第二十章 凱旋
指先を針が指す感覚におそわれて、水から手を引っ込めた。乾いた皮膚はぱっくりと口を開けている。食器洗いを止めるわけにもいかないから、ビアンカは手を水にさらした。ようやく終えれば、じんじん痛む指先をさする。まだ幼い手はあかぎれまみれになっていた。
「これは大変だ」
いつの間にいたのか。正騎士フランツが手をのぞき込んでいる。端正な顔が近くにあって、文字通り飛び上がると距離を取った。
「あれ、どうして逃げるのかな」
決まっている。若いフランツを、下女も、侍女も、メイドたちも狙っている。目の敵にされたくない。
「申し訳ございません。とっさに」
意外にも警戒心の強い娘ととられたのか。手を出さないよ、と頬をかいている。
「ひたむきな君には、これが必要だね」
フランツは容器から粘性のある物体をすくうと、手を取って患部に練り込む。痛みで顔がゆがむ。ごめんね、と謝ってはくれるが止める気はないようだ。終えると容器を渡してきた。王宮錬金術師セシリーに、作ってもらった軟膏らしい。
「そんな高価な物いただけません」
「いいんだよ。君に何かあったら、王女様が悲しまれるからね」
しばし押し問答していたが、けっきょく負けて軟膏をもらった。フランツは自分の仕事に戻ってしまう。礼を言い損ねてしまった。軟膏を大事に持って部屋へ向かった。ふつう下女や侍女、メイドは大部屋で何人もが寝泊まりするが、ビアンカは特別に個室があった。王妃様のはからいである。どうしても市民であるから差別視を向けられるのだ。王女付きのメイドとしたのも、彼女らの目から遠ざけるためであろう。王女のいない今は、主に王妃様の周りの世話をバルビナと一緒に行っている。
軟膏を化粧箱にしまいこんで、台所へ向かい
「無事か」
顔をあげると、武官ダミアンの顔が近くにあった。
「ほら、食器も無事だよ」
お盆を持ってくれているのは、文官クレアだ。王女様の臣下である二人に、助けられてしまったようだ。下女たちにするどい視線を、ダミアンが投げつける。肩が跳ね上がった。頭をさげて、立ち去っていく。
「まったくどこであっても、不和は消えないな」
武官のつぶやきに、クレアは大きく同意した。
「ビアンカも黙ってないで、やりかえせよ。実力のない身分にあぐらかいてる連中なんか」
「どこにいても身分はつきまといますから」
ダミアンに苦く返した。赤茶色の髪を乱暴にかいてから、肩に手を置かれた。
「『自分』がない人ほど、優れているみたいにひけらかすもんだ。ビアンカも、自分の長所に気づけ。でないと、お前に手をさしのべた姫さんが浮かばれない」
姫さんもたいがいか。ダミアンはぼやく。
「そうですよね。私が不甲斐ないと、姫様にも迷惑をかけてしまいますよね」
重たい感情がずんとのしかかる。せっかく推薦していただいたのに、応えられないとなっては王族の顔に泥を塗ってしまう。自分では力不足だろうか。
「いいか!」
強い言霊に、自然と背筋がのびた。
「そうやって背筋を伸ばせ。それだけで威厳が込められる」
胸を張ればいい。ダミアンは正騎士エイドリアンに呼ばれて、去って行った。ぼうぜんと背中が消えた回廊を眺めていると、フレアスカートをひらめかせてクレアが視界に入った。
「私たちだって、姫様に拾われてここにいるのよ。ビアンカも自信が出来てくるわ」
書類を持ち直してクレアも仕事へ戻った。本当に自分にも自信がつくだろうか。うたがう心を棄てきれぬまま、王妃の元へ向かった。窓の外を見やりながら、遠くを見つめる王妃に声をかける。室内にいると気づきにくいが、外は道も狭に白く塗りつぶされていた。
紅茶をそそぐと、ふわりと湯気が立つ。
「ありがとう。あたたかさが、心までしみるわ」
うれいげな瞳であるから、こちらにはひとつも響かない。声色もどこかうつろだ。ふだん活発な王妃が部屋から出ないから、心労も募る。体調が悪いのか。王女を心配しているだけなのか。訊いたが、うすく笑みを浮かべただけだった。
「ビアンカのいれるお茶は、素朴な味で落ち着くわ」
