第一章 幕開け

 とおくから華々しい宮廷音楽が風にながれてくる。聞いているぶんには、よいものであるが会場には足を運ぶものではないなとソロモンは思った。

 会場に入ったときは、圧倒されるがそれもすぐに貴族達の笑い声で現実に引き戻される。笑顔の裏でなにを考えているのか、はかりしれない。国内で起こっている暴動も放ってはおけない。問題はつきないな、とためいきを吐いた。


「ソロモン様、いかがなさいましたか」


 頼んでおいた紅茶を持ってエリスが部屋へ入ってきていたようで、ソロモンのようすに疑問を抱き尋ねてきた。


「ああ、実は王位継承者にあたえられる首飾りがちぎられていてな。首飾りについているはずの三つの宝玉もうばわれていた」


 エリスは自分がすべきことを心得たようで「探って参ります」とこたえると、お盆を机上に置き、足早に部屋をさった。監察官となったエリスはこうして日夜、駆け回っている。不正を行っている者はいないか探るのはもちろん、城内で異変が起こらぬよう見張っている。そんな彼が、首飾りのことを気づかなかったことにソロモンは少し疑問を抱いた。他の守人達もであるが、あの首飾りは神話の時代より受け継がれしものではないから気づかなかったのであろうか。

 考え込んでいるソロモンの耳に扉をたたく音がとどいた。


「どうぞ」


 声をかけると珍しくダミアンが入ってきた。


「邪魔するぞ」


「かまわないが、どうしたんだ。お前が俺の部屋に来るとは。明日は天変地異でも起こるのかな。それとも、姫の側にいられなくて不満であったか」


 側にいられないのは不満であるが、“守人”である自分たちが夜会に出ては貴族内に混乱を招きかねない。それに周辺諸国の社会情勢などに影響を与える可能性もあるから表舞台に出るつもりはない。ダミアンは告げた。

 ソロモンは感心しつつ、紅茶をあおる。


「って、そうではなくてだな。お前だって、気になってんだろ。“我らが王”の下、守人が揃ったのになにもおきないこと」


 ソロモンは手元にあった象牙のペンをもてあそび始める。たしかに、考えないこともなかった。いま、この城には守人が全員そろっている。なにか“いにしえ”の力が働くのではと考えていたが、べつだん、なにも起こらない。


「ずっと考えてはいた」


 重くかえし、瞳にはけわしい光が揺れている。その光がふいにきえて、微苦笑をもらした。


「人は常に目に見えるものよりも、見えぬものに戦慄をおぼえる。考えても仕方がないことさ」


 胸にひびいてダミアンは驚嘆きょうたんする。笑みをこぼすと「そうだな」とつぶやいた。そのとき、扉のたたく音がしてクライドが入ってきた。


「ソロモン殿、エリスから聞いたのですが正当王位継承者の証が壊され、宝石もうばわれていたときいたのですが」


 クライドの言葉に重々しく頷くとソロモンは、二人に「気づかなかったか」と尋ねる。けれど、二人とも気づいていなかったらしく首を横に振る。


「まさか、守人全員が気づいた様子がなさそうとは。一応、守人全員に聞いてみるつもりであるが、みな気づかなかったんだろうな」


 気づいているのであれば、すぐに知らせてくれたことだろうとソロモンは思ったのだ。

 クライドはしばし、じっとソロモンを見つめたあと「王位継承者の証」がどんなものであるかと尋ねてきた。


「そうだな、何世代か前の国王が娘に送った首飾りだと聞いたことがある。その娘がそのまま、王となり自分の子に送ったことがはじまりらしい」


 そうして、“首飾り”は「王位継承者の証」として受け継がれることになったとソロモンが紡げば、クライドは考え込む。ふだん、何を考えているのかわからない彼がこうして悩んでいるのが珍しくソロモンは問いかける。


「どうかしたのか」


「いえ、十日ほど前に陛下から首飾りがどんな物であるか一度、見せていただいたのですが、首飾りについていた宝石から不思議な感覚を覚えまして」


 首飾りには、金剛石ダイヤモンド水宝玉アクアマリン血玉髄ブラッドストーンという宝玉が施されていたのだが、どれもベスビアナイト国では産出できないものばかりある。輸入したもの、といえばそれまでであるがクライドはどうも引っかかっていた。


