第十二章 彼女の薬草箱
真冬もせまっているときであるのに、マリアは大鍋の前にいるせいかべっとりと汗をかいていた。べとつく体に湯気がはりつき、心地が悪い。それでも、鍋の中へスベリヒユの葉を入れかき混ぜた。徐々に粘性が出てきて軟膏らしくなってくる。
「どうだろうか」
「だいたい、出来てきましたね。くしゅん!」
マリアに答えると同時に瓶の蓋を開けて、錬金術師セシリーがくしゃみをした。瓶には
「鍋に入れようかと思って」
「今回作るのは、炎症を抑える外用薬ではございませんでしたか」
「前に本で読んだ『魔女の軟膏』を作ってみようかな、なんてだめだよね」
大げさなぐらいグレンがうなづくと、しぶしぶと瓶をしまう。
「姫様にお教えしているのに、別のものを入れたりしたら間違えて覚えてしまうでしょう」
今回はレシピ通りに作って下さいといわれ、師であるはずのセシリーがあやまっている。どこか可笑しくおもいながら、粘性が強くなってくると火を止めて見せてみた。
「はい、これで出来上がりですよ」
つげて軟膏を容器にうつし、マリアにあなた様が作ったものだからあなたのものだと手渡した。礼を言いつつ受け取り、カバンにしまいこむ。
「
グレンがいい、カップにお茶をそそぐ。広がったあまずっぱい果実風味な薫りから、オレンジピールのようだ。つかれているのを見抜かれている気になってマリアが、いささか驚いていればさらに口跡をつづかせる。
「聞きましたよ、姫様。さいきん、夜おそくまで起きていらっしゃるそうですね」
ますます驚嘆している間にセシリーは、座って飲み始める。ならってマリアも、口へ運んだ。
「すごいでしょう、グレンは何でも知っているのよ」
師としてほこらしいのか、そんなことを言った。
「セシリー様も、熱中すると朝まで研究しているなんてことございますからね」
自身の体をいたわるよう強く二人に言った。へらりと笑いセシリーは、軽く「ごめん」と告げたに対し、マリアはほがらかに笑んで「足りないから」と答えた。
「皆に報いるためには、ぜんぜん足りないから。わたしを“あるじ”とよんでくれる間に報いたいんだ」
はじめてあったときの幼さが消え、気高い女性に見えてグレンが珍しくも目を見張り「そうですか」とつぶやく。同時にギルが、王女につかえていることを誇らしげにしていた理由がわかった気がした。
「そうだ。姫様にわたそうと思っていたものがあったのです」
とつぜん、セシリーは言って立ち上がったと思えば部屋を散らかし始める。溜息をつきつつグレンも部屋の中を探し始めた。
「見つけた!」
うれしげに声を上げて、セシリーが籠から丸い何かを取り出す。手渡されたものは、懐中時計ぐらいの大きさであったが文字や数字が刻まれてはいなかった。マリアが問いかけると、しばし考えた後に「眷属秤」と答えが返ってきた。
「前に王妃様が渡された羅針盤型のものでは、やはりはかるのに限界があるので改良しました」
眷属秤は、色で眷属の力があらわされるようで今は地と木の力が占めている。礼を言い眷属秤をながめていれば、昼食の時間が来てしまって急いで部屋をあとにした。
走り去るマリアの背をながめてセシリーはつぶやく。
「姫様は、錬金術師には向いてないなあ」
「面と向かって告げればよいではございませぬか」
グレンの指摘に「そうではなくて」と言葉をつづかせる。
「錬金術師というのは、人にとってよいことも悪いこともするでしょう」
自分のための研究だとも口跡を紡ぎながら、薬草箱を開けいくつか取り出すと大鍋に水を注いで放り込む。
「対して姫様は、誰かのために行っている。これは錬金術ではないわ。とうぜん、魔女でも無い」
いいながら鍋の中をかき混ぜる。
「なにか肩書きがあたえられるとすれば、かしこい女」
