嫉妬~嘲笑遊戯

 廊下に少女たちの愉しげな笑い声が響き渡る。客をとる大部屋から出てきた亜人の少女たちの髪には、新緑を想わせるセラドン陶器の簪が飾られていた。

 彼女たちの黄色い声に、フクスは面をあげる。嬉しそうに獣耳を動かす先輩たちの姿が何だか眩しい。

「雑巾がけ、早く終わらせないとな……」

 はぁっとため息をついて、襤褸を纏ったフクスは吐瀉物で汚れた床を見つめる。先輩のフナたちが仕事をあげると、ご丁寧にも器に入れた吐瀉物をぶちまけていってくれたのだ。

「これって、虐めよね?」

 ため息をつきながらフクスは己の置かれた状況に思いを馳せる。

 フナとは、下位にあたる遊女たちの総称だ。金魚鉢に売られ、個室を持てるキンギョになれるのはほんの一握りの遊女だけ。あとは一階の大部屋で客をとるフナとして仕事に励むものが多いい。

 特に入ったばかりの新人は見習いフナと称され、客をとるまでキンギョたちの身の回りの世話や雑用を任される。 

 フクスもそんな見習いフナの一人だが、少しばかり他のフナとは扱いが違う。

 フクスはこの金魚鉢でも名を知らぬ者はいない、蒼色キンギョの見習いフナだ。蒼色キンギョの身の回りの世話をするこの仕事を、妬む先輩たちは多いい。

 ミーオの自室である屋根裏で寝起きしているフクスだが、今日はミーオが泊りがけで客の相手をしており、フクスは見習いフナたちの寝所で寝ていた。

 起きてみたらミーオから貰った煌びやかなタイドレスはどこかに消え、代わりに纏っている襤褸が置いてあったのだ。

 そしてフクスを待っていたのは、満面の笑みを浮かべる先輩のフナたちだった。

 それから先のことはあまり覚えていない。なにせ、先輩たちから多くの雑用を押しつけられて、何があったか覚えている暇もなかったからだ。

 ――これが新人の本来の姿だ!

 ――名家で甘やかされて、育てられたあなたを躾直してあげる!

 ――蒼色キンギョ様に取り入るなんて生意気よ!

 彼女たちの台詞を思い出しながら、フクスは眉間に皺を寄せる。横に置いた桶に雑巾をつけると、透明だった水が瞬く間に濁っていった。

 まるで美しい金魚鉢の裏の顔をみているようだ。艶やかなタイドレスで着飾った少女たちの内面ときたら、この濁った水よりどす黒いものなのかもしれない。

 自分が名家の出であることもそうだが、彼女たちはフクスが蒼色キンギョのお気に入りであることことが許せないらしい。

 ミーオの人気は遊女たちの間でも不動のものらしく、彼女に抱かれたいと本気で思っているフナもいるぐらいなのだ。

 嫉妬の種はそれだけではない。

「今日もあのお方は蒼色キンギョと床を共にされたのでしょう?」

「えぇ、それにしてもこのセラドン陶器。あの方の眼に似てとても綺麗だわ。どこかの誰かとは大違い」

 先輩のフナたちが、嘲笑を口の端に浮かべフクスの前を通り過ぎていく。彼女たちは見せつけるように髪に差した翠色の簪をなでてみせた。

 あの簪はきっと、レーゲングスが彼女たちの手土産に持ってきたものだ。自分を売った金で兄はセラドン陶器を扱う会社を立ち上げ、その品を売り込みに金魚鉢へとやってくる。

 表向き、蒼色キンギョは兄が扱うセラドン陶器の愛好者ということになってるらしい。それを口実に兄はミーオと二人っきりで夜を明かす。兄が帰った後のミーオときたら、兄の話ばかりをするのだ。

 曰く。フクスに似てなくて彼は気が利かない。存在自体が何だか嫌だ。人を小ばかにしていつも笑っている。

 そう兄を罵るミーオはどこか楽しげで、フクスは夢中になって彼女の愚痴を聞いてしまう。兄に会いたいという気持ちが、そうさせるのかもしれない。

 フクスは狐耳へと指を伸ばしていた。

 幼い頃、兄はこの耳をよく花で飾ってくれたものだ。ここに売られてからもそれは変わらず、兄はミーオに花を託して遊郭を去っていく。

 フナたちの間で、それは蒼色キンギョに兄が捧げた愛の証だとされているが。

「兄さん……」

 船上に取り残され、唖然と自分を見つめていた兄の姿を思い出す。ミーオに伴われ遊廓に連れてこられた自分を、兄は暗い眼差しで見つめていた。

 兄はまた、あの眼差しを自分に向けてくるのだろうか。

「ちょっと、なにさぼってるのよっ?」

 威圧的な声が聞こえて、フクスは我に返る。顔をあげると、兎耳を生やした亜人の少女がフクスを睨みつけていた。その少女が纏っていたタイドレスを見つめ、フクスは息を呑む。空を想わせる鮮やかな蒼い衣は、ミーオがフクスに贈ってくれたものだ。そして、姿を消した自分の着替えでもある。

