男女~蒼猫遊戯

 フクスを買ったのは狐耳の女主人でなく、蒼色キンギョだった。

 廓の主人であるオーアからそれを聞かされたときの感情を、なんと言い表していいのかレーゲングスは分からない。

 そして、寝台で彼女と床を共にしている今の状況を文字に書き起こすことも、語彙力のない自分には無理だろうとレーゲングスは思った。

 ただ一つ分かるのは、彼女と蜜事に励むために自分はここにいるのではなく、彼女に頭を踏まれるためにここにいるということだ。

 さらに分かりやすく言うと、自分は彼女の座る寝台の前で床に這いつくばり、彼女に向かい土下座をする形をとっている。

 そうしろと眼の前の蒼色キンギョに言われたからだ。

 土下座をした自分の頭には蒼い産毛で覆われた彼女の片足が乗り、鋭い足爪が頭の皮膚に食い込んでくる。

 鈍い痛みを感じながらも、レーゲングスは押さえつけられた頭をあげる。床を眺めていた視界に映るのは金魚を想わせる鮮烈な赤だった。

 朱色。辰砂。紅。茜。

 異なる色合いの垂れ幕が部屋の天井を飾り、自身の前方に置かれた寝台は金魚の刺繍を施された寝具で飾られている。

 その赤い部屋の中に蒼猫の少女がいた。

 寝台にゆったりと腰かけ、細い裸体を産毛で覆った彼女は、冷たい瑠璃の眼でレーゲングスを見つめている。レーゲングスが眼を歪めると、彼女の蒼い猫耳が不機嫌そうに蠢いた。

「フクスを売った人間が、フクスを返して欲しい? 何言ってるのあなた」

 冷たい言葉が桜色の唇から紡がれる。彼女はレーゲングスの頭から足を離し、それをレーゲングスの眼前へと移動させた。

 ミーオが鋭く眼を細める。それを合図に、レーゲングスはミーオの足を両手で包み込み、その爪先に舌を這わせていた。

「ふふ、前より舌遣いが上手くなってるんじゃないの? 女を誘うのも上達してる」

 ミーオの足が手の中を離れ、レーゲングスの頤へと向けられる。頤を持ち上げあれ、レーゲングスは苦しみに呻いていた。

「まぁ、フクスと同じその翠色の眼は好きだけどね。けど、あなたのことは嫌いかな? 捨てたものによくもまぁ、執着できるものよね」

 醒めた言葉を唇から紡ぎ、ミーオはレーゲングスの頬を足で叩く。頬に軽い痛みを覚え、レーゲングスはフクスを睨みつけていた。

「あら、私がいなくちゃフクスもろとも破滅してたくせして。威勢だけはいいのね。リッター家の家長さん」

 彼女の言葉にレーゲングスは唇を噛みしめていた。

 敗戦で傾いた名家の家長。それが今の自分であり、彼女に嘲笑される理由でもある。金魚鉢に来るたびに、レーゲングスは人々が唇を嫌らしく歪めるのを見つめてきた。

 それは自分を嘲笑するための仕草。眼の前の蒼色キンギョのように、自分を嗤う人間は絶えない。

 そして、その傾いた名家を救ってくれたのも自身を嘲笑する彼女なのだ。

「君には感謝してるよ……。気に食わないけどね……」

 叩かれた頬に手を充て、レーゲングスは立ちあがってみせる。ミーオはぴくりと柳眉を動かし、レーゲングスを睨みつけてきた。

「フクスを売った金で立ち上げた事業も上手くいってる。すべて蒼色キンギョである君の栄光の賜物だよ」

「だから言ってるでしょ? 私を抱いたらフクスに会わせてあげるって……」

「生憎と君は好みじゃない」

 レーゲングスは呆れた眼差しをミーオに送っていた。今や金魚鉢一番の売れっ子と持て囃される蒼色キンギョだが、彼女を抱く気にはならない。

 どうしてみんな、こんな華奢な少女に興味が湧くのだろうか。不思議に思ってレーゲングスは首を傾げていた。

「それにしても小さいな……。なんでみんなこの体に欲情するのか、俺にはまるっきり分からない」

 顎に手を添え、レーゲングスはミーオの胸を見つめる。形のよい小ぶりな胸はたしかに魅力的だが、それを揉みたいという欲求には駆られない。

 レーゲングスはこの少女を美しいと思ってはいるが、抱きたいとは露ほどにも思わないのだ。

 思案するレーゲングスの顔面に、金魚の形をした枕が投げつけられる。枕が顔からずり落ちると、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけるミーオと眼が合った。