「不思議、というと?」


 ソロモンがさらに問いかけると、クライドは首を横に振る。


「はっきりとは、わからないのですがふつうの宝石とは違う。なにか、“我々”に似たものを感じたのです」


 〈眷属〉とゆかりのあるものかとソロモンが問うたが、それもわからないらしい。ただ“初代女王陛下”とゆかりのあるものではないか、と意見を述べるとソロモンは少し悩んだあと「わかった」とつぶやくだけにとどめる。いまの段階で考えても、答えが出ないことは明白だからだ。


「あの三つの宝石は、もとより王家にあるもので、特殊な力が宿っていると信じられており、この国を守っているともいわれているらしい」


 実際のところはなにひとつ、わからないとも紡いでソロモンはカップをかたむける。すでに中は“から”になっていた。


「へえ、そうだったのか。俺すら知らなかったな」


 ダミアンが頓狂な声をあげて言うものだから、やはり特殊な力などなにもないのだろうかとソロモンは考え始める。“いにしえ”の力を持つ守人達が知らないのだから、あながち間違いでもないのではないかと思ったとき、部屋の外でうめきごえが聞こえてきた。

 なにごとかと思い三人が部屋を飛び出ると、廊下でクレアがうずくまっているではないか。


「クレア、どうした!」


「うう……『子等よ、我らが王に仕えし忠実なる臣下。果たせ、果たせ、約束を果たせ。まことの道を進まんとするならば』」


 ソロモンの言葉にかえってきたのは、〈眷属〉の言葉らしかった。いつもの意味が把握できない言葉のはずであるが、ソロモンの体を電流がごとく何かがかけめぐる。


「なんだ……?」


 体は重く脳はずきずきと痛みをうったえている。けれど、ダミアンとクライドは、そんなようすは無いのかソロモンを心配している。


「おい、ソロモン。大丈夫か」


「ソロモン殿」


 とおのく意識の中で、二人の表情が焦燥に揺れていた。



 ソロモンとクレアが倒れたという報せは、会場にいるマリアとレイヴァンのもとへとどいた。主役であるマリアが抜けるかどうかなやんでいると王から「行ってきて大丈夫だぞ」といわれ、喜んでレイヴァンと共に夜会を抜け出した。医務室へ向かえば、ベッドの上でソロモンとクレアが、脂汗をかいた状態で意識を失っている。医務官に話を聞いたが、原因がわからないらしい。

