花火~闇色墓地

 足裏に硝子の冷たい感触が広がる。フクスはミーオに手を引かれ、金魚鉢のアーケードの上を歩いていた。下に眼を向けると、金魚たちの泳ぐ姿が認められる。

 たゆたう水槽の水底には静まりかえった遊郭が建ち並んでいた。

 夜明け前の金魚鉢は静寂に満ちている。輝きと雅な音に溢れていた遊郭都市の面影は微塵もない。

 ミーオの楽しそうな笑い声だけがフクスの狐耳に響き渡る。フクスはその声に導かれ前方へと顔を向けていた。フクスの手を引く彼女は瑠璃の眼を輝かせ、跳ね上がるように駆け続ける。

 夢のように甘い時間が終わった後、彼女はしどけなく寝台に横たわるフクスに囁いたのだ。

 ――とてもいいものを見せてあげる。

 狐耳に響く彼女の笑い声はとても愉しそうで、まるで無邪気にはしゃぐ子供のようだった。

 フクスは彼女の足元へと眼をやる。ミーオの裸足が硝子の表層を踏むたびに、金魚たちが驚いた様子で水冠を作って跳ねあがる。蜜柑色の尾鰭が月光を浴びて翠色の輝きを描きだす。

 金魚たちまで、ミーオの足取りに合わせ舞っているよう。金魚の舞を鼓舞する様に、大きな水音がフクスの狐耳を叩いた。

 前方を走っていた硝子のアーケードが途切れ、涼しい水の香りがフクスの鼻孔に広がる。冷たい風が頬を叩いて、フクスは眼の前に広がるその光景に眼を見開いた。

 瑠璃湖の水が滝となって暗い谷に落ちていく。フクスたちの歩く硝子のアーケードは滝の目前まで築かれており、その下に広がる硝子の壁が金魚鉢の遊廓を滝の水飛沫から守っていた。月光に輝く滝は下方へ流れるたびに光を失っていき、谷底へと落ちていく。

 ミーオの歩みがとまる。横へ並んだフクスが顔を覗き込むと、彼女は暗い眼差しを流れる滝に送っていた。

「ここが……金魚鉢のお墓」

 ぽつりとミーオが呟く。彼女はフクスに顔を向け、言葉を続けた。

「金魚鉢で死んだ女の子たちの死体はここに葬られるの。ここから出ていきたいと思った子は、ここから跳び下りて自由になる。あなたも自由になりたかったらここに来るといいわ」

 暗い眼で谷底を覗きながら、ミーオはフクスの手を強く握りしめた。

 ミーオの眼は谷底の闇を捉えていた。この谷の闇に呑まれることを、彼女自身が恐れているようだ。彼女がこの暗い流れに呑み込まれたらどうなってしまうのだろう。

 恐ろしくなってフクスは彼女の手を握り返していた。ミーオが眼を見開き、フクスへと顔を向ける。彼女は苦笑を浮かべ言葉を続けた。

「ごめん……。あなたに見せたいのは、こっちじゃない。ほら、そろそろ上がるかな?」

 彼女が谷の下に広がる森を指さす。谷底に広がる森は夜闇に沈んでいた。

 その森が谷底を照らす光によって浮かびあがる。谷底から放たれた光は宙へと昇っていき、大輪の花火となって夜空に花開く。

 蒼、赤、翠、そして、ジャスミンの白。

 様々な色彩の花火が放たれては、闇色の空を艶やかに彩っていく。その様は煌びやかな艶姿をみせる金魚鉢のようだ。

「これは……」

「お父さんに頼んで、あげてもらったんだ。今日はあなたがここに来る日だから、お祝いに」

 ミーオの弾んだ声が狐耳に響く。ふっと彼女の方へと振り向くと、ミーオの蒼い五指が、フクスの耳へと伸ばされていた。

 ミーオの指が狐耳にふれ、何かを狐耳の横に指した。彼女の指が離れていくのを見送りながら、フクスは狐耳へと手をやっていた。

「これ……」

 柔らかい花びらの感触が指先に広がり、フクスは眼を見開く。狐耳に飾られた花を抜いて、眼前へと持ってくる。

 白いジャスミンがフクスの眼の前にあった。それは花火の色彩を帯びて、虹色に明滅する。明滅する色彩はフクスの脳裏に様々な記憶を呼び覚ましていく。艶やかな金魚鉢の赤。蒼色キンギョの蒼。そして、翠色の兄の眼。フクスはその中にジャスミンの白を見出していた。

 ――フクスは、僕のお嫁さんになるんだよ。

 兄の声が狐耳に蘇る。

 自分と同じ翠色の眼に笑みを浮かべ、兄はよく自分の狐耳を花で飾ってくれた。

「これ……」

「あの人からの、贈物」

 そっとフクスの持つジャスミンをなで、ミーオが微笑む。彼女はフクスの手からジャスミンを抜きとり、それをフクスの狐耳に飾りつけた。

「私のことを買っておいて、あの人は指一本触れずに帰った。その代りにその花を私に渡して言ったの。フクスをどうかよろしく頼むって。おかしな人よね。自分で渡せばいいのに……。また、来るって。あなたに花を渡すために」

 そっと花をなで、ミーオはフクスの耳から手を放す。

「私も耳に飾る花。欲しいな……」

 ミーオが蒼い猫耳にそっと手を添える。花火に照らされ白く明滅する猫耳が寂しげにたれさがる。そんな彼女の猫耳を見て、フクスは自分の狐耳からジャスミンを抜き取っていた。

「フクス……」

 何も言わず、フクスはミーオの猫耳にジャスミンの花を飾る。空のように蒼い猫耳の横で、ジャスミンの花は艶やかな白銀色に輝いていた。

「あなたの方が、似合ってる」

 そっとミーオの猫耳をなで、フクスは微笑んでみせた。ミーオは驚いた様子で瑠璃の眼を見開き、その眼を潤ませる。

 彼女はフクスを抱きしめ、その胸に顔を埋める。小さな泣き声が狐耳に響いて、フクスは優しくミーオを抱き寄せていた。

 滝の下に広がる暗い闇を見おろす。

 闇に包まれた谷底の水は瑠璃色に輝いている。それはミーオと同じ眼をもつ人物を思い起こさせた。

 自分をここまで誘ってくれた船頭。彼は、悪さをするんじゃないと船上からミーオに話しかけていた。まるで、彼女の親しい人間であるかのように。

 ミーオは彼から花を貰いたいのだろうか。自分の兄がそうしてくれたように。

 ミーオの耳に飾られたジャスミンをなで、フクスは彼女を強く抱きしめる。

 暗い闇にミーオが囚われてしまわないように。彼女が、花を贈ってくれない人を想って谷に身を投げないように。

 そんな思いを打ち消したくて、フクスは唇を開いていた。

 フクスの唇が拙い旋律を奏でる。この遊郭都市で流れていた歌をフクスは奏でていた。ミーオが歌っていた、少女たちの哀切の歌を。

 ミーオが顔をあげ、フクスを見つめる。彼女は潤んだ眼を細め、微笑んだ。

 谷に落ちる水音を伴奏に、少女たちの歌声が響き渡る。

 水音に負けないよう、強く美しく、その歌声は夜明け前の金魚鉢を彩っていった。


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