第十九章 乱逆の影

 大地がやせて、実りのない年だった。食料は輸入に頼っていたのだが、民すべてに行き渡らず飢える者もいる。たくわえもないために冬をむかえれば、子や老人は口減らしの対象となった。それは国力が低下するのと同義だ。王が手を打たなくてはならないのに、病にふせっている。国全体が不安につつまれ、疲弊していた。

 窓をうつ雪は種にならないから、芽吹くこともない。うれいげな青い瞳が、ふせられた。腹にいる子にも伝わるのか。うったえんばかりに暴れる。なでながら「ごめんね」を繰り返した。


「お母さん、弱気になってたわ。大丈夫よ。お兄様が王権を代行して、駆け回ってくださっているのですもの」


 扉が開かれて男が入ってきた。


「ディアナ、休んでいなくては駄目ではないか。そろそろ生まれるのだろう」


 ディアナは笑んだ。夫ニクラスであったからだ。公爵として日夜仕事漬けであるのに、こうして気をかけてくれる。


「私ばかりが休んでいるのは、嫌なんですもの」


「まったく君は、いつもそうやって無理ばかりするんだから。お腹の子になにかあっては困るだろう」


「そうね。愛しい貴方との子なんですものね」


「生まれてくる子はせめて、君に似ないでほしいな。心労してしまうよ」


「あら。気のかかる子ほど可愛いでしょう」


 ニクラスは肩をすくめた。


「君には敵いそうにないな」


 ディアナに手を貸しながら、ベッドまで連れて行く。


「頼むから無茶をしないでおくれ」


 手を握りしめるニクラスに「わかっているわ」と朗笑する。信じていないのか。もの言いたげな視線が突き刺さる。そこへ公爵ファウストが子ソロモンを連れて、部屋をたずねてきた。


「おや、邪魔をしてしまったかな」


「ファーレンハイト公爵、お邪魔だなんてとんでもない。ちょうど妻に無理をせぬようさとしていたところなのです」


「ディアナ様はすぐ無理をしてしまいますからな」


 ファウストが一笑する。父にとんと背をたたかれればソロモンは、うやうやしく頭を垂れると祝いの言辞を述べた。さすが躾が出来ている。


「ソロモンも、もう十四才になるんですね。背もこんなに伸びて。ファーレンハイトの名に恥じぬ立派な跡継ぎですね」


 ニクラスにファウストは首を横に振る。


「いやいや、まだまだ若輩者でござるよ。先日より正式に俺の弟子になったばかりだ」


 頭を撫でられれば、ソロモンは不服そうだ。背伸びしたい年頃だし、子どもあつかいは気に触るのだろう。


「では、われわれは帰るとしよう。いつまでも二人の時間を奪ってしまっては、馬に蹴られてしまいます」


 ファウストは子を連れて、部屋を出て行く。今一度、無理をせぬようさとしてニクラスも仕事へ戻ってしまった。さみしさがこみ上げてきて、横になれば腹部に痛みが走る。苦しんでいると、侍女が医務官を呼んでくれた。

 有明に居城で赤子の泣き声が、かさなってとどろいた。男女の双子が生まれたのだ。抱き上げると、体温と重みを感じる。目から涙がこぼれた。言葉にしがたい感情の嵐がディアナを襲っていた。


