第十三章 エピドート帝国へ

 窓をたたく風の音におどろいてしまい跳ね起きる。バルコニーへ出て、宵のうちだとマリアは知った。明日にはエピドート帝国へ向けて行かなくてはならないというのに目がさえている。これでは行かぬと、ベッドへ戻るものの寝付けそうに無い。椅子に座り灯りをつけて本を開いたけれど、内容なんてちっとも頭に入ってこなかった。

 エピドート帝国は、ベスビアナイト国よりも文明がすすんだ大国だという。緊張しているのかもしれない。

 本を閉じて水を飲もうと決めると、部屋をそっと抜け出す。真夜中でも起きている正騎士長のことだ。なおさら、この時間は起きていることだろう。気づかれぬよう用心しながら、白いネグリジェーをひらめかせて廊下をかけていく。夜に部屋を抜け出すのも慣れたものだから、冒険心や背徳感がくすぐられることもない。けれど、黒い騎士に見つかってはまずいから注意が必要だ。他の者であれば、大抵は見逃してくれるのだけれど。


「姫様?」


 黒い騎士では無い声にびくりとしつつ振り返ると、正騎士フランツが羊皮紙を持って立っていた。


「もうお休みになっていたのでは無いですか」


「それが寝付けなくて」


 苦笑いをうかべながらフランツの問いに答え、水を取りに行こうとしていたことをつげる。


「部屋を出る際には、かならずお供をお付けください。城内に刺客がいないとも限りませんから」


 正騎士長と同じことをいうフランツに対し、「ちゃんと誰かを呼ぶよ」とあしらう感じでいいながら調理場を目指す。けれど、腕をとられてしまい前へ進めなくなった。


「呼ぶつもりないでしょう。わたくしがお供いたします」


「悪いよ。仕事があるのではないのか」


 あなた様に何かある方が大問題だからと言われて、否応なくうなづいて付いてきてもらうことにした。調理場につけばフランツは、水差しとカップを用意しわざわざ部屋まで運んでくれる。


「仕事中であったのに、すまない」


 困惑を示しながらマリアが告げると、フランツはゆるりと笑んだ。


「いいえ。わたくしは、あなたをお守りするためにいるのですから」


 問おうと開いた唇は、フランツの「仕事に戻ります」一言で引っ込んだ。礼儀正しく腰をおりフランツは部屋を出て行く。騎士であるから出た言葉であるのか、まったく別の理由からの言葉であるのか聞きそびれてしまい心にしこりが残る。それでも、今夜は眠ろうとカップに水を注いで喉へ流した。しかれども、寝付けそうに無く本を開いて眠くなるのを待っていたら、机の上に突っ伏した形で眠ってしまっていた。

 窓からさしこむ太陽光に当てられて目を覚まし、体をぐっと伸ばすと肩にかけられていた毛布が椅子の上へ落ちた。いつの間にかけられていたのだろうと思いながら毛布をたたむ。ちょうど、ビアンカが湯を持って入ってきた。


「失礼いたします」


 毛布をかけてくれたのは、ビアンカであったのだろうかと問いかけると「いいえ」と返されてしまう。フランツだろうかと考え込んでいると、湯が冷めぬうちに顔を洗って欲しいと言われ顔を洗うと、いまではすっかり慣れたワンピースに着替える。国王からドレスを着て欲しいと言われているのか、ビアンカは度々ドレスを進めてくる。その度にスカートに慣れていないからと告げていた。実際は、ドレスは裾を踏んづけてしまうし長くて動きづらいだけであるが、言えば強制的にドレスを着させられることだろう。


「本日はいかが過ごされますか」


「エピドート帝国へ向かう準備をするくらいかな」


 ビアンカに答えていると、控えめなノックの音がひびいてきた。応じるとジュリアとクレアが入ってくる。


「荷物を整えるのを手伝うようにと、正騎士長様から仰せつかりました」


 自分の準備なのだから手伝ってもらうのは忍びないと一度は、断ったものの二人に強く押され承諾した。ビアンカもやはりと言うべきか、端から手伝う気であったらしい。手がカバンへと向かっていた。拒絶しても無駄だとさとり、何も言わずに朝食を食べに向かった。早々に食べ終えて部屋へ戻れば、荷はほとんど整っており、することがなくなってしまっていた。申し訳なさがこみ上げてくる。


