第十一章 忘れ去られた神祠

 名残惜しげにのこる陽の光が居城を照らし出しているのを背にし、貴族達が豪華な馬車で門をくぐっていく。雷鳴にも似たとどろきが王都をつつむ中で、民達は店じまいを始める。窓からそれらをながめながら、ベルクは闇の瞳を細めた。


「彼らはひとつも疑わない。否、疑うことすらしない」


 目に映るものが現状だと信じて変わらないことを望むのだと言えば、従者であるメルヒオールは息をついて視線の先を追う。今はいそいそと夜に向けて準備をしているのと、闇が側までせまっているからどこか暗い表情に見える民達だが、昼間は笑顔があふれ大いに人々が行き交っていたから市場が賑わっているのがうかがえた。


「ゆるやかに腐敗が進んでいることを知らぬ。知ろうともせぬ」


 やさしいと表現するよりも、甘いといってしまっても良いほどの王の支配であるから社会秩序が乱れる。先王の残した力がいくらか国に染みついていたから、前まではよかったもののコーラル国に攻め込まれた時から国力が落ちているのは明白だ。臣下はたしかに、有能であろうが今の王では使いこなせると思えない。


「欲しいな。あの力は」


「エーヴァルト卿ですか」


 メルヒオールにうなづいて、旧友であるソロモンはかしこげに見えて理想主義者であるから、あつかうのは面倒くさいだろう。仲間に引き入れたくは無いが、堅物な正騎士長をものにするには彼から落とすべきか。考えを述べる。


「いえ、ファーレンハイト閣下だけでは足りないかと」


 ベルクの命で、王女のようすを偵察していたメルヒオールは主君に助言した。


「正騎士長殿は、殿下に心酔しているようです」


「ほう」


 いままで動かなかったヒゲがうごいた。


***


 夜の闇を抜けて太陽が空へかがやけば、色とりどりに茂る草木に乗っている露をひからせる。すべりおちて頬にあたれば、朝だと気づいてギルは跳ね起きた。近くの川で顔を洗い、さきは長かろうから水入れにも補給しておくとパンをかじりながら獣道をすすんでいく。レイヴァンの話では、黒い森の中に神祠があるようだ。さまよいすぎて途中で森をぬけてしまったこともあった。それほど、人目に付きにくい場所にあるのだろう。


「正騎士長殿も酷な任務に使わしてくれる」


 ぼやきながら草をかきわけ進むと、小屋をみつけた。はじめは神祠であろうかと思ったが、神祠にしてはお粗末すぎるつくりだ。煙突からけむりが吐き出されているのを見て取ると、近づいてとびらをたたいた。


「だれかいるのですか」


 中からと足音がしたかと思えば、赤毛の女性が出てきた。


「はぁい」


 見たことのある顔だとかんじて必死に絞り出していると、女性の方からギルの名前を口にした。


「なぜ俺の名前を」


「どうしてって、あなた。〈水の眷属〉の守人でしょ。レイヴァンから貴方がここに来るだろうからって書簡が届いているから」


 女性がレイヴァンの妹だと気づいて名前を確認すれば、ほがらかな笑みをかえされた。


「そうよ、イリスよ。よく覚えてくれていたわね」


 書簡について問うてみれば、イリスはレイヴァンの幼少時から話をはじめたものだから、さすがに手短に言ってくれるようつたえた。不満そうであるもののイリスは、父親であるクリフォードから遺跡を守るよう言われていると説明した。


「先代正騎士長殿は、どうしてそんなことを?」


「ほらね、レイヴァンの幼少時から説明しなくちゃいけないでしょ」


 まったく意味が理解できないギルであるが、うながされるまま小屋へ入った。イリスは、朝食の準備中であったのか鍋を火にかけっぱなしだ。


「あたしが義父さんに拾われたのは、レイヴァンが九歳くらいのときかしら」


 レイヴァンは、クリフォードや自分に見てきたみたいに初代女王の話を語って聞かせてくれていた。夢物語だと思っていたけれども、クリフォードいわく昔預けていた労働階級の夫婦にもしょっちゅう話していたという。物語というには現実味もあったものだから、レイヴァンが幼いときは恐ろしく感じていたとイリスは語る。