「なんて失礼な奴なのっ? これがフクスの兄だなんて信じられないっ」

「生憎と血は繋がってる」

 はぁっとミーオは息を吐いて、寝台へと腰かける。ふわりと彼女の重みで寝具がゆれ、ミーオの青い髪をゆらした。

「別に抱かなくったって会わせてあげるわよ。あの子だって、あなたに会いたがってるし……」

「フクスは元気なんだな」

「まだフナだけどね。掃除が苦手な私の代わりに、部屋を奇麗にしてくれる」

「あの、物置部屋みたいな屋根裏のことか」

「物置部屋で悪かったわね……」

 むっとミーオが頬を膨らませてレーゲングスを睨みつける。蒼色キンギョは怒ってばかりだとレーゲングスは苦笑を顔に滲ませていた。

「なにがおかしいのよ?」

 彼女の柳眉が不機嫌そうに寄せられる。レーゲングスはことさらおかしくなって、笑い声をあげていた。フクスも自分が笑うとこうやって機嫌を損ねたものだ。

「ごめん……その……君が子供らしくてつい……」

「子供で悪かったわねっ!」

 瑠璃色の眼を怒らせ、ミーオが叫ぶ。笑い声を堪えながらレーゲングスは彼女に近づいていた。そっと彼女の蒼い猫耳にふれ、それをなでる。柔らかな毛の感触が思いのほか気持ちよくて、レーゲングスは顔を綻ばせていた。

 まるでフクスの狐耳みたいだ。

「なによ……」

「いや、蒼色キンギョも年頃の女の子なんだな」

 翠色の眼を細め、ミーオに微笑みかける。彼女は頬を真っ赤に染めレーゲングスを見あげてきた。

「どうしたんだ? そんなに顔を赤くして、大丈夫か?」

 熱でもあったら大変だ。心配になってレーゲングスは彼女の額に手を充てていた。ミーオはその手を払いのけレーゲングスから顔を逸らす。

「なにも、ないわよ……」

 掠れる声が彼女の唇から漏れる。俯く彼女はどこか頼りなさげだ。

 レーゲングスはしゃがみ込み、そっと彼女の顔を覗き込んでいた。猫耳にふれると、彼女は弾かれたように顔をあげ、自分を凝視してくる。その猫耳にいつものように花を飾りつけてみせる。

「また、頼めるかな?」

「自分で渡しなさいよ……」

 視線を逸らし、ミーオは蒼い耳に飾られたジャスミンの花に手を添えた。彼女に託しているフクスへの手土産だ。ここに来るたびに、レーゲングスはフクスに贈る花をミーオに託していくのが、習慣になっていた。

「私にはくれないくせに……」

 そっとジャスミンの花にふれ、ミーオは小さく呟く。

 つまらなそうに彼女は床を見つめ、足をゆらしはじめた。フクスへの花を託すたびに彼女はこんな態度をとる。

「君も花が欲しいの?」

 こくりと首を傾げレーゲングスはミーオに問う。かっとミーオの頬が桜色に染まった。顔をあげ彼女はレーゲングスを凝視するばかりだ。

「あの、どうしたんだ? ミーオ」

「変な、人」

「はっ?」

「嫌じゃないの? 私のこと……」

  俯き、ミーオは小さく問う。小さな彼女の体が頼りなさげに見えるのは気のせいだろうか。

「私はあなたからフクスを盗ったのよ……。あなたの大切な人を私はお金で買った。それにあなたにだって嫌がらせばっかりしてる」

「やっぱり、嫌がらせで足を舐めさせてるんだな」

 ミーオの言葉にレーゲングスは笑顔で答えてみせる。ぎょっとミーオは眼を見開いて、叫んでいた。

「ちょ、分かってて私の嫌がらせ受けてるのっ? 何考えてるの?」

「君は、フクスに恩を返したいんだろ? だって、君はあのときの子だから。だから、君はフクスのことがとても大切だし、フクスを守れなくなることを誰よりも恐れてるんだろ? フクスに救われたから」

