第23話 胸の奥の、小さな棘

「ご、ご主人様……」


 家に帰るなり、荷物を放り出してベッドに突っ伏した和臣に、フローが心配そうに声をかける。


 最悪だ。

 女の子を泣かせて、逃げ帰ってきた。


 知ってしまった事実に対する恐怖よりも、その事実に対する罪悪感が勝っていたのは、ひとえに和臣が美咲を大切な仲間として想う気持ちゆえだった。


「フロー。僕、美咲に酷い事言っちゃった……」

「はい。お兄ちゃんも怒ってました。……ちょっぴり、怖かったです」


 こういう時に、心にもない事を言って宥めすかしたりしない正直なところも、フローの良い所だった。

 主人として、みっともない姿は見せられない。


「明日……ちゃんと会って、ごめんなさいしなくちゃだね」

「はいっ。きっと美咲ちゃんもお兄ちゃんも許してくれます!」

「いつもありがとう、フロー」


 出会ってから一週間と経っていないが、フローはいつも優しい言葉で和臣を支えてくれている。

 やれマンドラゴラだ、バグだと訳のわからない出来事に巻き込まれ、それでも強く自分を保っていられたのはフローがいてくれたおかげだ。フローを守るという大義が和臣の中に生まれたからこそ、未知を知る勇気が、未知に踏み込む勇気が得られた。


 だから今回も、乗り越えなくちゃ駄目だ。

 たとえ今回知った事実が、和臣にとって衝撃的であったとしても。知りたかったから聞いて、気に入らなかったから傷つけて。そんな勝手、ディオネアでなくとも怒って当然である。

 和臣がフローを守りたいと心から願っているように、美咲にも願いが、想いがあるのだ。バグを殺し尽くしてでも守りたいはずの願いが、二度と失いたくないはずの想いが。それを知ろうともせずに、あろうことか心無く踏み滲った残虐を、ともかく詫びなくては始まらない。


「……あぁもう! ほんと、何てこと言ったんだ僕は!」


 ディオネアに、マンドラフレアの話を聞いた矢先である。

 彼女の孤独を知って、不安を知って、自分がそんな彼女にようやく出来た「仲間」であると知った上で。

 その仲間を「殺すのか?」と問うだなんて。

 これ以上酷い仕打ちがあるだろうか?


「ほんとに……謝らなくちゃ」

「ご主人様は優しいです。きっとわかってもらえます」


 白く柔らかい温もりを手のひらで包み込むようにそっとかき抱き、そのまま夕飯に呼び出されるまでの間、和臣は悶々とした時間を過ごした。




 同時刻。

 美咲は茫然自失としたまま、今井家の食卓に着いていた。

 といっても、作り置きを電子レンジで温めて食べるだけの、ひとりの時間。

 母は多忙だ。頻繁にではないが、こうして仕事で家を空ける夜がある。そんな日でも、美咲は変わらず門限を守るようにしていた。


「美咲」

「……なぁに、ディオネア」

「あんな奴の言う事、気にするこたぁねぇからな」


 ディオネアはまだ怒っているようだった。

 素直じゃないふりをして、いつだって彼は一番に美咲のことを考えてくれる。美咲はそれを嬉しく思う反面、ちょっぴり申し訳なくも感じていた。


「ディオネア。私、わからなくなっちゃった」

「あ? 何がだよ?」

「もしホントに早乙女くんの言う通り、彼がバグになっちゃったら。私は、マンドラヴィーナスは、ホントに彼を殺しちゃうのかな」


 卓上に置かれたおしゃべりなヘアクリップは、しばしの間沈黙した。


「そうやって私はまた、ひとりぼっちに戻っちゃうのかな」

「……チッ」


 二ヶ月前、美咲は仲間を、マンドラフレアを忘れ、ひとりぼっちになった。記憶そのものはすっかり抜け落ちていても、そこに空いた穴がもたらした不安や孤独感は忘れ得ない。


「私ね。仲間のことを考えようとする度に、胸の奥に棘が刺さったみたいにちくってするんだ。変だよね、私一人は嫌なのに。仲間欲しいのに。いつだって仲間のこと考えてたいのに。自分自身の心に、お前はずっと一人でいろって言われてるみたい」


 見ている方が苦しくなるような無茶な笑顔を浮かべ、美咲は呟き続けた。

 これが、あのいつも明るく朗らかな美咲なのか。あの野郎、美咲をこんなに追い詰めやがって。ディオネアはにっくき和臣の顔を思い浮かべ、あらん限りの罵倒を心の中で浴びせかけた。


「さっきもそうだった。私、悲しくて、辛くて泣いたんじゃないの。心がちくってして、気づいたら涙が出てたんだ」

「いいか美咲。お前はこの先何があってもひとりぼっちにはならねぇ。オレがついてる。最後の最後までオレがずっと一緒に戦ってやる」

「……カッコイイね、ディオネアは」

「茶化すなよ」


 明らかに照れている。お返しに、美咲はいつもの爽やかスマイルをにこっと浮かべ、本来の元気を取り戻した様子をディオネアに見せた。


「ううん、ありがと。変なこと言ってごめん。もう大丈夫!」

「けっ。別に」


 ディオネアには、かつて彼女の記憶を守れなかった負い目がある。

 二度と同じ轍は踏むまいと、何者からも彼女を守り抜き決して孤独にはさせまいと。そのためなら何だってすると誓ったのだ。

 そう……そのためなら、一番大切な相棒に嘘だってつく。


「……でも、明日もしベルが鳴っちゃったら、どんな顔して早乙女くんに会えばいいかわかんないよ……」

「とりあえず、あのバカはいっぺんシメる」


 声のトーンを低くして語調を荒らげた。


「だいたいな、よく考えてもみろ。明日寄生されてバグになったらだ? そうさせねぇために、和臣とフローをバグから守ってるんだろうがよ。前提がおかしいんだよ、前提が」

「……言われてみれば、なんか私もムカついてきた。私らの協力、ないがしろにされてんじゃん。ビンタ一発くらいは許してもらいたくなってきちゃった」

「んなもんで足りるかよ。ヴィーナス・ウィンクかませ」


 などと不穏な作戦会議が催されていたことを、当の和臣は知る由もなかった。

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