第21話 無音の凶刃

「みさ……ヴィーナス!」


 一応、ディオネアに倣って「変身後」の名前を呼ぶ。追いついた彼女は、半身でこちらを振り返りながら人差し指を立てて唇の前に添えた。

 音ひとつ立てずに移動していたカマキリだが、流石にこれほど木々が密集した空間内であれば巨体を動かすたびに枝を折る音が生まれるはずだ。ヴィーナスはそれを期待して耳をそばだてている様子だった。

 身のよだつ静けさに唾を飲む。ヴィーナスは剣を構えながら目を閉じ、カマキリの気配の欠片を探して


 ガギィィイインッ‼


「っ……⁉」


 和臣には視認すらできなかった。

 ヴィーナスでさえも驚きに目を見開いていた。


「完全な無音だ。諦めな、ヴィーナス。当てずっぽうしかねぇぜ」


 ヴィーナスの意思ではなく、ハエトリソウが虫を捕らえるように「反射的に」剣が動き、姿無き凶刃を弾いたのだ。

 これはハエトリソウとしてのディオネア本体の能力、超反応速度による無意識の防御。攻撃を防ぎはしたものの、カマキリの姿を捉えたわけではない。


 擬態、だというのか。これが?

 常人である和臣の目には勿論、変身により身体能力が飛躍的に上昇しているはずのヴィーナスにさえその姿は見えていない。

 擬態などと呼んでいいレベルではない。透明化だ。視覚的にも聴覚的にも、全くの無色にして無音である。


「『いる』のね……?」

「『いた』かもしれねぇな。思った以上にめんどくせぇ」


 巨剣が溜め息をつくように吐き捨てる。だが不思議と焦りは無いように聞こえた。


「最初に見つけた時もそうだったが、攻撃の瞬間だけはご丁寧に擬態が解けるみてぇだな。油断なのか擬態能力自体の制限なのかはわからねぇが、突くならそこだ」

「だね。早乙女くん、もうちょっとこっち来て。ディオネアの間合いにいて」


 言われるがままフラフラと近寄るが、和臣は気が気ではなかった。今この瞬間にも敵が自分の背後で鎌を光らせているかもしれないという恐怖に打ち勝つには、経験が圧倒的に不足していた。


「さ、誘い出されたんじゃ……?」


 誰にともなく呟く。

 鬱蒼と木々が生い茂り、視界も良好とは言えない林の奥。大振りの巨剣を得物とするマンドラヴィーナスが全力を振るえる環境とはお世辞にも言い難い。それを理解してか、はたまた打開策を持ってか、ヴィーナスもディオネアも何も答えなかった。


 林を吹き抜ける柔らかな春風が、今の和臣にはひどく冷たく感じられる。怪物が呻くような空寒い風鳴りに、しかし姿無き敵は微塵の気配も残さなかった。

 緊張の糸は張りに張り、今にもプツリと切れてしまいそうだった。切れたらどうなるのか。パニックに陥って暴れ出しでもするのだろうか。頭を巡る嫌な想像に、現実味はまるでない。

