蒼猫~遊郭都市

 


 抱きしめ合う兄妹を乗せて、船は湖上に浮かぶ遊郭都市へと向かって行く。フクスとレーゲングスは体を放し、お互いに手を繋いだまま俯いていた。

 そんなフクスの狐耳に轟音が響き渡る。驚いたフクスは顔をあげていた。

 対になった硝子の円柱が視界に迫り、その中央を自分たちを乗せた船が過ぎ去っていく。去り行く円柱には金魚たちが閉じ込められていて、赤い体を金色に輝かせていた。円柱の中でくるくると演舞する金魚たちを見つめながら、フクスは兄の手を握りしめる。

「ほらほら、苦界への扉が開くぞ!」

 船頭の弾んだ声がする。レーゲングスに手を握り返され、フクスは彼へと顔を向けていた。船の前方を、兄は鋭く眼を細めて見すえている。

 兄の視線の先には鉄壁がある。泳ぎ回る金魚が描かれたそれが、軋んだ音をたてて開かれようとしていた。

 小さな波が船をゆらし、開け放たれた壁の向こう側が露になる。眩しいきらめきが視界を覆ったその刹那、フクスは眼前に広がる光景に眼を見開いていた。

 金魚が入った巨大な硝子の支柱が視界に跳び込んでくる。それが水路の中央に等間隔に並んでいた。支柱が浸かる水路は瑠璃色に煌めき、色とりどりの闘魚が灯に照らされて水中を彩る。

 水路の脇には曲線が美しいアールヌーボーの遊廓が立ち並び、その遊廓の飾り窓には婀娜とした笑みを浮かべる亜人の少女たちが陳列されていた。

 薄い衣の服を着流し、産毛に覆われた肢体を彼女たちは行き交う船に披露する。彼女たちの頭部では色とりどりの獣耳が踊っていた。

 飾り毛を付けた獣耳がゆらめく様子は、金魚の尾鰭がたなびくよう。銀細工や細やかな彫刻が美しい硝子の中を行き交う彼女たちは、夜市で売られている金魚そのものだ。

「嬢ちゃん、空を見あげて御覧よ」

 船頭の得意げな声が聞こえて、フクスは空へと視点を転じる。そこに広がる光景に、フクスは瞠目した。

「本当に、金魚が泳いでる……」

 眩い星空を背景に、硝子のアーケードの中を金魚が泳いでいた。金魚鉢の光を受けて、淡い朱色に煌めく金魚のなんて可憐なことだろうか。

 硝子の柱が支えているアーケードの中が水槽になっており、その水槽の中を金魚たちが泳いでいるのだ。下方からその様子を見あげると、フクスのように金魚が星空を泳いでいるような光景を眼にすることができる。

 星明かりに照らされる金魚たちは翠色の煌めきを纏い、下界に佇む遊廓の灯りを受けては金色に光り輝いていた。

「本当にここは、苦界なのか……?」

 唖然とする声に導かれ、横へと顔を向ける。レーゲングスがぽかんと口を開け、金魚が泳ぐ硝子のアーケードを見あげていた。

「ほら、ご兄妹。そっちの金魚も見ものだが、一等美しい金魚があそこで泳いでるよ。それもとびきりの上玉だ!」

 船頭の嬉々とした声が狐耳を叩く。彼は嬉しげに船の横側に建つ遊廓へと顔を向けていた。遊廓の飾り窓には蒼い猫耳の少女が納められていた。彼女は金魚のように赤いタイドレスを翻し、窓の中で踊っている。

 飾り毛のついた蒼猫耳が金魚の鰭のように翻る。弦楽器の音に乗って少女は猫耳を覆う青髪を翻し、回ってみせた。

 彼女の周囲では、猫耳を生やした少女たちが、優美なソードゥアン―― 硬材で胴が作られた高音の擦弦楽器――やソーウー――椰子の殻で作られた低音の擦弦楽器――の雅な音色を奏でていた。

 雉虎、茶虎、三毛に、錆虎。柄の違う猫耳を持つ四匹の少女たちは、色のない顔で楽器を奏でる。蒼猫の少女が音に乗って体を回すたび、楽器を奏でる少女たちの猫耳が軽やかに動く。

 少女たちの背後には猫のランプハンガーに吊るされたガレのランプがあった。金魚の描かれたランプは踊る少女たちの猫耳を暗く照らしている。

 ランプの下で、蒼い猫耳を持つ少女は赤いタイドレスを翻す。ガレのランプが少女のドレスに金魚の陰影を映し込む。ドレスに映った金魚の陰影は映写機のように瞬いて、翻る布地の上で泳ぎ回るのだ。