グレンは息をこぼして口では無く、作業をおこなうよう言い依頼された薬が多くあることを告げる。セシリーは、へらりとわらって服の袖をまくり上げた。
昼食を食べ終わるとマリアは、エピドート国のことを学ぶためソロモンの部屋を訪れていた。むろん、皇帝陛下から直々に招待されたからである。
「通貨は、アウレウスで補助単位といたしましてセステルティウス、デュポンディウスがあります」
1アウレウスが100セステルティウス、200デュポンディウスとも口跡が続かれる。ベスビアナイト国では、補助通貨は一つであるため更に下の単位があることに衝撃を受けてしまう。うんざりして「すいぶんと細かい単位があるのだな」とぼやけば、策士は嫌な笑みを浮かべた。
「25デナリウスや1600クォドランスもございますが、教えて差し上げましょうか」
単位がまだあるのだと知って絶望の色をうかべる。
「通貨のことは、つきそってもらう守人に教え込みますから姫様は先の三つだけでかまいませんよ」
心の中で申し訳なく思いながら、机上に並べられた金貨や銀貨、青銅貨をながめる。
「思ったのだけれど、これほどの貨幣をどうして持っているの」
「いつ何時、なにが起きるかわかりませんから。それに父につれられて、何度かエピドートには行きましたからね」
ソロモンから父親の話を聞いたことが無いなと感じて深く聞いてみたくなったけれど、通貨の説明を始めたものだから話についていくので精一杯だった。
「通貨はこんなところでしょう。つぎに距離の単位も説明しておきましょうか」
言った後でソロモンは苦笑をうかべると、
マリアは不甲斐なさを感じながらカップに口を付ける。上品な薔薇(ローズ)の味わいが、心にたまった淀みをながしてくれた。
「どうですか。いまの城での生活は」
「窮屈な感じはしないのだけれど、思うことがあるとすれば」
前は城を出たいなんて考えもしなったのに、今は皆とまた旅をしたいなんて思ってしまうのだと、策士の問いかけに答えながら意味も無くカップを撫でる。
「旅は難しいですね。とくに貴女の騎士がゆるさないでしょう」
肯定して苦い表情をした。
「此度、エピドートへついて行ってくれるのも守人の中で三人ほどなんだろう」
「そうなるでしょうね。ギルはレイヴァンから特別任務を与えられているようですから、まず彼は外れるでしょう」
うたがわしげな策士にマリアは、やわらかく微笑んで詞を口にした。
「レイヴァンには何か考えがあるのだろう」
信じるのも必要だと教えてくれたのはおぬしだと続かれると、ソロモンは唇を結んでしまう。のどを潤したあと、ほろ苦い表情をしてから肯定の言辞を返した。旧友であるのにかくされることが、面白くないのかもしれないとマリアは思ったが詞にすることはなかった。
「それでは、続きをしましょうか」
ソロモンに同意をしてふたたび、机に向かう。
「エピドートのマイルは、我が国のマイレンに相当します」
多少誤差はあるにしても、等しいとみてかまわないと説明をうける。1マイルは1000パッススで、1パッススは5ペース。1ペースは16ディギトゥスともつづかれて混乱してしまいそうになったが、名の由来を教えてくれたからなんとか理解できそうだ。
「計算できそうですか」
あいまいな表情をうかべながら頷けば、いくつか問題を出された。元々、マイレンやクラフタ、シュリットといった自国の計算すら苦手であるのに他国の計算が早々にはかどるはずもない。たっぷりと時間をつかって一問ずつ丁寧に解いていく。ようやく解けたとソロモンに黒板を見せたけれど、かけ算を間違えて不正解になった解が数個あった。
「姫様は計算が苦手ですか」
「すまぬ。あるじとして申し訳ないけれど、そうなんだ」
しばし考えてソロモンは、簡単な計算問題をマリアに出題する。途中、指がとまることはあったけれど、全問正解することは出来た。
