第九章 王をたずねるために
舌戦がつづく部屋から波紋のごとく、すす汚れた感情が伝ってくる。まだやっているのかと思ってギルは、息を吐いた。
城内で休まる場所をと思い自室にいたが、どこにいても会議室から墨色の気配がにじみ出て心安らかにいられない。〈水の眷属〉の守人である自分ですらこんな調子であれば、風を感じられるレジーは上回って息苦しさを感じることであろう。否、クライドがさらに上をいくかもしれない。
目を閉じてそんな類いのことをぼんやり考えていれば、扉をたたく音がひびいてきた。水の気配からクレアのようだ。
「どうぞ」
栗毛色の三つ編みをなびかせてクレアは、入ってくるとギルに近寄った。
「大丈夫?」
「なにが」
顔をのぞきこみ栗毛色の瞳にギルの姿を映す。
「顔色、よくないから」
会議のせいではないかとギルが告げたけれど、クレアは納得しない。
「それもあるけれど、それだけではない気がして」
まったくもってその通りであった。レイヴァンから聞かされた事実を飲み込めていない自分がいる。けれど、クレアに伝える必要はございますまい。
「なぜ、そう思う?」
クレアは、言葉に詰まったあと「女の勘」と答えるのだった。なるほど女の勘ほど、するどくおそろしいものはない。
「たしかに、会議だけでは無く別のもので悩ましている」
素直につげたあとで、自分の口からは言えない旨を伝えた。クレアは気になる様子であるが、深くは聞こうとせずに隣に腰掛けた。
「ギルはまた旅立つの?」
整えられた身支度を見てクレアは、尋ねた。ギルは頷くだけにとどめ、明日には旅立とうと思っていることを言った。
「ひとりでいくの」
さみしげに瞳をうつむかせるクレアの肩に手を回しかけたが、止めて椅子の上へ手を置いた。
「正騎士長殿から秘密裏にと言われているからな」
ベルクの領地へ行くみたいな危なげなことでは無いから、心配しないよう言えばクレアの肩がふるえる。ひとりで行ってしまって何かないとは言い切れないから、心配してくれるようだ。それだけでギルは救われて喜びで心が弾んでしまう。
「姫様のことを頼んだ」
自分がいない間は、皆と一緒に城で守って欲しいと言えば「当たり前じゃない」と勢いよく返事が返ってくる。
「なら、安心だ。俺もお姫様のために働かないとな」
いったとき、会議室から感じる流れが変わった。たったひとつのディアナからあふれる波が、会議室をも包み込み荒波をさざなみへ変えていく。泥仕合が終わったようだ。
「クレア、さすがに部屋へ戻った方が良い」
夜遅くに男の部屋にいるものでも無いと口跡をつむぐとクレアは、うなづいて部屋を出て行った。
「この町にゃ、わたしの名前を知らぬ娘がいる」
部屋に残ったギルは、古い楽句を口にして窓ごしに空を見やる。かすかに残っていた陽が消えて宵に包まれた。
*
予想外にも目が覚めてしまってマリアは、布団から這い出す。朝というには早すぎる夜陰のようだ。
本でも読もうかと机にむかったが、集中も出来ずめくるばかりで文章を追おうと思えない。これではますます眠れないのでは無いだろうかと思って、借りたままだった本を抱え部屋を抜け出す。どのみち眠れないのであれば、書庫へ行こうと考えたのだ。レイヴァンならば夜中だろうと起きているから、見つかると怒られるが逢えたら好都合だと思った。何をやっているのかしつこく聞いてやろうなどと考えていたのだ。しかれども、遭遇したのは正騎士長では無く策士の方だった。それのみか酒を呑んで気持ちいい表情になっている。
「姫君、勉強もよいですが力を抜くことも覚えなくてはなりませんぞ」
いいながら策士の足元がふらつく。いくらなんでも抜きすぎだ。
「ソロモン、大丈夫?」