これからもいれて欲しいな。幸薄げな笑みをする。王妃様が王妃様らしくて、奇妙な感覚がする。いつもの明るくて活発な王妃様には戻ってくれないのだろうか。
「王妃様がお求めであれば、いつでもお入れいたします」
バルビナであれば気の利いた台詞をかけれるだろうが、忙しそうにしているから王妃様ばかりに気をかけられない。ならば自分が心を軽くしてあげなくてはと、張り切ったものの空回りばかりしていた。いつしか策を練るのもやめてしまった。ただ
「心ばえの佳い子ね。薬草を学んでまで、茶葉を選んでくれるなんて」
気づかれていた。否、どこかで聞いたが錬金術を修めているという。気づかない方がおかしい。
「姫様や錬金術師様には、とても敵いませんが」
できるだけ力になりたいのです。やわらかい声色がビアンカの唇からつむがれた。本心だからだ。あたえられるものは少なくても、貢献したい。自らの手で運命を切り開こうとする王女にあこがれた。同時に、自分もそうありたいと願ったのだ。
心が動いた。冷え切った王妃の瞳に、体温の宿った雫が浮かぶ。布を渡せば、吐息をこぼした。
「まめまめしくもあるわね。マリアは慧眼だわ。誰に似たのかしら」
「王妃様ではございませんか」
バルビナを入城させたのは王妃だと、前に聞いた。はじめて会ったときから娘専属のメイドにするつもりだったとも。黒い騎士レイヴァンを王女につけさせたのは国王らしい。一日の出来事はつぶさに報告させられていたらしいが。騎士自身が、教えてくれた。そのとき、ひとつだけ騎士に尋ねた。なぜ国王は王女を監視なさるのか、と。
「陛下は目に見えないところで王女が危険にあっていないか、心配でたまらないのであろう」
我が子であれば心配は当然だ。しかし、含みをかんじる言辞であった。まるで相手に信頼をよせていないから、させた命令に感じる。面と向かって陛下に進言する勇気など、かけらもないが。
「私は慧眼ではないわ。ただマリアを守りたいだけ」
十分ではなかろうか。自身の母親の顔も知らないビアンカであるから、よい母親だとつくづく感じる。
「隣へ座って。私とお話ししましょう」
拒んだものの「王妃の命令」とされれば、従わないわけにいかない。やわらかな椅子の上へ腰を下ろした。
「ビアンカはマリアが好き?」
「もちろんです! わたしを救ってくださったのですから」
「いまは王子じゃなくて、王女なのに?」
「絵本の中のお城や王子様にあこがれてはいましたけれど、そんな理由で姫様の手を取ったわけではありませんから」
恩返しをしたい。根底にある目的は、これだけだ。
「よかった。あなただけは、マリアの味方でいてあげて。このさき、なにがあっても」
不穏な声色に、心がざわめく。
「強くて役に立っている仲間が、姫様にはいるではないですか」
できるだけ笑顔をつくったが、王妃は真剣だ。
「力と知恵と能力はあっても、心は癒やせない。あなたには心に寄り添って欲しい」
できるだろうか。まっすぐ前へすすむ王女のとなりで、寄り添うなんて。気後れしてしまうのが目に見えている。目の前にいる王妃も、ゆるぎのない視線を向けていた。
「わたしが姫様の力になれるのでしたら……」
自分の目的はゆるがない。出来る出来ないではなく、ただ王女様に何をあたえられるかを考えるのが大切なのだ。城へ来てバルビナに教え込まれた教訓の一つである。
「この話はおしまい。ねえ、バルビナはどうかしら。厳しくはない?」
「とんでもございません。忙しくとも、わたしにきちんと教えてくださいます」
そもそも宿にいたころみたいに、理不尽に怒られもしない。まともな人にめぐりあえたと、感謝をしたぐらいだ。
「なら、いいのよ。あの子はすねに傷を持っているからね」
さいきん会えていないから、気になっていた。と、王妃はカップに口をつける。
「そうだ。フランツとはどう?」
仲がいいみたいだから、付き合っているとうわさを聞いたらしい。とんでもない、と首を左右に振る。
「隠さなくていいのよ」
