第十七章 貴族階級カエサル

 蝋燭の明かりが船の動きに合わせて揺れる。霜夜の月が海上にうかび、船をあやしく照らし出す。見張り台にいる男は、海をながめながら夢とうつつの間をさまよっていた。

 陰にかくれコルネリアはひとりで甲板へとあがると、まっさきに見張り台へと向かった。


「眠いのなら私が変わろうか。寝室へ行っておいでよ」


「すまない、姉御。そうさせてもらうよ」


 男は警戒していないのか、素直に従い倉口から降りた。さきで小さな悲鳴があがったが、間もなく静寂が訪れる。待ち構えていたマリアが、縄で足をひっかけ男を転倒させると睡眠薬を嗅がせたのだ。


「これで甲板にいるのは全部だよ」


 コルネリアが声をかけた。マリアは元首の娘をつれて甲板へと上がる。


「王女様が薬に詳しくて助かったよ。私一人じゃ、こんな策は思いつかなかった」


「いいえ、コルネリアさんがいたから出来たんです」


 頭を下げるマリアにコルネリアは、わらった。


「礼は無事に宮殿に戻ってからだよ」


 三人は船をおりるべく、板をかけた。同時に火矢がいられ、逃げる道を閉ざされる。


「逃がすものか。コルネリア、おまえが間者であることなど、とうに気づいておったぞ」


 船長を中心に海賊たちがぞくぞくと集まってくる。初めから警戒されていたらしい。万事休すかと思われたとき。


「うつくしい花を傷つけるのは、いただけないね」


 闇の中で男の声がひびいた。切迫した空気であるのに、たわぶれな言辞であるから力が抜けてしまう。コルネリアは誰かわかっているようだ。怒りで拳をふるわせている。転瞬。軽やかに男が、マリアたちを背にして降り立った。姿に見覚えがある。城の庭で出会った男だ。


「なにやつだ」


 船長が低い声で問いかけたけれども、男は間抜けな声色でかえした。


「うつくしい女性を愛してやまない、ただの男だよ」


 ふざけたやつと嘲笑して船員が抜刀し、船長の合図で飛びかかってきた。ふるえる元首の娘を撫でてやりながら、マリアが剣の柄に手をかける。


「大丈夫、僕に任せて」


 男はささやくと剣を抜かずに、持っていた元帥杖を振った。金鼓の音が海上にとどろく。同時に海賊たちは、背後にいた黒い影にとらわれていった。影のひとりが男にかけよって、顔をおおっている布をとった。どうやら元首ドージェの兵であったらしい。胸元には、勲章がかがやいている。


「船内にいる賊も、すべてとらえました」


「首尾よくいったね。さすが合理主義で打算的な民族だ。はやく収束するのがよいと知っている」


 皮肉に聞こえたが、兵は気にしていない。


「姫様、ご無事ですか」


 覆っている黒い布を外して、ジュリアを筆頭に守人たちが駆け寄ってきた。皆の名前を呼びながらマリアは抱きつく。


「おそろしかったでしょう。もう平気ですよ」


 ジュリアにマリアは、かぶりを左右に振る。


「コルネリアさんがいたから、こわくはなかったよ」


 マリアが答えると同時に、男がコルネリアに声をかけた。


「やあ、コルネリア。元気そうで何よりだよ」


「あなたは何をやっているの。元老院議員であるのに、帝都を出てはだめでしょう」


「賊の動きが気がかりでね。お姫様レーギーナが来ているのに、失礼があってはいけないから来たんだよ」


 喫驚してマリアは男に近づくと、自分のために来たのかを尋ねる。毛先をいじりながら、おどけた調子で「そうだよ」とかえってきた。


「改めまして、お姫様レーギーナ。僕は貴族階級パトリキカエサル家の嫡子。個人名プラエノーメンをガイウスと申します。よろしくね」


 カエサルはマリアの手を取ると、幾度もさする。コルネリアはしばし我慢していたが、とうとう耐えかねて引きはがした。


「女好きもいい加減にしなさい。あなたは私の夫でしょう」


 青い目をまたたかせて、マリアはコルネリアの言葉を反芻する。


「夫婦なのですか」


 夫婦から同時に肯定の言辞が紡がれた。押し黙るマリアの前で、妻が夫をしかる。お姫様レーギーナにまで手を出すとは何事だと、注意されたにもかかわらずカエサルは肩をすくめるばかりだ。へらへらした笑みを浮かべているから、コルネリアの口跡が加速していく。止まったのは、船に板がかけられたからだった。