水をもらってこようかと、さろうとしたが腕をつかまれる。大人の男の手だ。少女ほどの腕力ではふりほどけない。
「側にいて下さいな、姫様」
とろんとした瞳でみつめられ、マリアはつい足を止めてしまった。甘えるように顔をうずめられ、じゃれてくる。鷹揚自若で隙を見せない策士であるのに、酔うとかわいらしい。マリアは思いがけず自分の胸元にある頭をなでた。いつもであれば見えるはずの無いつむじが見える。
「おつかれさま、ソロモン。それから、いつもありがとう」
凡常な言葉をかける。ソロモンの鼻がひくひくと動いた。
「いい匂い」
匂いをかがれ体中がのぼせ上がる。さすがに嫌になって抵抗するけれど、ひとつも効果が無かった。知らぬうちに腰へ回された手が、ぴくりともしない。
「や、やめて」
「離さない。姫様を決してベルクの思い通りになんか……」
寝息が聞こえて来た。寝言であったらしい。どっと体重がマリアにかかるが、気にならないほど寝言の内容に気が行ってしまう。会議でなにかあったのであろうかと考えるけれど、心配させまいと誰も語ってはくれないだろう。
軍靴の音がひびきソロモンを連れて行ってもらおうと声をかけた。軍靴が近づいてきて灯りが、姿をうつしだすとマリアの体が固まった。そこには、怒りをあらわにした正騎士長レイヴァンがいたからだ。
言葉をうしなっているマリアに、レイヴァンは「送ります」とソロモンを持ち上げて上階へと向かう。途中でフランツと会えば、ソロモンの体をあずける。
部屋まで送ってもらうとマリアが扉の前で礼を言えば、むろん、何も無いわけ無くレイヴァンは強引に共に部屋へ入った。
「何を考えておられるのですか。あれほど、ひとりでは行動しないようにと申しましたよね」
マリアがあやまるけれども、黒い騎士は苛立ちを消さない。
「ソロモンになにをされましたか」
「たいしたことはされていない」
覆い被さってきただけだと紡いだ。
「嘘をつきましたね」
切り出してソロモンがマリアにしたことを口にした。
「どうして、それを」
「見てましたから」
ならばなぜ、助けてくれなかったのだとマリアが訴えかけると、レイヴァンは「まんざらでも無かったのでは」とかえした。
黒い騎士の考えていることがわからなくなって、かるいめまいを覚える。
「何を言っているんだ」
「俺の返事もして下さっておりませんし」
自分以外の人を思っているのでしょうと口舌をされ、マリアの胸が嫌な音を立てた。
「どうして、そんな考えになるんだ」
青い金剛石の瞳を伏せて問いかけると、騎士の無骨な手が少女の頬をなぞる。
「ならば、お答え下さい。あなたは誰を思っておられるのですか」
「……秘密」
まだ教えられないとマリアが答えると、黒い瞳が悲しい色に染まった。瞬刻。黒い騎士が策士と同じ場所へ顔をうずめる。マリアは逆上せるでも無く、沈痛の表情をうかべた。
「やめてくれないだろうか」
「あなたにとっては、たいしたことではないのでしょう」
じゃれると表現するよりも、無機質なと表現することが正しいと思われるほどレイヴァンには甘える素振りは無い。騎士の心情が読み取れず閉口してしまう。
「抵抗しなければ、この先のことをしてしまいますよ」
瞬時にかんがえを理解してマリアは、手をのばすと騎士を抱きしめる。闇色の瞳が戸惑いで揺れた。
「牽制しなくても平気だよ。皆が側にいてくれるから」
体を離すとレイヴァンは、ひざまづく。
「ありがたきお言葉。しかしながら、ひとりで出歩くのはおやめ下さい。城内とはいえ、危のうございます」
