第十章 風花

 寒気は素肌につきささり、指先はとうに感覚をうしなっていた。よごれ破け、それでも着続けてすり減らされた衣服では、冬の寒さを防いではくれない。

 いつから、そうしていただろう。降り積もりつづける雪の中、少年は丸くなってうずくまる。凍死してしまえれば、それでもよいと思ってしまっていた。家族は自我が芽生える前にいなくなっていて、だれとも知らぬ家で育てられた。まったくの他人だからなのか、与えられたのは着ている服とパンくずだけだ。日々、自分ばかり奴隷のような扱いを受けて同じ屋根の下にいる年下の男の子は、あたたかい服とパンとスープをふんだんにあたえられる。それでもあの家にいたのは、他に行く当てなど無いからだ。ついに今日、パンくずを手渡され外へ放り出さた。口減らしだと、すぐに気づいた。今はすでにパンくずも食べきってしまっている。

 視界がまっしろにつぶされていく中で、かすかに歌声がきこえる。風に乗って、いつもとたがわず声が響いてくる。


『忠義を唄え 眷属よ

 忠臣は二君に仕えず 我らが王はただひとり

 違えるな 忘れるな

 我らはもとより 我が王の臣下』


 声がだれかの声とかさなった。


「ようやく見つけた〈風の子〉よ。君はいきなくてはならない。王をお守りするために」


 男は、少年を抱きかかえると深い森へと入っていった。

 少年が目を覚ましたときには、毛布にくるまれて暖炉の側で寝かされていた。あの家の者が助けてくれたとはとうてい思えない。目をこすってあたりを見回す。風がながれたかと思われたほど、うつくしい言霊が室内に流れた。