 兵にうながされてマリアたちが船を下りると、元首ドージェが待ち構えていてマリアに幾度も頭を下げる。


「賊に入城をゆるしてしまった我々の落ち度です」


 今回のことは皇帝陛下にあずけると、カエサルは告げてマリアの手を引き小舟へ乗せた。船頭ゴンドリエーレは、皆が乗るのを確認するとこぎ始める。しばらく経つと、外灯が浮かんで見える。街に着いたようだ。

 船が止まればカエサルが降りて、マリアに手をさしのべた。とまどえば「君はお客人だからね」の一言で、礼をしてから手を取ってマリアは先に降りた。

 宮殿に着くと簡単な食事として、蜘蛛蟹のパスタタリオリーニ・コン・グランセオラを振る舞ってくれた。冬が旬の蜘蛛蟹グランセオラは、マルガリートゥムでは定番らしい。カエサルが教えてくれた。

 海賊をすべて牢に閉じ込めたのか。元首ドージェがマリアたちのもとへ来ると、今一度謝ってひとつ提案をよこした。


「しばしご滞在なさってはいかがでしょうか」


 皇帝に速く情報を渡らせないためであろうか。本音はわからぬが、ひどく疲れているのもあってマリアは受け入れた。食事を終えれば、マリアは部屋へ戻りベッドの上へ躰をゆだねる。船上ではろくに食事をとっていなかったうえに、緊張状態が続いていた。睡眠もとれてはいなかったのだ。ものの数分で濃密な眠りがおとずれた。

 淡い光がカーテンからこぼれて起き上がる。もしや寝過ごしたのではと、あわててワンピースに着替えると部屋を出た。ちかくにいる侍女をつかまえて問えば、昼のすこし前らしい。表情を青くさせるマリアを気遣い侍女は、昼食をはやめに用意すると伝えて走り去る。惰眠をむさぼったのは自身であるのに、王族というだけでやさしくされていたたまれない。


「マリア、大丈夫?」


 身軽な躰でレジーが、窓から城内へ入ってきた。


「寝過ぎてしまったと思って」


「疲れているのだから仕方ないよ。甘えておけばいい」


「あまり世話になるわけには……」


 いかないと続かれるはずの言葉は、カエサルによって遮られた。


「甘やかしてくれるときは、ぞんぶんに甘えておかなきゃ。とくに君は、大国ベスビアナイトのお姫様だ。みんな、甘やかしてくれちゃうよ」


「それがいけないんです。甘やかしてくれるだけ甘やかされていたら、視力と聴力をうしないます。わたしは『無責任』な人にだけはなりたくないんです」


 カエサルの目がやや開かれた。


「奥ゆかしい人だね、君は。妻にそっくりだよ」


「とんでもない。コルネリアさんこそ、心ばえがよくて、とうてい敵いません」


「うん。やっぱり、そっくりだ」


 面映ゆくて視線をそらせば、カエサルは手を握ってきた。


「マルガリートゥムをまだ堪能していないでしょう。僕が案内してもいいかい」


 目的はそれであったのだろうか。マリアが承諾すると、カエサルはレジーを振り返った。


「あとの二人にも伝えておいて。お姫様と僕だけで街をまわるからって」


 気に食わぬのか、珍しくレジーが反抗する。


「何かあってはいけないので、護衛します」


「大丈夫だよ。僕が一緒だから」


 二人の会話を聞いていたマリアだけれども、不安になって抗弁を紡ぐ。


「レジーのいうとおり、なにかあってからでは遅い。貴方も貴族なのでしょう。それにコルネリアさんのこともありますし」


「遠慮する必要はないよ。君なら妻だって許してくれるよ」


 愛人にも同じことばをかけているのではなかろうか。考えを消しながらマリアは、あいまいにほほえむ。


「昼食の準備が出来ました」


 うやむやのまま侍女にしたがい、昼食へむかう。ジュリアとエリスが、食器を並べながらマリアをむかえた。カエサルが話し出す前に、食事をしようとしたけれどかなわなかった。口跡の方がすうだん、はやかったのだ。