「すまぬ。わたしの荷であるのに」


 クレアはマリアが肩を落としたのを見て、堪えがたい焦燥を抱いてしまう。言辞が浮かばぬのか、口を開いては閉じている。ジュリアはつやめいた笑みを浮かべて、マリアに近寄ると手を取った。


「姫様のお手を煩わせることのないよう、はやく終わらせようとクレアが申したので御座います」


 責めないでくださいねと言われ、今度はマリアの心がどよめく。クレアに礼を告げたあとで、「残りは少しだけであるし、終わらせてしまおう」と明るい声色で皆にいった。言葉通り数十分ほどで終わらすと、何もすることが無くなってしまう。二人の荷はどうなのか尋ねると、クレアは淋しげにわらい自分は行かないことを告げた。わざわざ手伝いを恃まれたぐらいであるから、一緒に行くのだと決め込んでいたけれど、付いてきてくれるのはジュリアの方のようだ。


「お供をさせていただくのは、わたくしとレジー。それから、エリスです」


 エリスには、無理をさせてしまうことになるだろうけれど、姫様の側にいさせたいとソロモンが言っていた旨を話してくれた。


「エリスは器用貧乏ですから。彼が姫様の側にいるだけで策士殿は、安心なのでしょう」


 ソロモンもレイヴァンにまけないくらい過保護だと、ひっそりとマリアは思う。


「他に必要なものはございますか」


 ビアンカの問いかけにジュリアは、首を横に振り「姫様の荷物はこれくらいでしょう」と告げれば皆の方はどうかと尋ねなおした。ようやく、意味を理解して「保存の利く食料等を買う」と返事をした。


「もしかして、これから街へおりるのか」


「ええ。干し肉等は今から用意できませんので、城下で買うのです」


 瓶詰め類をおもに買うのだとジュリアが答えると、マリアが青い瞳に光を宿してついて行きたいと告げた。ビアンカとジュリアは反対したけれど、また長い間城下を見られないからと譲らない姿勢を見せるとクレアが軽い言辞で「大丈夫よ」とつむいだ。


「レイヴァンがしばらくは、何も起こらないって言ってるし。何かあれば守ればいいじゃない」


 自分もついていくからと続かれると、ジュリアがこめかみを押さえる。


「ずいぶんと易くおっしゃいますが、王都とはいえ何も無いと言えません」


 しぶるジュリアにクレアが、レイヴァンの許可をもらえれば良いのだと駆け出せば早々に執務室へ行き容受を取り次いできた。ただし、条件としてクライドも同行させることを要求されたらしい。


「けど、クライドはどこにいるのかしら」


 ぼそりとクレアが呟くと、どこからともなく気配が立って床に影が降り立った。マリアは慣れていたから驚くことは無かったけれど、クレアとビアンカは芯から驚いたのか声を唇から漏らしていた。ジュリアは、さすがというべきか一つも驚いた様子が無い。


「近くにいたの?」


「いえ、クレアに呼ばれたので参りました」


 マリアの問いにクライドは、淡々と答える。となりでクレアは、丸みのある柔らかい肩を振るわせるとクライドに詰め寄った。


「どこから出てきてるのよ。びっくりするじゃない」


 扉から入ってくるようクレアは告げた。この反応が正常であるのに、慣れてしまっていてマリアは疑問すら抱かなかった自分自身に苦笑してしまう。

 クレアをなだめると、ジュリアはクライドに事情を説明する。クライドはうなづくと準備をしようと部屋を出て行く。マリア達もそれぞれ準備をし、見送るビアンカに手を振って城下へおりた。いつもどおりの賑わいに、ほっと息をつきつつ必要なものを揃えていく。


「せっかくだから雑貨類も見てきていい?」


 クレアが言い出した。マリアも見たかったものだから、賛同を示すとジュリアが苦笑をうかべつつもゆるしてくれた。あちらこちらへ二人で見回っていたが、クレアは幾つか買ってジュリアとクライドの元へ来た。マリアはまだ雑貨類をながめている。