「目をさましたかい」


 知らぬ声であった。誰も彼も唇からはきだされる言霊は、黒く濁っているのに男からつむがれた言葉は風に似ていた。


「だれ?」


 男は湯気の立つカップを少年に渡しながら、〈風の眷属〉の守人であると答えた。少年はなにも知らぬから、首をひねる。


「そうか、だれも君に教えてくれなかったんだね」


 男はつぶやき、昔話を語って聞かせた。


「おじさんは、王につかえる守人?」


「王に仕えているのは、三賢者。守人はすこし違う」


 男はいい、少年に寄り添う。


「たしかに、守人は王のために力を使うのだけれど、我々は語り継ぐのが仕事。王にお仕えするのでは無い」


 きみや僕がきいている唄は、“王の忠臣”や“三賢者”に伝えるために紡がれているのだ。少年は耳になじみがないから首をひねる。


「“三賢者”は、王と共に地へ降り立った三人の臣下。“王の忠臣”と呼ばれているのは、あとから地上へ降りた臣下」


「どうして?」


 少年は尋ねる。三人の臣下では無く、あとから王の元へ来たのに忠臣とまで言われるのが不思議でならなかったからだ。


「王は戦いを望んではいなかったからだよ」


 相手とわかりあえると思っていたから、自分の一番の臣下をできるかぎり神のいる世界にいさせた。


「けれど、わかりあえることはなかった。残念な結果だけをもって“王の忠臣”も地上へ来た」


 王は地上とのつながりを濃くするために、アトラス王と恋仲になったが、アトラス王は大陸ごと海に沈められてしまったしとうれいを帯びた表情で男は言う。


「“王の忠臣”はうなだれた。地上へ来るのが遅かったと嘆いた。王の恋人を死なせてしまったから」


 王がだれとも結婚すること無く世を去れば、残された守人たちは、吟遊詩人として話を世に広め、三賢者は王の残した子と共に都へ残った。


「子どもがいたの?」


「うん、恋人との子がお腹にいたんだよ」


 そして、“王の忠臣”は三賢者が地上へ降りるときに持っていた“三つの宝玉”に仕掛けをほどこした。


「守人達に受け継いでもらうために、自身の思いや願いを唄にして宝玉に込めたんだ」


 きみも聞こえるだろうと言われ、少年は耳をすませる。悲しみを含んだ歌声に胸がきつく締め上げられた。


「この唄を“王の忠臣”や“三賢者”につたえるの」


「それが僕たちの役目。そして、僕はきみに伝えなくてはいけない。守人としての役割を」


「ぼくは守人なの」


 男はうなづいて、傷だらけの少年にふれる。


「きみは〈風の眷属〉の守人。ようやく、見つけたんだ」


 出逢うことが出来てよかったと男は、安堵の息をこぼす。


「きみは名前をなんというの?」


「知らない。だれもぼくの名前なんて呼んではくれないから」


 名を知っているであろう家人は、いつも「お前」と呼ぶし名前らしきもので呼ばれたことは一度も無かったのだ。


「じゃあ、僕が名前を付けてあげよう。きみは今日から、僕と一緒に旅に出るんだ」


 言った後、男はやさしい表情をうかべる。


「レジー、というのはどうかな」


「どういう意味?」


「古い西方の言葉で『強力』っていう意味だよ」


 きみはこれから王をお守りするために強くなるんだ。力強く男に言われ、少年レジーはほがらかに笑った。



 まどろんでしまうほど寒さがいくらか和らいだものだから、マリアは部屋で眠ってしまっていた。本も開いたままである。窓をみやると、まだ昼さがりであったのでやや安心した。夕方になっていては、時間を無駄にしてしまった気がしてしまうのだ。ほっと息をはいたとき、木陰でねむりこんでいる武官レジーの姿を見つけた。いくら和らいだといっても、冬である。さむかろうと外套を手に持ち、庭へ出た。ふだん、飄々としているようでいて、気をしっかり持った男であるのに完全に抜けているのかぐっすりだ。疲れているのかもしれない。それでも、ここまでレジーが油断しているのを見たこと無いものだから、外套をかけたあとに顔をじっと眺める。長身であるレジーの顔をマリアが、はっきりと見たのはこの時がはじめてかもしれない。

 いつも帽子をかぶっているから表情が暗く見えがちになるが、肌の色はあかるめで血色がよい。固く結ばれた唇は、うすい紅色でつやがある。帽子を取れば、かならず女性に人気が出るであろうと思われるほどよい顔立ちをしていた。なんだかマリアは、もったいない気分になってくる。

 帽子をそっとのけようと指でふれたとき、淡い茶色の瞳がひらいた。


「すまない、休んでいたのに起こしてしまって」


 手をはなしてマリアは、即座に告げた。寝ぼけているのかレジーは、マリアの手首を掴んで引き寄せる。


「なつかしい夢をみた。マリアのことを識る、ずっと前のこと」


 物珍しげな“あるじ”に気にせずつづける。


「オレは、すっかりわすれていた。“王の忠臣”のこと、“三賢者”のこと……」


 教えてくれるだろうかとマリアが口跡をつむぐと、先代の守人が言っていたことを嘘偽り無くつたえた。


「その者らもわたしの側にいるのだろうか」


「うん、いる。たとえ、今そばにいなかったとしてもマリアとめぐりあう」


 運命だからとつづかれてマリアは、哀しみを忍ばせた表情で笑む。


「わたしに仕えるのは、彼らにとって不本意では無いか」


「そうかもしれない。であれば、オレがマリアの忠臣になるよ」


 自分は相違なく、主君とさだめているからと詞を述べる。ことばにならぬほどの喜びが押し上がってきて、マリアは感謝を告げた。自身の度量では、申し訳ないと思うほどの忠義にどう返せばよいかとかんがえていた。


「さむいでしょう、ありがとう」


 レジーは言い立ち上がると、かけられていた外套をマリアにかける。


「かまないよ、たいせつな武官が病魔に冒されるよりはね」


 ご主君なのだから、自身をたいせつにするよう武官はいさめながら部屋までマリアのお供をする。途中、駆けていた男の子が脚にぶつかってきた。


「ああ、走ってはいけないとあれほど言ったのに」


 母親らしき女性が、後から来て尻餅をついた男の子に駆け寄る。女性は頭をさげてマリア達にあやまった。

 城にこどもがいることを妙に思い、王女はといかけた。


「わたくしは、正騎士兼正騎士長補佐エイドリアンの妻ジルヴィア。この子は息子のレオです」


 ふだんは居城の敷地内にある公邸で暮らしているが、エイドリアンにわすれものを届けに来たという。レオは留守番させておくはずであったが、居城を見たいとせがまれてつれてきたようだ。


