第4話 虫

「……あれ?」


 夕暮れの川辺。いつも以上に人気のない土手を歩いている途中、和臣は風景にそぐわない異変を見つけて立ち止まった。


「あの子……」


 先ほど友達のお見舞いにと花束を買って行った女の子だった。川のすぐ傍で水面を見つめながらぼーっと立ち尽くしている。


 変だ。

 あれから二時間以上経つ。歩幅の違いはあれど、ここは店からはそう遠く離れた場所ではない。和臣が店と自宅を行き来するのに使う、片道ほんの徒歩十五分の道のりの途中だ。


 そして彼女の足下には……かぐらで買って行ったあの花束が、無造作に取り落とされていた。


「ど、どうしたの……っ」


 不審に思って駆け寄り、顔を覗き込んだ和臣は言葉を失くした。

 女の子の顔には、まるで生気が感じられなかった。


「……だれ?」

「えっ……ほ、ほら、そこの花束を買ってくれた店のバイトだよ」


 和臣がおずおずと指をさした花束……だったものを、女の子は興味なさげに一瞥した。


「ふーん……?」


 和臣がそれを拾い上げて、差し出す。


「と、友達のお見舞い。行かなくていいの?」

「何のこと?」


 喧嘩でもしたのだろうか。心のどこかで、せめてそうであってほしいと願いながら、震える声で和臣は続けた。


「病気の友達のお見舞いに行くんだって、言ってたよね……?」


 女の子は顔色も、声のトーンも、ひとつも変えることなくあっさりとした態度で答えた。


「知らない。あたしの友達、みんな元気だけど」


 つい二時間前。

 病気の友達を想って花屋を訪れた女の子の、あの満面の笑顔は全て嘘だった、全て幻だったとでも言わんばかりに。その発言は痛烈に、非情に、和臣の心に叩きつけられた。


 和臣は何故だか、先刻のハエトリソウの少女の質問を思い出していた。


 ――ちょうど虫食いの穴が空いたみたいに、何かを思い出せなくなったことはない?

 ――急に人が変わったみたいに夢を諦めて無気力人間になったことは?


「……よくわかんないけどあたし、もう帰るからね?」

「え、……うん……」


 ほとんど上の空の和臣の返答に、興味なさそうに女の子は溜め息を見舞った。


「それも捨てといてよ。枯れちゃってるみたいだし」

「……、えっ⁉」


 その一言にはっとなり、手元の花束を見る。

 ……本当だ。さっきまではちゃんと咲いていたのに。


「枯れて、る。なんで。……なんでッ⁉」


 寒い。

 今日、こんなに寒かったっけ。

 花冷えの季節とは言っても寒すぎる。

 どれくらいの間立ち尽くしてからだろうか。和臣は、これが傍らを流れる川や沈みかけの斜陽から来る寒さではないと気づいた。


 悪寒。

 嫌悪感。


 ――ブ ブブ――


「……何の音?」


 西か、東か。

 上か、下か。

 どこかわからない遠くから、常々聞きたくないと思っている嫌な音が聞こえてくる。


 ブ ブ――ブ ――ブブ


「羽音……?」


 そうだ。

 羽の音。

 花屋にいて、一番聞きたくないあの音。


 ハエの!

 羽音だ!


「っ……⁉ 何あれ⁉」


 川沿いに、羽を持った黒い影が猛烈な速度で和臣の方に向かってくる。

 ハエだ。

 いやハエだがハエではない。


「うわぁああ⁉」


 ジェット機のような爆音とともに突撃してきたそれを、和臣は間一髪で避けた。ニアミスした場所に吹き荒れた突風が、川の水と砂利を巻き上げて暴れ狂う。

 すれ違った瞬間、和臣はハッキリとその異形の姿を視認した。

 頭はハエ。羽もハエ。しかし胴と手足のバランスは人間に近い。腕は四本ある。四本の腕は人間でいえば肩の部分から生え、二本の脚は人間でいえば腰の部分から生えている。胴体は昆虫のような節には分かれずひと繋がりになって、黒いツナギのような服を着ている。


 ハエ男だ。

 ハエでもなく、人間でもない、化け物だ。


「ま、また来る……?」


 和臣を通り過ぎたハエ男は、スピードを殺さぬよう緩やかな弧を描きながら大きく旋回し、再び和臣の方に向かおうとしている。自在に空を飛んでいるそれは、とても手の込んだ作り物には見えなかった。

 状況に頭が追いつかない和臣は、夕空に描かれたアーチを見つめながら、ハエにたかられるってことは僕臭うのかなぁ、などという取り留めもない余所事を考えていた。

 仕方ないことだった。何もかも異常だった。

 あの化け物は何なのか。何故自分を襲うのか。どうすれば助かるのか。そんな「考えても意味のない事」を考えていられる余裕などなかった。


 ハエ男が再びこちらに目標を定め、低空飛行で真っ直ぐ飛んでくるのが見える。

 ふと視界の隅に、土手を駆け下りてくる人影がちらりと映った。

 ハエ男に気づいていないのか。運悪く人影はその飛行線上に立ってしまう。


 危ない。

 ぶつかる。



「マジカルドリィーーーーム、グロウアァァップ!」



 唐突な掛け声とともに、人影が燃え上がるような赤い光を発した。


 バヂンッッ!