「長くいっしょに暮らしていると、なんとも思わなくなっていくんだけどね。ただ兄貴の言うとおり行くと、本当に遺跡があったのには戦慄したけど」


 できあがったスープを皿に盛り付け、街で買ってきたであろうパンを麻袋から取りだした。イリスは朝食をはじめる。


「食べます?」


「食べていいんですか」


 ギルに敬語は気持ち悪いからやめてほしいと告げた後、「どうぞ」と皿に注いで渡した。ギルはスープをひとくち飲むと話をうながした。


「遺跡がこわされたりしないよう守ってくれってレイヴァンがいったから、父さんはあたしに託したのよ」


 遺跡が“王”のために、役立つかも知れないから。ギルは考え込む。


「今回、役に立ったということで良いのか」


「そうなるわね」


 同時にイリスは食べ終えて、カバンいっぱいに荷物を詰め込む。


「さあ、いきましょう」


「イリスがついて来てくれるのか」


「森の中にある遺跡だけはね。他の場所はあたしも詳しくはしらないから」


 二人は小屋を後にして、森に脚を突っ込んでいく。イリスは慣れた道であるからか、止まることなくすすんでいく。ギルはついていくので精一杯だ。


「ずいぶんと遠いんだな」


 汗をたらしながらギルがいった。


「宝玉を守るための遺跡だし。人に見つかったら困るからでしょ」


 軽くいってのけるが、森の中の山を進んでいることもあって息が切れる。体力には自信がある方であったのに、女性であるはずのイリスに負けている。

 小高いところまで来て「休みましょう」とイリスがいったので、ギルは息をついた。背後からながれてきた風に導かれるように振り返れば、王都の景色が一眸できて「美しい」と素直に感じた。


「いいところでしょう。こんな高いところまで普通はこないから、長い間あたしが独り占めしていたのよ」


「それはいいものだな」


 しばらくしてから二人はふたたび、山を登り始める。さすがに脚が痛くなり始めたころ。


「ここよ」


 空がいちばん近くに感じるところに遺跡はあった。周りに木々が生え、ツタは遺跡を取り囲んでいる。原型をなんとかとどめているが、天井が剥がれ落ちていて人が踏み込むには危険に思われた。けれど、主君の為ならばと遺跡の中へ入った。中も案の定、ツタが張っているうえに崩れ落ちた瓦礫が散らばっていた。さしこんでくる太陽は、昔の栄光を語るかのように懐古的にうつしだす。

 廊下らしき場所を抜け祭壇と思しきところについたが、正騎士長がいっていた宝玉は見当たらない。レイヴァンの話では、宝玉はそれぞれの遺跡の元へ帰っているという話であったが……。


「やはり、そんなメルヒェンなことは無いんでしょうかね」


「宝玉が誰の手に渡るかわからないのに、そんなわかりやすくあると思わないわ。なにか仕掛けでもあるのでは無いかしら」


 イリスの言葉は一理あるけれど、なにをすれば宝玉が出てきてくれるというのだ。


「何か無いの? 合い言葉とか唄とか」


「唄なら、いくつかありますけど。それでいいんですかね」


「試してみなさいよ」


 イリスに言われるまま楽句を口にした。


『あの街に行くのかい?

 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム

 そこに住むあの人によろしく言っておくれ

 彼女はかつて恋人だったから』


 むろん、何かが起こるわけでも無かった。水の力が強まっただけである。

 こういうのではなく、どこか隠し扉があるのではないかと二人して探しはじめた。ツタが這っていて、建物そのものの部分が出ているのも少ないため、どうしても手間取ってしまう。


「正騎士長殿から、きちんと教えてもらっておけばよかったな」


 ギルが思い始めたとき、イリスは夢中になってツタをかき分けていく。祭壇の向こう側に小さながあるのを見つけたのだ。


「ギル殿、こちらへきて」


 ギルもくぼみを覗き込み、どうすればよいのだろうかと考え込む。


「何かをはめ込むのかしら」


「そうですね。しばし遺跡内をさがしてみるか」


 祭壇のある部屋をさがしまわったけれど見つからず、あとにして他の部屋にも向かってみる。部屋といっても、吹き抜けていて“思われるところ”と表現するのが正しいであろう。それほど、遺跡は朽ちていた。