「とりあえず、私は買い物おわったよ」


 楽しげなクレアに、つられてジュリアも笑みを浮かべる。しばらく買った雑貨を手の中で弄んでいたクレアであったが、飽きてジュリアを眺めた。


「ねえ、ジュリアってどんな“ちから”を持っているの」


 いままで〈金の眷属〉の守人としての“ちから”をしめしたところを見たことがない。感情を表に出さないジュリアが、珍しくも緊張が走っているのか強ばる。


「残念ながら。わたくしは、皆のような“ちから”を持っていないから」


 クレアがさらに疑問をぶつけようと口を開いたけれども、クライドが突然かけだしたのを見て言葉を失ってしまう。雑貨屋の方を見れば、マリアの姿がどこにもないではないか。クライドのあとを追おうにも姿は、既に人々の中へ紛れ込んでしまっている。ジュリアと顔を見合わせて焦燥していると、街の門からエリスとダミアンがはいってきた。めざとくこちらを見つけ、ようすが妙であるのに気づきエリスが問いかけるとクレアが息を荒くしてしゃべった。おかしな言辞であったにもかかわらず、理解し眷属のことばに耳をかたむけた。



 男と共にきえたマリアを追い、クライドは路地裏に入る。マリアが心をゆるしている風であったから、間に割って入るわけにもいかない。建物の陰にひそみかくれ、会話を盗み聞く。〈眷属〉のちからを用い男の心情にも耳を傾けた。


「マーセルさん。こんなところでどうしたのですか」


 あまやかな旋律に似た声が耳に届く。心地の良いマリアのものだ。


「実はね、俺の主が君の力がほしいといっているんだ」


 男マーセルの心情から悪意は読み取れない。わかるのは、男が純粋にマリアを気に入っていることぐらいだ。


「あるじとは誰?」


「名前は聞いたことがあるんじゃ無いかな。一時期、君はその名を名乗っていたんだから」


 クリストファーのことをさしているのか。気配からマリアは、困惑しているのがうかがえる。


「そうか、君は何も知らないんだね。この国の“本当の王子”だよ」


 止めに入るべきか逡巡する。主君の心を揺るがす言葉は、できるだけ耳に入れたくは無いのだ。さりとて、いずれ主君の耳に入ることになる事柄。口のかるい男がしゃべってくれるのなら良いかもしれないとも思ったが、正騎士長が隠すのであれば止めに入るべきであろうか。

 男は危害を及ぼすこともないので、剣の柄を握ったり離したりしてしまう。


「いったい、どういう意味?」


「言葉通りの意味だよ。先王が君を国王にするために、オーガスト陛下の子ということにした。だから、君の本当の両親は別にいる」


 とうとう黙っていられなくなって、クライドはマリアをかばってたつ。


「ご主君をまどわす言動はゆるしません」


 マーセルは肩をすくめてクライドを見据える。


「姫君がオーガスト陛下の子では無いこと、君も知っているんでしょう。話さないのは、主君と言いながら心中では拝していないのではないかな」


 大切に思うからこそ、隠すこともあるのだとクライドは反論する。物は考えようだとマーセルに言われてしまって、詞はうしなわれた。


「“本当の王子”は今、ベルク閣下の養子なんだ。ベルク閣下は、王子を元のあるべき地位にもどすためにうごいている」


 するするとマーセルの唇から口跡が流れる。とめることが出来なくてクライドは、自身がなさけなく感じたが情報を与えてくれるのであればそれでも良いと考えていた。しかれども、主君を惑わすようであれば立ち去るしかない。


「君は、普通の女の子でいられたんだ。それなのに、先王の私心のせいで王子であることを強要され、国王陛下や王妃にも憎まれる。君はそれでいいのかい」


 マリアの体が小刻みに震える。男のことばを聞いてはいけないと、クライドがさとせば王女の白い指先が胸元の石に触れた。石は様々な色を呈している。


「マーセル殿、あなた方はなにをしたいのですか?」


 “本当の王子”がいると仮定して、たてたいのはわかるけれどマリアを仲間にいれようというのがわからないとクライドが問えば、マーセルは「簡単なことさ」と言う。血筋がどうとかは置いておいて、『才』があり必要だと王子が判断なされたのだと続かれた。