「剣術と同じで計算も数をこなせば、できるようになるものです。エピドートへ向かうまでの短い期間では御座いますが、計算問題を解いてもらいます」
自身の仕事も忙しいだろうにと言ったけれど、策士は不気味なぐらい笑顔を浮かべて「あるじには、立派になってもらわなくてはいけませんから」と告げたのだった。額に汗をにじませるマリアにソロモンは、伝えなくてはいけないことがあると切り出して詞を続かせた。
「エピドートへ向かうのに港からまず、マルガリートゥム共和国、フロラリア共和国を経由してもらいます」
内陸国では無く、大陸の先端にあるため二つの国を経由しなくてはたどり着けないようだ。
「けれど、その二つの国は友好国なのか」
素朴な問いかけに策士は、エピドート国内の自治国であるからと答えた。小首をかしげ、同じことを繰り返す“あるじ”に根気強く耐えて「国家内国家」と口跡を唇から走らせた。
「独立国内で州や地区などに自治権を与えているのです」
ようやく意味がわかって、申し訳なく思いながらも策士に礼を言った。いいえと返ってきたけれど、無知なのが露見してなんだかいたたまれない。
「マルガリートゥム共和国とフロラリア共和国についても学んでいただきます」
落ち込んでいる暇など無いと言われた気がしてマリアは、すっと背筋を伸ばした。
「マルガリートゥム共和国には
我が国の品位にも関わると言われれば、頷くほかない。そもそも、
「国賓ですからね。手抜かりがあれば、皇帝陛下から地位の転落でもさせられるのではないでしょうか」
自分の一言でそんなことになっては、悪い気がしてしまうなと思いながら言辞の続きを促した。
「通貨はドゥカート。名品として硝子工芸がございます。国へ行った際には、ご覧になってみてください」
我が国にも輸入されているので貴女が知らぬうちにつかっていることだとは思いますがと言われ、身近なところに知らないことがあるものだと好奇心が沸き上がる。
「続いて、フロラリア共和国ですね。こちらは元首ではなく、
通貨はフローリンで、手工芸品が有名だと続かれた。
「とりあえず、これだけ覚えておけば問題は無いでしょう」
何か聞きたいことはございますかと尋ねられマリアは、同じ国家内国家であって同じく共和国であるのに呼び方が違うのはなぜかと問いかけた。
「わたくしも詳しくは存じ上げないのですが」
申し訳なさそうに切り出して、元々“ドージェ”は軍の指揮官や公爵の意味で貴族により選ばれ終身制である。“シニョーレ”は、主人や領主という意味を持ち、そこから派生した言葉“シニョリーア”僭主による政治体制だと説明をしてくれた。
「いまでは、世襲化しているようです」
ならば、“シニョーレ”と呼ばなくても良いのでは無いかと考えたけれど根付いた伝統なのだろう。他の国々、他の慣習だ。
「失礼します」
ノック音の後に、騎士レイヴァンと文官クレアが入ってきた。無骨な手には赤い布で覆われた物を持っている。
「ついに完成したのか」
ソロモンには、何かわかっているようで二人に言った。なんのことだかさっぱりわからないマリアは、二人に駆け寄ると持っている物が何か問いかけた。にこりと笑みレイヴァンは、赤い布を慎重にめくれば中から銀色に鈍く光る首飾りがあらわれた。
「王位継承者の証?」
「宝玉はないので首飾りだけですが、完成いたしましたのでお持ちしました」
マリアに答える騎士の後ろでクレアは、身につけるのを待望しているのかしきりに体をゆらしている。
「レイヴァン、はやく姫様につけて」
苦笑いをうかべながらクレアの言葉にしたがい、王女の背に回って首飾りをつけた。薄い金の髪にふれ銀の鎖から外へ出してやると、マリアは照れくさそうに笑い皆を見回して「どうだろうか」と問いかけた。
「かわいい!」
