第二十五章 神秘の居城

 パーライト王朝の子孫は名を変え、アイドクレーズ家につかえてきた。数十年と時が流れて、意見に食い違いが起こり始める。ついには争いをはじめ、結果。オブシディアンの地を一つの国家と成した。本来であれば「王国」と名乗るべきであるが、ベスビアナイトよりも格上であるとしめすために「帝国」とした。


「帝国とは本来、二つ以上の国をおさめている国を指す。おろかな国王と同列にあつかわれるのが、よほど嫌だったのだろうな」


 ソロモンが解説に私見をまじえた。エリスは茶色の瞳を、レイヴァンになげた。わかってくれただろうと、うったえる黒い双眸に顔をしかめる。


「関係ありませんよね。血筋を言えば、僕こそ姫様の側にいるべき人ではない」


 レイヴァンだけでなく、ソロモンやギルまでおどろいた表情をうかべた。いったいエピドート帝国で、なにを吹き込まれたのか。もともと意志の強い男であったが、帰ってきてから増している。


「関係のない話を持ち出して、あたかも血筋が悪いと言い訳をしているとしかとれません」


 けっきょく逃げているのだ。可能性の中で生きていれば、幾分心はやすらぐ。幻にしがみついて、みずからの剣をとって戦わないからだ。危険はない。


「残念です。レイヴァン様が保守をえらばれる方だったなんて。戦おうとしない人は、姫様のとなりにふさわしくない」


 部屋全体がつめたく凍る。エリスはレイヴァンの側をとおりぬけて、ドアノブに手をかけた。


「いつまでも姫様のお心が、あなたにあるだなんて幻想をいだかないでくださいね」


 言い残して部屋をあとにする。ずんずんと怒りをにじませたまま、廊下をすすむ。雰囲気で侍女や下女たちが、かるく会釈して道をあけていく。途中でクレアが声をかけてきた。


「吹雪の中、大変だったわね。なにかあったの?」


 うっすらと額に汗をにじませている。おそろしい形相だったろうか。女人たちに、罪悪感がふくれあがる。


「いえ。クレアは文官の仕事ですか」


「ええ、そうよ。エリスはしっかり躰を休めてね。一週間は休んでいいって、陛下から休暇をいただいているんでしょう」


 肯定して、しばし話に花を咲かせた。わかれて王女の部屋へ向かおうと、行き先をさだめる。レイヴァンが語った話を、聞かせるためだ。マリアが「いま」は正騎士長に思いを寄せていても、決断が変わる可能性はじゅうぶんにある。変わったときも、理想をつかむお手伝いができればいい。いま王女の臣下である人は、自分をふくめて二人しかいない。レジーは教えてくれた。自分はずっとマリアの幸せだけを願っていた、と。気づかなかっただけで、はじめから臣下だったのはレジーだけ。余計な周りの音を、意識して遮断していたからだろうか。認めざるを得ないほど、自分の耳には余計な騒音が混じっていた。分離しないで、すべてを聞いてしまっていた。だから、真実が見えなくなっていた。くもった色眼鏡をはずし、うるさい雑音を遮断する。見えなかったものが、ようやく見えてきた。

 本をかかえて、笑顔をくれる王女の姿が目にとどく。エリスははずむ足取りで、かけよった。


「お持ちしましょうか」


「ありがとう。でも、書庫はすぐ近くだから大丈夫だよ」


 手伝いますよと、エリスは本を持った。題名を見て、目を見開く。パーライト王朝に関する本ではないか。


「レイヴァン様の出自をお調べになったのですか」


「どれほどの重りを背負っているか知れば、策もねれよう。不安は無知からくるものだから」


 うつむく横顔が、うれいをおびた。国ごと背負う淑女に見える。おさなさが消えて、りっぱな女性だ。王女だなんて、とんでもない。ひざまづいて、「女王様」と手を取りたい。忠実なる臣下として。

 書庫にたどり着いて、棚へ本をもどした。部屋までご一緒すると、エリスはゆずらない。躰をやすめてほしいと、マリアはしぶる。強い意志に負けて、けっきょくおくってもらう。