マリアは「すまない」と謝りながら、レイヴァンが夜にどのような仕事をしているのか気になっていることを伝えた。騎士は倒懸の表情をうかべ、話せないことを告げる。自分だけ何も知らぬのが気に入らなくて、今度ばかりはしつこく問いかけた。
そういえば、黒い騎士から香ったことの無い匂いが鼻を刺激してくる。むせかえる精油のかおりに忍んだ白粉のにおい。知らない匂いに兵士達のうわさとが、頭の中だけで一致してしまう。憶測だけで申すのはいけないと思い問いかけた。
「妓楼へ行っていたの?」
騎士は一撃食らったかの衝撃をうけて、ひるみつつ口跡を紡ぐ。
「どこの野郎があなたに吹き込んだのですか」
兵士達のうわさを告げれば、黒い騎士レイヴァンが憤激して部屋を出て行こうとする。いそいで止めて何をするのかを問いかけると「兵達を叱る」と返ってきた。
「そこまで怒らずとも」
気にしていないからとも紡いだけれど、正騎士長は聞き入れそうに無い。
「いけません。火の粉から大火事へ変わることは往々にしてあるのです」
エリスからソロモンにも注意してもらうよう言ってもらっていることを告げて、怒りはわずかにおさまった。真夜中に起こされては兵士達もつらかろう。
「マリア様がおやさしいのは知っておりますが、兵士達を甘やかしては国の存亡に関わるのですぞ」
マリアは何も言えなくなってしまった。
「しかしわたしはてっきり、ソロモンから聞いているのだと思ったのだけれど」
「二人で話す機会もめっきり減りましたからね。聞いておりませんでした」
ふたりとも怱忙であるし、仕方ないのかもしれない。
「話がそれてしまったけれど、妓楼へ行っていたのか」
騎士は話がそれた状態で終わらそうと考えていたのに主君は、ゆるさず本筋へと戻した。
「聞いてどうなさるのですか」
しばし考えた後にマリアは、「気になるから」と告げる。うわさだけで決めつけるのもいけないから、直接ききたいのだ。
間をおいてから黒い騎士は、あなたの言うとおりであると言った。うわさは間違いでは無かったのだと確信を得てしまって、自分で聞いておきながら青い瞳を曇らせる。幾分騎士は、やきもきして言辞を唇から走らせた。
「妓楼にはさまざまな情報が集まりますから、忍ばせている間者と接触するためにいっているのですよ」
嘘では無いとマリアは感じたのか、不安を消し去って微笑んだ。
「レイヴァンのことだから、そうだろうと思ったよ」
ついでに夕方におこなわれた会議のことを尋ねると、黒い騎士は困り顔だ。自分は王位継承者であるのだから知る権利があるのではないかと言うと、ようやく騎士が会議でのベルクの発言を口にした。
「わたしは出席してもかまわなかったのだが」
「何をおっしゃっているのですか」
途中から参加などさせれば、はじめから参加しろというに決まっている。それに参加させなかったのは陛下の意志であるから、以前にも増して攻撃されかねない。内乱とよばれるほど、大きなものへしたくはないのだからと騎士が告げるとマリアは黙りこくる。
「なら、父上はどうしてわたしを会議へ参加させないんだ」
黒い瞳をみつめ王女が問いかけた。
「あなたはまだ学ぶ身ですから」
会議に出席させるのは早いと陛下が判断したのだ、と理由のひとつだけを告げた。もう一つの理由としては、マリアが出席すれば守人達も出席せざる得なくなる。後ろ盾の無い彼らを貴族や官吏の前に出せば、ベルクはうわさにも無いことを言い出しかねないから出席させるわけにはいかなかった。陛下としては、それだけでなく自身の実の子を王位継承とさせる可能性を残しているのだろうが。
「そうか、ならば精進しなければ」
なにも知らぬマリアは、拳をつくってつぶやいた。黒曜石の瞳は、かよわい少女の姿をうつして一度とじられた。ふたたび開かれたとき、無骨な手で拳を包み込む。