 翠色の眼を伏せ、レーゲングスはミーオを見すえた。彼女を見るたびに、レーゲングスは幼いフクスと巡った夜市を思い出す。

 川原で妹と抱き合い泣いていた蒼い猫耳の少女。それが金魚鉢で持て囃される蒼色キンギョだと周囲の者から聞かされたのはだいぶ後になってからだ。

 飾り窓で踊っていた彼女は、あの頃の面影を残していた。

 あんな風に泣いていた少女を忘れられる訳がない。美しく成長した彼女は、自分の前ですらときおり泣きそうな顔をする。

「やっぱり、あなたはちゃんと覚えてるのね。私のこと……」

「フクスと違って、大きかったからな。さすがにあれは覚えてるよ」

「じゃあなんでフクスを取り戻そうとするの? あのときの私を見てるなら、金魚鉢の外が私たち女の亜人にとってどんな地獄か、あなたには分るはずでしょっ?」

「それが出来なくなるから、俺はここにいる」

 鋭い言葉が口からでる。その言葉にレーゲングス自体が驚いていた。ミーオも驚いた様子で自分を見つめるばかりだ。

「金魚鉢は私が守ってみせる。ここは、私たちの居場所よ。あなたの手なんか借りない」

 瑠璃の眼に凛とした光を湛え、ミーオは言葉を紡ぐ。すっと形のよい眼を細め、彼女はレーゲングスを睨みつけてみせた。

 古い歴史を持つ金魚鉢は、廓の主たちにより自治が敷かれている。植民地時代から宗主国より自治権を与えられていた金魚鉢は、亜人たちに最低限の生活と安全を保障する場所として存在してきた。

 亜人に人権はない。売られたら最後、家畜以下の生活を強いられることすらある。ミーオがフクスを買ったのも、彼女をそんな悲惨な状況から救い出すためだ。

 金魚鉢には古くから郭の主たちにより自治が敷かれてきた。その自治が臨時政府の手に渡るとまことしやかに噂されているのだ。

 それは、金魚鉢で最低限の暮らしを保証されていた亜人の少女たちが、その保証を奪われることを意味している。

 だからこそレーゲングスはフクスを取り戻すべく動き出した。何かあってからでは、フクスを守ることはできない。

 それだけではない。古くから蒼猫島と統治してきたリッター家の家長として、自分は亜人たちの自由の檻を守る義務がある。

 そのために、フクスを売った金でやれるだけのこともしている。金魚鉢がなくなっても亜人が最低限の生活を保障される場所をレーゲングスは作ろうとしているのだ。

「俺のことは、信じられない?」

「私たちと同じくせして、私たちの方にはいないじゃない」

 翠色の眼でミーオを見すえ、レーゲングスは問う。ミーオは瑠璃の眼で自分を睨みつけるばかりだ。

 ミーオの言葉にレーゲングスは苦笑していた。彼女は、自分が己を偽っていることが気に食わないのだろう。自分は人の形をしている、人ではない存在だ。だからこそ自分はリッター家の家長として立ち回ることができる。

 どうすれば、蒼色キンギョは自分に心を開いてくれるのだろうか。思案しながら、レーゲングスは彼女の青い髪に簪をつけてみせる。

 それはブーゲンビリアの花を象ったセラドン陶器の簪だった。ミーオは怪訝そうな表情をして、髪に飾られたそれにふれる。

「君への誠意の証だよ。我が社で作った新製品だ」

「また、あなたの会社で作った新商品を、私がみんなに薦めるわけね」

 レーゲングスの言葉に、ミーオは不機嫌そうに眼を歪めた。ミーオの言葉にレーゲングスは寂しげに眼を細める。妹を売った金で自分はセラドン陶器の会社を立ち上げた。ミーオにはその商品を他の遊女や客たちに広めてもらっているのだ。

「それは君の髪に飾ったらどんなに綺麗か考えながら作ったんだ」

 レーゲングスの言葉に、ミーオは固まる。瑠璃の眼を大きく見開いて彼女はそっと簪をなでた。

 昔から、何かとレーゲングスは小物を作るのが好きだった。愛らしい妹にビーズで首飾りを作ったり、ジャスミンの花を乾燥させて瓶詰にしたものを誕生日に贈ったりもした。

 そのときに見せてくれる彼女の愛らしい笑顔が、何よりも楽しみだったのだ。

 ミーオに関しても同じだ。何かと文句を言いながらも、彼女は勧めて欲しい商品に関して提案をよくしてくれる。

 セラドン陶器を見るときの彼女の眼はとても嬉しそうで、彼女のことを考えていると良いアイディアがどんどん浮かんでくるのだ。

「簪だけじゃない。この前の帯留めも、腕輪も、不細工だって壊された猫の置物もみんな君を想って作った。君はどんな陶器だったら喜んでくれるのか。どんな造詣だったら君に似合うのか、ずっと考えて――」