 ベッドのかたわらで付き添っているダミアンとクライドが言うには、クレアの言葉を聞いたとたんに意識を失ったそうだ。


「言葉?」


「ああ、〈眷属〉の言葉だ。いつも意味は、よくわかんないんだけどさ」


 マリアにダミアンが、不安な感情を忍ばせたまま答える。彼なりにソロモンを心配しているらしい。


「どんな言葉を言っていたの?」


 マリアが尋ねるとダミアンがだまりこみ、悩んでしまう。見かねてクライドが口を開き、クレアが紡いだ言葉を告げればレイヴァンが顔をしかめた。


「レイヴァン、どうかしたの」


「いえ、脳になにか痛みが走ったのですが、きっと気のせいですね」


 レイヴァンの表情は釈然としない。気になるようだ。


「何かあるのだったら、ちゃんと言って欲しい」


 詰め寄られて“あるじ”であるマリアには逆らえないのか、素直に告げた。


「実は、どこかなつかしささえ感じまして」


 青い瞳がまるく見開かれて、黒い瞳をまっすぐに見つめ返す。あるじに笑われるのではないかとレイヴァンは懸念したが、そのようなことはなく、ただ不思議がった。


「“守人達”が〈眷属〉の言葉をなつかしむのではなく、レイヴァンがなつかしむのか」


 いま思えば、守人達が〈眷属〉の言葉を懐かしむ事は無い。いつも聞いているから、そうはならないだけであろうか。


「クライド、ダミアン。ひとつ、聞いてもいいか」


「はい、なんでしょう」


 マリアの言葉にすかさず、クライドはかえす。


「クレアが告げた言葉も、よく〈眷属〉から聞こえる言葉なのか」


 いいえ、と二人は答えた。はじめてきく言葉だとも告げられる。ますます、頭をもたげてマリアは考え込んでしまう。


「守人たちですら知らぬ言葉なのに、レイヴァンは懐かしいと感じる。ソロモンは意識を失ってしまうし」


 マリアが整理を行うために口にした瞬間、クレアの瞳がうすく開いた。


「クレア、大丈夫?」


 真っ先にマリアが問うとクレアは、もうろうとする意識の中でマリアの姿をとらえ、うっすらと笑う。


「ひめさま……」


「大丈夫?」


 再度、マリアが問いかけると力なくうなづく。やはり体はまだ重たいようだ。


「しっかり休養して」


 いったあと、ソロモンを見やる。けれど、深く眠っているらしく起きる気配はない。胸元にある石をマリアが握り締めると、手に無骨な手が重なる。


「ソロモンなら、大丈夫ですよ」


「うん、そうだよね」


 答えながらも心配げなマリアをレイヴァンは中庭へ連れ出した。すこしでも気が紛れればと考えたのである。

 すでに夜中をまわった深夜の庭は、夜のかおりで満ちていて月の明かりがマリアの姿を幻想的に照らし出す。さらに憂いに満ちた表情を浮かべているので、まるで絵画をながめている錯覚にレイヴァンはおちいった。瞬間、風が「びゅっ」と吹いてドレスの裾をもてあそぶ。同時に声がながれてきた。


『王は七つの眷属を守るために、地上より七人の若者に力をもたらした

 若者は王を深くうやまい、その力を王のために使った

 王は若者等を子等のように大事にした

 我らも若者等を子等のように大事にした

 かくして若者等は我らの遠い友となった』


 ささやく風のような歌声は、レジーのものだった。


「それは風の声?」


 庭にある椅子に座ってぼんやりと夜空を見上げるレジーに、マリアが声をかければ目を見開いて立ち上がる。


「はい、そうです。意味は……」


「ああ、大丈夫。ちゃんとわかるから、いちいち説明をしなくてもかまわないんだよ」


 レジーの言葉をさえぎって、マリアが言えば目をまたたく。


「そっか、マリアには〈眷属〉の言葉がわかるんだね」


 いったあとでレジーは、守人達は〈眷属〉の言葉を解せるが普通の人では、まったく意味がわからないらしい。異国の言葉に聞こえてしまうのだと告げた。


「じゃあ、レジーが先ほどいっていた言葉は他の者には異国の言葉に聞こえるのか」


「はい。おさないころ、この言葉を何気なく発していたら『何いってるの』ときかれたことがございまして」


 いやな思い出であるのかレジーの表情が重い。マリアは話題を変えるようにレイヴァンを見つめ、尋ねた。


「もしかして、レイヴァンは守人達が口にする〈眷属〉の言葉を解していなかったの?」


「いいえ。〈眷属〉が何を伝えたいのかはよくわかりませんが、なにを言っているのかはわかりますよ」


 告げてレジーが先ほど口にした言葉をレイヴァンが言えば、いつから聞いていたのか。ギルがあらわれて、不思議そうにレイヴァンを見つめていった。


「へえ、〈眷属〉の言葉を解せるのは姫様と守人だけかと思ってましたけどレイヴァン殿も分かるんですね」


 レジーは珍しくもまつげを伏せ、考え込む。ふだん、なにかに興味を示すことのない彼も気になるようだ。


「レイヴァンは本当に仕えるべくして、マリアの側にいるのかも」


 つぶやいてレジーは頬をほころばせる。彼は、レイヴァンが偶然でマリアの側にいるとは考えておらず、なにかの運命だと思っているらしい。たしかに、マリアもレジーと同じ考えにいたることが度々ある。


「そうであればいいな。いや、きっと、そうなんだろう」


 何故かはわからないけれど、そんな気がするとマリアが紡げば、レイヴァンは「ふっ」とわらい、目を細める。


「これが運命であるならば、妖精ファータの仕業かも知れませんね」


妖精ファータ?」


 レイヴァンの言葉が突飛に思えて、マリアがついて行きかねると「ああ」とつぶやいてからレイヴァンが、初代女王がこの地に来るまで、伝わっていた話があると切り出して語り始める。


「むかし、この地には自然信仰がございまして、すべての物事は妖精ファータの仕業だと考えられていたんだそうです。“ファータ”とは、昔の言葉で“運命”という意味だとか」