「ちがいます!」
きっぱりと否定すれば、王妃は苦笑した。
「必死にならなくても」
「侍女や下女にも人気があるんです。もし誰かの耳に入れば」
うわさ好きな女たちである。あっという間に話は広がるだろう。こちらは関わりたくないのに。意をくんだのか。王妃は笑うだけにとどめた。
「人はうわさの奴隷である。よくいったものね」
まさにその通りだ。誰の格言であろうか。
「あら。貴女もよく知っている正騎士長様の言葉よ」
征野におもむくからこそ、人の本質にも気づくのだろう。黒い騎士は情報の他に、うわさに着眼していると聞く。
「もともとは戦記の中にある表現を、彼らしく言い換えたらしいの」
賢者は読書家なだけなく、幅広い知識を持っているわね。笑って王妃は茶を飲み干した。おかわりを注ぐと、儚げな表情を向けられる。
「今日は凱旋の日だったかしら」
「はい。本日、正騎士長様がお帰りになります」
「ただでさえ国を挙げて浮き立っているのに、今日は女性たちが色めき立つでしょうね」
正騎士フランツが吉報を運んできて数日経つ。戦勝したとの知らせは、国のすみずみまで行き渡った。とくに今回はわかく精悍な正騎士長の姿を一目見たいと、遠く離れた地域からも人々が集まっているらしい。女性が多いが、男性も少なからずいる。隣国を救った英雄で、コーラル国を王女と共に追い出した騎士。期待はふくらんでいるのだろう。街は騎士のうわさで持ちきりだ。
「レイヴァンはより取り見取りでしょうね。求められて拒絶する女性なんていないでしょう」
違いない。わかっていてもやさしい視線を投げられれば、頬を染めてしまう。未だ慣れない。
「ビアンカ。きっと今日、レイヴァンは貴女にも城内での話をきくと思うわ。覚悟しておきなさい」
ふつう片腕である正騎士フランツに、報告させるものではなかろうか。メイドでしかない自分に訊くことがらなどなかろう。いいから考えておきなさい、と部屋を出されてしまった。
仕事は夜までないな。部屋へ戻ろうとつま先を向けると、赤毛の女性が庭でたたずんでいる。たしか正騎士長の妹だ。城はなれないと、あちこち歩き回っている。体を動かしたいらしい。
「イリス様、いかがなされましたか」
「ビアンカ、よかった。城広くて迷子になってたのよ」
つい先日も迷っていた。こうして部屋まで送るのも快然たるものだか。なんどか話し相手にもなった。どうやら蔑視を向けられて、居心地が悪いらしい。部屋にこもるのも好きではないから、出歩くのをやめるのは嫌だそうだ。わかる気がする。動きたい性格だから、じっとしているのは逆に精神を削られていく。ならば、王妃はどうだろう。部屋にこもりがちであるから、圧迫感を覚えないはずがない。外へ連れ出せたらよいのだが。
「ありがとう、送ってくれて」
「今日、正騎士長様が凱旋なさいますが見に行かれますか」
イリスが行くのであれば、自分が一緒の方がいい。それに一度でいいから行軍を見てみたいと、期待を込めたビアンカであった。
「兄貴なんか見てもねぇ。どうせ周りは女ばっかりでしょう。無駄だから、行かないわ。ごめんね」
思惑に気づいていながら断られてしまった。予想通りでもあったので、大して打撃は受けていない。イリスとわかれて、廊下を進んでいると街がさわがしい。凱旋が始まったようだ。ぱたぱたと足音が鳴り響けば、城で働く女性たちが一斉に窓から顔をのぞかせた。身を乗り出さんばかりである。各階でしゃなり声が走れば、奥へ引っ込んだ。メイド長バルビナには誰も逆らえない。
「仕事も真面目にしない人に、騎士様がなびくものですか」
もっともである。
「ビアンカはもう休んでいいのよ。遠いけど、ここから凱旋でも眺めていたら? 貴重よ。それとレイヴァン、あなたに用があるだろうから」
王妃様と同じ台詞をつむいでさっていく。人の波が消えた窓から顔を伸ばしてみた。人々の歓声をぬうように、軍がすすむ。黒い騎士の姿は遠目でもわかるほど、威厳に満ちていた。一騎、城門から駆けだした。フランツだ。正騎士長の側につけて会話を交わしてから、行進の波に逆らって都を出て行く。気にかけてくれる騎士がしばらくいなくなるかもしれないとわかると、切なさがつのった。
