第四話
「小さいながら、いい土地だよなあ」
シュルツはしみじみといった様子で、麦畑を眺めている。青々と茂る麦の中に村人の姿があった。
「そうだな」
アイトの忠告はシュルツに伝えていない。アイトに言ったように、シュルツはいいことなど一つも含まれていない噂を散々聞いた上で、ダレオナの婿候補に名乗りを上げている。
シュルツは、人から人に伝わっていく頼りない噂話はまったく当てにしていない。自分の目で見て判断をする男だ。そして、実際に会ったダレオナに悪い印象を持つどころか、好印象を抱いているようだ。荘園に対しても同じだから、ダレオナを幼い頃から知る使用人が忠告したところで、シュルツは聞く耳を持たない。イルレッガが言っても聞くわけがないし、シュルツのそんな性格を承知しているから言うつもりもなかった。
「あの辺の柵とか壊れたまま放置してあるのは良くないな。俺だったらすぐ修理させるのに」
ダレオナとヒーダーがどういう判断を下すかはさておき、シュルツはすっかり自分の勝ちを確信しているらしい。戦場において、それは慢心であり足下をすくわれかねないのだが、相手が子供では無理もないかと、イルレッガは肩をすくめた。
ウォンサコールへやって来て五日目。一昨日までの二日間はダレオナが案内をしてくれたが、今日はシュルツとイルレッガの二人で散策に出ている。ダレオナも、自分の婿候補とはいえ四六時中構っているわけにもいかないらしい。
自由に見て回っていいというヒーダーの許可を得ているので、二人は馬を駆って遠出していた。ダレオナが見せて回った範囲の外まで、シュルツが見たいと言ったのだ。魔物が棲むという森は迂回して通り過ぎ、ダレオナの案内がなかった、荘園のもう一つの村までやって来ている。
村の規模はそれほど変わらない。地形に違いがあるくらいで、わざわざ見に来るほどのものかとイルレッガは思うが、ダレオナの婿になる気満々のシュルツは、将来の領主として今から下見をしておきたいのだろう。
麦畑の間にあった小さな空き地で昼食を広げていたら、道の向こうから村人らしき人影がやって来た。農具の載った荷台を若い男が牽き、中年の男女がその前を歩いている。親子なのだろう。中年の男と若い男の顔が似ている。作業する畑を移動しているのか、家に帰るところなのか分からないが、たまたま通りかかったようだ。
「あんた方、イラバクト様のお客人かね」
「ああ」
シュルツが笑顔で応える。彼としては、村人に良い印象を与えておこうというつもりだったのだろう。
だが、肝心の村人は、互いに顔を見合わせて少し困ったような表情をしていた。井戸端で話しかけてきた時のアイトの表情と似ている。声をかけてきたのに村人の表情が晴れやかでないのが気になったらしく、シュルツは眉をひそめた。
「何か、問題でもあるのかな」
「あ、いや……」
最初声をかけたのは父親と思しき男だったが、シュルツの問いに慌てたように口ごもったのは、息子だった。それから、余計なことをと言わんばかりの目で父親を睨む。
「――ダレオナ様がどういうお方か知ってるのかい」
意を決したように口を開いたのは、父親だった。息子は、ますます苦い表情で父を見ている。
シュルツは二、三度目を瞬かせ、ちらりとイルレッガを見て小さく肩をすくめた。イルレッガは、やはり小さくため息をつく。
彼らもアイトと同じことを言いたいようだ。しかし忠告されるまでもなく、噂は散々聞いてきている。
「ひどい噂と大違いで、優しくて気立てのいい娘だね。自分たちの領主の娘なのに、あんたらはそれを知らないのか」
道中でも悪評ばかり、領内に来てもそれが変わらないことに辟易したのか、シュルツは笑みを浮かべているものの、小馬鹿にするような口調だった。
「……でも、普通の人間にはない恐ろしい力を持っているお方だ。魔物みたいに殺されるかも分からないから、ダレオナ様の婿になるのは、やめた方がいい」