 初代女王が来てからは、あまり広くは知られなくなってしまった話だと告げて愛おしげにマリアの髪を撫でる。


「レイヴァンは、ほんとうに物知りだな」


「いえ、なんてことございません。ソロモンの受け売りですよ」


 いたずらが見つかった子どものような表情をうかべ、騎士は人差し指を立てる。仕草にどきりとしつつ、マリアは目をそらした。


「と、ところでレジーは、こんなところでどうしたの?」


 レジーは空をみやりながら、「風がオレを呼んでいる気がして」と答えが返ってきた。すると、ギルが弦を弾きながら「詩人みたいなことを言うんだねえ」と楽しげにつむぐ。


「俺からすれば、守人は全員、詩人のようだけどな。〈眷属〉の言葉の意味はわからないが」


 くやしげにレイヴァンが言えば、レジーとギルも賛同してうなづく。


「さきほどの唄、七人の若者は我々“守人”だと思うんだけど、“子等”ってなんのことだろうね」


 レジーが疑問を口にすれば、ギルも「ああ」といった。レイヴァンも悩ましげにしていたが、早々に考えるのを放棄した。


「まあ、考えても仕方が無いことだ。それに、“守人”がこうして全員、揃った。なにか起こると思わないか」


 悦ばしげにギルは告げて、マリアに片眼をつむってみせる。心臓が高鳴ることもなく、マリアは「確かに」とつぶやいた。ギルの考えも「もっとも」だと感じたのだ。


「神話のとおりであるならば、災いが降りかかるのだろうか」


 淡々と告げるマリアにギルは、不満足なのか表情が不機嫌だ。ときめかなかったのが、つまらないらしい。レイヴァンは喜びを隠せないようだが。


「みんな、どうしたの?」


 異変にきづいて、問いかけるけれど「なんでもありません」と返されてしまう。なにかしてしまったのだろうかとマリアは考えるけれど、思いつかず憂患するがレジーに「大したことではないから」と言われ、流すことにする。この様子では、いくら尋ねても答えてくれないと思ったからだ。


「それより、正騎士長殿。そろそろ、姫君を部屋へ連れて帰られてはいかがかな。夜風は体に悪うございますし、もう月もかたむいてまいりました」


 軽やかな口調でギルがつむげば、レイヴァンは騎士らしくマリアの手をとって城の中へと入ってゆく。二人をながめつつ、指が弦をはじく。洋琵琶リュートの音色が凍てつく夜風にながされて、遠くへ消えた。


「レジー、この城であった異変に誰一人気づかなかった。これをどう見る?」


「マリアに王位継承をして欲しくない人が、今回のことを行ったのであれば、オレ達が真っ先に気づくと思う」


 〈眷属〉とは、マリアに異変があったときばかりでなく、なにかが起ころうとしていることを前もって教えてくれる。今回、その様子すら感じられなかった。


「“守人”の中に裏切り者がいるのか。それとも、論点はもっとべつのところにあるのか」


 考えたくはない可能性と、考えが及ばない可能性の二つをギルが口にする。


「たしかに、守人の中にマリアをよく思わない人がいて行動したのであれば、オレ達では気づかない。〈眷属〉も危険と判断しない」


 レジーが言えば、ギルの瞳がけわしげに揺れた。


「けど、オレ達はどう足掻いても『我らが王』を裏切れない。そうなっている」


 だから、前者は絶対にない。レジーが告げれば「そうだな」とかえして弦をはじいた。そのあと「前者の可能性も、頭の隅に入れておいた方がいい」と眠たげにあくびをする。


「今日はもう寝よう。対応は王様にまかせる」


 また、あくびをうかべてさっさと部屋へ戻ってしまった。残されたレジーは、やはり鉄仮面の表情で空を仰ぎ見てから部屋へと戻った。



 天蓋カーテンの隙間から見える太陽光にあてられ、マリアはぐっと伸びをする。瞬間に扉を控えめながらもたたかれ、返事をすればビアンカがお湯を張った洗面器を持って室内へ入ってくる。


「おはようございます、姫様。お湯をお持ちしました」


「おはよう、ビアンカ」


 告げてマリアは、ベッドから降りると洗面器で顔を洗い歯を磨けば男用の着慣れた服を身に纏った。ビアンカは、たちまち驚いて目を丸くする。


「すぐにお姫様には戻れないから」


「しかし、本日よりドレスを着るようにと陛下から……」


 困惑しながらビアンカは、クローゼットを開ける。そこには、いままでみたことないほどのきらびやかなドレスが所狭しとかけられている。どれも国王や王妃が選んだものらしい。


