宿敵~白銀麗人
溺れた兄を救った人物は、フクスたちの郭に兄を連れていった。
自分達を迎えたオーアは怪訝そうな顔を銀髪の人物に向け、彼の腕の中にいるレーゲングスを急いで部屋へと連れていった。
兄に命の別状はないという。
寝台に横たわる兄の横顔をフクスは眺めることしかできない。蒼白だった兄の顔には赤みが差し、安らかな寝息すらたてている。呑気に寝ている兄が何だか苛立たしくなって、フクスは顔を歪めていた。
どうしてこの人は、いつもできないことをやろうとして自分自身を傷つけるのか。それに、兄を助けたあの男はリッター家にとって、仇敵ともいえる存在だ。
「フクス……」
「兄さんっ」
兄に名前を呼ばれてフクスは彼の顔を覗き込んだ。そっと頬に手を充てると、兄は弱々しく微笑んでその手を握りしめてくれる。
「俺、お前を助けようとして……」
「そう、溺れたの。泳げないくせになにしてるのよっ」
「はは……。元気そうでよかった……」
兄の手がフクスの頬にのばされる。そっとフクスの頬をなで、レーゲングスは眼に笑みを浮かべた。
「久しぶりだな。こうやって会うの」
「うん」
「お前が水路に落ちてきて、本当にびっくりした」
「兄さんに会いたくて、落ちた訳じゃないから……」
落とされたときの記憶が脳裏をチラついて、ふいに涙が出そうになる。自分を嘲笑う少女たちの声が狐耳にこびりついて離れない。
「守れなくて、ごめんな……」
「ううん……。だって、ここに来たいって言ったのは私よ。なんで兄さんが謝るの?」
頬に添えられた兄の手を両手で包み込み。フクスは笑ってみせる。かすかにレーゲングスが眼を曇らせたのに気がつき、フクスは言葉を続けた。
「昔も、こうやってよく私のことを心配してくれたよね。母さんは、一度もこんな風に頬をなでてくれたことなんてなかったけど。それに、前にも似たようなことがあった」
そう、前にもこんなことがあった。夜市ではぐれた自分を兄が探して、川に跳び込んで泣いていた自分をみつけてくれた。
「私は、あの子を助けたかったんだ……」
ふと、川に身を投げようとした幼い少女のことを思い出す。彼女は瑠璃の眼から涙を流がし、自分の前で川き身を投げた。その子を助けたくて、フクスは川に飛び込んだのだ。
「お前、やっぱり分からないんだな……」
レーゲングスの言葉に、フクスは彼を見つめていた。彼は仕方ないとでも言いたげに苦笑を浮かべる。
「そりゃ、小さかったせいかもしれないけど……」
「なに、兄さん?」
兄が自分の狐耳をなでてくる。フクスはそんな兄の態度が気に食わず、顔を顰めていた。
そのときだ。狐耳に扉を叩く音が響き渡ったのは。
金魚の透かし彫りが施された扉へ眼をやると、オーアが扉を開けて部屋へと入ってきた。その後に続く男性の姿を認め、フクスは息を呑む。
後ろへ流した銀髪がやけに眼につく男だった。そんな男が、紺地に金の刺繍が映える礼服を纏っている。切れ長の蒼い眼を涼しげに細め、彼はこちらを見つめてきた。
「やぁ、久しぶりだね、リッター家のご兄妹。今は君が家長か、レーゲングス」
「えぇ、助けていただいてありがとうございます。アル兄さま」
顔を引き攣らせながらも、兄は男に微笑んでみせる。兄は体を起こし、そっと自分の手を握りしめてきた。
「兄さん?」
フクスはレーゲングスへと視線をやる。兄は鋭く眼を細め、男を見すえていた。そんな兄を見て、男は苦笑を浮かべてみせる。
「なにもそこまで警戒することはないだろ? 私は君の命の恩人なんだよ、レーゲングス。それに、小さいときはよく一緒に遊んだじゃないか」
「助けていただいたことは感謝しています。ただ、飛ぶ鳥を落とす勢いのベスティエ家の時期家長が、落ちぶれたリッター家の人間に何の御用ですか?」
兄の言葉に男は笑い声を漏らす。彼は口元を抑え言葉を続けた。
「すまない……。リッター家の家長たるものが、そこまで自身の家のことを侮辱するとは思わなくてね」
おかしげに彼は言葉をはっする。兄はそんな男を睨みつけながら、フクスの手を強く握りしめた。
兄が、自分を助けてくれたこの男を警戒するのには理由がある。
アルプトラウム・ベスティエ。それが彼の名前。
終戦とともに没落の道を歩んだリッター家と違い、彼は国連の臨時政府でも重要なポストに就く人間の一人だ。
そして戦時中、彼は統治国の軍に籍を置きながら、密かに敵国に情報を流すスパイとしても活躍していた。
総督府の元総督であるラタバイ・ベスティエの孫でありながら、彼はベスティエ家の人間すら裏切り、ベスティエ家の次期家長の座すら約束されている。
「そんなに邪険にしなくてもいいだろ? レーゲングス。小さいときは社交パーティーで私の姿を見るたびにアル兄さまと追いかけてくれたのに、どうしてこんなに嫌われてしまったことやら」
髪を翻し、彼は寝台へと近づいてくる。そっと寝台に両手を乗せ、彼は兄の顔を覗き込んできた。
「いやはや、噂の妹君も君に似てなかなかの美人だ。君が彼女を買い戻そうとしている理由も――」
「あんたと一緒にするなっ」