 葉がステングラスみたいにかがやく部屋へ来てギルは、架空世界に来てしまったかのさっかくを感じた。郷愁をかんじているとイリスも来て、しみじみと懐かしむ気持ちを噛みしめている。

 つかの間じっとながめていた二人であるけれど、くぼみに合いそうなものを探し始めた。瓦礫が散らばっているのもあって、無謀なのではないかと感じ始めたころ。

 〈水の眷属〉の“ちから”が、一カ所にあつまる奇妙な場所を見つけた。瓦礫と葉に覆われて見えづらいが、地面に扉があった。イリスを呼び、知っているかどうかを尋ねてみると首を横に振る。イリスでも知らぬ場所であるから、慎重に進まねばならぬとおのれに言いながら扉を開けた。ずいぶん、開けられていなかったため土埃が舞う。目をこらしてみると、下には階段が続いていた。

 ギルがランプに火をともして、下っていけば水の薫りが強くなっていく。脚が地についたとき、水が音を立てた。ランプで足元を照らすと、石畳から1ツォル(約2.54センチメートル)の高さまで水があって微かに流れる音がする。奧へと進むほどに“水”の力は強くなっていって、最奥につくと滝というには大げさであるけれど、上から水が流れてきていた。

 何のために作られた空間であろうと首を傾げながら、近づけば水がたまっている中に〈眷属〉の力が集まっているのが見えた。ざぶんと脚を水中にいれて手で探る。

 手に当たった何かを引き上げてみれば、例のくぼみと形が合いそうな物体が出てきた。さっそく、地上へ戻り祭壇へはめ込んでみると、どういう仕掛けなのだろうか。螺子の巻く音と歯車が回る音とが、かさなってひびいてきた。叙事詩みたく、怪物か竜でもあらわれるのかと身構えたけれど、出てくる気配はまるで無い。ただ微かな音をたてて、祭壇前に扉があらわれた。あらわれたといっても、元からそこにあった壁が扉の形にうかびあがったのだ。

 扉を開けると、中央におごそかながら石柱が立っていた。その上には日光をあびて、まばゆいばかりの光をかえす金剛石ダイヤモンドが輝いていた。


「どうすれば取れると思う?」


「守人なんだから、なんとかできないの」


 地下にある水の力を強めて地面をつらぬいてみたらどうだろうとイリスが、言ったけれどギルは全力で否定する。


「守人と言っても雨を降らしたり、霧を起こしたり出来る程度なのにできるはずがない」


 出来たとしても相当な体力を消費するだろうから、得策では無いと言われればイリスも納得した。


「鉤縄か、投石で落とした方が効率的だな」


 鉤縄は手元に無いので、投石器で打ち落とすことになった。


「メルヒェン感ないわね。宝石の方からこっちへきてくれたらいいのに」


「メルヒェンじゃないから」


 イリスに返しつつ投石器に手頃な石を置き、勢いよくまわして金剛石めがけて投げる。見事にあたって石柱から落ちた。地面に落ちた金剛石をイリスは拾い、したり顔をする。


「俺が落としたんだが」


「誰だっていいじゃない!」


 ギルも近寄って金剛石を手に取ってみる。刹那に数多の記憶と感情が押し寄せてきて、頭痛と吐き気が起こってしまう。

 声をかけながらイリスは、ギルの背をずっと撫でてやっていた。夕刻になっておさまったのか、ギルは青白い表情であるが立てるほどには回復している。


「しばらく、うちの小屋にいる?」


「悪いが、そうさせてもらう。正騎士長殿から何かしらは起こるだろうとは言われていたが、ここまでとは」


「やはり、あたしもついて行った方がいいかしら」


 これでは、身がもたないと思っての考えだった。世話をかけるわけにはいかぬと一度は、拒絶したギルであるけれどイリスに押されて、けっきょく一緒に旅していくことになった。