「会えたね。私の愛しい子たち」


 荒々しく扉が開かれると、伏せっていたはずの国王が入ってくる。


「父上、見てください。双子なんです」


 目の色が変わった。ただならぬ空気に、胸がさわぐ。


「この子は、オーガストの息子にする」


 片割れを強引にうばっていく。返してとさけべば、冷たい瞳で見下ろされた。


「黙れ。王族の血を持つものが、畜生腹だと世間に知られては名折れだ」


 何度手を伸ばしてさけんでも、連れて行かれてしまった。娘の声だけが残る。


「ごめんね。あなたの弟は、次の次の王様になるんだって。一緒にささえようね」


 小さな手が指を握りしめた。


「そうだわ。南にある国の言葉で、あなたを『マリア』と名付けましょう」


 ぎゅっと抱きしめる。


「私の愛し子、望まれた子。だからね、どうか忘れないでいてね。たったひとりだけ、あなたの片割れ」


 腕の中にいるマリアが、ほほえんだ気がした。



 バルコニーで風に当たっていたディアナは、ぬくもりを思い出して差しぐむ。腕の中にあった子すらうばわれて、いったい何が残ったというのだ。

 城門がひらく音がして、現実に引き戻される。見るとベルクの馬車だ。王にうそぶくかもしれない。騎士は懸念をけせぬまま、すでに進発している。

 おのれの立場はわきまえているつもりだ。なにゆえ呼ばれたのか。わからぬほど阿呆でもない。


「いま、お兄様を守れるのは私しかいないのだものね」


 ディアナが居城にいるとわかって、アイリーンは部屋にふさぎ込んでいる。昔は仲がよかったのに、子が生まれてからは関係に軋轢が生じた。当たり前だ。くわしい事情は聞いていないが、自分と同じ目に遭わされたのだろう。

 アイリーンも同じ頃に妊娠して、生まれる日も同じ予定だった。なのに兄オーガストが『クリストファー』と名付け、抱いていた赤子は自分の子だった。

 当時まじない師にすっかり心酔していた父であったから、二人の間に出来た子を引き離してしまったのだろう。どんな予言であったかは、わからないが。

 そのあと『クリストファー』がどうなったのかは知らない。二日もせぬうちに、マリアまでもうばわれた。ニクラスも戦死した。まじない師に、また吹き込まれたのだろうか。父も、兄も、真実を語ってはくれなかった。


「ベルクを常に見張っていて」


 控えていたゲルトに命じる。待っていたとばかりに、退室した。


「正騎士長様の不安は、私が除いてあげなくちゃね」


 マリアのためにも。国内の不和が広がらぬうちに、刷新すべきだ。知らぬままがいい。


「それでよろしいのですか」


 クライドが静かに、降り立つ。


「姫様は悲しんでおられます。いつも自分の知らぬところで、物事がすすんでいるのを。誰も教えてくださらないのを」


「じゃあ、貴方が教えて差し上げたら? 側近なのでしょう」


 儚い笑みをうかべてディアナは手すりに寄りかかると、馬車から降りるベルクを眺める。


「できないのでしょう。貴方たちにとって、レイヴァンの命こそが絶対なのだから」


 言い返さない。クライドが歯がゆそうだ。


「レイヴァンはね、魔法をかけるのが得意なのよ。甘い仮面と優しい言葉で、自分の思い通りに相手をあやつるの」


 はっとした表情に変わる。守人ですら気づかないのだから、娘マリアは考えもおよんではいないのだろう。専属護衛に手のひらで、転がされていることに。


「姫様を騎士から遠ざけようとは、考えなかったのですか」


「もう私の子じゃない。お兄様の娘だもの。それに私と愛しい人の子が、鳥籠の中でじっとしていられるわけないじゃない」


 破ろうと足掻いた心の動きはあった。すべて封じ込めていたのは、騎士レイヴァンだ。今のマリアは、“手”の外にいる。希望を抱くには十分だ。


「貴方もよ、守人クライド。貴方の主君は誰?」


 貴方自身の目で見極めなさい。クライドは会釈をして、ベルクの周辺を探りますと出て行く。ディアナは嬌笑した。


「はやく帰っておいで。私の愛しい娘」


 真実をうしなう前に。視線を戻せば、ベルクの姿はない。居城の中にいるのだろう。室内でじっとしているわけにもいかぬと部屋を出る。情報を外からつかめないかと回廊をすすむ。侍女や下女に声をかけていると、エイドリアンの妻ジルヴィアが息子レオをつれて来ているのが見えた。


「ディアナ閣下、お戻りになっていたのですね」


 貴族らしく挨拶をしてきた。


「貴女、元気そうでよかったわ。心配したのよ。エイドリアンと籍を入れると聞いたときは」


 ジルヴィアは艶然と笑う。


「周りからも猛反対されましたからね。令嬢が騎士と婚姻を結んではならないと」


「けれど、幸せそうでよかった」


 青い金剛石の瞳が伏せられる。


「閣下、ひとつ聞いてもかまわないでしょうか」


「ええ、もちろん。同じ学舎で学んだ仲じゃない」


「十四年前、いったい何があったのですか」


 寒々とした風が二人の間に流れる。外気が入ってきているわけではない。ディアナのまとう空気がそうさせていた。ぞっとしてジルヴィアは息をのむ。禁忌だとわかっているが、聞かずにはいられない。一目見て気づいたのだ。マリアが閣下の娘だと。いくら似ている兄妹だとしても、共に過ごした時間が長いから気づく。違いない。陛下の子ではない。