 青の髪に彩られた彼女の容貌は愛らしい東洋人のそれ。大きな瑠璃色の眼は虹色の光彩を放ち、さまざまな蒼へと色彩を転じていく。

 蒼猫の少女を見て、フクスは大きく眼を見開く。

 彼女は蒼色キンギョだ。空よりも蒼く、海よりも澄んでいるその蒼猫耳が何よりの証だった。

 彼女が静かに桜色の唇を開ける。そこから流れてくる可憐な歌に、フクスは身を強張らせていた。

 それは、金魚鉢に売られる少女たちの悲哀を歌ったもの。自身の境遇と重なるその歌にフクスは狐耳を傾けていた。その声に聞き覚えがあったから。

 フクスは狐耳をたちあげて、蒼色キンギョを凝視していた。細められた彼女の瑠璃の眼を見て、フクスの鼓動は早鐘を打つ。

 彼女が悲しげな眼差しを自分に向けていたからだ。今にも涙が溢れだしそうなその眼を見て、フクスは既視感に襲われていた。泣きそうな彼女の眼を、遠い昔に見たことがある。自分は彼女に出会ったことすらないのに。

 彼女はこの金魚鉢に君臨するキンギョだ。フクスとは住む世界が違う。

 キンギョとは、この金魚鉢において客を招く個室を持つことを許された上位の遊女たちのことだ。その他の遊女たちはフナと呼ばれ、衝立で区切られた大部屋で客をとる。キンギョになれる遊女は郭においてもほんの一握り。その中でも蒼色キンギョの評判は抜きんでたものがあった。

 曰く、彼女を抱いた作家が名作を書いた。政治家の卵が重要な役職に就いた。彼女を抱いた一兵卒が、将校まで異例の出世を遂げた等々。

 彼女の内に秘められた未知なる力が、男たちに幸福をもたらすという。そんな評判が世に出回り、彼女を抱きたいと思う者は後を絶たない。

 フクスたちの船の横を大きな屋台船が通り過ぎる。金魚の提灯を吊るしたその屋台船は、蒼色キンギョが踊る遊廓へと向かって行った。

 遊廓の前にある唐草模様の門が厳かに開かれ、屋台船は水路へと入っていく。

 刹那、猫耳少女たちの奏でる音が一変した。

 静かで悲しげな音色は、甲高く、喜色に満ちたものへと変わる。蒼色キンギョが紡いでいた歌は、金魚鉢の絢爛さを讃えるものになっていた。

 観音開きの飾り窓が、音もなく開かれる。演奏は夜の空へと解き放たれ、少女たちは優美に衣を翻して屋台船へと跳び移っていた。

「嘘だろ……」

 レーゲングスが呟く。驚く彼に構うことなく、少女たちはジャスミンの花で満たされた船上で衣服の裾を翻し、舞う。

 鯖虎の、茶虎の、三毛の、錆虎の猫耳たちが金魚の尾のごとく宙を踊る。その中央で、月光を想わせる蒼い猫耳が夜空を泳ぐ。蒼い産毛に覆われた手を翻し、蒼色キンギョは拍子を踏んでみせる。

「綺麗……」

 舞う蒼色キンギョを見て、フクスは感嘆とため息をついていた。

 同性である自分から見ても彼女の舞は美しい。神秘的な蒼い猫耳も彼女の美しさを惹きたてていた。

「あら、素敵な赤狐がいる」

 可憐な声が狐耳を叩いて、フクスは我に返っていた。自分たちの船の横に蒼色キンギョの屋台船が横付けされている。

 蒼色キンギョが屋台船の縁に手をかけ、フクスの顔を眺めていた。フクスを捉えた瑠璃の眼が嬉しそうに煌めいている。

 彼女は船の縁に手をかけ宙へと跳んでいた。ふわりと、蒼色キンギョはフクスの前に降りたってみせる。唖然とするフクスの頬に五指を伸ばし、彼女は微笑んでみせた。

「綺麗な赤狐が来るってオーワは言ってたけど、緑色のその眼が素敵ね。私が棲んでいた森の翠……」

 フクスの頬を優しく包み込み、彼女は赤い狐耳に息を吹きかける。びくりと震えるフクスを見て、彼女は三日月の形に眼を歪めてみせた。

「なんにせよ、綺麗な赤狐に育っていてくれてよかった。これが私のモノになるなんて夢みたいだわ」

「何を言って――」

 彼女に腕を引かれ、フクスは言葉を失う。

「赤い狐が、蒼色の猫に飼われる話をしているの」

 小さくも柔らかい胸の感触に、フクスは体を固くする。蒼色キンギョが自分の体を抱きしめていた。その事実に鼓動が早鐘を打つ。

「おい、君っ! フクスを放せっ!」

 兄の怒声が聞こえて、フクスは後方へと顔を向けていた。蒼色キンギョから自分を取り戻そうと、兄がフクスの片腕を引っ張る。強く引かれた腕に痛みが走って、フクスは小さく呻いていた。