「小屋へもどるまえに、遺跡の場所を確認しておきましょう」


 イリスの言葉にギルもうなづき、地図を広げると共に広大な国を見下ろす。瞳には映りきらないほどの大地には、自らが訪れたことの無い地があると知って冒険心が燃え上がった。


水宝玉アクアマリンはローレライにある遺跡と聞いたけれど、血玉髄ブラッドストーンはまったくわからないのよね」


血玉髄ブラッドストーンだけ記憶があいまいで、覚えていないと正騎士長殿いっていたな」


 神のいる世界だなんて言い出したりしませんよね。冗談交じりにギルが呟いてみれば、イリスは「言い出すかもしれないわね」と戦慄を含んだ声色でかえした。



 他の領地を監察するためと書簡を送った後に、ベルク領へエリスとダミアンは旅立っていった。快く監察を受け入れたことにソロモンが疑念を抱いていれば、レイヴァンがまったく意に介さず主マリアに見張りが付いていたことを漏らした。


「あれはベルクの従者だ」


「はじめになぜ言わない? 王女に対して間者を付けさせるなど、不届き者がすることでは無いか」


 いまにも感情が先走りそうな策士をいさめて、見張りがいたからこそ監察の許可が容易に下りたことを告げる。


「ベルク閣下はあほうではないが、『才』はない。だから、やさしいが優柔不断な王では、国が腐敗していくのを知っている」


 コーラル国を追い出したと名声高いマリアを多少なりともかっているからこそ、自身で見極めるためにも付けたのだろうと騎士は考えを述べた。


「お前はそれで、およがせていたのか」


「期待していたとおり、監察許可は下りた」


 黒い騎士は答え、紅茶をすする。


「ベルク閣下が姫君に期待していると、お前は言いたいのか」


「いや、期待ではないな。今の段階では、“見極めている”といったほうがいい」


 策士の疑問が黒い騎士によって解消されていく。いままで感じたことの無い奇妙さにソロモンは、懐疑を抱いてしまう。思い立つことがあるとすれば、立場が逆転していることだ。


「正騎士長殿、ひとついいだろうか」


「なんでしょうか、策士殿」


 一呼吸置いて用心深く策士は、心のどこかでくすぶっていた問いを言霊にした。


「今までお前は、何を以てなにも知らぬふりをしていた?」


「待っていたけれど、時間は無くなった。それだけですよ」


 答えの意味がわからず口を開こうとしたけれど、レイヴァンが立ち上がったことによって言葉は奥に引っ込んだ。客人が来ると告げて部屋を出て行けば、ソロモンは深く息を吐く。以前にはなかった焦りと重圧に押しつぶされそうになっていたのだ。いったい何をあせっているのか、ソロモンにはとうてい理解し得なかった。

 部屋を後にしたレイヴァンは、陛下に呼ばれていた謁見の間へ向かう。エピドート帝国からの使者が来るから、共にいて欲しいとのことだった。

 部屋につき国王の側でひかえていれば、恰幅のよい男が入ってきて礼儀正しくひざまづいた。


「海を越えて遙々よく来てくれた」


 国王の定型的な言葉からはじまり、やがて訪れた目的を話した。


「ベスビアナイト国の次期国王であらせられるマリア・アイドクレーズ様を、ぜひお招きしたいと皇帝陛下がおっしゃっております」


 正当な王位継承者をさだめたから来るだろうと践んでいたが、こんなにはやく来るとはレイヴァンも思わなかった。つぎの王になるであろう人物をはやくから見極めておこうという魂胆だろう。“あの男”の考えそうなことだと考えが至る。

 対応しかねている陛下に受け入れてくださいと助言をすれば、受容し使者に答えた。後、使者と軽く打ち合わせをして去って行けば矢張り陛下は正騎士長に問いかけた。


「要求を呑んだ理由を教えてくれ。マリアを外に出すべきでないといったのは其方だろう」


「いましばらくは何事も起こらぬでしょう。それにエピドート帝国の方が治安はよいでしょう」


 滞在したところで平気でしょうと続かれても国王は、腑に落ちた様子は無い。当然だ。マリアを王位継承者に選んだと知らしめてしまうのだから。自身の息子を次期国王とさだめたい願望を消してはいないらしい。