「そうね、ジルヴィアには話しておくわ。どうせならお茶時間ティータイムをご一緒しない?」


 近くの侍女にお茶を運ばせて部屋へ戻る。ジルヴィアはレオを公邸に連れて行ってから、訪ねてきた。お茶とお菓子を楽しみながら、しばし昔話に花を咲かせた。


「さて、何か聞きたいのよね」


 ジルヴィアはうなづく。ふさぎこもっていた時期があるのも知っている。いったい明るいディアナを、何がそうさせたというのだ。


「昔話をしましょう」


 ディアナは切り出して、把握していることは洗いざらい話した。


「私が知っているのはここまでよ」


 と紅茶に口をつける。呆然と見つめていたジルヴィアであったが、我に返る。


「先王陛下はなぜ、そんな無慈悲な行動をなさったのでしょう。子を奪われるなんて、私だったら身を切られる思いだわ」


「父上は迷信深かったし、当時はまじない師に夢中だったから。私の言葉なんて聞き入れてはくれないわ」


 うわさでは聞いていたが、事実であったのか。ディアナの痛みを感じてジルヴィアは胸をおさえる。友と呼んでくれたのに、力になれなかった。後悔の念に駆られる。否、今からでも力になれるはずだ。がしっと手をつかむ。


「何でも私に言って。貴女の力になりたいの!」


「うれしいけれど、マリアの力になってあげて。すべてをうしなった私にとって、あの子がいるだけで幸せだから」


 想像でしかない自分が抱いた痛みよりも、閣下の方が苦しいだろう。今にも消えてしまうほど、もろい手をぎゅと握りしめた。


「姫様をお守りするのは当然です。けれども貴女だって、私の大切な方。ささえるのも許されませんか」


 ロベールと同じなのね。ディアナの心があたたかい感情で満たされていく。涙が頬を伝った。


「ありがとう、貴女がそういってくれるだけで幸せよ」


 涙をぬぐい、笑顔を向けた。慰めているときに泣き顔を見せては、淑女の名折れだ。それに心配してくれる人をうしなっては、のちのちマリアにもひびくだろう。自分への信頼が消えても困らないが、王の道を歩もうとする娘を妨げてはならない。

 ジルヴィアがもの言いたげだが、お茶も空になったので公邸まで送った。これ以上側にいれば、やさしさに甘えてしまいそうだからだ。周りに恵まれている。うしなったものは大きいけれども、感じずにはいられなかった。


「あの……」


 宮廷へと足を向けるのと同時に、声をかけられる。金紅石の髪飾りをしたツェーザルの娘、アレシアだ。


「あなたは王妃様であらせられるのですか」


 首を左右に振る。なぜ勘違いをしたのだろう。


「申し訳ありません。正当王位継承者であるマリア様にお顔立ちが似ておられたので、そうなのかと」


 マリアの顔を知っているのか。疑問をぶつけると、オブシディアンでのさわぎも隠さずに伝えてくれた。我が娘ながら、予想だにしない行動をする。ニクラスではなく、自分に似てしまったのだろうか。頭をかかえると、アレシアが首をかしげる。


「ごめんなさい。なにか用があったのよね」


「実は姫様がお帰りになるまでとどまっていたかったのですが、戦が始まるのだから巻き込まれる前に帰ってこいと父上が」


 マリアに直接しなければならぬ用とはなんだろう。久しぶりだから話がしたいというほど、仲がよさげでもない。


「これを姫様に渡してくださいませんか」


 きれいな白い手が差し出してきたのは、古びた一冊の本だった。背表紙すらない。表紙にあっただろう題名は、ほこり等ですりきれて読めない。ひらいてみると、この国でつたわる神話と地図だ。だが、要所要所で違っている。この本について尋ねてみると、すんなりと教えてくれた。かなり重たい決断をして本を持ち出してきたのだろう。手が震えている。


「ありがとう。あとで姫様に渡しておくわ」


 深くお辞儀をしてスカートをひるがえし、アレシアは駆けていく。


「おやおや、その本をいかがなさるおつもりで」


 声が降ってくる。視線を木へそそげば、守人ギルが地面に降り立った。一連の会話も聞いていたようだ。


「本当に守人って神出鬼没なのね」


「よく言われます」


 ぬらりくらりと軽い足取りで、ディアナの周りを回る。


「で、その本どうしますか」


「マリアに届けるわ。アレシア様のご指名ですもの」


「国王陛下にお見せしなくてもかまわないのですか」


 兄上よりも娘にふさわしいだろう。金の髪をゆらしてうなづいた。貴女がいうのでしたら、いいのですが。ギルはつぶやいて、本へ視線をそそぐ。内容が気になるらしい。差し出してみたが、断られてしまった。