「姫様、戻っておられたのですか」


 廊下をとおっていると、セシリーが駆け寄ってきた。うしろにはグレンと、若い騎士もいる。


「セシリー、大事ないか」


 セシリーが王女の手を取った。長年会えなかった大切な人に、ようやく会えたと言わんばかりのまなざしだ。


『ええ、変わりありません。我はもとより、我が王の臣下』


 青い双眸がひらかれる。エリスも同じ思いだ。グレンと若い騎士は、耳になじみのない言語におどろいている。おかまいなく、セシリーはスカートのさきをつまんでお辞儀した。


「あらためまして、私は古の三賢者が一人。ずっとあなたを探しておりました」


 会いたかったと、抱きつく。


「セシリーが三賢者の一人……」


「ええ、そうです。今度こそ、あなた様の望みをかなえるために『ここ』にいるのです」


 望みとはなにか。エリスが問いかけた。マリアをはなして、朗笑をうかべると人差し指を立てて唇にあてた。


「姫様が思い出されるか。決められるかなさるまで言えません」


 ほほえんでセシリーは、話題をかえた。錬金術師ヘルメスが戻っていると、いうのだ。誰も教えてくれなかったものだから、おったまげる。さらに記憶もうしなっているらしいではないか。大切なのに、誰一人口にすらださなかった。


「わすれてしまうほど、おどろいたのですよ」


 まさか猛吹雪の中を通って、姫様が戻ってくるなど誰も予想できない。笑顔の裏で、無茶をしたのだと自覚があるのか。問いかけられている気がした。ぞくりと背筋をつめたい感覚が駆け抜ける。微苦笑をうかべて、ヘルメスの病室へいそいだ。扉をたたくと、わかい侍女があけてくれた。世話をしてくれている人のようだ。中へ通してもらうと、寝台にいるヘルメスが視線を投げてきた。頭には包帯を巻かれている。全身包帯が巻かれていたので、ずいぶん治ったのですよ、と侍女が教えてくれた。

 知らぬ間にヘルメスが、そうとう痛い目にあったのだ。心をくもらさずには、いられない。感情をかくして笑顔をうかべる。再会できただけでも、もうけものだろう。ギルがすくってくれなければ、二度と会えなかったかもしれない。小さな傷がきざまれた手を握った。


「覚えていないだろうが、わたしはあなたから処置の仕方や錬金術をおそわった。恩師の力になれず、申し訳ない」


 翠玉エメラルドの瞳から、ぼたぼたと大粒の涙がこぼれる。


「どこか痛むの」


「いいえ。ただずっとあなたに、会いたかった気がするのです」


 晴れやかな笑顔を、ヘルメスはうかべた。うしなっているはずの記憶が、どこかに残っているのだろうか。近く思い出すかもしれない。


「また会いに来るよ」


 侍女にも「ありがとう」と頭を下げて、医務室を出た。回廊で大きく深呼吸する。さわぐ心をしずめるためだ。中庭へ目をやると、外ほどではないが深く雪がつもっている。この極寒の中を通るのを、よく承諾してくれたものだ。


「つかれがとれていないだろう、エリス。わたしに付き合わなくていいんだよ」


「僕が姫様の側にいたいのです」


 片手を胸に添えて、かるく頭を下げた。


「姫様だけでは、つかみきれない情報もございましょう。望まれるのでしたら、探りにまいりますよ」


 ともにエピドートで学んだ仲だ。いままでにはなかった考え方を知った上で、つくしてくれている。忠誠を誓ってくれている。うれしさが胸の奥でわき上がった。マリアは手を取って、最上の笑顔を見せた。


「ありがとう。躰をきちんと休めてからでいい。国内がどうなっているのか、レイヴァンの目的はなにか。調べてほしい」


 体調がもどったら、レジーとジュリアにも伝えてくれ。おぬしだけでは負担だろう。命を聞くと、エリスはにっと口角をあげた。


「主命、うけたまわりました」


 ふいにギルの気配を察知して、あたりを見ました。


「エリスにだけ、かっこいいまねさせられないな」


 中庭からギルがあわられて、手を取った。ぜひわたくしめにも命令を、と、指先に口づけを落とす。同じ命を口にしてから、知っている情報を教えてくれとお願いした。エリスもしばらく、国を離れていた。共有しておいた方がいいだろう。ギルはレイヴァンからの命と、何をしていたかを教えてくれた。