「焦りなさるな。見えるものも見えなくなってしまいますよ」
こくんとマリアはうなづく。視野を狭めるだけで、何も得られないと言っているのだと気づいたからだ。
「ああ、そういえば。明日フランツが、剣の稽古をマリア様についてすることになったので」
昼間に言おうとしていたのにすっかり、抜け落ちていたと微苦笑を浮かべる。忙しいのだから仕方が無いよ、と返した後に浮かんだ疑問を口にした。
「どうして、剣の稽古をつけてくれたの」
自分から言ったのだが、つけてくれるとは思わなかったのだ。
「技術はあなた自身を助けてくれます」
あなたが“道”をあきらかにしたときでも、救ってくれるだろうから身につけられるものは身につけた方が良い。ソロモンにも言われて、陛下も折れたのだと口跡を紡いだ。
「ソロモンの言葉は、すごいな。父上すら負かしてしまうのだから」
「真実ですからね」
宝飾も衣服もぬぐように言葉の装いをはぎ取って、言辞として外へ出すからささるものがあるのだと旧友である騎士は告ぐ。
「友の言葉はちがうな」
レイヴァンは、苦笑をうかべて窓を眺めながら「寝ましょう」と声をかけた。とたん、マリアは眠気に襲われて欠伸を浮かべる。
「わかった、寝よう。おやすみ」
騎士の名を呼んでベッドの脇に腰掛ける。これならば、時間をおかずに寝るだろうと感じてレイヴァンは部屋を出て行く。ひるがえされた黒いマントをながめながら、青い瞳がまどろんでいく。扉がしまる音と同時に夢の世界へいざなわれた。
夢を見ることも無く眠っていたのか。夢の中で“彼”と出逢うことは無かった。出逢うのを期待していたところもあって、少し切なく思ってしまう。同時に体が震えた。布団を被らずに眠ってしまっていたのだ。寒いのは当然だ。
上着を羽織ってバルコニーへと出れば、冷気が肌にささる。晩秋も終わってしまったのだろうか。
「姫君、やっと逢えましたね」
いまでは耳に馴染んだ声に笑みをたたえた。
「ギル、帰っていたのか。どこにいるの?」
声だけきこえてくるものだから、視線をあちらこちらへ飛ばして姿をさがした。手すりまで近寄って庭を眺めたけれど、影すらない。気配が真後ろに迫って、振り返ると同時に令外官ギルの頬を包み込む。
「つかまえた」
なんてマリアが紡げば、ギルはうれしげに目を細める。
「つかまえずとも、あなたという鳥籠までの導を覚えておりますよ」
「鳥籠だなんて……」
ギルはゆるやかにひざまづき、手を取ると口づけを落とす。青い瞳が、みずうみのごとくたゆたい陽光を受けて輝く。
「いいえ、あなたという空の下でしか飛べない鳥。どこまでも自由で、あなたにだけ縛られる」
喜ばしいことだともギルは付け加えた。青い瞳がほそめられ、いとおしげに自らの臣下をみつめた後に「ありがとう」とつぶやいた。つづいて王都にしばらくいるのかとたずねる。わざわざ、顔を見に来た行動に疑念を抱いたのだ。
「それが、正騎士長殿にたのまれて宝玉を探すために旅立つことになりました」
一人で行くことも告げると王女は、うれいげな表情をうかべる。クレアといい、慎重な性格だ。
「なにも悩む必要はございませぬよ。信じてお待ちいただければ、かならずやあなた様に王位継承の証を」
深々と頭を下げる令外官をみやり、両の手のひらでふたたび頬を包み込んだ。至極色の瞳がほうけて、じっと少女をみつめていた。
「水のように指の隙間から流れていきそうであるのに、なかなかどうして」
マリアの言葉に、あなたは海なのだとギルは言った。水は海へとたどり着くまでの過程は、ひとつではない。なんども形を変えるが、たどり着く先は同じだと口跡を紡ぐ。
