおぞましい臭いが立ち込め、窓を覗けば部屋全体が赤黒く染まり頭部がなかったり獣に喰らい尽くされたような体が見てとれた。老若男女の区別などはなく、確認した中で無事なものはエーレンを除き1人として存在しなかった。

 それは家畜も同じだった。

 多くの鶏がいたであろう小屋は、散らばった羽根と血痕を残し、豚小屋は血痕以外に痕跡はない。人どころか家畜さえも完全に姿を消していた。

 ハルト村からは、エーレン以外の全ての人や家畜が悲惨な形で姿を消していた。



 太陽も頂点をとうにすぎた頃。相変わらず腹が立つほどに清々しく晴れた空の下で、畑の片隅に座り込んだエーレンは、希望が失せたような虚ろな瞳で村を眺める。

 自分以外なにも生き物は存在しないようなこの空間は嫌に静かで不気味で、せめて悪い夢ならよかったのにと思いたかったエーレンに現実を見せ付ける。試しに頬を抓るが当然痛いだけで望んだ変化は見られない。


「……夢だったら、いいのに……それなら、すっごく怖い夢見たんだ、で終わるのに……」


 いくら呟いて頬を叩いても辺りを見渡してもなにも異変はなく、家屋から誰かが出てくることもない。その事実にまたじわりと涙が滲む。

 昨日まで隣にはカイとゲルダがいて農作業の際共に汗水を流したものだ。父がいたこともあった。ベーティが様子を見に来ることもあれば、ユッタが差し入れを持ってきてくれることだってあった。家に帰ればお腹を抱えた母が家の仕事をしていて、おかえりと言ってくれる。

 これが夢でないのなら、そんな昨日までの忙しくも穏やかな日々は完全に消え失せたことになる。

 それを再認識してぞくりと体が震えた。まるで闇にでも包まれたような感覚で後方へ倒れ込む。


「……どうして、オレだけ、無事なんだよ……」


 降り注ぐ陽の光を遮るように腕で目を覆った彼は、自分だけ生きていることを悲しむように、空っぽになった村にて、延々と泣き叫んでいた。

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