「姫様のお手を煩わせて申し訳ございません」


 ぶつかられただけでなにも無いから気にしないで欲しいと伝えた後で、マリアは王女だと気づいていることに驚き問いかける。ジルヴィアはあでやかに笑み、口跡をつむぐ。


「かざりも多くなく、一見質素にもみえるワンピースですが質のよい布を使ってらっしゃいます」


 なにより薄い金の髪は、王族以外では珍しいですからねと続かれ得心する。


「おや、エイドリアン殿の奥方ではございませぬか」


 思わぬ方向から声がひびいてきて、視線を走らせればソロモンがいた。知っているのかとマリアが問うと、策士は「ええ」と答えて城にいる人は把握しているとささやいた。把握していなくては侵入者にも気づかないかもしれないと気づいて、王女は胸の中にとどめておいた。


「主人がわすれものをしていましたから、とどけにきたのですが」


 姫君とお会いすることが出来るとは思いませんでしたと告げ、色香のある笑い声をもらす。


「しかしながら、こちらは宮廷。朝廷がおこなわれる部屋はございませぬよ」


 策士が指摘するとジルヴィアは、レオに居城をみせていたことを告げた。


「たしかに、部屋に入らぬ限り咎められることは無いと思われますがお気を付け下さい」


 ただでさえ、内政がおちついてはいないから疑われても文句は言えない旨をいえばジルヴィアは、あやまるとレオをつれて公邸へもどっていく。

 マリアが不思議がるとソロモンは、落ち着いた声色で言葉を返す。


「王族に危害を加えないといいきれませんから」


 エイドリアンの妻であるからなにも無いとは思うけれど、だれかに謀られて罪をきせられることもあるだろうからできる限り可能性は排除したいことを口にする。


「わたしは、あの者らと関わるべきではないのか」


「関わるなとは言いません。ですが、姫君を次期国王とお認めになっていない貴族がいることは事実」


 姫を陥れようと彼女らを利用することもあるかもしれないと言われ、マリアの中に言いようのない感情が渦巻く。胸元の石が紫色を呈した。

 策士の指が石をすくいとる。


「不安ですか」


「恐いと表現するのがただしいと思う。わたしが関わったことによって、だれかが傷つくのはおそろしいから」


 王女は空の瞳を曇らせて答えた。


「わたくしは、姫君が傷つくことの方がおそろしいです」


 ゆえにあなたが望む“道”をともにかなえるために策を講じるのですよ、とソロモンは言辞をかなでた。なにも感情をしめさなかったレジーの瞳が、神妙なひかりをやどす。


「ときに姫君。あなたは“道”をさだめられましたか」


 策士からの問いが重々しくマリアの耳にひびく。


「目にうつるすべてを救いたい。これが“道”では、いけないだろうか」


「甘いといわれることでしょうが、主君として大切なことだとわたくしは思いますよ」


 口には出さずともそうした考えが、まず第一にある主君であれば命を差し出すことだって出来ることでしょうと言われ王女は面食らう。


「さしだすだなんて、そんな……」


「わたくしは、あなたのためでしたら命を投げ出すことも出来ますよ」


 むろん、自分だけで無くレイヴァンや守人達も出来ることでしょうと続かれるとマリアはあぐねてしまう。自分のためにだれかが傷つくのは、いっそう嫌なのだ。とうぜんの反応かもしれない。