 もしかしたら、一刀両断の鎌ではなく、目も耳も欺く隠密性ではなく、結果生まれるこの疲弊こそが敵の最大の武器なのではないか。

 視界がどんどん狭くなる。喉の奥が乾燥していく。初めてマンドラヴィーナスの戦いを目にした時と同じ、意識が世界から切り離されたような感覚。


 死の、恐怖――


 むぎゅ。


「⁉」


 両の頬に圧力を感じて咄嗟に顔を上げると、ヴィーナスが空いた片手で和臣の顔を鷲掴むように挟み込んでいた。


「落ち着いて、早乙女くん」

「び、びーなふ……?」

「安心して。早乙女くんは私が必ず守るから」

「……っ!」


 言われて、はっと我に帰る。

 彼女の言った通りに安心したわけではない。

 彼女にそこまで言わせた自分の、あまりの無力さを痛感したのだ。


「っふ‼」


 再び無音の暗撃をディオネアが反射でいなすと、ヴィーナスが文字通り返す刀で攻撃の出所と思しき空間に斬りかかる。思わず感嘆を覚えるような、流麗なコンビネーション。


「チッ……!」


 しかし、反撃は虚しく宙を舞ったらしく、巨剣が苛立たしげに舌打ちした。


「今のは避けられたわけじゃねぇ。見えなかったってことはつまり、最初からそこにはいなかった」

「あの鎌、結構伸びるってことね」


 どうやら敵は、最初の一撃でヴィーナスの恐るべき膂力を悟ったらしい。殴り合えば鎌を折られ、押し切られて潰される。そう判断した結果、林に潜み、リーチの優位を最大限に活かし距離を保ちながら突く戦術を取ることを選んだと見える。

 何度目かの、鈍い金属音。


「危ない」

「うっ、うわぁあ⁉」


 今度の攻撃は完全に和臣を狙っていた。ディオネアが攻撃を弾き、ヴィーナスが和臣を守るように抱き寄せる。耳のすぐ横で何度も鈍い音が鳴り響く。


「うわ、形振り構わないって感じ……。どうしよっかなぁ、次で一気に詰めてもいいんだけど」

「和臣を置いてか?」


 ディオネアの言葉にぎくりとする。

 相手が離れた場所から鎌を伸ばして攻撃してきているのなら、裏に回りこむだけでも相当に大きく弧を描く必要がある。ほぼ同一方向から繰り出される姿無き斬撃は、その大掛かりな移動の可能性を綺麗に否定していた。敵はほとんど動かずに、定点攻撃を連発している。

 ヴィーナスには、数回攻撃をいなした時点で既に相手の潜伏場所のアタリがついていた。ヴィーナスとディオネアだけなら、姿が見えずとも一息に間合いを詰めて攻勢に出ることは可能だろう。

 つまり、和臣が足を引っ張ってしまっている。


「くっ……!」


 悔しい。

 何か自分にできることはないのか?

 何でもいい。何か。

 ヴィーナスが和臣を顧みずに、カマキリに突撃できるだけの大きな――、

 隙が、あれば。

 繰り返し鳴り響いていた剣戟の音が止む。移動されたか。また振り出しに戻るのか。


 そうは……させない!


 思い出せ。ディオネアが剣になる前、美咲がヴィーナスになる前、最初の一撃をかわした時。何をした? 何が起きた?

 静寂ごと切り裂くように、再び甲高い金属音が響く。


 ジリリリリリリリリ‼


 次いで、非常ベルの爆音が林に轟き渡った。

 ほとんど反射的に、和臣はスズランの飾りをつまみ。主人に対する信頼だけを拠にフローが呼応し、ありったけの音量をかき鳴らしていた。

 一瞬で十分だった。


「そ、こ、だああああああ‼」


 和臣が向いている方向とは反対側。背後を狙うように鎌を伸ばしたカマキリの無防備な姿を、「透明ではない姿」を、ヴィーナスの瞳がしっかりと捉えていた。


「ディオネア!」


 渾身の力で「ぶん投げられた」ディオネアが、カマキリの頭部に食らいつく。


「グロウアップ、『アギト』ッ‼」


 そのまま更に巨大化し、質量を増す巨剣。姿を隠すことも忘れて暴れもがくカマキリだったが、やがて支えきれずに首が圧し折れ、地鳴りのような音を立てて崩れ落ちた。

 五メートルにも及ぼうかという大木の如きカマキリの巨躯を、更に上回る大きさにまで肥大化したディオネアが、開けた大口ですっぽりと覆い被さるようにカマキリの全身を包んでいた。


咲き誇れフル・ブルーム! ヴィーナス・ウィンク!」


 剣に歩み寄り柄を手に取ったヴィーナスの口から放たれた、最終奥義を意味する言葉。


 ごしゅっ。


 その言葉に応じるように、女神の瞼を模した赤く黒い大口が閉ざされ、カマキリの巨体をひと呑みに砕き潰した。

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