「昼食を終えたら、僕とお姫様で街へ行くからね」


 とうぜん二人もレジーと同じことをいったけれど、貴族殿はきっぱりと断ってしまった。


「へいき、へいき。僕が一緒なんだから」


 こちらに片目をつむって見せたが、マリアは不安で仕方がない。コルネリアに対して、申し訳なさがあったのもある。

 昼食には「ビーゴリ・ネリ」が出された。ビーゴリはスパゲットーニで、直径が200ムゲセゲレ(約4ミリメートル)と麺の中でも太めのものだと調理師が教えてくれた。ちなみにソースは、日によって変わるものだとも紡がれる。

 マリアの前に出されたものは、ビーゴリに赤いソースがかけられている。口に含めば、魚介の香りが広がった。


「おいしいです」


 習ったばかりでつたないエピドートの言語で伝えれば、調理師は頭を軽く下げて調理室へ戻っていった。


「君はエピドート語を学んだのかい? すてきだね」


 カエサルはあいかわらず、流暢なベスビアナイト語で話す。


「閣下こそ、我が国の言葉をなめらかに話されますよね」


「僕は仕事がら、他国へ派遣されることが多いからね。たいていの言語は話せるよ」


 閣下の方がよほど精良ではないかとマリアが告げると、ふやけた笑みをうかべた。


お姫様レーギーナに褒めてもらえるなんて、うれしいな」


 軽い言辞に嫌気がさした。反対に裏にかくした真の言葉は何であったか。マリアは興味を抱いた。

 昼食を食べ終えるとカエサルは、本当に護衛もつけずにマリアを街へ連れ出した。レジーは心配であるからか、離れたところから気配がただよう。残党に出会ったとしても、駆けつけてくれそうだ。


お姫様レーギーナ、なにを気にしているのかな」


 あわててマリアは襟を正した。不愉快な思いをさせて、ベスビアナイト国の評判を落とすわけにはいかない。


「いえ、なんでもございません。どこへ案内してくださるのですか」


「これだよ」


 カエサルは店内に入ると、硝子細工の装飾が施された首飾りハルスケッテを手に取った。


「うつくしいでしょう」


「はい。硝子細工で出来たものもきれいですね」


 見回してみると、陽光を浴びて輝くカップや皿も売っている。実物を見ると、封じ込めていた女心があふれた。


「君に買ってあげるよ」


 薄い金の髪を左右にゆらして、拒否する。


「いえ、お金でしたらレジーたちが持ってますので、持ってこさせます」


「僕が君に贈りたいんだよ」


 街を回りきっていないのでかまわないとの言辞で、カエサルは引き下がった。隣の店には香水や化粧品が売られていた。男として育てられてきたマリアにとって、縁遠い品物だ。触れたことも一度もない。女性だと公表する前辺りから、ビアンカが化粧箱を出してきていたが断っていた。