「姫様にわたされたものを、勝手に見るわけには参りませんから」


 ギルはくるっと方向を変えて、居城へと戻っていった。自分も部屋へ戻ろうと、足先を回廊へ向けたとき。ソロモンの姿が青い瞳にうつった。この年に再会したのは意味があったとしか思えない。前に出会ったのはいつだったろう。いまは策士と誉れ高い彼もおさなかった時だ。もしかすると、子を産む前に会ったのが最後であったかもしれない。


「ソロモン、いまは仕事中?」


「ええ。主に今は、策士とはほど遠い仕事ですが」


 雑用を任されてるらしい。不本意であるのだろう。顔がゆがんでいる。いま王の片腕として元帥仗を握っているのはレイヴァンだ。複雑な心境を抱えているようだ。


「さきほどから気になっているのですが、その本はなんですか」


 包み隠さずに教えた。ギルと同じで読みたいものの、ひらきもせずに仕事へ戻っていく。マリアの臣下は皆、まじめで分別をわきまえている。自分のことのように誇らしい。弾む足取りで廊下をすすんでいくと、ベルクの姿を見つけてしまう。兄のいる執務室へ入っていった。よからぬ予感に、胸がうねりはじめる。扉に耳を当てた。


「国王陛下。ご存じでしょうが、あなたの息子クリストファー王子はわたくしが養子にしております」


 マリアを棄てて、クリスを王位継承者に立てなおすこと。その際、自分を参謀として側に仕えさせること。二点を要求した。うけいれてしまうのではないか。ドアノブに手をかけると、横から伸びてきた手につかまれる。ゲルトだ。ようすをみろ、といったところだろう。続いて耳をそばだてる。


「うそぶくな、わたしに息子はいない。出て行け!」


 室内をふるわすほど、するどい。初めて聞く実兄の声に、ディアナは戸惑いを隠せなかった。台詞もだ。マリアに息子をかさねて見ていたのに、どういう心変わりだろう。ただ単に王としての責務を、まっとうしようとしているだけなのだろうか。真相はわからない。

 扉からとびのいて、姿を隠す。ベルクは舌打ちをしながら、ぶつぶつとぼやいていた。息子を出せばかんたんに陥落すると、甘く見積もっていたようだ。大きな声で毒づくと、拳をふるわせて近くの花瓶をたたき割った。下女に掃除を命じて、廊下をすすんでいく。あとを追うよう命じて、自分は執務室をたずねた。


「ああ、ディアナか」


「ベルク閣下はいったい何用であったのですか」


 しらじらしく尋ねると、王は口をつぐむ。さすがにディアナを前にしては、言うべきではないとわかっているのだろう。


「すまない」


 謝られた。追い詰めるつもりでもなかったのだが、頭をかかえている。


「顔をお上げください。謝る必要もございません」


「いや、ある。子をうばったうえに、マリアを愛せなかった。息子とかさねて見ていた。悪かった」


 兄が子の話題を出すのは、はじめてだ。むろん、いままで触れるどころか謝ってすらいなかった。


「仕方ありません。父上がまじない師にだまされていただけなのですから」


 いまさら、返せともいいません。できるだけ柔らかい声色で、傷つけぬよう“たなごころ”で包み込む。本心を言えば、返して欲しい。自分が親だと真実を述べたい。残りの時間を自分と過ごして欲しい。わがままだ。“まつりごと”に関わる娘を、「返せ」などとどうして言えよう。


***


 天花てんくわがふかく積もった高峰を、何万もの大群が息を切らせて進んでいた。景色が闇にしずむと、正騎士長レイヴァンの命で宿営の準備がなされる。歩哨以外は天幕に入ったのを確認して、黒い騎士も一息つく。雪は防げるが、寒さは消えぬからかがり火をたいた。暗闇もいくらか退いた。地図をひろげてアゲート軍の道順をいくつか考えてみる。ベスビアナイト国とアゲート国の間には、砂漠が横たわっている。横断してくるはずはないから、迂回してくるだろう。兵はいくらか疲弊していてもおかしくはない。だが向こうからすればわかりきっているから、たっぷり休む間をあたえるかもしれない。そうなれば到着する時期が遅くなる。こちらとしては、万々歳だ。総督としてはどうだろう。こちらに感づかれる前に、攻撃へ転じたいはずだ。危険だが、休息も与えずに来る可能性がある。……指揮を執るものとしては失格だ。兵の心は離れるし、得策ではない。