「俺は〈水の眷属〉の守人。水のように形を変えながら、さいごにはあなたの元へたどりつく」
ギルらしい文彩に楽しくなって、マリアは手を滑らせだきしめる。至極色の瞳が、やや見開かれた。
「じゃあ、ギルはわたしの妖精だ。〈水の妖精〉さん」
いたずら好きで節操が無いけれど、善人には善を悪人には悪を以て報いるのが妖精であるからとマリアはいう。
「俺は節操が無いように見られていたのですか」
「だけど、妖精は窓の敷居に少しばかり
「なにも
対象の名をしれば、相手を支配できると昔から言われるから名前で縛られているのだとギルが紡いだ。
「ルンペルシュティルツヒェン?」
「ええ、名前当てです」
体を離しマリアが問いかけると、即答えが返ってきた。そのとき、おずおずとビアンカが扉の隙間から顔をのぞかせる。
「あの、お湯をお持ちしました」
着替えなくてはならないと思うとマリアは、ギルに「またね」と告げて部屋へ戻ると顔を洗う。うごきやすいよう男物の服を身にまとい帯剣すると部屋をあとにし、朝食を取った。食べ終えるとちょうど正騎士フランツが、迎えに来てうながされるまま鍛錬場へ訪れる。
「正騎士長と稽古するときは、どのようにしていましたか」
最初は持ち方から入り基本動作を教えてもらった旨を伝えれば、フランツは「わかりました」とこたえて基本動作をしてみてくださいとマリアに言った。
腰に下げた剣を抜き、動作を口にしつつフランツと剣を交えていく。ひととおり終えれば「よい技倆ですね」と述べた上で、しばらくこの動きを鍛錬しましょうと言われた。王女はなっとくがいかず、むくれて「さらに上のことをしたい」とつげたが聞き入れてもらえずレイヴァンから教えられた基本動作を体に染みこませることとなった。
半刻ほど日差しをうけて二つの閃光がかさなっていたが、王女の息が上がっているのを見てフランツが手を止めた。
「休憩なさいますか」
「いや、もう少し頼む」
体を壊してはいけないから休んで下さいと、フランツに強くいわれマリアはおとなしく従った。近くにいる侍女に飲み物を頼むと正騎士は、王女のとなりに座る。
「あなたと一度、こうして話をしてみたかったのです。いいですか」
「かまわないけれど、何か知りたいことでもあるのか」
正騎士は、青い瞳を見つめ正騎士長との関係をうかがった。とたんに王子としての仮面がはがれ、表情を朱に染め上げる。
「べ、べつに、ふつうだよ」
「ふつう、とは?」
主従だとマリアは言ったけれど、騎士は意に染まないのか微妙な表情をする。なにか言おうとフランツが口を開いた刹那、苦しげな声がひびいた。
投石をうちこまれたかの衝撃をうけて、ふりかえると回廊でソロモンがうずくまっているではないか。
「ソロモン、大丈夫?」
「はい、お構いなく。ただの、宿酔です……うぐ」
ちょうど、ハーブティを持った侍女が来たので
あわてたようすで侍女が戻ってくると、
「申し訳ございません、お手を煩わせてしまって」
「いいや、かまわないよ。わたしの方が世話になってばかりであるし」
弱腰な策士にマリアは、頭にひびかないよう柔らかく口跡を紡ぐ。フランツはソロモンに
「姫様も、どうぞ」
「ありがとう」
口に含めば甘酸っぱく、さわやかな風味が口の中でひろがる。
「
微笑んでマリアが呟くとつられて、ソロモンとフランツも笑んだ。瞬間、風がひるがえりいままで耳に届くことがなかった楽句が冷気に混じる。
「とても良い娘さんだ。あんたがわたしの名前をつきとめられたら、ご亭主を手に入れられる。わからないときは、お前は何もかもを無くしてしまう」
ギルの声だった。どこにいるのか気になってマリアは立ち上がると、辺りを見回した。視覚では捕らえられないから名を呼ぶと、外套をはためかせて重量のあるなにかが降り立つ。案の定、令外官ギルであった。