「マリアはディアナからあずかった大切な子だ。危険な目には遭わせたくは無いんだ」


 陛下の口から斯様な言辞が飛び出してきた。本心かどうかは定めかねるが、あながち嘘でも無さそうだ。


「そうだ、レイヴァン。おまえ、マリアを欲していただろう。マリアをやろう。『パーライト』だの何だのとはもう言わない。だから、エピドートへは……」


「承服しかねます」


 欲していたのでは無いか。陛下がするどい何かで貫かれたかの如く驚く。


「かような形で娶っても、姫君も良しとしないでしょう」


「マリアへの説得は、わたしがしよう。お前が夫になるのだ。マリアとて嫌では無いはずだ」


 凍てつかさんばかりに黒曜石の瞳が王を見下ろした。心の臓まで凍りづけにされた気になって、一国の王でありながらオーガストは固まった。


「陛下、エピドート帝国との同盟に亀裂を入れるおつもりか。心配なさることは一つもございませぬ。皇帝陛下も手厚く姫をもてなしてくださることでしょう」


 漆黒のマントをひるがえし、部屋を出て行けば国王は膝から崩れ落ちた。

 レイヴァンは扉越しに聞こえた音に気づかぬふりをし、回廊を進んでいく。書庫の前で我知らずうちに足を止めてしまった。書庫はすこし朝廷側にあって、マリアと会う数少ない機会だ。癖というほどではないにしても、騎士のささやかな楽しみであった。

 いつもどおり、書庫をのぞいてみれば小窓から零れる陽光をうけて輝く薄い金の髪が見えた。声をかけることは滅多に無いのだけれども、いずれ話さなくてはならないのだから先に話してしまおうと声をかけた。