「おぼえておいてください。我々は、“あなた”を主君としてここにいるのですから」


 つよい言霊に腰が抜けそうになる。踏ん張って立ち、視線を見つめ返しながら王子らしく「ああ」とかえした。


「姫君、わたくしに隠している“道”がお有りですよね」


 主君の目指す道は、すべてお話しいただかなくては策をたてられないとつむがれるとマリアは口をつぐんでしまう。


「いっさいがっさい、話さなくてはいけないのだろうか」


 策士は「できれば」とつたえた。主君が詞にしたくないのであれば、強引にきくことも出来まいと付け加えたのである。


「“道”と呼ぶかはわからないけれど、覇と徳をつめば皆に報いることはできるだろうかと常々かんがえているよ」


 策士でありながらおどろき、硬直してしまう。主君の口から「覇」と言葉がとびだしてくるとは思いもしなかったのだ。ソロモンは深く尋ねた。


「なぜ、そのように思われたのですか」


「人の和だけで無く、武力や策謀も必要だとかんじて」


 最終的に決断を下すのは主君である。主君が「覇」と「徳」を重んじることにソロモンは、いたく感激し「もしや」とうかんだ疑問を口にした。


「書庫で読まれている本は、軍記なのですか」


「軍記だけではないのだけれど、おもに読んでいるのはそうなる」


 奇正の運用をより知ることが出来るからと続かれれば、「では」と言って策士が自分の部屋へ主君達を招く。本棚から一冊、抜き出すと手渡した。


「エピドート帝国で読まれている『覚え書き』です。帝政の基礎を作った終身独裁官が著したものです」


 ソロモン曰く、元老院へ向けて記された報告書らしい。高い文筆力であるから、歴史家の手が加えられること無く、刊行されたようだ。


「元老院というのは」


「我が国では、なじみが無いですよね。エピドート国の王政時代では『助言機関』、共和制時代では『統治機関』。現在では、『諮問機関』として機能している機関です」


 『覚え書き』が書かれたのは、共和制時代ですから『統治機関』ですねと続かれる。


「今、ソロモンが言った順に政体は変化したのか」


「ええ、そうです」


「王政から共和制へは、わかるのだけれど、共和制から帝政というのはどういうことなんだ?」


 策士は笑んで「よい質問ですね」と、前置きを置いてから口演する。


「姫君が思っているとおり、最後の王は好き放題したがために倒されました」


 その後は、執政官二人と元老院、民会による共和制に移行するのですと紡ぐ。


「当時は戦ばかりでしたから、指揮をする執政官が次々倒れても元老院から選び出せるようにしていたのです」


 執政官は行政を担い、戦場へ出て指揮もしていたことを説明する。


「そうしてどうなったか、おわかりになられますか?」


「戦は領土の拡大という認識でよいのだろうか」


 肯定を示してソロモンは、マリア達にも椅子をすすめつつ座る。侍女に茶を用意してもらうよう頼むと、地図を広げた。


「領土は大きく広がりました。それにより何がおきたかわかりますか」


 しばし考えたけれど、解答がみつからず王女は首を横に振る。策士は、広大な領土を持つことになり意志決定をするまでに時間がかかりすぎてしまうようになったと解をつたえる。


「だからこそ、一人の指導者が決する制度に移行したのですよ」


 侍女が紅茶を運んでくれば、一番にソロモンが茶をすする。喉が渇いていたらしい。

 マリアは、話が一段落したと見て取って本を開いた。ベスビアナイト国の言語で翻訳されてはいるが、古い言辞やいままで触れたことの無い兵器の名までのっているではないか。


「しばらく借りてもいいだろうか」


「もちろん。そのために部屋へお招きしたのですから」


 笑みをたたえるとマリアは「ありがとう」と策士に伝えて、沸き上がる好奇心を隠すことなくページをめくった。レジーまでものぞきこみ、文字を目で追う。淡々と綴られる文章は、客観的に見えて主観で大義名分を立てているように見えてしまい主君を盗み見る。青い瞳は、ときどき目線を止めながら進んでいく。


「なにか思うところでもございますか」


 策士が口をはさんだ。


「最初であるから、言うのもどうかと思ったのだけれど、自己正当化するために大義名分を立てているととれなくもない」


 主君はそうとったのかと感じて武官は、ふたたび文章へ目線を走らせた。ソロモンは、満足げにわらい「どうか、その考えもわすれないでください」と言いコップを傾ける。


「レジーは、どう思われましたか」


 自分に振られるとは思っていなくて、淡い茶色の瞳がひらかれたがいつもの表情に戻って考えを述べた。


「なるほど、二人とも言い得て妙ですね」


 どちらが正しいと言うことはない、ということなのであろうか。だから、レジーは逆に問いかけた。


「ソロモン殿は、どう受け取られたのですか」


「二人と同じだよ」


 策士はゆるやかに頬笑み、空になったコップに紅茶を注ぐ。香りがふわりと広がった。


「だとしても、戦場において独裁官殿の考えからも学べることはございます」


 それだけでなく、当時の空気をかんじられる文章にひきこまれるから楽しいものだと言辞をつづけた。ソロモンの言葉もあったが、序盤しか読んではいないのに何かが始まる予感がふくれあがってマリアは、ページをめくる手を止められそうにない。だが、策士の部屋に長居するのも邪魔であろうから本を閉じた。