最後尾の兵士が門へ入って閉まっても、人々の熱狂は終わらない。王女様もいたらいいのに。この景色を一緒に見たいのに。叶わぬ願いと知りながら、つぶやかずにはいられなかった。
「あなたはお姫様が大好きなのね」
王妃ではない女性の声に飛び上がる。国王の妹君であるディアナ閣下だ。
「用向きですか」
「いいえ。みなの声が室内にまでとどいたから来ただけよ」
じっくりと眺めれば、ますます王女に似ている。
「私の顔に何かついているかしら」
「いいえ!」
顔を左右に振る。王妃とは対照的に、儚げな笑みを閣下は浮かべた。髪を耳にかける仕草さえも妖艶だ。
「街は勝利に酔いしれているのね。戦いの意味すら知らないで」
躰が凍る感覚がした。おそるおそる表情を見ると、視線すら凍てついている。
「閣下?」
「いったい誰がうばったのでしょうね。考えるのをやめたら、人は奴隷でしかないのに」
靴音をならして、きびすを返してしまった。とんでもなく重要な意味がある気がする。戦場へおもむかないし、兵法も知らない。学んだ方がいい。確信してビアンカが意気込んだ瞬間。
「ここにいたのか、ビアンカ」
おどろいて奇声を上げた。今日は驚かされてばかりである。振り返れば凱旋将軍レイヴァンがいた。血と泥でよごれた鎧すら脱いでいない。
「あとで俺の執務室へ来てくれないか」
湯浴みを終えたら、誰かを遣わせるから。漆黒のマントをひらめかせて、騎士は去って行く。王妃とバルビナの予想が的中した。フランツに城での報告は聞いたのではないのか。同じ疑問が頭の中を巡る。数分経って開き直ると、部屋へ入って掃除を始める。人心地ついて、ハーブティを飲んでいると、兵士が来た。侍女や下女をつかわなかったのは、自分を気遣ってだろう。心遣いに感謝して、執務室を訪ねる。騎士一人ではなかった。策士ソロモンと令外官ギルもいる。表情がこわばっていくのを、ビアンカは感じた。
「楽にしていい。ただ王妃様がこもっておられるから心配でな。話してはくれないだろうか」
洗いざらい状況を伝えた。黒い騎士は一笑する。
「わかった。ありがとう。部屋に戻ってくれていい」
それだけだったのか。首をかしげながら、ビアンカは執務室を出た。扉が閉じられるまで沈黙していたが、ギルがやぶった。
「王妃様、大人しくしているつもりではございませんか。取り越し苦労で終わりそうですね」
レイヴァンは眉根を寄せている。
「だといいんだがな。ベルク閣下は先日、自分の城へ戻ってから動きが怪しいらしい」
フランツは近くの城へ行って、密偵と接触する。より早く情報を知るためだ。
「二日前の未明に、フローライト公国に忍ばせていた間者が一人殺された」
本格的に動き出したと見ていい。もう一人の間者が報せてくれたのだ。まだ潜り込んでいる間者がいるのには気づいているだろうが、まだ誰かは知られていない。近くにいる間者に急行するよう、知らせは飛ばした。
「正騎士長様、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですかね。どんな秘密を隠しているのか」
「秘密なんてないが」
「どんな策を打つおつもりですか」
姫のいない間に、すべてを片付けようとしているのだ。無策なわけがない。ギルはずいっと顔を近づけた。
「とくべつな考えなどない。はかりごとのうちに滅ぼすだけだ」
それを言え。二人して目で訴える。
「いまはフランツからの報せが来るのを待つのみだ。俺とて、千里眼ではない」
思考を止めるつもりはないが。ベルクがもとよりフローライト公国の間者であるならば、王座には興味ないのだろう。すすんで差し出すに違いない。逆に王になるつもりならば、公国のうごきは無関係になってしまう。どちらにしても、養子は邪魔だろう。用済みになった時点で殺される可能性が高い。あるいは、養子を王として担ぎ上げてあやつる算段かもしれない。