「この村を含めた荘園を相続するのはダレオナだろう。あんたらの将来の主だ。その主に対して、滅多なことを言うんじゃない」
眉間にしわを寄せるシュルツは、もう笑みを浮かべていなかった。さすがに村人もひるんだ様子で、それ以上言いつのりはしなかった。だが、シュルツの言葉を聞き入れたわけでもないのは、彼らの顔を見ていればよく分かった。
親切心で言ってやっているのに――。去っていく父親の横顔は、言葉にはしなくともそう思っているのが一目瞭然だった。
シュルツは、自分が好印象を抱いたダレオナを、領内に入ってもあしざまに言われたのが気に入らなかったのか、あれから不機嫌なままだった。あの父親に話しかけられる前までは、辺りを見回して楽しげにしゃべっていたのに、昼食後はそれもほとんどなかった。
言葉は悪いがシュルツは領地目当ての立候補で、伝え聞くダレオナの悪評は気にしていなかった。気にしていないというより、気にしていたら領地を手に入れる絶好の機会を逃してしまうと考えていたのだろう。実際に会ったダレオナがひどい評判とはまったく印象の違う娘だったのは、シュルツにとって幸運だったに違いない。
「あ。あのガキ、抜け駆けしやがって」
館に帰り、馬を厩舎に繋いで部屋へ戻ろうとした時、菜園でダレオナと一緒にいるオディオンを見つけて目の色を変えたのは、出し抜かれたと焦ったのはもちろん、幾ばくかの嫉妬もあったのではないか、とイルレッガは思った。こんな子供にやきもちを妬くのはいかにも大人げがないが、と呆れながら、シュルツの後を追いかける。
「やあ、ダレオナ」
「シュルツ。いつ戻ったの?」
「ついさっきだよ。――ここは、君が管理しているのかい」
横にいるオディオンには目もくれず、シュルツはダレオナの手元に視線を向ける。
ダレオナは小さなスコップを握っていた。苗でも植え替えていたところなのか、両手は土で汚れている。体の前面を覆う前掛けにも土色の汚れがあちこちに付いていて、ずいぶん長いこと菜園の手入れをしていたとうかがわせる。オディオンはそれほど汚れがないから、手伝いを始めたのはそれほど前ではないようだ。
「ええ。そんなに広くないけど、我が家で食べる分のいくらかはここでまかなえてるの」
と、ダレオナは菜園にぐるっと視線を巡らせる。彼女の動きをまねて、オディオンも菜園を見回した。うねは六つ、長さは十歩ほどだろうか。いちばん端のうねはハーブ専用にしているようだが、それ以外はいろいろな野菜が等間隔に数株ずつある。
「ダレオナ」
シュルツは唐突にダレオナの手からスコップを奪い取って適当に投げ捨てると(ちなみに後方に放ったので、危うくイルレッガのつま先に刺さるところだった)、彼女の両手を自分の手で包み込むように握りしめた。ダレオナが目を白黒させる。オディオンは、あっと言うように口を開け、二人を見上げた。
「菜園の手入れなんて君がやるような仕事じゃない。俺が君の夫になったら、こんなことはさせないと約束する」
「あの……」
ダレオナの表情はシュルツの肩越しに見えていた。明らかに戸惑っている。
シュルツの実家の敷地内やその周辺にも畑があったが、そこを耕し野菜を育てていたのは雇われている小作人たちだった。リプセン家の人間は誰も畑仕事はしなかった。シュルツにとって、そういうことは小作人にやらせるのが普通なのだ。ダレオナの悪評を、ついさっきも村人から聞かされたシュルツは、村人たちに忌み嫌われているせいでダレオナ自ら畑仕事を強いられていると考えているのだろう。イルレッガには、今当惑した表情を浮かべているダレオナが嫌々やっているようには見えなかったが。
●
いつもより早い時間に目が覚めてしまったダレオナは、着替えてから部屋を出た。
「……いい天気」
裏口の扉を開けると、外の明るさに目を細めた。夜が明けたばかりだというのにもう明るい。今日も天気が良く、暑くなりそうだ。
周囲を見回して誰の姿もないのを確認して、外に出た。の部屋の入り口に水の入った桶がなかったから、アイトがまだ水くみをしているかもしれないと思ったけれど、誰の姿もなかった。