「部屋へ戻ることにするよ。ソロモン、ありがとう」


「少しでも多くのことを知っておられた方がよいと思っただけですから」


 おかまいなくと告げて策士が、紅茶を飲み干せば王女と武官も入れてもらっていた紅茶を飲み干して自室へ戻る。

 マリアは、さっそく本をひらいた。


「なるほど、こうして陣形を崩したのか」


 心ともなくつぶやき地図で場所を確認しながら読み進めていれば、机上に手が置かれて本と地図が影に飲まれた。


「なにを読まれているのかと思えば、『覚え書き』でしたか」


 心地よい声遣いに正騎士長レイヴァンだと気づいて、薄い金の髪をひらめかせる。黒曜石の瞳は、地図を眺めていた。


「読んだことあるの?」


「クリフォード殿から軍略書等、教え込まれておりますから」


 もしや、自分の知らぬことも知っているのでは無いかと考えてマリアは騎士に詰め寄った。


「ねえ、何かわたしの知らぬ軍略書はある?」


 困ったというよりも、参ったといった表情をレイヴァンは浮かべて幾つか答えた。


「それらを学べば、レイヴァンに近づくことは出来るだろうか」


 とんでもなく嬉しく感じたが、自分に近づく必要は無いと騎士はかえす。薄い金の髪は左右にゆれた。


「前に『行動の意味』を問うてきたことがあっただろう?」


 黒い騎士は、しずかにうなづく。


「まだ答えがわからなくて。さらに学べばわかるようなきがして」


 憶測でしか無いのだけれどと、さみしげにマリアは笑む。黒い騎士は口許をほころばせて、少女の指先をとった。


「あなたが答えを見つけたときは、あなたの言葉で教えて下さい」


 承諾をして笑みをかえした。

 すぐにでも答えを見つけてレイヴァンにきかせてやろう。誰の言葉も借りぬ、自身だけの言葉を持ってかえそうと秘めやかにマリアは思い定めた。


***


 ためこんでいた書類の提出を終えてディアナは、大きく伸びをした。これでようやく、休むことが出来るかと考えていれば執事ゲルトが「領地へ戻るための支度をしなくてはいけませんよ」と言った。

 領地を長らく開けていたのは確かだけれど、休みたいと伝えればゲルトは胸くそ悪くなるほどの笑みを浮かべて「支度しましょうね」というのだった。

 疲労は抜けないけれど、カバンにいっぱい荷物を詰め込んでいれば、エリスが午後四時頃にいただく紅茶ミッディ・ティーブレークを持って入ってきた。


「おつかれでしょう」


「まあ、ありがとう。けれど、運ぶのは侍女に任せてもかまわないのよ」


 貴方だってつかれているでしょう。エリスは書類仕事をさいきんしているので体をうごかす何かをしたいと、ビスクヴィートを作ったからついでに持ってきたと告げる。


「僕もご一緒してもよろしいですか」


「もちろんよ! 一人で飲むのは味気ないもの」


 机上にある書類を片付けるとコップを置き、乳入り紅茶ミルクティーをそそぐと二人して一杯目はすっかり飲み干してしまう。

 二杯目でビスクヴィートをかじりながら、紅茶を楽しむ。


「エリスは料理が上手ね。いいお嫁さんになるわ」


「誰かさんがそういうので、ディアナ様まで同じことを言わないでください」


「あら、だれかしら」


 多くの人から言われるけど、とくにギルから言われるから、余計に反発してしまう。ディアナは声を上げて笑った。エリスはむくれながら、ぼりぼりとビスクヴィートを食べる。はらはらと粉が落ちた。