「レイヴァン様は、何者なんでしょう」


「それは正騎士長殿から、きちんと話されるだろう。姫様も気になるでしょうが、俺の口からは言えません」


 考え込むマリアに、ギルがやさしくつむいだ。


「そうか、ならば考えても仕方がない。ギルはいまからでも動ける?」


「もちろん。いまは命を、うけておりませんから」


 ギルは引き受けると、そっこく行動へうつした。レイヴァンの部屋へ向かって歩き出している。いちばん、情報が集まる場所なのだろう。


「マリア様!」


 メイド長バルビナが近づいてきた。エピドートに向かう前も急がそうにしていたから、顔を合わせるのも久しぶりだ。


「吹雪の中、帰ってきたとききました。体調を崩されていないですか。今日は部屋で休まれた方がよいのではないですか」


「大丈夫。好きにしているだけだから」


 仕事しているわけではない。バルビナを引き留めてわるいからと、わかれた。口にして、気づく。王女として、働いていない。いつも好きかってさせてもらっている。中庭へ視線をなげて、考え込む。ただ城にいてじっとするならば、エピドートにいればよかったのだ。行動しなければ、戻ったかいがない。付き添ってもらったレジーたちにも、申し訳がたたない。頬を両手でたたいた。エリスは動転して、大きく肩がふるえた。


「よし!」


「どうかなさいましたか」


「立ち止まってはいけないなと、自らを叱責しただけ。行こうか。皆に戻ってきたと、あいさつしよう」


 マリアにつられて、エリスもほほえむ。もとから強さもやさしさもそなえた少女であるが、たくましさも日に日に増している。失恋して、たくさんの涙を流しただろう。告白を否定されて部屋を出て行くとき、涙をこらえた横顔が鮮明によみがえる。レイヴァンを責めようとすれば、さきにジュリアがうごいた。あなたであっても姫様の邪魔はさせません、と、語彙強く言い放ったのだ。レイヴァンは黙った。うずまいていたのが、お前たちにはわかるはずがない。躰に流れる忌まわしい血を知らないからだ。と、いいわけを考えていたか。意味ありげに伏せた視線も、孤独な主人公でも気取っているのか。真意はわからぬが、少なくとも「マリアと結ばれない」目的を持って行動している。目の前にいる王女は、騎士を選んだというのに。


「お供いたします」


 自分よりも小さくて柔らかい手に触れる。ペンダントの石が、青くきらめいた。


「姫様、ここにいらっしゃったのですね」


「どこにいるのかと、探し回ったぞ」


 会いに行かずとも、向こうから来た。クライドとダミアンだ。


「用があるのですか」


「陛下が呼んでる」


 たんたんとした態度で、クライドが謁見間へうながした。マリアとエリスは疑念を抱きながらも、二人のあとを追った。金で縁取られた椅子にどかりと座って、オーガスト王がうれしげに「おお!」と声をもらした。朝食に姿をあらわさなかったから心配していたらしい。血のつながりはなくとも、心配性な父は大切な存在だと実感した。両脇にはレイヴァンとソロモンが控えている。重大な話であるのか。


「最後の一つはまだだが、二つは宝玉が見つかったのだ。首飾りに、はめてみておくれ」


 メイドが紅色の布に宝玉をつつんで、持ってきた。慎重に広げると、はっとするほどうつくしい宝石がかがやいている。金剛石ダイヤモンド水宝玉アクアマリンだ。首飾りのくぼみにあうように、宝石をはめ込んだ。瞬間に二つの宝玉がかがやいて、天へ向かって光の柱を生み出した。状況を飲み込む間もなく、居城が上下にゆれる。


「地震か?」


「いいえ。揺れているのは、城だけのようです」


 動揺する国王に答えながら、レイヴァンは妙な音に顔をしかめる。螺子を巻く音だ。音が大きくなるのにともなって、揺れも大きくなっていく。とうとうたっていられなくて、マリアがふらついた。とっさにエリスはささえて、ゆっくりと床へ座らせる。同時に眷属の力が一カ所に集まっていくのを感じた。守人全員が感じ取っていた。すべての眷属の力が、集まっているのだ。


