赤狐~少女回想

 赤い光が優しくフクスの乗る船を満たす。フクスが夜空を仰ぐと、金魚の提灯が川の上に吊るされていた。その提灯がゆらゆらとゆれて、朱色の光を船上へと落とし込んでいる。

 フクスが川面へと視線をやると、金魚の提灯はゆれる姿を川面に映しこみ、黒い影を落としていた。

 黒い影みて、フクスは眼を伏せる。フクスの長い睫毛は影をつくり、翠色の眼を深緑に濁らせた。川面に映る歪んだ金魚の提灯は、朱色の光で暗闇を照らす。その光を見て、フクスは夜市の金魚に思いを馳せていた。

 兄のレーゲングスが、幼いフクスを金魚が売られている夜市に連れ出してくれたことがる。金魚の提灯を見て、フクスは夜市で見た金魚たちを思い出していた。まるい硝子容器に入れられていた金魚たちは、屋台の灯りを受けて朱と金に輝いていた。

「大丈夫か? フクス」

 思い出に浸っていたフクスを兄のレーゲングスが呼ぶ。どこか憐憫を含んだ兄の声に、フクスは眼を歪めていた。

「私を売りに行くのはあなたでしょう、兄さん? どうしてあなたが、私の心配をするの?」

 黒い喪服の裾を翻し、フクスは兄に微笑んでみせる。フクスの翠色の眼に映る兄もまた、黒い礼服に身を包んでいた。翠色の眼を伏せ、兄は形のよい顔を俯かせる。ゆるい三つ編みにした茜色の髪が、そんな兄の顔を隠してしまった。

 母の葬儀が終わった。その葬儀の帰りに、兄と自分は金魚鉢へと向かっている。フクスはその金魚鉢にある遊郭に売られにいくところだ。

 金魚鉢の歴史は、数千年前まで遡るといわれている。蒼猫島を生んだ女神の聖所であったその場所は、複雑な過程を得て遊女たちの住まう快楽の都となった。

 欧州列島の植民地支配の時代を経て、最終的に独逸領となった蒼猫島にアールヌーボー様式の美しい遊郭都市を築いたのは、仏蘭西で建築を学んだ日本人技師だ。その技師の影響を受け、金魚鉢は日本の遊廓の影響を多分に受けているという。

 金魚鉢という名の由来も、日本にあった花街 金魚街から来ているというのだ。

 金魚街には金魚の泳ぐ水槽を天井に張り巡らせた見事な廓があった。水影が青い畳に映り込む光景はなんとも風情があり、煌めく金魚の朱が静かに室内を照らしていたという。

 その光景に感銘を受けた技師が、金魚鉢を覆う硝子のアーケードの中に水槽を作り、無数の金魚を放った。金魚鉢の上空を見あげれば、金魚が空を泳ぐ光景が見られるという。

「そう俺は夜市で売られる金魚みたく、お前を売りにいくんだよ。名家リッター家の家長としてな……」

 兄が口を開く。彼の顔に悲しげな微笑みが広がって、フクスは思わず兄から視線を逸らしていた。 

 フクスは座り込み、船の縁から川面を覗いた。暗い川面は月光に照らされ、白く煌めいている。その煌めきをときおり輝く鱗をもつ闘魚――ベタという名の淡水魚――たちがゆらした。

 ここに来るまでの出来事がフクスの脳裏を流れていく。それはなんの感慨も起こさない映像の断片だった。

 母の棺を囲む親族たちの姿に、その親族たちに掴みかかる借金取りの男たち。

 借金取りたちに父と兄は土下座をして許しを請うた。そんな人々にフクスは声をかけたのだ。私がこの身を売って借金を返すと。

「はは、まったくもって泣けてくる話だねぇ」

 フクスの回想は、前方から聞こえてくる声に遮られる。そちらへと顔を向けると、竹笠を被った船頭が口角を歪めて嗤っていた。彼の瑠璃色の眼が傘の下で愉しげに歪んでいる。

「植民地時代に高い地代を小作人たちから奪ってた名家リッター家が、今じゃ大切なご令嬢を郭に売るまで落ちぶれやがった。いやはや、時の趨勢は水の流れのように変わりゆく。極東の古典にも同じような文章があったよな? 往く川の流れは絶えず、しかしてもとの水にならずだっけか?」