 しばし元帥仗をいじっていたが、間者からの連絡がないものを考えても仕方がないと天幕を出る。身を刺す寒さに身震いする。乱層雲がかがやく空に、笛の音が満ちた。バズヴが冷気をきりさき、向かう場所。月影をうけて立つ姿を見つけた。闇にまぎれる緑の黒髪を、うしろでたばねた見目佳い女人だ。レイヴァンの姿をみとめると、馬から下りてかろやかにかしづく。


「お久しゅうございます、エーヴァルト卿」


 アゲート国に忍ばせている間者だ。


「レイリか。またうつくしくなったな。今年で二十歳になるか」


「はい。母の遺志を継ぎ、もう三年になります」


 もともと密偵網は、クリフォードが作り上げたものだ。それをレイヴァンは後を受け継ぐだけでなく、人物も選りすぐった。さらに、いままで及んでなかった地や国にも張りめぐらしたのだ。


「うごきはどうだ」


 レイリは敵軍が通った地名を列挙し、どれほどの日数を費やしたか知らせてくれた。ずいぶん疾駆させている。疲労していてもおかしくない。そろそろ馬と兵をやすめて力をたくわえるだろう。その前に襲撃をけしかけたいものだが、こちらとて移動詰めにするわけにはいかぬ。


「勘づいているか」


「いいえ。出陣したのも気づいてはいないかと。弛緩しきっております」


 たやすくやぶれると、油断しているのだろうか。冬とはいえ、情報と防衛に気を緩めた時はない。黒い騎士レイヴァンの名を知らぬのであれば、利用できるのだが。あるいは知っていて、その所行だろうか。であれば、ことさら警戒しなくてはならない。間者の存在を知っている可能性もある。レイリには陣営にいてもらい、バズヴを夜空へ放つ。もう一人の間者と連絡を取るためだ。


「俺からはなれるなよ。血の気が沸き立った兵どもがお前を“しとね”に引っ張り込むかもわからん」


 うつくしい間者に釘を刺す。


「エーヴァルト卿は私に手を出さない自信がおありで」


 前は素直にしたがう娘であったのに、言うようになったものだ。


「『汝の愛を選びなさい。汝の選びを愛しなさい』、すでに俺は愛を定めた」


 だから、安心していい。レイリはあでやかに笑んだ。


「遠く離れた地とはいえ、浮き名を知らぬわけではございません。妓館にかよってらしたでしょう」


 それも王女に容姿の似た女を抱いていると、他の間者から聞いたのだ。口遊びにしないはずがない。


「……ここ二年ほど、共寝には行っていない」


 嘘ではない。妓館へはおもむくが、忍ばせている間者から情報を聞くためだ。うまく隠せていたから、王女にも城のものにもばれてはいない。間者たちには筒抜けであるが。いまになって“うわさ”が流れ始めたのは、ベルクが不和をさそおうとしているのだろう。


「正騎士長様、斥候がもどられました」


 ざれごとを言っている時間を与えてはくれないようだ。伝えてくれた兵のうしろから斥候が駆けてきた。


「申し上げます」


 この先の地形と敵兵の位置を、つぶさに知らせてくれた。凍霞の中、脂汗をながして斥候が焦燥する。肩をとんとたたいてやり、はげましの言辞をかけて引き続き見張るよう命じた。ふかぶかと頭をさげると鞍にまたがって、姿を闇に溶かす。


「いかがなさるつもりですか」


 副元帥であり正騎士の肩書きを持つヨハンが、行動をするための命を待つ。まずは上官の意見を聞こうという姿勢なのだろう。ふだんは妹クレアにやさしいだけの兄であるが、忠実であるだけでなく目上の者にも物怖じせずに意見を言える男だ。右腕として申し分ない。