兄の怒声が彼の言葉を遮る。彼を睨みつけたまま兄はフクスの手をそっと放した。フクスに目配せをして、彼はオーアのもとにいくようフクスに促す。
兄に、フクスは困惑の表情を送ることしかできない。そんなフクスのもとへとオーアが歩み寄り、強引にフクスの手を引っ張った。彼女はフクスを背後へと匿い、アルプトラウムに呆れた声をかける。
「あー、申し訳ないけれど、それは家の商品じゃないんで手は出さないでもらえないか? アル」
彼女の眼が後方のフクスへと向けられる。赤い眼でフクスを睨みつけ、オーアはアルプトラウムへと視線を戻した。
フクスはそっとオーアの背中から部屋の様子を窺う。アルプトラウムが兄の顎に手をかけ耳元で何かを囁いている。さっと兄の頬が赤くなり、兄は彼を睨みつけていた。残念そうに肩を竦め、アルプトラウムはオーアへと向き直る。
「彼にその気はないと思うよ、姉さん。私は、あなたたちがここで開いている茶会に興味があるだけなのだけれど……」
「申し訳ないが、その茶会にあなたは呼べない。ラタバイ爺様の決めたことだから。ただ、男の金魚がご所望とあれば、その手の遊廓を紹介しよう」
「私はおじいさまの血を引く孫なんだけどね。まぁ、彼を抱きしめられたからよしとするか」
レーゲングスに視線をやり、彼は意味深な笑みを浮かべてみせる。兄は不機嫌そうに眉を寄せ、彼から顔を逸らした。
「相当嫌われてるな、アル」
「彼を落とすことが、一部の金持ちの間ではゲームのようになっていたからね。私も悪ふざけで混じったのが悪かった。そのお嬢さんがここに売られたお陰で、そのゲームもなくなってしまったけれど……」
彼の蒼い眼がフクスへと向けられる。その眼差しからフクスは眼が離せなかった。人を嘲笑うかのようなその眼差しが、とても恐ろしく思えたから。
「兄から、離れてください」
オーアの背後から進み出て、フクスは口を開く。オーアが自分の肩に手を置き引き戻そうとするが、そんなことを気にしている暇はない。
兄を一刻も早く彼から引き離したい。そんな思いがフクスの中にはあった。
「兄さんは売り物じゃない。相手なら私がします。私はそのためにここにいますから」
「あぁ、なんて健気な女の子だ……。どこかの誰かさんみたいだね」
蒼い彼の眼が寂しげに細められる。彼の眼差しはオーアへと向けられていた。オーアはそんな彼を赤い眼で睨みつけてみせる。アルプトラウムは悲しげに微笑んで、寝台から離れる。
彼はフクスのもとへと赴いた。そっと腰を折り、彼はフクスの狐耳をなでる。ぎょっと眼を見開くフクスに微笑んで、彼は口を開いてみせる。
「君はとてもお兄さん思いのいい子なんだね……」
彼の眼は優しい眼差しをフクスに送っていた。柔らかな笑みを描く眼はどこか寂しそうで、フクスはその眼をじっと見つめることしかできない。
「そんなに驚かなくてもいいだろ? お兄さんと同じ翠色の眼がとても綺麗だね。その狐耳も愛らしい」
彼が笑みを深め、狐耳の付け根を指先で掻いてみせる。なんだかくすぐったくて、フクスは小さい笑みを顔に描いていた。
「失礼するが、彼女はまだ水揚げ前だ」
「残念。では、彼女の初めてを私が買うとするよ」
オーアに手を引かれ、フクスは彼女の背後へと隠されてしまう。
フクスと引き離されたアウプトラウムは苦笑を顔に滲ませ、懐から長財布を取り出した。その財布から、彼は歪な形をした銀貨を取り出してみせる。
「我が祖国と共に敗戦を迎えた極東の国で作られたものだそうだ。ここの金魚鉢と同じジパング産の銀貨。彼女の初めてを買うのにぴったりな贈り物だと思ってね。本当はジャスミンの花を彼に贈りたかったけど、生憎と持ち合わせがなくて。代わりに、この銀貨を置いていくことにするよ」
アルプトラウムの眼が兄へと向けられる。レーゲングスは大きく眼を見開いて、彼の持つ銀貨を凝視していた。そんな兄に苦笑を送り、アルプトラウムはオーアへと向き直る。
「お買い上げありがとうございます。ただ、彼女を買ったのは私ではありませんので」
「蒼色キンギョか。私は、あの方の瑠璃色の眼がどうも好きになれないんだ。猫は昔から気位が高くて苦手なんだよ、姉さん」
困った様子で彼はオーアに微笑んでみせる。彼はその銀貨をオーアに手渡した。
「蒼色キンギョに伝えておいてくれ。君の赤狐を買いたいと」
「畏まりました。お客様」
「俺の事、やっぱり嫌いなんだね、姉さん」
銀貨を受け取り、オーアはつれない口調で彼に言葉を返す。そんな彼女にアルプトラウムは悲しげな眼差しを向けてみせた。そんな彼から、オーアは気まずそうに彼から顔を逸らす。
「私はどこに行っても嫌われ者だな……。まるで君みたいだ、フクス」
蒼い双眸を細め、彼はフクスに微笑みかける。寂しげな彼の眼差しから、フクスは視線を逸らすことができなかった。
どこか孤独を匂わせる彼の眼が脳裏に焼きついて離れない。
あの人は、どんな孤独を抱えているのだろうか。そう考えると胸が痛くなって、フクスは扉へと去っていく彼の姿をいつまでも見つめていた。
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