我慢できずにクレアはマリアに抱きついた。
「ええ、とてもお似合いですよ」
ソロモンは短く言辞を口にし、レイヴァンは肯定を示すだけにとどめた。だからなのか、クレアはどこか気に入らないらしく騎士に詰め寄る。
「わかってない。乙女心というものを、まったくわかってない!」
常々言いたいことであったのか、クレアの口跡が止まらない。さすがに参ってしまってレイヴァンは、ソロモンに目線だけで助けを求めたけれど、かわされてしまって脂汗を浮かべる。次にマリアの元へも視線が来たけれど、苦笑を返すしかなかった。
「いくら王に認められるほど強くて、少しばかり顔立ちが良くても褒めることもしないなんて紳士として失格だわ」
くつくつと肩を揺らして策士がわらう。黒い瞳でするどく睨み付けられていたけれど、気にした素振りすらない。マリアは肩をすくめることしか出来なくて、しばし言辞が止まるのを待った。
侍女が確認して欲しい書類があるとクレアを呼びに来て、ようやく言辞が止まり部屋を出て行った。
「クレアは、姫様を大事に思っているがゆえに紳士らしからぬ行動をとられるのは、気にくわないのでしょうな」
ソロモンはうなづきながら、そんなことをつぶやいた。
「レイヴァンが紳士らしくないとは、思ったことないのだけれど」
反論したくなってマリアは言葉を走らせた。
「それは姫様だからでしょう。世間一般の紳士というのは、やさしく女性をエスコートし、衣服や装飾に気づき声をかけるものですから」
どれほど心で想っていても口にしなくては、伝わらないのだから伝えるようクレアは言いたいのだとも策士は告げる。
「あまい言葉は易々というくせに、妙なところで抜けているのですよ。この男は」
言い返す言葉は無いのか黒い騎士は、閉口してしまっている。長いまつげをやや伏せて王女は、なにか考え込んだと思えば顔をあげて騎士を見つめた。
「紳士らしくなくとも騎士として充分であるから、かまわないとわたしは思うよ」
ただでさえ砂糖ほどあまい声であるのに、上に砂糖が振りかけられるほどあまくされては身が持たないと考えて告げた。思惑が騎士には伝ってしまうのか、不敵な笑みを口許に一瞬うかべていた。なにを企んでいるのかと身構えたけれど、存外にもうやうやしく頭を垂れた。
「いたみいります」
黒曜石の瞳は、身を焦がすほど熱い視線で“あるじ”を見つめていた。身の置き所がわからなくなり、スカートをぎゅと掴んでマリアは身じろぐ。頬はすっかり赤らんで段々とすねた表情へ変わっていった。
「用は済んだのだろう。仕事へ戻った方が良いのでは無いか」
「陛下より午後からは、休んでかまわないと仰せつかりましたので姫様のお側に」
それだと休んだことにならないといったけれど、正騎士長は聞く耳を持とうとしない。意地でも側にいたいようだ。
「姫様も息抜きをしてきてはいかがでしょう。レイヴァンが一緒ならば、城下へ降りても問題はないでしょう」
正騎士長がみずから城下へ降りるなど、皆がさわぐに決まっている。とくにレイヴァンは顔立ちが良いから、またたくまに女性に囲まれてしまうと争点をつげると策士は「気づきませんでした」とわらった。
「うっかりしておりました。紳士でもないのに、女性に人気があったのでしたな」
レイヴァンは頭をかかえて、ソロモンの言葉を軽く流しマリアに視線を戻した。
「どこか行きたいところがお有りなのでしたら、どこでも仰ってください。俺が一緒にいるのですから」
城下の者達も仕事があるのですから、自分に気づいても駆け寄ってくるとも限らないと言われて青い金剛石の瞳がゆれた。許されるであれば城下へ行きたいと唇から滑り出されれば、騎士は即侍女を呼び下町用の服を用意させた。