 直後、クリップを勢いよく閉じた時の何百倍も大きいのではと思える、もはや爆発音と呼ぶに偲びない音が夕暮れの川辺に響き渡った。

 和臣の耳にその爆音が届くとほぼ同時に、人影とすれ違ったハエ男は体勢を崩してやや上方へ吹き飛んで。きりもみ回転しながら放物線を描き、和臣の数歩前、石礫の絨毯に打ち付けられるように激突した。

 その脚からは……脚が生えていたはずの場所からは、毒々しい緑色の体液が噴き出していた。翅の片方がもがれ、腕は落下の衝撃でか、人間ならば有り得ない方向に曲がっている。


「あがっ、いッ、ィダ、ぁ、痛い、いダぁァぁあイ‼」


 突然人間の言葉で絶叫を上げたハエ男に虚を突かれ、和臣はびくりと震え上がった。

 おそるおそる先刻の赤く光った人影に目をやると、その手には赤く禍々しい剣が握られていた。およそ持ち主の身長の二、三倍はあろうかというサイズの、「牙を持つ巨剣」が。

 あの剣が噛み千切ったのだ。ハエ男の脚と片翅を。動物的な本能に近い感覚で、和臣は直感した。


 まだ、

「食い足りない」と、

 言っている!


「グっ、ヴぅっ、ダ、助ッ、ゲ、でェ」


 ハエ男は手近にいた和臣に助けを求めながら、圧し折れた腕で這いずっている。だが和臣の耳にはほとんど届いていなかったし、仮に届いていたとしても背後の捕食者からハエ男を助け出すことは彼には不可能であった。


 ざり。

 ざり。


 何のことはない、川原の砂利を踏みしめて歩くだけの足音。徐々に近づくその音が、この世の何より絶望的な響きを伴って、遂にハエ男の目前にまで到達した。


「⁉ ぃッ、嫌ダッ……イヤダぁァあッ‼」


 恐怖と絶望に彩られた叫び声に、しかし巨剣を携えた人影は怯まない。いつの間にか腰を抜かして座り込んでいた和臣の位置からは、その顔は真っ黒な影になって見えなかった。


「たッ……助けて……! な、ナん、ッ、でモズる、がラぁ……‼」


 命乞いも虚しく、なおも巨剣の主は距離を詰める。そしておもむろに、ハエ男の腹の下につま先を潜り込ませ。


「ぁ、ヤ、ヤメ……! ッぉグゥッ⁉」


 激しく蹴り上げた。

 夥しい量の苔色の体液が飛び散り、小雨のように降り注いで周囲を汚していく。剣の主が、落下予測地点に巨剣を構える。


「ディオネア、グロウアップ! 『アギト』!」


 人影が剣にそう呼び掛けると、剣は応じるように更に巨大化。自動車ほどの大きさになり、刀身が真っ二つに割れて不揃いな牙の並ぶ大口を顕わにした。


咲き誇れフル・ブルーム! ヴィーナス・ウィンク!」


 脚と一緒に羽ももがれているハエ男は、空中で暴れることすら満足にできない。痛みに呻き、恐怖に叫びながら、口を開けた地獄にただ落ちていくだけだった。


「――――ァ、」


 ごしゅっ。


 ハエ男の全身をひと口に噛み潰し、巨剣はその顎を完全に閉じた。

 緑の体液が、牙を伝って滴り落ちる。まるで閉じた瞼から零れる涙のように。


 夢でも、見ているのか。

 和臣は未だに目の前の状況が理解できなかった。


 いきなり襲ってきた化け物を、別の化け物が現れて食い殺した。事実だけを述べればそうなる。

 ではハエ男は一体何者で、目前に立つ獰猛な捕食者は一体何者で、何故一方的な殺戮を繰り広げて、何故和臣がそれに巻き込まれているのか。いくら考えても、何一つ理解できなかった。


 ゆっくりと、ハエ男を丸呑みにした大口が開き。


「――オイ、どうすんだコイツ」


 ドスの聞いた声で喋った。


 もはや剣が喋っても驚きようがなかったが、先程の声の主ではないことは和臣の混乱し切った頭にも理解できた。必殺技の名前じみた単語群をひたすら叫んでいたのは、場違いなまでに明るく元気な少女の声だったからだ。

 剣の問いかけに人影は答えず、代わりに剣を手放して地面に放り出した。見た目に違わぬ重量らしく、地鳴りのような音を上げて砂利道に突き刺さる。


「コラ、ヴィーナス! 何しやがる!」

「戦意なしアピール」


 不満を顕わにして怒鳴りつける剣に、人影……少女がぶっきらぼうに答える。夕日の角度が徐々に変わってきたのか、それとも目が慣れてきたのか、少女の表情が少しずつ見えるようになってきた。


「変身解かねぇってことは、まだ疑ってんじゃねぇか」

「ディオネアは見た目が怖いからね。質問するだけなら、あんたいない方がいいでしょ?」

「けっ、勝手にしろ」


 和臣は記憶力には自信がある方だ。


「じゃ、改めて……質問いいかな? お姉さん」


 脳内コーデをした女の子は、たとえその格好がガラリと変わっていようと覚えている。


「お姉さん、だよね? 花屋の」


 ましてや、最後に顔を合わせたのがほんの数十分前となれば尚更、忘れようがない。


「質問その四ね。あなた、私と同じマンドラゴラ……魔法少女でしょ?」


 その化け物は、先刻店を訪れた……赤色の似合う、元気少女だった。

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