「いや、わたしはこれでかまわないよ」


 追及を逃れるためにマリアは、早々に部屋を出て行った。深く息を吐き出してから歩いていると、とおくから兵達の声とさけぶエイドリアンの声がひびいてきた。鍛錬場へ向かえば、若い兵達が木刀を振っている。


「このような場所にいかがなさいましたか」


 驚いて振り返ると、若い男が立っていた。兵達に混ざらないのだろうかとマリアが考えていると、男は「わたくしは正騎士であるので」と答えてきた。よく見れば、手に星が浮かんだ紅玉ルビーの勲章が輝いている。


「それは失礼をした」


「いえ、知らなくとも仕方がありません。レイヴァン様が正騎士長になった翌日にレイヴァン様より拝命しましたので」


 つまり、レイヴァンが少なからず信頼を寄せている人物なのだろう。そんな人がいるとは、おどろきでマリアは「レイヴァンについて知らないことがたくさんあるんだな」とあらためておもった。


「もしかしたら、あなた様と関わりがあるかも知れませんので名乗っておきますね。フランツと申します」


「あ、えっと、わたしは……」


「名乗らなくても大丈夫ですよ、姫様」


 男の服を着ているのにばれていたのかと思って、マリアは少し落ち込む。この格好であれば、外に出歩いても平気だと考えていたのだ。


「分かる人には、わかりますよ」


「あなたには、まるでわたしの考えが筒抜けみたい」


 マリアの言葉にフランツは、力なく笑う。


「諜報の任をまかされていたので、人の顔色から考えを読むのは得意ですよ」


「それでは、おぬしの前で隠し事が出来ないな」


 冗談交じりにマリアがつぶやくと、フランツは「ええ」といって「みやぶって見せますよ」と答えた。騎士らしく胸元に手を当てていながらも、たわむれな意味がふくんでいる。

 思わず二人で微笑みあっていれば、野太いレイヴァンと高いビアンカの声がかさなってひびいてきた。


「このようなところにおられたのですか」


 はっとしてマリアが立ち去ろうとしたけれど、フランツが腕を取りはなさない。払おうとしている間にレイヴァンとビアンカがこちらへ来た。


「まったく、あなたは朝食も食べずに逃げ出すなど。ビアンカが泣きついてきたときには、驚きましたよ」


「ごめんなさい、ビアンカ。朝食はちゃんと食べに行くよ」


 レイヴァンの言葉にマリアが返すと、ビアンカが手に持ったワンピースをひらめかせて「せめて、これを着てスカートに慣れてください」と告げる。それから、朝食もドレスかワンピースを着て食べにきて欲しいと国王からの要望らしい。

 心ならずうなづくと、ビアンカがマリアを引っ張って早々に立ち去っていった。


「わるいな、フランツ」


「いえ、お役に立てたのならよかったです」


 かるく頭を下げてフランツが言えば、レイヴァンの双眸がひかる。


「ところで、マリア様はここでいったい何を」


「くわしいことは分かりかねますが、兵達の鍛錬しているようすを眺めておられました」


 帰するところ、マリアにとってドレスやお化粧よりも剣や弓といった武器の鍛錬を行いたいあらわれなのだろう。しかし、剣や弓の稽古はやめるよう王から頼まれている。


「やれやれ、我が姫は扇子よりも剣を手に持ち、宝冠よりもかぶとを頭に乗せるほうがよいらしい」


 皮肉を口にする正騎士長にフランツは、表情に苦い思いをにじませる。なんと返せば良いのか、わからないらしい。


「すまない、困らせてしまったな」


「いいえ、それよりも姫様のお側におられなくてもよろしいのですか」


 フランツの言葉に「そうだな」とかえして、頼み事を一つ二つ伝えると背を向けて去って行く。ふわりと広がる黒いマントを見つめながらフランツは、やわらかい微笑みを口元にたたえた。近くにいた下女が、その表情を見てちいさく声を上げる。彼が顔立ちがよく、さいきん下女や侍女から話題に上がっている人物であったからだ。