井戸のそばに広がる菜園に小走りで向かうと、昨日植え替えたばかりの苗や剪定をした野菜の様子を確かめた。今のところ問題はないようで、ひとまず胸をなで下ろす。
シュルツに菜園の手入れなどしなくていいと言われた時、とても困ってしまった。
イラバクト家は使用人が少ないし、ダレオナも菜園いじりが嫌いではなくむしろ好きなので、せっせと世話をしていた。領主の娘は普通手に土を付けて汗を流さないものだと、分かっている。娘だけでなく、息子も同じ。菜園にいるダレオナを見つけたオディオンが「手伝いをしたい」と言ったのは、野良仕事の類いをしたことがなくて珍しかったからだろう。少年の目は好奇心で輝いていた。
ここは館の裏手で村人の目にほとんど触れることもなく、ヒーダーもダレオナの行動を咎めることがなかったからずっと続けてきた。もしもシュルツが夫となったら、彼はそれを許してくれないのだろうか。それとも、好きでやっているのだと言えば、許してくれるだろうか。楽しそうにダレオナの作業を手伝っていたオディオンならば、一緒にやってくれるかもしれない。
苗の、柔らかく薄緑色の葉の様子を確かめながら、朝からそんな思考に駆られる自分にため息をつく。下を向いたせいで、まだ結っていない髪が音もなく肩から流れ落ち、周囲と遮るようで幕になる。仕方のないことだと分かっているけれど、婿を決めるまで何かに付けて二人を比べてしまう。
「おはよう」
髪の幕で見えなかったから人が近付いているのに気付かず、驚いて顔を上げた。
「……おはよう、ございます」
イルレッガが菜園の入り口に立っていた。髪の毛がぼさぼさでまだ眠そうな顔をしている。顔を洗いに来たのだろう。
「今朝は早いな」
身分でいえばダレオナの方が上なのだろうが、イルレッガはイラバクト家の領民ではないし、ダレオナに話しかける時はいつも(というほど話をしたことはないけれど)くだけた口調だった。もっとも、だいぶ年上の彼に改まった口調で話しかけられるのも居心地が悪い。
「昨日、新しい苗を植えて剪定をしたから、様子が気になって目が覚めたんです」
世間話のつもりで答えてから、ダレオナははっと気が付いた。
「あの、シュルツに昨日言われたばかりなのに朝からこんなことをして、と思われたかもしれませんけれど――菜園をいじるのが好きなんです」
イルレッガはシュルツに、今朝こういう光景を見た、と教えるかもしれない。その時シュルツは、人の言うことを聞かない女だと呆れるだろうか。
「好きなら、気にせず好きなようにしたらいい」
だけど、思わぬ言葉にダレオナは目を丸くする。イルレッガも、シュルツと同じように考えているのではないかと思っていた。
「人の目なんか気にせず、なんでも自分の思うようにしたらいい」
殊更優しい口調だったわけではないけれど、励まされたような気分になったのは確かだった。
「……ありがとうございます」
もしもイルレッガが婿候補の一人であれば。彼が夫となったら、心が軽くなりそうな気がした。
これから顔を洗うというイルレッガに「ではまた朝食の時に」と言って自室へ戻った。
ダレオナは顔を洗い、鏡の前に座る。鏡に映る髪をじっと見つめると、ふわりと動き出した。髪は生き物のようにうねうねと動いて、うなじの辺りでおさげを編んでいく。その間に、鏡台に置いてある髪留めのピンを一瞥した。ピンも勝手に動き出し、宙に浮かび上がる。右の端っこを、左のおさげの編みはじめのところで留め、左のおさげの端っこは右側で留める。
ダレオナは左右に首を振って、仕上がりを確かめた。三つ編みはきれいにできているし、留めるためのピンは髪の中にうまく隠れている。ほつれもない。
仕上がりに満足すると、朝食のため広間へ向かった。
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