「もういい……」 

 ぎゅっと髪に飾られた簪を握りしめ、ミーオがレーゲングスの言葉を遮る。彼女は潤んだ眼をレーゲングスから逸らし、俯く。

「なんで、私の事なんか考えてるの?」

「なんでだろう? 君が喜んでくれる姿を考えると、創作意欲が湧くんだ。君が喜んでくれたものは凄く売れるし、君のセンスには脱帽するよ」

「分からないのに、私の嬉しい顔がみたいの?」

 青い髪に飾られた簪から手を離し、ミーオはレーゲングスに言葉を放つ。

「普通はそういう女を抱きたいって、男は思うものなんじゃないの?」

「君を抱く……。嫌だな、それ……」

 ミーオの質問にレーゲングスは顔を顰めていた。嫌がらせで足舐めを強要してくるような少女を抱く嗜好を、自分は持ち合わせていない。

「それに俺は、自分の欲望を満たすためだけに、好きでもない女の子は抱きたくないんだ」

 立ちあがり、レーゲングスはミーオから顔を逸らしていた。この言葉が彼女を否定してしまう言葉であることは分かっている。

 それでも、眼の前の少女を傷つける行為には嫌悪感しかわかない。少女を性の玩具にするその発想自体が、レーゲングスには異様に思えてならないのだ。

「なにそれ……。私は商品としての価値もない亜人の女ってこと?」

「違う……。俺は、君を傷つけたくないだけで……」

 ミーオが自分を睨みつけてくる。自分の価値観を眼の前の少女に理解しろと言っても無理な話だ。彼女は、性を武器に勝利を勝ち取ってきた女なのだから。

「分かってるわよ。あなたの言いたいことぐらい。だから私はあなたが嫌い……。私に縋らなきゃフクスも守れなかったくせに、その私を否定するあなたが嫌い」

「そうだよ。俺は、君に助けられたのに君の置かれてる立場すら理解できない無力で馬鹿な存在だ。でも俺は、君を抱くためにここにいるんじゃない。フクスのためにここにいるんだ。君だってそうだろう?」

 レーゲングスの言葉に、ミーオは眼を伏せる。優しく簪をなでながら、彼女は言葉を続けた。

「そうよ。フクスのために嫌いなあなたに会ってるし、我慢してあなたの会社の商品だって広めてる。話し合いにだって出てる。全部、金魚鉢とフクスのため……」

 伏せられた瑠璃の眼が悲しげに光を放っているのは気のせいだろうか。彼女は簪から手を離し、レーゲングスを見つめる。

「ねぇ、あなたが『こちら側』に来るときには、私を相手に選ぶわよね? だって、私たちはフクスのために一緒にいるんですもの。ううん、大切なフクスのお兄さんですもの。私が相手をすべきだわ……」

 まるで自分自身に言い聞かせるように、ミーオは言葉を紡いでいく。彼女の顔が寂しげなのは気のせいだろうか。

 ふっと長い睫毛がミーオの瑠璃の眼に影をつくる。湖面のごとく暗い光を湛えるその眼を見て、レーゲングスは彼女を抱きしめていた。

「ちょ……なにっ?」

「君は、嫌いな男に抱かれたいのか?」

 猫耳に囁きかけ、レーゲングスはミーオの猫耳に唇を寄せる。びくりとミーオは体を震わせ、怯えた眼差しを自分に向けてきた。

「ほら、やがってる。俺に君は抱けないよ。嫌がってる子を俺は傷つけられない」

 そっとミーオの耳から顔を離し、レーゲングスは苦笑してみせる。ミーオは気まずそうに顔を逸らして、言葉を続けた。

「ここにいるのがフクスでも、あなたは同じことを言った?」

 小さなミーオの言葉にレーゲングスは眼を見開く。ふっと眼を伏せて、レーゲングスは自嘲していた。そんなレーゲングスに瑠璃の眼が向けられる。

 自分の心の奥深くを覗き込むようなその深い青を見て、レーゲングスは嗤いを深めていた。自分はこの瑠璃の眼が嫌いだ。自分自身すら覗きたくない心の深淵を彼女の眼は映し出すから。