『おお、我らが王よ

 あなたに報いる時が来た 今こそ盟約に付き従うとき

 ああ いにしえの時を 我らが待ちわびたこの時を

 どうか 忘れないでくれ』


 眷属の声が、いつも以上に大きい。城内の耳ある者、全員に聞こえたのではないか。さっかくするほど、とどろいていた。光の柱がとけて消えると、メイドの一人が声をあげた。


「晴れ間がさしております!」


 皆が窓の外に釘付けになった。雪は止んで雲の隙間から、光芒がさしている。さらに衛兵の一人が駆け込んできた。


「中庭に見たこともない城が建っております」


 中庭へおもむけば、無色透明の階段が空中に浮かんでいた。さきには七つの光をまとった立派な城が、建っているではないか。誰かに言われるわけでもなく、マリアは一段目に足をかけていた。不思議なほど、落下する恐怖はない。城に近づくほど、光の粒が躰にふりかかる。最後の段を上ると、ドアノブに手をかけた。重量を感じないほど、すんなりと扉が開いた。一気に光が目に飛び込んできて、一瞬だけ目を閉じる。ひろびろとした空間のさきに、一人の男が立っていた。


「おお、王よ。ついに我が声が、あなたにとどいたか」


「あなたは誰ですか」


 男は悲しげに目を伏せた。

 中庭ではエリスがあとを追おうとして、階段に足をかけた。するりと通り抜けて、地面に足がついてしまう。困惑していると、レイヴァンが肩をたたいた。


「生身の人であるお前では無理だ」


 ならばどうして、王女はのぼれたというのか。疑問を投げかけると「我らが王」の本体は霊魂で、子孫の躰を借りているにすぎないからだと返ってきた。おどろき、目をむく。


「だが、この城がふたたびあらわれたのならば」


 ソロモンがとなりにたって、城を見上げる。レイヴァンの黒い双眸も、見上げてうなづいた。


「王を霊魂としてつなぎとめていた城は、ずいぶん前からくずれはじめている」


 ささえていた七つの眷属は、何十年も前にすでにうしなわれていた。いまが最後の時だと、気づいていた。はやく“我らが王”と“恋人”を見つけ出し、作戦を決行せねばならなかった。時間がなかったのだ。


「だから正騎士長殿は、あせっておられたのですね」


 ギルがめずらしく、おもおもしい口調でいった。レジーも中庭へ出て、城を見上げている。否、守人全員が城を見つめていた。ジュリアはレイヴァンにちかよって、ほほえみをうかべる。


「そう、もう時間はございませんでした。だからわたくしは、命にしたがったのです。吹雪の中をすすむ価値が、あったのです」


 知っていたのですか、と、エリスが問いかける。人差し指を立てて、ジュリアはえんぜんとわらった。


「なんのために、わたくしがいると思っているのです。“我らが王”との約束を果たすためですよ」


 ようやく逢えたのだからと、ジュリアはまぶしそうに空を見上げた。眷属の光は、粒となって城のまわりをまわっていた。

 マリアはぼうぜんとして、男をみつめる。頬がつめたい男の手で、おおわれた。


「我が子孫パーライトの血を持つ者をしもべとし、彼らの目を通して見守って参りました」


 呪いをかけて、生身の肉体と引き替えに永遠の苦痛をみずからに課したのだという。


「ただし、あなたの血が混じれば呪いは解けてしまう。しもべは、それを危惧して心恋を封じ込めて参りました」


 レイヴァンが守りたかったのは、先祖である“彼”であったのか。


「さすがわたくしの子孫。選ぶ相手は決まって王のみ。王がパーライトの血筋を選ぶはずはないと、安く見積もっておりました」


 憶測ははずれた。しもべはわたくしが練りに練った策を、実行に移した。かかわらず王は、我が血筋を選ばれた。と、男は小さくほほえむ。城が音を立てて崩れ始めた。


「この躰も限界のようです。女王陛下、さいごにあなたに逢えてよかった。わたくしはあなただけを、愛しておりました」


 つかんだはずの手が崩れ落ちて、粒子となって消えた。自然と涙があふれていく。


「わたくしもあなただけを、愛しておりました」


 とどけたいはずの人は、もう目の前にいない。城が粒となって消え去ると、マリアの躰が空中に放り出される。小さな石が大きくかがやいて、躰をささえた。はっとしてレイヴァンが、真下へ向かう。ゆっくりと下降する少女の躰を、かかえた。首飾りの中心には、血玉髄ブラッドストーンがきらめいている。空へ視線を向けると、城はあとかたもなく消えていた。