「ではなぜ、“王子”みずからが訪れないのですか。人になにかを恃むとき、姫様も、そして国王陛下も決して誰かを代理で向かわせることなどいたしません」


 まっすぐな言霊があたりに満ちた。クライドとは思えない凛とした声色にマリアが目をひらけば、マーセルに向かって“くない”が放たれた。視界が守人たちにうめつくされる。息をつくと同時にマリアは「みんな」とつぶやいて、一番に視界へ飛び込んで来たエリスをはじめダミアン、ジュリア、クレアへとうつしていく。

 あきらめた様子なくマーセルは、今一度“本当の王子”がマリア達を仲間にしたい旨を口にする。皆、毛頭そんな気は無いのかマーセルを睨み付けた。


「あり得ませぬ。我がご主君はここにおわすお方のみ」


 エリスがゆるぎない詞で告げた。つぎにマーセルは、マリアに視線を投げた。


「君はどうなの。君のことばを聞かせて欲しい」


 わからないとマリアは言いたかった。しかしながら、口にしてはおそらく男につけこまれる。マーセルの言うとおりであるのならば、自分の今の地位はまやかしだ。“本当の王子”にかえすべきだろう。けれども、それでは今までついてきてくれた者に申し訳が立たない。否、違う。それだけではない。自分の中で答えは出ているはずだ。


「わたしは、おぬしの主君を知らない。だが自分で伝えることもせず、一方的に“協力しろ”などという人間を信頼するに値すると其方は思うのか」


 “王子”の声でマーセル自身に問いかける。マーセルは、声をあげてわらい「言われると思ったよ」といった。


「君は断るだろうと思ったら案の定だ。だけど、気をつけてね。これで君たちは、俺たちの敵に回ったってことわすれないでね」


 マーセルは告げると、剣を抜くことも無く背を向けて歩き出した。しばらく、男の姿が見えなくなるまで固まっていたけれど、昼の鐘がなって慌てて城へもどった。

 せっかくだから皆で昼食をたべようとマリアがいい、久方ぶりにマリアと守人たちが囲んで食事を取った。食べ終えるとエリスとダミアンは、正騎士長の執務室の扉をたたいた。中から返事が来て部屋へ入ると、ソロモンも待ち構えていた。二人がベルク領で見てきたことをいつわりなく話すと、策士と正騎士長は神妙な面持ちだ。


「それから、城下でのことですが」


 と切り出してエリスは、先ほどのことも隠さず話す。ソロモンは二人にねぎらいの詞をかけて「よめてきたな」と呟いた。


「くやしいが、正騎士長殿のよみどおりだな」


 まったく悔しいげではない声色だ。レイヴァンは笑むだけにとどめる。


「マリア様のご様子は、お変わりなかったか」


 気になっていた事柄であったのか、正騎士長はいちばんに尋ねる。エリスは食事中を思いかえしながら「何も無い」と答えた。そうかとレイヴァンはけわしい表情をうかべて考え込んだ後に、マリアがエピドート帝国へ招待されたと知らせた。エリスの瞳が丸々と開かれる。


「どうかしたのか」


 ディアナに知らされた事柄を話した。


「さすが閣下というべきか」


 やさしい表情でソロモンが漏らす。


「他に何か閣下に言われたことはないのか」


 レイヴァンに尋ねられ、伝えるのをわすれていたがクリストファーが元はディアナの孤児院にいたと話した。黒い騎士も策士もおどろく気配は無い。とうに知っていたようだ。


「やはりな。ベルク公爵がわざわざ養子をとったから、そんなことだろうとは思ったが」


 ソロモンにレイヴァンも同意を示す。


「もしかしなくとも、姫さんを王都から遠ざけるためにエピドート帝国へ行かせるのか」


 さえた頭脳でダミアンが問いかけると、騎士は肯定した。次期国王を定めたからエピドートからの使者が来るだろうと践んでいたし、ベルクはマリア自身を見極めるためと勧誘のために、臣下か部下が接触を図ってくるだろうと考えていた。またマリアは断るとわかっていた、と正騎士長は告げる。