「あの……それ……」

「あぁ、これ。みすぼらしいあなたより、私の方がよっぽと似合うでしょ? だから着てあげたの。蒼色キンギョの衣装を着られるなんて、私はなんて幸福なのかしら……」

 胸に手を充て、少女はうっとりとした眼差しを自分に向けてくる。しゃらんと彼女の髪を飾るセラドン陶器が可憐な音をたてた。

「それにしても似ていない兄妹。本当にあなたはリッター家のご令嬢なのかしら?」

 襤褸を着たフクスをまじまじと見つめ、少女は嘲笑を口の端に浮かべる。いつのまにかフクスの周囲には他のフナの少女たちも集い、フクスに侮蔑の眼差しを向けていた。

「仕事の邪魔なので、あちらにいってもらえませんか?」

 そう彼女たちに言い放ち、フクスは床へと視線を戻す。

 相手にしては駄目だ。騒ぎを起こせばミーオに迷惑がかかる。もっとも、それが彼女たちの狙いなのだろうけれど。

「ちょっと、話聞いてるの?」

 兎耳の少女がフクスに険のある言葉を放つ。フクスはその言葉を無視して、雑巾で床を拭く。そんなフクスの両脇を掴む者がいた。

「えっ?」

 驚きに顔をあげると、色のない表情をした先輩たちがフクスの両腕を拘束しているではないか。彼女たちは無理やりフクスを立ちあがらせ、その体を引っ張っていく。

「ちょ、何するんですか?」

「煩いっ!」

 兎耳の少女がフクスの頬を叩く。彼女は蒼い眼を歪め、フクスに笑ってみせた。

「蒼色キンギョに気に入られてるからって、調子に乗るんじゃないわよ。あなたに少しお仕置きをしてあげるだけ」

「ちょ、放してっ! 痛いっ!」

 彼女の言葉を合図に、フクスを拘束した少女たちは再び歩き出す。

 無理やり両腕を引っ張られ、フクスは抵抗する。その度に周囲にいる少女たちがフクスに乱暴を働いた。足を踏みつけられ、ときには頬を叩かれる。

 他の亜人の少女たちは唖然とそんなフクスたちを見つめるばかりだ。

 フクスを拘束した少女たちは唐草模様の施された折り戸を開け、その先に広がる露台へとフクスを連れ出した。低い欄干が張り巡らされた露台の下には、船の行き交う水路が見える。

「少しは頭を冷やしなさい。新人さん」

 兎耳少女の冷たい言葉が狐耳を叩く。彼女を振り返ろうとした瞬間、フクスの体は欄干を跳び越え宙へと躍り出ていた。








「今日もフラれた……」

 船上のレーゲングスは愚痴を零す。男の軽快な笑い声が耳朶に響き渡って、レーゲングスは顔を顰めていた。

「たくっ、あなたはお子さんにどんな教育を施されたんですか?」

 前方を睨みつけ、レーゲングスは船を漕ぐ船頭に声をかける。彼は笑い声をあげながら、瑠璃の眼をレーゲングスに向ける。

「アレの気が強いのは母ちゃん譲りだよ。俺のせいじゃない。似てると言ったらこの眼の色ぐらいだ」

 船頭は瑠璃色の眼を指さし、にぃっと笑ってみせる。

 この船頭が、かの有名な蒼色キンギョの父親だと誰が思うだろうか。それが分かったのは、金魚鉢に初めて来たときだ。

 ――こら! 可愛い狐ちゃんに悪さすんじゃないぞ。蒼色キンギョ様っ!

 その台詞と同じ眼の色からぴんときた。彼は、蒼色キンギョの父親だと。

 何より人を小ばかにしたような物言いが嫌なほど似ている。人を嘲るように見つめる瑠璃の眼も。

 あなたは蒼色キンギョの親ですかと尋ねると、船頭はぎょっと眼を見開いたのの、そうだと満面の笑みで答えてくれた。それからというもの、彼は自分が金魚鉢に赴くたびに船頭役を買って出てくれる。