「重そうですね、お手伝いいたしましょうか」


 下女は、まさか彼の方から声をかけてくるとは思わず驚いてしまい手に持っていたシーツを落としてしまう。


「も、申し訳ございません」


 あわててシーツを拾うとする下女の手よりもすばやく、フランツは拾い上げてきれいに“しわ”を伸ばして渡せば下女はうつむきながらシーツを手に取る。


「大丈夫ですので、それでは」


 フランツに言葉をつむがせぬよう下女は、あしばやにさってしまう。なにかいけないことでもしただろうかと頭をもたげながら、レイヴァンからの命(めい)をこなすために鍛錬場をあとにした。



 朝食を終えるとマリアは即刻、部屋へ戻っていつもの男ものの服をまとい、バルコニーへ出ると手すりにヒモをくくりつけてから、それを伝って中庭にもつながっている庭園へ降りた。


「レジー」


 マリアが空へ向かって声をかけると、近くにある木が“がさがさ”と音を立てる。葉っぱが何枚か地面へ落ちれば、今度はと軽やかに緑色の何かが地面の上へ降り立った。緑衣をまとったマリアの武官、レジーである。


「街へ行こう」


「いいよ、マリア。今日はどこへいくの?」


 マリアが答えようと口を開いたとき、するどくマリアを呼ぶ声がひびいてきてバルコニーから降りてきた。エリスであった。


「エリス、お願いだから見逃して……」


「それどころではございません、緊急事態です。とにかく、くわしい話は部屋でいたしますので」


 なにかとんでもない事でも起こったのだろうか。マリアが考えている暇も与えてもらえず、正面玄関からレジー、エリスと共に部屋へ戻れば、そこにはレイヴァンとソロモンの姿もあった。


「ソロモン、体はもう大丈夫なのか!」


「ええ、大丈夫です。心配をおかけしました。それよりも、これを」


 ソロモンは言って、マリアに蝋封すらされていないくしゃくしゃの手紙を渡される。宛先は自分になっていて差出人をみると、なつかしい名が記されていた。


「ヘルメス?」


 紙を開いてみると、こすれていたり滲んでいたりで、とても読みづらいものであったが、なんとか読むことが出来た。そこには、「近々、そちらの居城を訪ねること」また「わけあって助けを求めている」ことが書かれている。


「これはいったい……」


「詳しいことは、わたくしにもわかりませんが、彼はどうやら我々に助けを求めているようです」


 マリアのつぶやきにソロモンが、かえして腕を組む。


「手紙がとどいたのは今朝ですが、日にちを見てください」


 手紙に押されている日付を見れば、書かれた日から一週間が過ぎているようだ。手紙に書かれている場所から居城までであれば、すでに城についていてもおかしくはない。


「手紙を読んですぐ、わたくしが兵に命じてヘルメスがいるであろう場所を探させましたが見つかりませんでした」


 しかも、馬車が襲われたようながあったという。マリアは思わず青ざめて表情に悲哀をにじませる。

 ただし、これが落ちていたと翠玉エメラルドで出来た欠けた石版を手渡される。そこには、「そうして賢者の石をつくる準備が整うのである」と書かれていた。


「これは、エメラルド・タブレット」


 首を傾げたソロモンにマリアが錬金術の創始者が基本思想を記したエメラルド版であると告げれば、興味を持ったようで石碑を覗き込む。


「しかし、なぜこのようなものが」


 疑問を口にするエリスにマリアが、ヘルメスは錬金術がどういうものかを広めるためとエメラルド・タブレットをさがすために旅をしていたんだよと教えると「なるほど」とつぶやく。聞きながら、マリアは欠けた石碑を握り締めると毅然と顔を上げる。


「ヘルメスを助けに行かなければ」


「だめです」


 すぐさま、ソロモンが否定する。いつもは、こういうとき真っ先に否定してくるのはレイヴァンであるのに彼よりも早くソロモンが口にしたのだ。


「ヘルメスが困っているのなら助けるのが道理だろう」


「ええ、あなたなら言うと思っていました。けれど、いけません。あなたはこの国の姫君です」


 いままで聞いたことがない冷徹なソロモンに、マリアはやや身がすくんだ。それでも、かつての仲間を捨てることは出来ないと反論した。けれども、厳格な姿勢は揺るがない。


「お忘れですか。あなたは正式に王位継承者となりました。いままでのような振る舞いはゆるされません」


 いつにもまして強腰の彼に、レイヴァンすら言葉を失っていた。

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