第16話 かぐらの脚立
「ヒムタクー、ちょっとこっち」
「うぃッス」
ハルカの呼び掛けに気だるげに応じたのは、半年前から『かぐら』でバイトしている二十一歳の大学生、
ハルカがあのように拓治を呼びつけるのは、大抵決まって、
「あそこの戸棚の高枝伐りバサミとって!」
高い所の物を取りたい時である。
「うぃッス、お任せを」
かぐらの従業員は、基本的に女性ばかりである。和臣を含め、その身長も当然軒並み低い。そのため、紘明にも及ぶ背丈が取り柄の拓治にとって、高所の物を動かす仕事は数少ない輝ける場面なのである。
「取ったス」
「はい、じゃあそれ持ってお庭へゴー」
「うぃッス」
店の正面口には、ガーデニング用品や丈の高い花などが陳列されている庭があり、さらに庭の門には蔓植物と色とりどりの花で飾られたアーチが利用されている。最高点は二メートルにもなる大きなアーチで、従業員で唯一手の届く拓治に剪定と調整を頼みたいとのことだった。
「いつもありがとうございます、樋村さん。僕らじゃとても届かなくて……」
ちなみに、このアーチの設置を提案したのもデザインしたのも花を選んだのも小学生の頃の和臣である。当時の和臣にはまさか五年経ってもまるで背が伸びないなどとは思いもよらなかったであろうが。
「いいんスよ早乙女ちゃん。適材適所、自分はこの店の脚立が一番向いてるッス。花の名前も全然覚えらんないッスし」
拓治はよく自身を「脚立」と称する。彼なりのジョークのつもりなのかはわからないが、少なくとも後ろ向きな意味で使っているわけではないだろう。
ここでの仕事を通じて、何の取り柄も無かった自分の夢が「庭師」になったと語っていたのを、和臣は知っているからだ。
「そだ、ヒムタクも明日の送別会くるよね?」
「うぃッス。行かせてもらいまス」
剪定作業を続けながら拓治が答えた。
「西原さんにはお世話になったッスからね。ユキにフラれてヤバかった時期も、ここを辞めずにいられたのは西原さんと店長のお陰ッスし」
「ちょっとヒムタクー、自分で古傷えぐんのやめよーぜぇ」
ユキ、というのは拓治の元カノの名前だ。
花にさして興味もなかった拓治が花屋でのバイトを始めたきっかけになった人だったそうだが、働き始めてすぐに別れたという話をハルカづてで聞かされた。和臣にとっては、女性の口には戸は立てられないという事実がよくわかった出来事である。
「いやいや、流石にもう立ち直ってるッスよ。あれもあれで終わってみれば良い人生経験になったと個人的には思ってるッス」
妙に達観した言い分だった。結果的に将来の夢まで見つけているのだから、確かに本人にとってはいい経験になったのだろう。
「こんなモンッスかね」
乱雑に伸び散らかっていた蔦葉はものの数分で綺麗に整えられていた。
そして折よくアーチをくぐり、本日最初の客が顔を覗かせた。
「いらっしゃいま……あ」
見知った顔に、思わず言葉が止まる。
「やっほー」
にこやかに手を振ってきたのは、美咲だった。
「いらっしゃい、美咲」
トップス、袖口に控え目なフリルのついた純白のブレザーに赤タータンのリボンタイ。ボトムス、リボンと同じ模様のプリーツスカート。白と黒の縞々ニーハイに赤のメリージェーン。バッグは赤のエナメルポーチ。
いつもの運動しやすそうな服装と違い、少しゴスパンク風でガーリーな雰囲気にまとまっている。やはり美咲には赤がよく似合う。
何よりディオネアを付けていないのが高ポイントだ。髪型はいつものポニーテールだが、今日はハートのアクセサリがついた赤いヘアゴムのみ。バッグの中にでもしまってあるのだろうか。
ちなみにこれらのアイテムはほぼ全て、三日前の休日に美咲と行動を共にしていた和臣が、桜坂町から二駅隣にあるアウトレットモールで彼女を連れ回しながら買い集めて押し付けたものである。貰ったばかりのアルバイトの初給料が綺麗に半分消し飛んだが、和臣にとっては本望というべき使い道だった。
「着てきてくれたんだ。やっぱり似合うよ、思った通り」
「う、うん……自分じゃその、よくわかんないけど……」
美咲が頬をうっすらと紅潮させながら苦笑した。
「美咲は脚が長くてスタイルもいいから。女子高生くらいに見えても不思議じゃないくらいカッコいいし可愛いよ」
「ぇ、あ……うー、あ、ありがと」
男が普通に口にしていたら歯の浮くようなキザったらしい台詞だが、彼は早乙女和臣である。したがって何の問題もなかった。
「らっしゃいやせー。早乙女ちゃんのお友達ッスか?」
恋多き大学生男子からさえ彼女かと問われないのが、その最たる証である。
「あ……初めまして、ですね。今井美咲っていいます」
「ども、ご丁寧に。自分ヒムタクッス。よろしくッス」
拓治は初対面の相手への自己紹介の場ですら条件反射的にあだ名の方を名乗る。もしかしたら自分でも結構気に入っているのかもしれない。
「あれあれ? こないだの!」
店内から竹箒を抱えて出てきたハルカが美咲に気づき、親しげに声を掛けた。
「こんにちは、この間はどうもです」
「いらっしゃーい。そうそう、ちょっとこっち来てこっち! くふふっ」
「えー、何ですかー?」
くるりと踵を返して店内にUターンしようとするハルカから、拓治が無言で箒を取りあげ、そのまま先程剪定したアーチの下に向かった。ここまで紳士的で頼りになる男性の一体何がユキさんは気に入らなかったのか、和臣には疑問だった。
「美咲は店長にハエトリソウ見せられてるのかな……」
和臣は、先日美咲が言い残した「次に来るまでにハエトリソウを仕入れておいてほしい」との言葉を冗談だと思っていた。まさか美咲も、本当にハルカがハエトリソウを仕入れていたとは思うまい。
「おい、和臣」
「…………?」
どこからか聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
「おいコラ」
ドスの効いた声だが、拓治は門の外を掃除していて話し声の聞こえる距離にはいないし、そもそも後輩である和臣にさえ「ッス敬語」を使う彼がこんな粗野な口調で喋ったことはない。
空耳か何かだろう。
そう結論づけて、土の掃除をしようと花壇の前に座り込んだその時。
「シカトたぁいい度胸じゃねぇか、テメェ」
「うわっ⁉」
目の前にした花壇の真ん中に、なぜか見慣れたヘアクリップが鎮座していた。
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