「いずれにしても、姫様の居場所がなくなるような事態は避けたい」
無言で二人がうなずいた。
***
白い靄が立ちこめる。街は冬を越すための薪の準備や狩りで、大忙しだ。とっくに終わっている時期であるのに、長引いているのは密猟が増えたからだ。公への不満から、生まれたのである。国民も不満まみれで、小さな暴動が絶えない。大きくなればどうなるか。わからぬほど、大公エリザベスはあほうなのだろうか。妹アビゲイルは懸念を消せない。
皿に盛られたローストビーフに、ナイフとフォークをいれながら考え込む。味などまったく感じなかった。さきの戦でロベールがベスビアナイト国の肩を持ったのが意外であったし、こちらの動きはさとられていた。霧も。同じ条件下でありながら、ねらいすましたかのごとく公国の船を沈めた。千里眼でも持っておるのか。思考に沈むほど、身震いする。とんでもない策士がいるに違いない。何世代も前に潜り込ませた間者ベルク家は自由奔放で、かるく物事を判断するからつかいものにならない。手引きする手はずは整えていると、書簡が届けられはしたが。信用には値しない。子細を伝えないのだから。
「アビゲイル。ベスビアナイト国はいつになれば、私の手に渡るのかしら」
向かいにいる姉エリザベスが、葡萄酒を飲んで妖艶に笑む。初代大公が、あの国こそ我らの故国であると説を広めた。ただ単に豊かな国を侵略する理由付けに過ぎないが。
「準備を整えてはおりますが、糧秣が少ないのです。このままでは兵をうえさせてしまいます」
なので実際に戦を冬の間にするのは不可能かと。姉ならば納得してくれるだろうと期待したが。
「兵など捨て置いてもかまわないでしょう」
駄目だ。兵をかろんじている。主君として大事にすべき三つの宝を、みすみす手放そうとしている。
「姉上、お言葉ですが……」
「貴女の言い訳なんて聞いている時間はないの。私は大公よ」
山ほど公務がたまっているのだから。吐き捨てて、部屋を出て行く。扉の音が妙に室内にひびいた。
「道はとうの昔に違えていた。坂道を上る勇気があれば、この国も変わっていたのかしら」
可能性を口にして自嘲する。いつから理想の中で生きるようになったのだ。
「あれれ、反旗をひるがえすのですか」
暗殺者ヴィルが窓から上がり込んできた。幾度扉から入るよう注意しても、改める気のない男である。
「間者は見つかったの」
「いいえ。それが尻尾すらつかめませんで。やつら、一枚も二枚も上手でっせ」
自分の技倆をさらに上げればいいものを。アビゲイルはため息をついた。
「ところで、殿下は謀反を起こす気ですかい」
「そんなわけないでしょう」
「ですが、技倆といい才能といい。殿下の方が上ですよねえ。わがままな主君にいつまでおつかえするつもりですか」
悪魔の声が耳を打つ。瞬間、つめたい刃がヴィルに押し当てられた。
「アビゲイル様をそそのかそうなどと、恥を知れ。痴れ者が」
剣を抜いたのは騎士ライナスであった。護衛として側にいたのである。両手を挙げてヴィルはけらけらと笑った。
「実に訓練された忠犬ですね」
顔を真っ赤にして斬りかかったが、殿下が止めに入る。無駄な殺生を彼女は好まない。失礼であったとしても、情報すらよこしてくれるヴィルの重要性は知っていた。
「さすが主君としての度量が違いますね」
長居は無用だと、ヴィルは窓の外へ姿を消した。
「殿下、あまり気を許しなさるな。雇われの身である彼が、いつ貴女を手にかけるか」
「許しているつもりは、ないのだけれど」
他人の目で見たら、感じるのかもしれない。
「ところで陛下は殿下のおっしゃったとおり、政治をかろんじておられるのでしょうか」
ようやくライナスにもわかったらしい。遅すぎるくらいだが。
「我が国の兵士は大国にも、じゅうぶん通用するくらいには強いわ。でもね、敵わないのよ」
国力差があきらか、大国に遠く及ばない。出陣しても、得るものはない。無駄にうしなうばかりだ。