「姫君、呼びましたか?」
「唄が聞こえて来たから、気になって」
心にうかんだ言葉を取り替えもせずに告げれば、ギルは微笑を浮かべながら母親から聞いた古い唄であることを告げる。策士は、「ほう」と息を吐いてつぶやいた。
「ずいぶんとなつかしいな」
マリアが首を傾げているとソロモンは、やさしくこたえる。
「民話と言えばよいでしょうか。その中に出てくる唄です。気になるのでしたら、書庫で探してみてはいかがでしょう」
読んで見たいと思いマリアは、大きくうなづく。
「しかし、ギルの母親が存じているとは。もしや、裕福な家庭であったのでは」
ソロモンの問いになやんだ後にギルは、母親から家の話はあまり聞いていないことを告げる。
「ただ俺を身ごもって家から義絶されたと聞いたが」
「では、母親の名はなんという?」
「家名は知らぬが、フィニバーと言っていた」
正直にギルが口舌をかえすと、しばし策士は考え込む。聞いたことのある名であったのか、思い出して声を上げた。
「先王のとき、爵位を剥奪された家か」
爵位をうしなっていると聞いてギルは、つらそうだ。もしかすれば、血縁の者が城にいるかもしれないという希望が絶たれたからだった。
「なぜ剥奪されたの?」
気になりマリアは問いかける。ソロモンは、「先王を悪く言うのは気がひけますが」と前置きした上で、短期で怒りっぽいので多数の貴族が剥奪されていったことを告げる。
「晩年は逆におくびょうになって、周りに怯えるようになっていたそうですが」
そんなとき、マリアという存在が生まれればオーガストの次の国王にしたいと願うのかもしれない。むろん、言葉には出さずにソロモンはそんなことを思った。
「そうだったのか」
誰も先王の話をしないから知らなかったとマリアが言うと、策士は手を取り視線を合わせる。
「あなたは、わたくしが宿酔でくるしんでいれば侍女に『
「同じことです。知らないのでしたら、本でもわたくしでも使って知れば良いだけのことですよ」
王女はうれしくなる。
「では、おぬしの授業の中に歴史もいれてくれるだろうか」
「仰せのままに」
まだ知らぬことが多くあると知って、マリアは瞳を輝かせた。
まといつく静けさと冷気がギルの肌を埋める。荷を持ち馬にまたがって、森へ向かおうとすれば正騎士長レイヴァンが声をかけた。
「くれぐれも用心してほしい。ベルク公に宝玉の場所がわかるとは思えぬが」
ずいぶんと冷えるからとつづけた。
「俺はやわじゃあ、ございません。我らが王のため、宝玉をさがしだしますよ」
「よろしくたのむ」
ギルはいきおいよく疾駆すると、森へ入っていく。しばらく駆けて、あかるい野原へ出ると天幕を張った。ひえびえとするせいか、寝付けず
「この町には、あなたの名前を知る娘がいます」
言霊は白く濁る。口角を上げ「そうだ」とつぶやき、物語中の台詞を口にした。
「その名前を生涯の導き手とするがよい」
自分はマリアの導き手となるため、旅に出るのだと腐心する。我らが王の下へもどるために、王がつくった場所をたどる。おそらくは、誰も成していないことをこれからするのだと思うと心が躍った。
「姫君のため」
王女の白いゆびさきにふれるたびに、庇護欲がふくれあがる。
「我らが王を訪ねるために、見つけてみせましょう。“王の忠臣”殿の宝ってやつを」
王女の前にただの少女である彼女を守りたいと願ってしまうから、離した手にもう一度ふれるためにさがしだすのだとギルは心の底で決心した。
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