「怒らないで。守人たちは仲が良いなと思っただけだから」


「仲なんてよくありませんよ」


 いいながら声色は明るめであるから、素直じゃ無いなと思いながら紅茶を飲む。


「あの、ディアナ様はどう思われているのですか」


 唐突にエリスの口からつむぎだされた言葉に戸惑い、何のことであるかを尋ねた。


「ベルク公爵のことです」


 彼のことか、と思って苦々しい表情を浮かべる。


「どういうご関係なのですか」


「むかし、私はベルク閣下とロイス卿から求婚されていたのよ」


 けっきょく二人ともふってニクラスと結婚した。ロイスはいさぎよく引き下がってくれたに対し、ベルクは諦めきれないらしく幾度もせまられた旨を話した。


「子どもをさずかってからは、なくなったのだけど」


 引きずっている部分があるらしく、妻を娶ってはいないらしい。しかし、代わりに養子を迎え入れたそうだ。


「養子ですか」


「ええ、私の孤児院にいた男の子なのだけれど」


 庶民にしては珍しい金の髪と碧眼であるという。


「名前もクリストファーといって……」


 そこまで口にしてディアナは、声をあげたかと思えば書類をめくる。指が止まれば、「やはり」とこぼして青白い表情になる。


「どうかなさったのですか」


「その子は、お兄様の息子だわ。ベルク閣下がわざわざ養子を取るから、不思議だと思っていたけれど」


「ディアナ様は、孤児院に迎え入れた時点で知らなかったのですか」


 肯定して孤児院をあずかったとき、すでにいたことを話す。書類では、夫ニクラスが迎え入れたことになっていたという。


「考えたらおかしいわ。迎え入れたとき、夫は戦場にいたはずだもの」


 エリスは書類をうけとり、目を通してけわしい表情をうかべる。


「レイヴァン様やソロモン様は、存じていらっしゃるのでしょうか」


「二人がどこまで掴んでいるのかは、私にはわからないわ」


 告げて紅茶を飲み干すと、息をつき「けれど」といったあと二人とも頭が良いから感づいてはいるのではないかしらと言辞をつづかせる。


「わかるのですか」


「なんとなくだけどね。ただ私の孤児院にいたことをいっておいてね」


 ゆくりなくディアナ閣下は、知っていて芝居をうったのではないかと考えが沸き起こった瞬間、ゲルトが入ってきて怒気を忍ばせた声色で問いかけた。


「なに、休憩なさっているのですか?」


「エリスはね、気を遣ってくれただけで何もしてないの」


「心配しないでください。怒っているのは、貴女にです」


 働いてくださいと強い口調で言うものだから、主人であるはずのディアナが謝りつつ散乱した本や書類を片付け出す。


「僕も手伝いましょうか」


「いいえ、ご主人様をあまやかさないでください。自分から言い出したことなのですから」


 主人が答える前に執事が言った。


「使用人だって人だから、感情がある。少しでも皆のことを理解するために部屋の片付けくらいは、できるようにする」


 言ったのは誰でしたっけと言われれば、ディアナは空笑いをしながらカバンになんでも詰め込む。それは片付けとは言わない等と小言をゲルトが、浴びせるものの二人の間には確かな絆を感じられた。


「それでは、僕はこれで」


 お茶は置いておくのでいつでもどうぞと言い残し、去って行こうとするがディアナに呼び止められる。


「エピドート帝国からの使者が近く来るだろうから、気をつけてと皆に伝えておいてね」


 最後につけられた言葉の意味はわからなったが、「はい」と答えてエリスは部屋を出て行った。扉の閉まる音がすれば、ゲルトが一番に口を開く。


「芝居をする必要は無かったのではないですか」


 演技は苦手でしょうと言われれば、女主人は顔にはりつけた笑い方をして秘めた苦みをごまかした。


「切り出すのが苦手で、あのやり方しか出来ないのよ」


 演技だとエリスには、ばれていたわけだしと口跡が紡がれるとゲルトの表情はほろ苦い。


「ベルク閣下は、内乱を起こすにしても正攻法だけで戦うと思われますか」


「ベルクの背後には、何やらとてつもない何かがいると考えているの」


 ベルクにしては慎重であるから、助言している誰かがいる可能性が高いと言われゲルトは考え込む。


「いままで、ベルクの家が爵位を剥奪されなかったのは証拠がつかめなかったからですよね」


「ええ、今までの当主はずるがしこかったのよ」


 今の当主は、正攻法でしか戦いを知らないように思われるけれどと続かれる。


「どちらにしても、私がもたらした情報をどのように生かしてくれるかしら」


 淑女らしく笑えばゲルトも微苦笑を浮かべて「はやく片付けてくださいね」と諫言し、明日には出発するのですからと言辞を返した。

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