「兄さん、痛い……」

「あっ」

 フクスの言葉に、兄は腕を掴む力を弱める。刹那、乾いた音が周囲に響き渡った。蒼色キンギョが兄の手の甲を鼈甲の扇で叩いたのだ。

「いつっ」

「これは私のモノよ。もう、あなたのモノじゃないの」

 蒼色キンギョの唇から冷たい言葉が放たれる。兄の手がフクスの片腕から離れると、彼女はフクスを力いっぱい抱き寄せていた。

「恐かったよね、フクス。もう、大丈夫だから。今度はあなたを私が守るから」

 あやすように蒼色キンギョが声をかけてくる。驚くフクスの後頭部と膝裏に手を回し、彼女はフクスを横抱きにしてみせた。

「ちょ、蒼色キンギョさんっ!?」

「ミーオよ、ミーオでいいわっ、フクスっ」

 赤い衣を翻し、ミーオはフクスを力いっぱい抱き寄せる。

 彼女は屋台船に向かって跳んでみせた。白いジャスミンの花びらが視界を舞う。 蒼色キンギョの屋台船にいると気がついたときにはもう遅く、屋台船はフクスの乗っていた船から遠ざかろうとしていた。

「フクスっ!」

 兄の叫ぶ声が聞こえる。自分が乗っていた船へと視線を巡らせると、兄が船から身を乗り出しこちらに向かって何かを叫んでいた。

「兄さ――」

 兄の名を呼ぼうとした瞬間、フクスはその唇を何者かによって塞がれていた。眼前に煌めく瑠璃色の眼がある。唇に柔らかな感触が広がった瞬間、フクスは何が起こったのか理解した。ミーオが自分の唇を奪ったのだ。

 顔を離し、彼女は赤い舌で自身の唇を舐めあげる。ミーオは嗤って、フクスに顔を近づけてきた。フクスの唇を彼女は再び奪ってみせる。

 二度三度、啄むような口づけがフクスを襲い、ぬるりとした感触がフクスの口腔を襲う。唇を押し分けて、彼女の舌が口腔へと入ったきたのだ。震えるフクスの顔を引き寄せ、彼女は自身の舌をフクスのそれと絡めてみせる。

 体に甘い痺れが走ってフクスは体を震わせていた。ミーオの眼が三日月の形に歪んでフクスの顔から離れていく。赤い舌が自身の口から引き抜かれる。体に力が入らず、フクスは荒い息を吐きながらミーオを見つめた。

「こら! 可愛い狐ちゃんに悪さすんじゃないぞ。蒼色キンギョっ!」

 そのときだ、船頭の弾んだ声が聞こえて、フクスは我に返っていた。その声を受けてミーオの瑠璃の眼が、悲しげに煌めく。ミーオは顔をフクスの乗っていた船へと向けていた。

「分かってるわよ。そんなこと……」

 ミーオの弱々しい声が、狐耳を叩く。フクスは去っていく自分の船に視線を向けた。船上で立ちつくす兄が、呆然とした眼差しを自分に送っている。

 そんな兄の前方にいる船頭が、こちらへと顔を向けていた。

 ミーオと同じ瑠璃の眼を楽しげに細め、彼は微笑んでいる。その微笑みがどこか寂しそうなのは気のせいだろうか。

「あなたは、私に会には来てくれないのね……」

 ミーオの悲しげな呟きがフクスの耳朶を叩く。

 彼女は踵を返し、屋台船の中央へと向かっていった。何も言わず、彼女はジャスミンの花が敷きつめられた床にフクスを横たえる。

 白い花の上にフクスの緋色の髪が散らばる。ミーオはそんなフクスの髪を救いあげ、蒼い五指で梳いてみせた。とすんと彼女はフクスの側に横たわり、フクスの体を抱き寄せてくる。

「あなたは、側にいてくれるよね?」

 顔を覗き込んできた彼女の眼は今にも泣きそうだった。船上にいた兄のことを思い出す。自分との別れが辛くて、翠色の眼から涙を流していた兄。そんな兄と眼の前の少女が重なってしまう。

 自分はこの瑠璃の眼を知っている。遠い昔に、泣いていた彼女に出会った気がするのだ。彼女は、自分のように誰かとの別離を悲しんでいるのだろうか。例えば、彼女と同じ色の眼を持つ、あの船頭との別れを。

 目の前の少女を慰めたくて、フクスは彼女の頬に手を添えていた。

 ミーオは眼を見開いて、フクスの手を握りしめてくる。彼女は辛そうに眼を歪め、フクスの胸にその顔を埋めてきた。

 どうして彼女が泣きそうな眼をするのか。どうして彼女が自分のことを知っているのか、分からないことだらけだ。

 けれどフクスは、彼女の悲しげな眼を見て懐かしさを感じた。

 フクスは眼を瞑る。泣いている幼い彼女の姿が脳裏を過って、フクスは大きく眼を見開いていた。それでも彼女と出会った場所を思い出すことはできない。

 フクスの狐耳には、自分の名をすがるように呼ぶ少女の声が聞こえるばかりだ。

 


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