「たっく、俺もどうにかしてるよな。売りっ飛ばした娘恋しさにこんな仕事やってるとは……」

「それなら俺も同族でしょうね」

 彼の言葉にレーゲングスは苦笑していた。金欲しさに妹を売り飛ばしておいて、その妹に未練があって自分は金魚鉢に通い詰めている。

 ミーオはきっと彼から花を貰いたいに違いない。自分の娘に未練がありながら彼がミーオに会いにいこうとしない理由が、フクスを売った自分には分かる。

 フクスは傾いたリッター家を救うために自らの身を差し出した。そのお陰で自分は金魚鉢に来られる身分でいられるのだ。

 妹には会いたいが、それを躊躇う思いが自分の中にはある。それでもレーゲングスはここにくることをやめることができない。蒼色キンギョのお得意様という言い訳をしながら、ミーオを通じて自分はフクスと繋がっていたいのだ。

「で、本命には会えたのかい?」

「足を舐めるのが上手くなったと言われました」

 船頭の言葉にレーゲングスはそっけなく返す。船頭はがっかりしたようすで肩を落とし、前方へと顔を向けた。

「そんなんだからいつまでたっても、童貞なんじゃないのか?」

「童貞は関係ないでしょっ?」

「でも、妹さんには会えずじまいなんだろ?」

「会いたいって思う方が我儘なのかもしれませんね……」

 船頭の言葉にレーゲングスは苦笑を浮かべていた。

 フクスを売って始めた事業は驚くほど上手くいっている。それもこれもすべてはフクスを買った蒼色キンギョのお陰だ。

 彼女は自社の品をそれとなく他の遊女や客に薦めてくれている。それが思いのほか好評で、海外でもレーゲングスの取り扱う品物を売りたいというバイヤーが現れるほどだ。このまま立ち上げた会社が軌道に乗れば、フクスも買い戻せる。

「妹さんを蒼色キンギョには任せられないのかい?」

 船頭に声をかけられレーゲングスは我に返る。不安げな瑠璃の眼が自分に向けられていた。

「任せたくないから、ここにいるんですけど」

 レーゲングスは自分を見つめていたミーオの眼を思い出していた。

 ――ここにいるのが私じゃなくてフクスでも、あなたは同じことを言った?

 澄んだ瑠璃の眼で自分を見つめながら、彼女は自分にそう問いかけてきた。

 まったくもって自分はこの瑠璃色の眼が苦手だ。見つめられると、何もかも見透かされているような気がして落ち着かない。

 空を仰ぐ。硝子のアーケードの中で金魚たちが星空を背に泳いでいる。

 金色の光を放つ金魚の中で、白銀に輝く銀魚がいた。銀色の軌道を描くその様は、まるで空に咲いた花火を眺めているようだ。

 遠い昔の記憶がレーゲングスの脳裏を過る。

 色とりどりに夜空を彩る花火と、その花火に照らされる夜市の金魚たち。自分はそんな金魚たちの脇を走りながら妹を探していた。

 愛しい、最愛の少女を。

 ばしゃんと大きな水音が回想を打ち消す。人々のざわめきが耳朶に轟いて、レーゲングスは水音のした方向へと顔を向けていた。

 水路に落ちて、溺れている少女がいる。かすかに水面から覗く赤い狐耳を見てレーゲングスは息を呑んでいた。

「フクスっ?」

 船の縁に両手をつき、レーゲングスは少女に向かって叫ぶ。自分と同じ翠色の眼がこちらを向いた途端、レーゲングスは立ちあがっていた。

「おい、兄ちゃん!」

 船頭の制止も聞かず、レーゲングスは水の中へと跳びこんでいた。



「フクスっ?」

 水路に落ちたと分かった瞬間、兄に名を呼ばれた。両手で水を必死に掻きながら、フクスは声のした方へと顔を向ける。横向きの船が視界に映り込み、その船の横で小さな水柱があがった。

 兄が水の中に跳び込んだ。そう分かった瞬間、眼を見開いていた。

「兄さんっ!」

 自分の体を安定させ、フクスは叫んでいた。

 このままでは何が溺れてしまう。彼は金槌なのだから。そう思ったときにはもう遅く、兄は派手な水しぶきをあげながら両手をばたつかせていた。フクスはそんな兄のもとへと赴こうとする。

 だが、水を吸った衣服が重く、思うように体を動かすことができない。

 その時だ。大きな水音が狐耳に轟いたのは。それと同時に兄の側へと泳いでくる人物がいる。水面を走る銀髪がやけに眼につく人物だった。彼は動くことをやめた兄の体を片腕で抱き、船へと泳いでいく。

 兄を両手に抱き、その人物は唖然とした船頭が立つ船へと降りたった。濡れた銀髪が重たそうに背中を滑って、白銀の輝きを放つ。

 自分たちと同じ独逸系の顔立ち。そこに穿たれた蒼い双眸を細め、彼は笑ってみせる。

 その視線は、腕の中に抱かれた兄へと向けられていた。

 


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