「化粧品には興味がないのかい」


「いままで、あまり使ったことがないので」


 カエサルは店主を呼んで、マリアに化粧を施すよう言った。ことわったものの、言辞で閣下に勝つことはかなわなかった。化粧を終えると、女好きの本領が発揮されてしまう。


「もとから、美しいけれど、輪をかけて美しくなってしまったね。誰もが君を振り向き、耳を愛の言葉で満たすだろう」


 するするとよく噛まずに言えるものだと、呆れを超して感心してしまった。


「閣下の愛の言葉は、奥さんだけに向けてください」


「つれない君も可愛いね」


 カエサルはマリアをエスコートし、次の店へと向かった。立体感のある模様がついている布が売られている。


「これは何ですか」


「ああ、君の国では見たことがないんだね。レースの一種でね。『空中編み』というマルガリートゥム独特の編み方なんだよ」


 青い瞳が好奇心でかがやいた。


「君に贈ろうか」


 マリアは拒絶する。コルネリアもいい気がしないだろう。


「ざんねん。だけど、君がいうのなら仕方がないね。そろそろお茶時間ティータイムだし、喫茶店へいかないかい」


 おごってもらうのは申し訳ないと渋るマリアであったが、カエサルに根負けしてお金を出してもらうことになった。

 喫茶店へ入れば、甘い香りが鼻腔をくすぐる。


「食べたいものはあるかい」


「いえ。詳しくないので、閣下のお勧めでお願いします」


 店員を呼ぶとメニューにある写真を指さしながらカエサルが、菓子ドルチェを注文した。さきに珈琲が運ばれてくる。不思議なことに液体の上にクリーム状の何かがのっている。


「飲んでごらん」


 うながされるまま口をつけると、牛乳の味わいがひろがる。


「この泡は牛乳を泡立てたものなのですか」


「正解。面白いでしょう。僕たちの言葉でカップッチーノというんだ。これも君の国にはないんだね」


「はい。初めて見ました」


 街へ出てから新鮮なものばかりでマリアは、目を輝かせてばかりだ。カエサルはそっと朗笑をうかべる。


「楽しんでくれているようでよかった。この国へ来てくれたのに、辛い目に遭わせてしまったからね」


 気を遣って連れ出してくれたのだとわかると、マリアはやわらかい表情をして礼をした。


「ありがとうございます。あなたも奥様に似て、心ばえの優れた方なのですね」


 閣下はにがわらいをした。


「参ったな。そんなことを言われるとは思わなかったよ」


 照れているようだ。マリアはほほえみながら、カップッチーノに口をつけた。同時に果物がたっぷりのったトルタが運ばれてきた。フォークを入れて口にいれると、甘酸っぱい味が広がる。


「どうだい」


「とっても美味しいです」


「口に合って何よりだよ」


 トルタを食べ終えてからも、小物や雑貨類の店を回った。マリアが頑なであるから買うことはしなかったが、眺めるだけで十分楽しいものとなった。

 城へ戻ると夕間暮れの景色が広がっている。ずいぶんと、付き合わせてしまったようだ。誘ったのがカエサルであっても、今一度礼を言おうと部屋を訪ねる。けれども、部下アルビーヌスしかおらず本人は不在だった。明日告げようかと考えながら回廊を歩いていると、中庭に閣下の姿を見つけた。