たがいの部屋へ戻り着替えると、城門をくぐって街へ降りた。ずいぶんと長い時間、来ていなかった気がしてマリアは心が躍ってしまう。小物や雑貨類を回っている間も、民の皆がマリアにあたたかな言葉をかけていた。
「城下の方々とずいぶん、仲良くなられていらっしゃるのですね」
「そうかもしれない。皆いい人ばかりで、わたしも元気になってしまうんだ」
笑顔をうかべてマリアは言う。つられてレイヴァンも笑みを零した。近くにいた女性達がざわついたのは、言を俟たない。
「正騎士長様。あの、これをどうぞ」
おずおずと女性が黒い騎士に近寄って、袋に入った何かを手渡した。出来たてらしい香りから、リンツァートルテのようだ。
「ありがとうございます。大事にいただきますね」
あまい表情の騎士に、女性が頬を朱に染めて走り去ってしまった。なんだかマリアは、面白くない。いじけた表情をうかべ、レイヴァンを置いて雑貨屋へ向かう。追いかけてくるのかと思って振り向いたけれども、女性に囲まれているではないか。いやがうえにも、ひねくれてしまって雑貨屋の店主と話をしていれば若い男が声をかけてきた。
「こんにちは、
城下でも見ない男であったからマリアは、いささか困惑しながらも挨拶を返した。
「君のお付きの人、囲まれてるけれどいいのかい」
「いいんです。あんな人」
むくれてマリアが言えば、男は「ちょうどよかった」と告げて手を取った。
「俺さ、ご主人様にたのまれて買い出しに来たんだけど、付き合ってくれないかな」
なにを買うのかを尋ねると男は、いくつか日用品を口にした。ここは雑貨屋であるのに、なぜここにいるのかと問いかけると男は一瞬、表情をひきつらせたが大げさに「ああ、間違えちゃったんだ」と言った。いぶかしみながらも、男の買い物に付き合うことにした。路地裏に入るようなことがあれば気づくし、逃げれば良い。それにきちんと剣を
「お嬢さんのお陰で無事終えることが出来たよ」
けっきょく裏路地に連れ込まれることも無く、買い物を終えることが出来た。男が言うには、辺境の地で騎士として働いているため王都へは滅多に来ないらしくどこで買えば良いのかわからなかったらしい。
「そういえば、恩人の名を聞き忘れた。名前をなんというんだい」
「マリアと申します」
隠そうかとも思ったけれど、平坦な名であるから素直に名乗った。
「そうか、良い名だ。俺はマーセルという。また会うかもしれないね」
と、男マーセルは去って行った。同時に、ようやく解放されたらしいレイヴァンが駆け寄ってきた。
「勝手に動き回らないでください」
「レイヴァンだって、女性に囲まれて楽しそうだったじゃない」
思い出してしまい再びむくれると、無骨な手が頭におかれた。
「どんな罰でも承りますから、機嫌をなおしてください」
スカートを握り締めてマリアは、上目遣いに騎士を見つめた。
「じゃあ、トルテを半分くれたらゆるす」
お安いご用ですとレイヴァンは、笑みを浮かべた。日が傾き始めているから、二人して王城を目指して歩く。店じまいには早いのか、まだ商人の声が街を包んでいた。
城門へ付くと馬車が用意されて、セシリーとグレンが乗り込もうとしているところだった。どこへ行くのか。マリアが問いかけると、採取に向かうらしい。
「素材をきらしてしまいまして」
気をつけて向かうようレイヴァンが言えば、ちょうど準備が終わったらしく馭者が馬にむち打って走らせた。マリアとレイヴァンは馬車を見送ったあと、城へ戻ればリンツァートルテをソロモンや守人たちとわけたのだった。
マリアとわかれたマーセルは、宿へ戻っていた。部屋には、クリスとイザベッラが待ち構えている。
「どうだった。“マリア”という人物は」
クリスの問いかけにマーセルは、恭しく頭を垂れながら「佳い女ですね。おそらく絶世の美女になることかと」と戯れを含んだ声色で返した。そんなことを聞いているわけでは無いといわれ、肩をすくめつつ「こちら側に引きこみたい人材」と答えた。根拠を問われると考えもなしに男の買い物に付き合うようなことはせず、手は剣の柄にかかっていたことを告げる。なにより、人との和があり重宝すべきだといった。