「ジャスミンの花をあの子の柔らかい狐耳に差して、俺はあの子にこう言っていたよ。フクスは俺のお嫁さんになるんだって……。でも、そんな俺の大切なものを君は奪った。そうすることでしか、俺はフクスを守れなかった……」

「あなたも、私のことが嫌いなんじゃない」

 ミーオの眼が嘲笑に歪む。あぁ、この少女は本当に美しいとレーゲングスは思う。美しくて、歪で、どこまでも自分に似ている。

「だから、俺は君からフクスを取り戻すんだ。そのために俺はあの場所を作った。フクスのためにあの場所を」

「あの場所?」

「童貞、お茶の時間だぞ」

 弾んだ女性の声が、ミーオの言葉を遮る。レーゲングスが部屋の扉に顔をやると、扉の前にオーアがいた。金魚のステンドグラスが施された扉の前で、金色の狐は妖しく笑ってみせる。

「相変わらず仲がいいな、お前ら」

「童貞は余計ですよ。オーアさん」

 煙管を持つ彼女は、愉しげに言葉をはっした。そんなオーアにレーゲングスは苦笑する。

 これからレーゲングスはとある政界の重鎮に会いに行く。

 彼の名はラタバイ・ベスティエ。独逸領であった蒼猫島の元総督であり、この廓の主であるオーアの祖父である男だ。 

 父によく連れられて行った社交パーティの中心にいつも彼はいて、老獪な笑みを周囲に振りまいていた。彼の孫であり名門ベスティエ家の次期当主であるアルプトラウムともレーゲングスは旧知の中だ。

 それも統治国が敗戦するまでの話。没落したリッター家の人間は総督府と臨時政府の橋渡しとなり、今や臨時政府の重要な地位についているベスティエ家の人間と会うことすら叶わない。

 ラタバイに再開するためにフクスを売った金で何でもした。ミーオに土下座をして頭を踏まれることなど朝飯前だ。

「私に、花を贈ってくれる人はいないのね……」

 ふと、ミーオの呟きが耳朶を打つ。寝台に顔を向けると、ミーオは蒼い猫耳に手をあて、俯いていた。

「君は、誰に花を贈って欲しいの?」

 想いが言葉になる。その言葉にミーオは弾かれたように顔をあげた。

 彼女はここで誰かを待っている。そんな自分の境涯を、彼女は自分たちと兄妹の関係に重ねているのだろう。

 レーゲングスは瑠璃の眼を持つ船頭のことを考えた。金魚鉢へと自分たちを誘った彼は、愉しそうに飾り窓で踊る蒼色キンギョを見つめていた。彼女に親しげに話しかける彼は、どこか寂しそうだった。

 彼はミーオにとってとても大切な人なのだろう。自分にとってフクスがそうであるように。

「どんな花がいい?」

 ミーオに声をかける。

 ミーオは金魚みたくぱくぱくと口を動かしてみせた。彼女に微笑んでみせる。それを見た彼女の眼は陽光のように輝いて、嬉しそうに笑みの形になった。

「ジャスミン。真っ白なジャスミン。お母さんが好きだ花だから」

「フクスと同じだな」

 彼女に声をかけると、彼女は恥ずかしそうに顔を俯かせる。自分から眼を逸らして、別にそんなのどうでもいいじゃないとミーオは不機嫌そうに言った。

 なんてことはない。彼女は花を贈られるフクスが羨ましかったのだ。年頃の少女らしい彼女の反応にレーゲングスは苦笑してしまう。

「何がおかしいのよ?」

「いや、俺は君のことが嫌いだけど、好きなんだなって思って」

「なにそれ?」

「君が女の子らしいってことだよ」

 笑顔で思いを伝えると、ミーオは顔を真っ赤にして自分を凝視してきた。うーと唸りながら、彼女は困った様子で形のよい眉を寄せ、眉間に皺をつくる。

「お花、待っててあげるから……」

 じっと自分を睨みつけながらミーオは声をかけてくる。優しく微笑みかけると、彼女は花のような笑みを自分に向けてくれた。

 真っ白なジャスミンを思いレーゲングスは踵を返す。あの川原に咲いているジャスミンの花をミーオに贈ろう。あの場所に連れていったら彼女は、花を渡すよりもっと嬉しい笑顔を見せてくれるに違いない。彼女や妹ような亜人の少女が笑顔でいられるように、自分はあの場所を創ったのだから。


 



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