 ダミアンはどちらが策士かわからなくなって、物言いたげな視線をソロモンに投げた。


「なんだ」


 苛立ちの混じった声色のソロモンに、ダミアンは「べつに」と視線をそらした。


「では、姫様のお供には誰が付くのですか」


「そのことなんだ、エリス。ジュリア、レジーと共にマリア様のお側について欲しい」


 疲れているところ悪いがその脚で。とも続くと、エリスは「かしこまりました」と部屋を出て行く。ダミアンは黒い騎士をみつめ、あとの守人は何をするのかを問いかけた。

 ギルは別の任務で王都を離れている。クレアにはジュリアの後任についてもらう。クライドは、監察官代理になってもらう。騎士は伝えてから、間を置いて再び口を開く。


「ダミアンには、武官として王都の護衛を主に行ってもらいたい。仕事内容は、エイドリアンから聞いてくれ。俺から伝えてあるから」


 承諾しダミアンも部屋を出て行った。


「さすが英雄殿だな。策士に肩書きを変えた方が良いのではないか」


 皮肉なソロモンに、レイヴァンはカップに紅茶を注ぎながらわらった。


「恐れ多いですよ、策士殿。それにお前とて、気づいてはいただろう」


 表情をゆがませて策士は、紅茶をすする。


「お前の行動の意味をはかることは出来ても、お前のように手を打つことはしなかった」


 完敗だとつづかれる。ふだんに比べて弱気であるから、レイヴァンの方が弱ってしまって苦笑した。


「お前は戦場での策を考えている方が似合っている。悲観することは一つも無い」


 口跡をつむがせてレイヴァンは、紅茶を飲んだ。はげましているつもりであろうが、ソロモンは気に食わず眉を潜めて腕を組む。


「よくいうな」


 兵法には上兵は謀を伐ち、其の次は交を伐つ。其の次は、兵を伐つとある。つまり、武器を取る前から戦というものは行われているのだから其れも策士の仕事だ。


「よくわかっておられるではないですか。ならば、なにゆえに手を打たなかったのですか」


 ソロモンは気づくことが出来なったと、素直に過失を認める。“子”に教え諭すように「よく気づかれましたね」と、レイヴァンがかえした。策士の眉間の皺が濃くなっていく。


「お前は、いったい何者なんだ」


 弱々しい言霊に騎士は、カップを傾けながらわらう。


「いずれ気づくことさ」


 意味をはかりかねて問いを重ねようとしたけれども、喉の奥に引っ込む。ジュリアが準備を終えたと知らせに来たのだ。

 二人で外へ出れば馬車が用意されていた。


「わたしは馬でも良いといったのだけれど、いままでが異常なだけであって本来は、馬車で移動するものだと父上にいわれてしまって」


 苦笑をうかべてマリアがいった。エリスはとなりで「当然です」とうなづく。レジーは変わらぬ飄々とした表情で“あるじ”を見つめていた。

 レイヴァンの姿を見つけると、マリアはスカートと外套をひるがえし駆け寄った。なにか言いたげであるのに口跡は唇から零れること無く、空気ばかりが抜けている。けっきょく「行ってくるよ」とだけ告げて馬車に乗り込んだ。

 皆が乗り込むと馭者は一言声をかけて、むち打ち馬を走らせる。車輪が土埃をあげながら、門をくぐっていった。ちょうどヴァハの鳴き声が寒空にひびきわたった。笛をならして黒い騎士は腕に止まらせた。筒を開き紙を見てみると、モルダバイト国で内乱が勃発し、ドゥシャンをはじめとする政治家達が民によって殺されたことが書かれていた。


「何が書かれている」


 うたがわしげな策士に「膠着状態が続いているというだけだ」と城内へ戻っていった。殺された名の中には、ソロモンが友と呼んでいたユリウスの名も連ねていた。


***


 石柱の狭間から太陽光がさしこんで、机上にある硝子製の杯が煌めいた。豪華な椅子に座っている若い男が、杯に水をそそげば更に光をかえし湖のようになる。男が手に取れば波紋がたち、ゆらめく。しばし何かを考えているのか杯をゆらしていた男であったけれど、水を口に含んだ。瞬間、扉がノックされて「はい」と答える。