 一度天幕へもどって、地形を指で示しながら策をつたえる。しばし考え込んでいたヨハンであるが、二つほど問いをしただけで反論はしなかった。


「わかりました。では、われわれはさきに参ります」


 ヨハンはおっとり刀駆けだして、部下をともなうと嶺渡の中すすんでいく。雪は舞い上がって、視界を白く染め上げた。



 朝明の風もとおりすぎて、小夜になれば冷気は刃となって肌に突き刺さる。砂漠をうかいして長い行軍を続けてきたアゲート軍は、力ない足取りで山道をすすんでいた。疲労も蓄積しているのに、気候までも敵国に味方されている気分になって手にも力が入っていない。大国ベスビアナイトはまだかつての国力を取り戻してはいない。うちやぶるなど、容易かろう。などとまったく王の妄言を信じるべきではなかったと、総督は思い始めていた。兵たちも少なからず気づいているし、引き返すべきか。ここまでの資金も莫迦には出来ない。土産もなく、国へ戻れなさそうだ。気の迷いだと断ち切って、手綱を握り直した。転瞬、つめたくするどい矢の雨が降りそそいだ。

 伏せ勢だ。兵たちが馬首をかえして矢弾のとんでいない川へ逃げると、ずぼっと躰が沈んでしまう。おかしい。斥候の調べでは浅瀬のはずだ。考えている間に、どうっと倒れてしまう。馬をすてて渡りきると、闇の中で白銀の刃がうかぶ。


「伏兵だ、逃げろ!」


 さけんだが、遅かった。白銀の刃が血の色で、染め上げられた。ふたたび馬首をかえすと、撤退の合図を出した。隘路あいろに逃げ込み、追っ手の足をおそくさせる。こちとら騎馬民だ。寒さにも慣れているし、馬もはやく駆れる。

 静かに矢が「ひゅ」と飛んできた。みごと馬に命中して、どうっと倒れてしまい総督は投げ出される。雪明かりをうけて刃だけが、闇に浮かんだ。立ち上がって逃げだそうとしたが、脇からあらわれた兵にとらわれてしまう。この期に及んで命乞いなどしない。勝機もなく、何のための戦かわからぬまま出兵したのだ。首級をくれてやろう。目をとじたとき、刃を持った男が顔を近づけてきた。かぶとからのぞく顔は端正で若い。都では、さぞ若い女性たちが騒いでいるのだろうと想像するのも容易いほど顔立ちがよい。こんな男に負けるとは、はらわたが煮えくりかえるほど嫌だが仕方がない。


「アゲート軍の総督殿でいらっしゃいますね」


 女人であれば、惚れてしまうだろう声が唇から流れる。顔も声も、佳いなんて反則だ。それにしても、なんとゆるやかにアゲートの言葉で話すのだろう。


「ああ、そうだ」


 答えと同時に咽喉のどを刃が横切った。血が空に向かってふきつける。剣についた血をはらうと、男は総督につかえていた従軍奴隷をながめる。主人の着ていた軍服をきりさいて、首級をくるんで投げてやった。


「帰って、アゲートの王にお伝えください。あなたが思うほど、国力は衰えてはおりません。つぎに進軍してきたときはどうなるか」


 わからぬ人ではありますまい。笑顔を向けられたが、ぞっとして奴隷は何度もうなづく。


「わかってくださったのでしたら、よいのです。さあ、お帰りください」


 けたたましい足音をさせて、奴隷は逃げるように退路についた。殺さずに逃がしたところで、奴隷である彼に未来はなかろうが知ったところではない。男レイヴァンは寒気の中で考えていた。兵たちはあちこちでわき上がり、勝ち鬨を上げる。馬をかけてヨハンが来た。鞍からおりて、ひざまづく。


「みな、敗走したようです」


「ああ、仲間の声がよく聞こえる」


「分散させるなど失策に思われましたが、さすがは元帥の名を持っているだけあります」


「いや、俺一人では得られぬ勝利だ」


 もともと、防衛のための戦だ。国内で行軍させなければよい。ならば向こうのうごきを見て、どの策が最良かさだめなくてはならない。レイリの言うとおり弛緩であればたやすく打ち破れる。逆であれば、主導権を向こうに握られる可能性がある。前者であったから、成功したのだ。


「レイリ、引き続きアゲート国の動向を恃む」


「諾」


 レイリはバズヴだけをともなって、姿を凍靄いてもやの中に消した。


「帰るぞ、吉報を陛下にご報告せねばならぬからな」


 漆黒のマントをひらめかせ、部下に命じた。

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