「お勉強ですか」


 髪をなびかせて、笑顔をさかせ「うん」と答えてくれた。


「少々、お時間をいただいてもよろしいですか」


「かまわないよ」


 本をぱたんと閉じると、人懐こい表情で続きを促される。騎士はエピドート帝国からの使者の要求を伝えて、要求をのんだことと近々むかってもらうことを告げる。


「いってもいいの?」


「ええ、もちろん」


 マリアはとびきりの笑顔をうかべて喜んだ。


「まだくわしい日程は決まっておりませんので、後日お知らせすることになるとおもいます」


 了解をして弾む足取りで部屋へ戻るマリアを送る。仕事の続きをしようと向きを変えたとき、ジュリアが声をかけた。


「何か御座いましたか」


「わかりますか」


「ええ。王が認めきれていないことを簡単に漏らしてしまうなど、貴方らしく御座いません」


 マリアと言葉を交わしたかっただけだと、ジュリアには見抜かれていた。


「不確かなことを主君に告げるべきではない。いつもあなたがおっしゃっていることです」


 黒い騎士はどこまでも深い闇を瞳に宿して、ジュリアを振り返る。


「本心ではエピドートにいって欲しくない」


 “あの男”に逢わせることが、どうしようもなく厭忌してしまうのだ。鼓膜を揺さぶられれば、ジュリアは黒い騎士の手を包み込む。


「最初は、お側にいられるだけで幸せだった。なのに、欲を出してしまった」


 結ばれることは無いとわかっているのに、望んでしまった欲は罪深い。騎士は言霊をこぼしていく。ジュリアは、しずかに寄り添っていた。


「いずれ、時が来ることはわかっていた。それでも、儚い願いだとしても、甘い夢を見たかった」


 ジュリアが騎士の名を呼ぶ。騎士は非難の言辞が続くと思って、さきに口跡を紡いだ。


「わかっている。彼女は俺を選ばない。甘い夢に浸っていたいと我が儘になっていたのは俺だ」


「本物の恋をすると、男の人は臆病になるそうです」


 色香のある声がながれた。おどろいてレイヴァンは、ジュリアを眺める。


「あなた様は、本当の恋をしているのですね」


 黒い騎士は微苦笑をうかべて、艶のある黒髪を撫でた。はじめての行動にジュリアがおどろいていれば、騎士は哀しげに笑んだ。


「今夜は付き合っていただけますか」


「あなたが望まれるのであれば」


 小夜になると二人して酒場に行き、久方ぶりにレイヴァンは酔いつぶれた。

 うわさがたっても困るからと、今朝方二人は時間をずらして帰城した。けっきょくレイヴァンだけ宿酔で、仕事中も頭痛になやまされることになった。


「ハーブティを用意させましょうか」


 ジュリアがいったが、首を横に振る。


「飲めば仕事効率もあがると思いますよ」


「いや、かまわない。ジュリア殿、この資料を陛下に渡してきてはくれぬか」


 気がかりながらもジュリアは、資料をうけとって部屋を後にする。宿酔の頭痛くらいなんでもない。国を巣くっている貴族達の不正の方が、頭を痛くさせてくるとレイヴァンは仕事に打ち込んだ。

 一刻まで集中していたけれど、痛みに耐えられなくなって息をつき目頭を押さえる。ノックの音が響いてくれば、宿酔の頭には堪える。


「はい」


 感情を押し殺し出てみれば、マリアがお盆にお茶をのせて立っていた。痛みなんて彼方へ消えてしまう。椅子へ座らせれば、「疲れていると聞いたから」とカップにお茶まで注いでくれる。


「姫様にそこまでしていただくわけにはいきません」


「いいではないか。世話になってばかりなのは、わたしなのだから」


 ふわりと立つ薫りから加密列カモミールのようだ。さしだされた茶を飲んでみれば、宿酔がいくらか和らいだ。


「だれからか俺が宿酔だと聞きましたか」


「いわないように言われたけれど、ジュリアから」


 自分が持って行っても素直に応じてくれないだろうから、持って行って欲しいと言われたことを素直に告げる。騎士は驚いた様子無く、「そうでしたか」と零した。


「レイヴァン、周りから見ても無理をしているように見えるんだよ。休息はとれているの?」


 だまりこんでしまう騎士を肯定と見なして、マリアから国王に頼んで休日をもらうかどうかを尋ねてみれば即否定の言葉が飛び出す。


「いいえ、とんでもございません。国がまだ軌道に乗っておりませんのに、休みをもらうことなど出来ません」


 真面目だなと思いながらマリアは、レイヴァンに渡したままだったディフューザーを手に取った。


「すみません、返すのを忘れていて」


「大丈夫だよ」


 マリアは持っていた小さめのカバンから精油を取り出すと、香水薄荷メリッサを3滴ほど垂らす。


「仕事中でも使ってみて。吐き気や頭痛に効くと思うから」


「俺にそこまで情をいただけるなど、この上ない喜びで御座います」


 過剰だな。マリアは押し隠して、静かに笑むと力になりたいだけだと告げた。


「少しの期間であったとしても、わたしはエピドートへ行かなくてはならないのだろう」


 レイヴァンは正騎士長であるから、基本的に国を離れられない。今回一緒に付いてきてくれることは無いだろうから、薫りだけでも側にいて助けになりたい。黒い騎士は喜びで胸があふれてしまう。一度は手放した希望がまた膨れあがってきて、浮き足になりそうだ。


「ありがたき幸せ」


 他に言葉は見つからなかった。言語化できない感情をあらわす方法をレイヴァンはひとつしか知らない。


「マリア様、失礼します」


 感情にあらがわず大切な主君を抱きしめる。


「あなたが側にいてくれるだけで幸せですのに、あなたは俺に情をくれる。これ以上の幸せがどこにあるというのか」


 レイヴァンの言葉が、“誰か”に似ている気がしてマリアは奇妙な感覚を覚える。いままで感じたことの無いものだから、潜考してしまう。答えを導き出すことが出来ないまま、別れて自らの部屋へ戻った。

 クライドが昼食を机上において準備をしてくれていたから、さきに食事を済ませることにする。


「考え事ですか」


 顔に出ていたらしい。クライドは問いかけてきた。


「うん、レイヴァンが“誰か”に似ている気がして」


 “誰か”が誰なのかがわからなくて悶々としているとクライドが、やわらかい表情を浮かべる。


「わかるといいですね。“誰か”」


 クライドにはわかっていることは気づいたけれども、自分自身が見つけなくてはいけないのだと感じてカッセラーを口に放り込んだ。

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