「ここにおられたのですね」


「やあ、お姫様レーギーナ。月明かりに照らされる君も美しいけれど、一人で出歩いてはいけないよ」


 謝りながらマリアは、カエサルに近寄った。


「お礼を言いたくて閣下を探していたんです」


「律儀だね」


 カエサルの視線が星空へとそそがれる。


「ねえ、武器を取ることを選んだ王女様。君は戦をどうとらえる?」


 ベスビアナイト国の姫として問われているのだと、マリアは直感した。答え次第でエピドート国を敵に回す可能性だってあるのだと。


「わたしは信ずる正義のぶつかり合いだと思います。敵国も自身と変わりなく、おのれの義のために武器を取るのだと」


「うん。お姫様とはとうてい思えない答えだね。でも軍人としては、まだまだ未熟だ」


 あやまった答えであったのだろうか。マリアは気を沈ませた。


「じゃあ、君の言う正義とはなんだい」


「主君がしめす“道”であり、大義名分だと考えています」


「半分は正解で、半分は間違いかな」


 エピドートの政治家はあやしくわらう。


「“正義”なんて言葉を用いている時点で、君は未熟だ。正義というのは、兵たちに向かわせる言葉であって僕たちに使う言葉じゃない。わかるかな」


 マリアは長いまつげを伏せた。


「建前論のうつくしい言葉を、人々は好むとおっしゃりたいのですか」


「違うね。“好む”んじゃない、“酔う”のが好きなんだよ。そうして、目と耳をふさいで政治的無関心を起こす。どうなるか、わかる?」


 王女の手がふるえる。寒さからではなく、かつての自分がそうであったと気づいたからだった。


「うつくしい言葉たちを並べ立て、人々を扇動する。その言葉のひとつが“正義”なんですね」


「そうだよ、ベスビアナイト国の姫君。もう一度問うね。君は戦をどうとらえる?」


「国を守るための最終手段」


「やさしい君は、僕がここまで言っても泥臭い答えを言わないんだね。まあいいよ。さっきの薄っぺらい答えよりもよくなった」


 ほがらかな顔だが、目だけはするどい。ぞっとしてマリアは腕をさすった。


「次は質問を変えよう。君は国をどうしたい?」


「わかりません。ただ人々がわらって過ごせる国でありたいです」


「理想は高く、青いね。次、君の目と耳を塞いでいる手が離れた今、どんなことを望むのかな」


 望むものなどあるだろうか。考えたが答えは出てこない。


「王女としてでなくとも、君自身で考えてみてくれてもかまわないよ」


「笑いませんか」


「笑わないよ。かるく考えて」


 縮こまりながら青い瞳を、カエサルからそらした。


「愛する人の側にいたいです」


 政治家の面がはがれて腹を抱えて、失笑した。


「わ、笑わないって言ったじゃないですか」


「ごめん、ごめん。そんな可愛い答えが来るだなんて思わなくて」


 むくれてマリアが唇をとがらせると、薄い金の髪がなでられる。青い瞳が月光にてらされるカエサルをうつしだした。


「君は王位継承権を放棄して、ただひとりのものになるのかな」


「いいえ、皆が望む王になります」


 政治家の目が細められる。


「矛盾していないかい」


「していません」


 薄い金の髪をゆらして空を見上げた。いまは遠くにいる黒い騎士を、感じながら。


「愛しい人は国を守るため、わたしではとうてい及ばないことも考えていますから。つれあいとして相応しい人物になるためにも、彼の望むとおり王になることをねがうのです」


 星がながれた。黒い草木のゆれる音がおおきく耳にとどく。今度は寒さで身を縮こまらせた。カエサルは上着を、マリアにかけた。礼をつげると、ふだんどおりのおどけた表情をした。


「それは君の望みではないだろう。すべてを捨ててしまった方がいいんじゃないかい。中途半端な人間が王になっても誰も幸せになれやしないよ」


 閣下の言い分はわかる。マリアにも譲れないものがあって、王になるとさだめたのだ。


「閣下の仰るとおりです。わたしも同じことを考えました」


「だったら……」


「それでもわたしには、やりたいことがあります。たとえ傲慢と言われても、成さねばならぬことがあるのです」


 カエサルはくすっと息を漏らした。


「君は“道”をさだめているんだね。いいよ、エピドート帝国は君を支援しよう」


 まさか見定めていたのかと気づいて、青い目が見開かれる。いつからだろうと考えていると、マルガリートゥムに着いてからだと答えられて更に驚いてしまう。


「でも王の器ではないと判断したとき、いつでもエピドートは君を見限るからね。覚えておいてね」


 挙動には気をつけようとマリアは、深く心に刻みつけた。


「さてお姫様、部屋へもどりませんと。闇も深くなって参りましたし」


 上着をもどしてマリアは部屋へとかけていく。木々がざわめいた。


「ジュリア、いつまでそうしてるつもりなのかな」


 闇に隠していた姿を月光のもとに、さらけだした。


「気づいていらしたのですね」


「もちろん。花の香りを間違えたりしないよ」


 閣下らしく女性を花にたとえるから、ジュリアは微苦笑をする。近づくと、姫様に妙なことを吹き込んでいないか、らしさが失われることになったらどうするつもりなのかと怒りのこもった声色で責めた。