「ただいま戻りました」


 ベスビアナイト王国へ行っていた使者が、訪れてうやうやしく男に頭を垂れた。


「よくぞ戻った。それで良い返事はもらえたのかな」


「はい」


 淡々と使者は答える。男は「そうか」と、杯を机上へもどした。


「正当王位継承者にはあえたかい」


 使者は首を横に振った。


「それは残念だ。君の目から見て、どういう人物であるのか知っておきたかったのにな」


「申し訳御座いません」


 責めているわけでは無いのだと、男は杯をふたたび手にとって揺らした。


「ベスビアナイト国は、私にとって大切な国だからね。中途半端な人間が国王になんてついて欲しくは無いんだよ」


 使者は顔をあげて自らの主君を眺める。男である使者の目から見てもうるわしく、陶器と思ってしまうほどの白い肌に流れる色素の薄い髪。うれいを帯びた横顔は、現実味がないと感じてしまうほどだ。そんな男の話す内容もまた現実離れしており、幻想的で不思議な話ばかりであった。だから、男が“大切な国”と称して呼ぶ理由も何となしに理解できた。


「それは“永遠の恋人”がおられるからですか」


 使者は男が心をゆるしている人間であるから、何度も男から話を聞かされており、その中で一番よく出てくるのが“永遠の恋人”であったのだ。男は苦笑いをしてから認め、杯の中の水を飲み干した。


「子どもっぽいとわらうかい?」


「とんでもございません」


 男の弱気な声色に使者は、あわてて否定した。


「それで、正騎士長殿は何かいっていたかい?」


 何も聴いてはいないので偽りなく伝えた。男は何やら考え込み、表情を歪ませる。つぎにフランツからは何か聞いていないのかと尋ねたけれど、使者はかぶりを振る。男は、表情筋をひくつかせた。


「“あの男”は、ベスビアナイトの人間であるから仕方が無いとしても。フランツめ、いつも事後報告ばかり寄越してきて」


 使者は「落ち着いてください」となだめて、フランツに会ってきた方がよろしいかと問いかける。男はベスビアナイト国の姫君の案内を任せたいから、いて欲しいと伝えた。かさねて使者は頭を深く下げた。


「諸外国の情勢はどうだった?」


 シトリン帝国は内乱が勃発しているため、他国を攻める余力はない。フローライト公国はさきの戦で痛手を負ったので、他国に攻め入る力はない。最後にモルダバイト国の内乱を話した。


「遠かれ少なかれなるだろうとは、思ってはいたけれど。引き起こしたのは、ベスビアナイト国だろうね」


 なにせ“あの男”がいるのだ。脅威になるであろう国には、あらかじめ手を打っておくはずだ。いずれ現れるだろう“主君”のために。

 報告はすべて終えたので、使者が長年気になっていたことを口にする。


「正騎士長殿とは、どのようなご関係なのですか」


 出会って間もなく、仲良くしていたのを目撃したから余計気になっていたのだ。男は椅子から立ち上がると、手すりに近寄り庭を眺める。


「二つの恋が愛に変わるとき、“我が乙女”の望んだ未来が訪れる。わかるかい?」


 さっぱりわからないと、使者は首を横に振る。


「そうだろうね。もうこの言葉が通じる者は、私と“彼”だけになってしまったからね」


「正騎士長殿ですか」


「その通りだよ。けれど、本当の意味を知っているのは私だけなんだよ」


 男が淋しげな言霊をあたりにひびかせたとき、兵士が部屋を尋ねてきた。


「皇帝陛下、急ぎお目通しいただきたい書簡がございます」


「わかった。執務室へ向かうよ」


 エピドート帝国、首都フォルム・ロマヌム。輝かしいばかりの太陽が頭上で光る宮殿で、男こと皇帝ティトゥスは冠をかぶり椅子に立てかけてあった王笏おうしゃくを手に取ると部屋をあとにした。

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