記憶~夜市回顧

 フクスは、レーゲングスに連れられ遊郭を後にした。フクスから一連の出来事を訊いたミーオがフクスを家に返すことを決めたのだ。

 売られた亜人の娘を元の家に返すなど滅多にないことだが、名家リッター家の出自がそれを可能にした。家長であるレーゲングスが、フクスの身に起きた出来事についてミーオを責めたのだ。

 見習いフナを持つキンギョは、そのフナを保護する役目も担っている。ごめんなさいと何度も兄に謝りながら、ミーオは泣きそうな瑠璃の眼で自分を見つめてきた。

 そして、彼女は言ったのだ。

 あなたを、守れなくてごめんなさいと。

 そうしてフクスとレーゲングスは、瑠璃の眼を持つ船頭に誘われ、夜の遊郭都市から去ろうとしている。

 船に乗る兄妹は言葉を交わさなかった。

 顔を俯かせ船底を見つめていたフクスは、顔をあげてみせる。船が進む水路の両側では、飾り窓から亜人の少女たちが婀娜とした微笑を浮かべていた。

 そんな少女たちを眺めながら、フクスは金魚鉢にやってきた夜に思いを馳せる。

 母の葬儀の後、この船に乗って煌びやかな夜の街にフクスはやってきた。そんな自分は今、この夜の都から去ろうとしている。

「金ならちゃんと払ってある。蒼色キンギョだって、今回の外出は許可してくれた」

 兄が口を開く。フクスは彼へと視線をやっていた。

「頭にきてミーオには酷いこともたくさん言った。後悔してるよ。でも、あんな目にあわされるような場所にお前は置いておけない。少しのあいだだ。少しのあいだだけ、家に戻るだけだ。そう、戻った方がいい……」

 兄の翠色の眼が影を帯びる。

 自分を虐めた少女たちの嘲笑が耳朶に轟いて、フクスは狐耳を伏せていた。そっと兄が立ちあがり、そんなフクスの前で腰を落とす。

「あの子たちはここにいない。もう、恐くないぞ」

 頭をなでられ、フクスは兄の顔を見つめていた。兄はフクスを抱き寄せ、耳元で囁く。

「大丈夫。ミーオも分ってくれた。お前はしばらく、あそこにいない方がいい」

 兄の声が震えている。泣きそうになっている彼の頬に手を充て、フクスは彼の額と自分のそれをくっつけていた。

「フクス……?」

「何だか、小さい頃に戻ったみたい」

 兄の顔を両手で抱き寄せ、フクスは微笑んでみせる。

 自分が幼い頃過ごしていた場所を、フクスは今でも思い出すことができる。

 古い寺院を改築したその館に、父は亜人であった母と自分を住まわせていた。屋敷の離れにあったその寺院に、兄が訪ねてきたのはいつだったろうか。

 瓔珞樹に腰かけ枝から垂れさがる赤い花を見つめていた自分に、兄は声をかけたのだ。

 ――君が、フクスなのと。

 自分と同じ翠色の眼を持つその少年を見て、フクスは心臓がとまるほど驚いた。 そして、この人が自分の兄だと気がついた。母が、腹違いの兄がいることをフクスによく語っていたから。

「父さんと母さんは私たちがこっそりあってるのを知ってて、黙っててくれたね」

「そんなこともあったな」

「それで私と兄さんは調子に乗って、金魚が売られてる夜市にまで行くようになった」

 そっと翠色の眼を瞑り、フクスは記憶を遡る。

 寺院から出ることすら許されなかった自分を、兄は夜の金魚市場へと連れ出してくれたのだ。

 初めて見る夜市と、様々な人々の行き交う街並みにフクスは心踊り、兄の手を引っ張って金魚たちが輝く屋台の側を駆け抜けた。

 いつの間にかフクスは兄の手を振りほどいて、独りで街を駆けていた。

 ちょっとした悪戯心だった。レーゲングスを困らせたくなって、フクスは彼のもとから離れたのだ。

 ――フクス! フクス!

 兄が叫んで追いかけるのも無視して、幼いフクスは夜の街を駆け抜けた。

 駆け抜けて、夜市の並ばない川の岸辺に辿り着いた。

 そこで、自分は泣いている少女を見つける。彼女の猫耳は月光のように蒼く、美しかった。ふっとフクスの中で、記憶の中の少女とミーオが重なる。ミーオの悲しげな瑠璃の眼を思い出してフクスは呟いていた。

「そう、私はそこでミーオに会ったんだ……」

 ミーオと出会ったときの既視感が、遠い記憶の中から掘り起こされる。

 フクスは、あの川原で幼いミーオに会っていた。彼女はフクスの眼の前で、川に身を投げたのだ。

 フクスの狐耳に切ない蒼色キンギョの歌声が聞こえてくる。フクスは大きく眼を見開き、その声に耳を傾けていた。

 ミーオが飾り窓で猫耳の少女たちと音楽を奏でている。

 孤独を歌う、少女の悲しみを。

 その歌声に引き寄せられるように、フクスはレーゲングスの顔を放し、船の縁へと歩みを進めていた。

「そう、あの暗い岸辺で私はあなたに会ったんだ……。私は、ミーオと会ったっ!」

 フクスは叫び、船の縁へと歩みを進める。

「フクスっ!」

 そんなフクスを兄が呼び止めた。後方へと振り返ると、レーゲングスが慌てて自分に駆け寄ってくる。彼に後方から抱きとめられ、フクスは歩みをとめた。

「俺を、また独りにするのか?」

 狐耳の側で兄が囁く。彼は強くフクスの体を抱き寄せ、フクスの髪に唇を落とした。

「兄さん……」

 びくりとフクスは体を震わせ、後方の兄を顧みる。兄は縋るように自分を見つめていた。兄の指がフクスの頬を滑って、唇へと辿り着く。何も言わず、フクスは唇に触れる兄の指を食んでいた。