「心配しなくても、常識を教えてあげただけだよ」


 むろん、納得しない。


「閣下のことです。姫様に悪い何かを、吹き込んだに違いありません」


「ひどいね。そんなに信用できない?」


 烏の濡れ羽色の髪が大きく揺れるほど、肯定した。カエサルは肩をすくめてみせる。


「閣下は姫様をどう見たのですか」


「逆に君はどうしてお姫様に仕えているのかな」


 自分を拾ってくれた主君の大切な人であるのと、古くから仕えているからとジュリアはかえした。


「残念。君は間者でありながら、目の前が見えていないようだ」


「何がいいたいのですか」


 エピドートの政治家は薄ら笑いをうかべて、ジュリアをみつめた。


「あの甘ちゃんな王女様のほうが、よっぽど現実が見えているね」


 ジュリアは朗笑を浮かべた。それはようございました、と口跡が紡がれる。


「わたくしは姫様の道具。ただしく使っていただかなくては、いけませんから」


「へえ、意外と心酔しているんだね」


「貴方様が思っているほど、わたくしの姫様に対する思いは安くございませんわ」


 うっとりして言う間者に、政治家は息を吐き出す。闇もますます濃くなっていく。おたがいの顔すらも見えなくなってきて、二人は城内へ戻った。ふたたび、ジュリアはカエサルに問いかける。閣下は姫様をどのように見定めたのですか、と。カエサルの答えは意外なものだった。


「理想が高くて、青臭い。それでも現実が見えていないほど、阿呆ではない。王どころか政治家としても、軍人としても未熟。これからに期待だね」


 知らぬ者が聞けば、低く評しているととることだろう。けれども、レイヴァンと同じく人を高く賞することがないカエサルが「期待」と言葉を使ったのだ。少なくとも今は、マリアが王の器を持っていると判断しているのだ。


「思考を止めている暇はない。ジュリア、エーヴァルト卿は春まで姫様をとどめておけといいたいのかな」


 肯定を示した。


「そうだろうね。冬営の時期に来るなんておかしいと思ったんだ。国内でなにかあるのかい」


 諸外国が膠着しているから、国内で何かが起こっていると感づいたようだ。総督を任されるだけある。カエサルは皇帝陛下の右腕としても、名高い。


「内乱が起こるかもしれないと、危惧しているのです」


「我が国にならぶ大国ベスビアナイトも、一枚岩ではないか。わかった。しばらくは、エピドートの庇護下にいれよう」


 頭を下げると、言葉が降ってきた。


「お姫様はそのことを知っているのかな」


「存じ上げません。知らせておりませんから」


「彼女は名ばかりの主君なのかい」


「そのようなことは……」


 言葉を濁した。指摘が正しかったからだ。


「エーヴァルト卿は何がしたいんだろうねぇ。表向きはお姫様の臣下だといいながら、ひとつも許可を取らずに勝手な行動ばかりしている」


 まず主君に話して許可を取るのがどおりではないのかい。エピドートの政治家は、つめたい声色を闇にひびかせる。なんと返せと言うのだろう。ジュリアは胸元をおさえた。


「エーヴァルト卿は姫様を守りたい一心なのでございます。なぜ話さないのかは、わたくしにはわかりかねますが」


 毛先をいじりながら政治家は、眉間に皺を寄せる。


「エーヴァルト卿がなにを考えているのかなんて、僕たちにわかるわけないよね。君も、僕も、エーヴァルト卿じゃないんだから。それに君命も聞かず、ここにいる僕が言うことではなかったね」


 ごめんね。告げてカエサルはおどけた調子で、背を向けて部屋へと戻った。部下アルビーヌスが、いかがなさいましたかと尋ねてきた。笑って「どうかしたの」と言ってみせたけれども、考え込んでいるのがばれているらしい。おどけて見せても無駄だと口跡が紡がれた。


「何年、閣下のおそばにいると思っていらっしゃるのですか」


「そうだね、君には隠し事はできないね」


 自分が考えても仕方がないことを悩んでいたから、気にしなくていい。告げると、大きくあくびをしてベッドの中へ身を沈めた。



 数日ほどマルガリートゥム共和国に滞在してから、マリアたちはフロラリア共和国へ向けて出立した。馬車に乗ると、「数時間で着くからね」とカエサルが皆に教える。意外と近いらしい。


「そうだ」


 とつぜん声を上げると、カエサルはマリアに『空中編み』が施されたレースのハンカチを渡した。いただけないと拒絶したが、閣下の押しに負けてもらうことにした。


「特産品を手元に持つと、国同士の結びつきが堅いと思わせられるからね」


 なるほど、理由はそれであったか。したたかなカエサルには、とうてい敵いそうにないとマリアは微苦笑をうかべた。

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