「政治も兵法も運用できない大公に、いる価値なんてあるかしら」
ライナスはぞっとした。暗殺者の見解は当たっていたのだから。実姉に手をかけるつもりであろうか。温厚なアビゲイルが謀反すれば、多くは大公を見捨てるであろう。それほどまでも、参謀への忠義が厚い。大公が好き勝手出来ているのは妹のお陰なのである。
「アビゲイル様……」
かつてたった一人の家族だと、悲しげに笑った彼女を忘れられない。姉妹で、あらそう状況になっては気の毒だ。
「『忍耐は運命を左右する』から、心配しないで。時はまだ満ちてはいないのだから」
いずれは討つと、暗に込められている。
「ご報告いたします。アゲート国軍は国境をまたぐ前に、退陣させられたとの報告が」
兵士が扉を開け放って、ひざまづく。アビゲイルは腕を組んで、思考の海に沈んだ。
「参謀の座に誰かが座っている」
疑念は確信に変わった。居城の者を買収しベスビアナイト国の情報を送ってもらっていたが、なにせ侍女だ。多くは得られない。同盟国アゲートをそそのかし、動向を見張っておれば「参謀の座」が空白かどうか確認できる算段だったのだ。
「どのようにしてやられたのですか」
つぶさに訊いて、泡を食う。各個撃破される確率もあったのに、運試しに出たものだ。否、はたしてそうだろうか。参謀殿は情報の大切さを存じているから、とった行動だろう。わざと、隙のある策で打って出た率がある。油断ならない。こちらが影で動いていると、知っているのだろうか。
「ところで侍女からの報せは来ないの?」
「はい。届いておりません」
吹雪で遅延しているだけか、殺されたか。どちらかしかない。窓に近寄ってヴィルを呼んだ。近くの木で昼寝しているのを、視界にとらえていたのである。
「はいはーい、なんでございましょう」
「ベスビアナイト国へ行って、侍女と接触してきてちょうだい。金は出すわ」
暗殺者の口角がわずかに上がった。
「殿下の命であれば、なんなりと」
「入城するための策はあるの?」
「むろん、わたくしを誰だと思っているのです」
今度こそ、ヴィルは城から姿を消した。居城とて万全ではない。どこか抜け道でもあるのだろうか。
「あの男に任せていいのですか」
慎重な騎士がうれいげだ。他国の間者ではないかと、うたがっているのである。
「人は裏切るものよ」
うたがえば際限がない。出かかった言葉を、ライナスは引っ込めた。つよく拳をつくっている。交感神経が上がるからよくないよ、と心の中だけで注意する。やりきれない気持ちを抱えているのは、自分も一緒だからだ。
数年前に潜らせた間者はおそらく、コーラル国にやられた。コーラル国進軍の前から連絡が途絶えていたのだから。そもそも、あの戦はなぜ起こったのか。未だ謎が多い。海をはさんだ遠い我が国では、情報がどうしても古い。参謀がここ数年空席と訊いたのも、つい先日だ。
侍女の話では現在、ベスビアナイト国には参謀がいないとなっていた。さきの戦で我が軍は惨敗したのに。いないはずがない。嘘の情報をつかまされたと憤ったが、暗殺者ヴィルが持ってきた情報では「正式に」参謀の座にいる者はいないようだ。侍女も嘘をついたわけではないらしい。であれば参謀ではないが、知恵者がいるのは確かだ。かつての参謀の姿は、居城に見られないらしい。王女が連れてきた策士は、参謀として正式に軍議には関わっていないようである。ならば、いったい誰が……。
「これから、いかがなさいますか」
ずいぶん長い時間、思考に埋もれていたようだ。ライナスに声をかけられるまで、じっと同じ体勢でいたから躰が固まってしまっている。
「そうね。ベスビアナイト国の同盟国であるコーラル、カルセドニーは未だ平定には至っていない」
くわえて船は不慣れ。オブシディアンは経済力しかないため、戦となれば劣る。警戒すべきはエピドートのみ。どうにか内部分裂はできぬものか。
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