 兄は安心したように微笑んで、フクスの唇をなぞる。

 兄がジャスミンの花で狐耳を飾るたび、フクスはこの唇を兄のそれと重ねた。二人は兄妹でもあり、恋人同士でもあった。

 瓔珞樹が生える寺院の中庭で、兄と二人何も話さず身を寄せ合った。

 たった、それだけの関係。

 それでもフクスにとって、大切な人は兄だけだった。兄は世界のすべてで、その兄といるときだけフクスは生きていると感じることができた。

 お互いに身を寄せ合って、二人は世界を共有していた。

 それはフクスが金魚鉢に売られる前の話。母の死は、二人の閉じた世界を終わらせる。

 そうしてフクスは悟る。この人を、もう愛してはいけないのだと。

「私はあなたを愛せない……」

 思いが言葉になる。

 兄を振り返ると、彼は大きく眼を見開いていた。悲しげに翠色の眼を歪め、兄は首を横に振る。

「兄さん……」

 そんな兄を諭すように、フクスは微笑んでみせる。レーゲングスは顔を俯かせ、フクスを静かに放した。

 兄へと背を向け、フクスは船から身を乗り出していた。隣の船へと跳び移り、乗客たちの喧騒の中を駆け抜け、岸辺へと跳ぶ。暗い岸辺に続く細い路地を曲がって、フクスは自分の売られた遊廓へと駆けていた。

 ミーオのもとに、戻るために。

 泣いていた幼い彼女の姿を思い出す。

 瑠璃の眼から流れる涙が月光に照らされ、彼女の相貌を彩っていた。幼い彼女は、そのまま暗い川へと身を投げたのだ。

 どうして、その子を助けようと思ったのかフクスには分からない。

 その子を追いかけフクスは無我夢中で川の中に跳びこんでいた。跳び込んで、溺れるミーオを両手で抱きしめていた。

 川は浅くて、身を投げるのに十分な深さがなかったのが幸いした。ミーオと自分はずぶ濡れになりながらも岸辺へと戻ることができたのだ。

 そこから先ことは良く覚えていない。

 泣きじゃくるミーオを抱きしめて、フクスはミーオと一緒に泣いていた。

 そこに兄と大人たちがやってきて、自分たちは引き離されたのだ。

 フクスの脳裏で、ミーオの言葉が蘇る。

 ――恐かったよね、フクス。もう、大丈夫だから……。今度はあなたを、私が守るから。

 それは、幼い頃の邂逅を意味した言葉だったのだ。

 それなのに、自分は。

「ごめんね、ミーオ」

 灯りをともした遊廓が、フクスの眼前に跳び込んでくる。裏門を潜り抜けて、フクスは遊廓の廊下をひた走っていた。

 廊下を走っていると、フナの少女たちが驚いた様子で自分を振り返ってくる。フクスはそんな少女を気にすることなく、表の飾り窓へと駆けていた。

 一刻も早くミーオに会いたかった。ミーオと会って話がしたかった。

「フクスっ?」

 ステンドグラスが美しい扉を潜ると、愛しい少女の声がする。荒い息を吐きだして前方へと顔を向けると、そこに会いたかった少女がいた。

 金魚のように赤い衣を身に纏ったミーオが眼の前に立っている。彼女は瑠璃色の眼を大きく見開き、フクスを凝視していた。

「どうして? あなたはレーゲングスと――」

「ミーオっ!」

 ミーオの言葉を遮り、フクスは彼女へと抱きつく。もう、この少女のもとから一時でも離れたくなかった。

「お願い。側にいさせて……。あなたが望んでいなくても、そうさせて欲しい……」

「フクス……」

 そっとミーオの胸元に顔を埋め、フクスは涙を流す。

 小さな頃のあの出来事が、どうしてミーオを救ったのかフクスには分からない。  彼女はそのことをずっと覚えてくれていて、自分を救ってくれたのだ。

 蒼色キンギョとして彼女はフクスを買ってくれた。それなのに自分は、そんな少女の存在すら忘れていたのだ。

「忘れてて、ごめんなさい。ずっと昔に私たち会ってたのに……。あなたは私を助けてくれたのに……」

「泣かないで、フクス……」

 フクスの狐耳を優しくミーオがなでてくれる。顔をあげると、彼女の瑠璃色の眼が眼の前にあった。

 唇に広がる柔らかな感触に、フクスはうっとりと眼を細める。夜風に翻るミーオの衣はまるで金魚の尾鰭のよう。

 蒼色キンギョは、何を思い川に飛び込んで、何を思い金魚鉢に囚われたのだろうか。

 ミーオの唇から自分のそれを離し、フクスは彼女をきつく抱きしめていた。

 彼女は自分と兄を救ってくれた。今度は自分が彼女を救う番だ。彼女に恩を返す番だ。

「フクス……」

 縋るように瑠璃色の眼が自分に向けられる。その眼から視線を逸らすことができず、フクスはミーオの唇を塞いでいた。

 愁いを帯びた瑠璃の眼は笑みを描き、静かに閉じられる。唇を離し、フクスはミーオの眼から流れた小さな雫を指で拭っていた。




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