 マリアを降ろすとレイヴァンは、騎士らしくひざまづく。


「先祖を苦痛から救っていただき、ありがとうございます」


「わたしを想ってはならぬと、“彼”はあなたに言ったのでしょう」


 言葉遣いや雰囲気が変わっている。初代女王時代の記憶がもどったと、レイヴァンにはわかった。


「はい。しつこく言われました。わたくしもあなたへの想いは、先祖の記憶がそうさせているのだと思い込もうとしました」


 マリアがレイヴァンの手を取った。


「記憶に感情はない。感情を乗せているのは、あなた自身。いまある感情を、いつわってはいけないわ」


「はい。もう遠慮いたしません」


 立ち上がってレイヴァンは、両手を握りしめた。


「俺はずっと、あなただけを慕っておりました。愛しています」


 城中でわれんばかりの歓声と、拍手が巻き起こった。


***


 おびただしい量の金属音が、城でひびきわたっていた。ベルクの命で各地から鍛冶屋をよびつけて、武器を作らせているのである。ついに居城が我が物になると、クリストファーは心がおどっている。そのまま浮かれ気分で、戦死してしまえばいいとベルクはほったらかしだ。

 マーセルもイザベッラも、さいしょこそベルクを信用していたがいまでは不信感しか抱いていない。奸計をめぐらしているのではないか。クリスに害を与えるのではないか。口にはしないが、つねに警戒している。

 小さな領地の城の中で、すでに派閥がうまれていた。


「クリス様、ベルク閣下をあまり信用なさらない方がよろしいかと」


 イザベッラから、幾度と忠告を入れても


「お主、閣下をうたがうのか。不遇な待遇であった僕を、見つけてくださった方を!」


 ……まったく聞く耳を持ちやしない。クリスに対しても、疑念を抱き始める。領地の外へ出るな。領地にも出るな。そう言われて、疑いもせずに城外へ出なくなった。まっしろな、子どものようだ。


「戦だってのに、わきたってるなんて頭のおかしい連中が多い城だ」


 称したのは、マーセルだ。おたがい孤児で、家族を戦場でなくした者どうしだ。戦がどんな災いをもたらすか。その目で、しかと見てきた。それでも、ベルクにより「騎士」の称号をいただいている。武器を取らないわけにいかない。


「クリス様のためと、思うようにしよう」


 イザベッラは割り切ろうとしたのに、マーセルは顔をしかめた。


「思考を止めれば、楽だろうさ」


 胸ぐらをつよく、つかんだ。手の力は、まもなく抜ける。


「どうすれば、いいんだ。私はクリス様がただしいと、ずっと思ってきた」


「誰かをただしいとすれば、楽だろうよ。考えなくていい」


 するどくマーセルを、にらみつける。その目には、涙が浮かんでいた。


「ならば、お前はどうするんだ」


「さあね」


 両手をひらひらさせて、不敵にわらう。方策でもあるのか。余裕の態度を、見せている。涙をぬぐうと、「稽古に行く」とイザベッラは部屋を出て行った。窓枠にひとつの影があらわれる。


「ずいぶん、だいたんにあらわれるね」


 影の主は正騎士フランツだ。


「かまわないでしょう。ここまで城内がさわがしければ、気づきやしない」


 フランツはマーセルからの報告をうけとった。


「なるほど。一度、王都へ向かわせた方がいいですね」


「フランツ殿。どうやら俺、ベルク公に警戒されているみたいなんだよね」


 クリスに念を押して外へ出ないよう命じたのも、領地の情報がもれないためと考えるのが自然だ。


「わかりました。正騎士長と相談いたします」


「……そんな時間があればいいけどね」


 マーセルの疑問はもっともだ。いまは動ける状態にないから、心配なのだろう。安易に別の者を城へ潜り込ませれば、警戒がつよくなる。ただでさえ、一度ばれている。いまは無理なのだ。


「マーセル殿、引き続きお願いいたします」


「フランツ殿も、ご武運を」


 うなづいてフランツは立ち去った。その場で斬り殺される危険を、はらんだ仕事だ。言葉をかわせるのは、これが最後かもしれない。胸にきざんで、マーセルは部屋をあとにした。

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