「『天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず』か」
古い教えをクリスは口にした。
「ベルク閣下もマリア殿をこちら側に引きこみたいとお考えのようです」
イザベッラが告げればクリスは、マーセルにマリアを自分たち側に誘うよう命じる。そのあと、イザベッラに視線を向ければ二人でローレライへ向かうと告げた。
「あの男の言葉を信じるのですか」
「“あれ”の在処を知っているのは、錬金術師バートだけだ。だが、さいきん息子ヘルメスが見つけたと言っていた」
信じるしかないとクリスは、イザベッラと共に宿を後にして近くに止めてあった馬車に乗り込んだ。なかには、縄で縛られたヘルメスが傷だらけで横たわっていた。
***
街道を越えてベルクの領地へ着いたエリスとダミアンは、即違和感を覚えることとなった。形ばかりの歓迎をうけると思っていたのに、町を挙げて歓迎されてしまったのだ。ベルク公爵も口先ばかりの言葉をかけると考えていたのに、偽りは感じられない。
監察は明日と言うことで今日は、休むよういわれ素直にあてがわれた部屋で二人はおとなしくしていた。
「これどう思う?」
「おかしなことばかりでしょう。謀反を起こそうと目論んでいるベルクが、これほど手厚くもてなすなんて」
ダミアンの問いにエリスはかえした。
「だよなあ。なにか企んでいるのか」
ダミアンの呟きに対する答えは無かった。二人は、奇襲されても困らないように剣を即手に取れる場所へ置いて眠りに就いた。けれど、奇襲されることもなく朝を迎えた。
税収や諸経費を見せてもらったが、妙な点は一つも見当たらない。逆に違和感を覚えていって二人は不信感を募らせていく。うその書類だろうかとエリスが探したけれど、まったく見当たらなかった。仕方なく、本来の目的である街の人々との交流を図った。警戒をしている様子も、不信感を抱いている様子も無い。かけてくる言霊は、どれもこれも穏やかで暖かだ。
夜になって部屋へ戻るとダミアンは、閉じこめていた感情を爆発させる。
「おかしい。何かがおかしい」
「ダミアン殿。思ったのですが、ベルク公爵は今の国王を憎んでいるだけで姫様には憎んだりはしていないのではないですか」
マリアの臣下である自分たちには、危害を加えず手厚くしている理由はそこでは無いかと考えを述べる。ダミアンはしばし悩んで「しかし」と口跡を紡いだ。
「陛下の子であるマリアを憎むのは至極当然では無いのか」
ダミアンの考えもわかると告げた上でエリスは、可能性をひとつ示した。
「ダミアン殿は知らないのと思いますが、姫様は本当の陛下の子では御座いません」
ベルク閣下が、知っていたとしたらどうだろうと言えばダミアンは黙り込む。マリアが陛下の実の子では無いことにも驚いたが、そうであるならば害を及ぼすつもりはないのだろうかと呟いた。
「可能性は御座います。であるならば、姫様を味方に付けようと接触を図るかもしれません」
「姫さんが応じなかったら……」
「敵となって害を及ぼすでしょうね」
ダミアンはけわしい表情をうかべる。
「とにかく、今のところは害を被ることは無いんだろう。明日には、ここを出発するし寝るぞ」
毛布をかぶってダミアンは、寝息を立て始める。はやいなと苦笑を浮かべながらエリスもベッドへ潜った。日が開ければ、二人は王都を目指して馬を疾駆させる。一刻も早く最善の策を立ててもらうためであった。
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