「そうだな。その通りだ。次の瞬間には、その水の中にお前が突き落とされて、彼岸に行くことになるかもしれないけどな」

 船頭の言葉は、兄の発言によって遮られる。眼を鋭く細めたレーゲングスが船頭を見すえると、彼はひゅうっと口笛を鳴らし前方へと顔を向けた。

 船上に静寂が走る。

「鴨長明の方丈記……」

 船頭が喋っていた古典の引用元をフクスが口にする。だが、その言葉に応えてくれる者はいない。

「時の趨勢というより、傾国の美女によって我が家は没落したんだけどね……」

 憂鬱な気持ちが言葉になる。フクスは川面へと視線を移した。

 漣をたてる暗い川面に、歪んだフクスの顔が映り込む。緋色の髪に隠れた赤い狐耳を動かすと、川面の鏡像もフクスの動きを真似た。

 フクスに生えた狐耳は、フクスが亜人である証だ。この狐耳を持って生まれたことを、フクスは今日になって初めて幸せだと思えた。

 亜人は人ではない。だから遊郭に売り飛ばしても誰も文句を言わないし、そのお陰でフクスは我が家を借金まみれにした母の尻ぬぐいもできる。

 長かった戦争が終わり、敗戦国である独逸からこの蒼猫島は国連の預かる地となった。それまで支配階層だった統治国出身の名家から土地と財産が没収され、国連は臨時政府を新たに立ちあげる。

 財産を没収された名家は没落の一途を辿り、物乞いにまで身を落とす一家もいるそうだ。身売りをする元名家の令嬢も後を絶たない中、臨時政府は追い打ちをかけるように売春禁止法を打ち出してくる。頭を悩ませた没落名家と廓の経営者たちが眼をつけたのが、亜人の少女たちだった。

 亜人は人から突然生まれてくる。生まれつき獣に類似した耳と、柔らかな産毛で全身を覆われた彼女たちがなぜ生まれるのか理由は分かっていない。人とかけ離れた外見から、彼女たちは人ではないモノとして扱われるのが常であった。

 その存在は古く、神話の時代にまで遡ることができる。

 ある時は神の化身として亜人は崇められ、またある時は悪魔の手先として亜人は追涯を受けてきた。

 東洋において、古代より亜人は神の化身として崇められてきた。だが近代化により流入した基督教を中心とする西洋の価値観が、その考えを打ち壊す。特に独逸領であった蒼猫島では清教徒の影響が強く、亜人たちを崇拝する土着の信仰を宣教師たちが弾圧した。その結果、亜人は差別の対象となった。

 長い戦争が終わり、世界の趨勢が変わっても亜人たちの身の上が変わることはない。国連は亜人の売買を人権侵害として禁止することはないし、その亜人を利用した商売が蒼猫島では活発におこなわれている。

 その中でも花形と言えるのが、亜人の少女を遊女に仕立てることだ。

 古くよりこの島では亜人と交わることは、その身に宿った神の力を譲り受けることだとされてきた。迷信は今なお残り、恩恵にあずかろうとする者が後を絶たない。

「こんな化物じみた体、抱いて何になるのかしら……?」

 フクスは口の端を歪める。すると川面に映る自分も乾いた笑みを浮かべた。おかしくなってフクスは船の縁を片手で持ち、川へと腕を伸ばしていた。

 産毛に覆われたフクスの五指が暗い川面に触れる。嗤うフクスの鏡像は瞬く間に崩れ、小さな漣の間から蒼い闘魚の背鰭が姿を現す。蒼い闘魚を見て、フクスは自分と同じ化物の少女に思いを馳せていた。

 蒼色キンギョと呼ばれるその少女は、金魚鉢で一番の遊女だという。

 神話の時代に蒼猫島を創った女神には、月光のように蒼い猫耳が生えていたという。彼女はその女神と瓜二つの容姿をしているというのだ。

 キンギョとは金魚鉢において位の高い遊女たちを指す言葉だ。その中でも蒼色キンギョの評判は抜きんでたものがある。

 フクスと同じぐらいの年頃でありながら、彼女の体はどんな美酒よりも甘く、玲瓏たる声は聴くものを魅了するという。

 フクスの母も、彼女と同じく男を酔わせる体を持っていた。

 亜人であった母は、金魚鉢の遊女だった。リッター家の家長である父の愛人だった彼女は、正妻亡きあと我が家の財産を欲しいままにした。

 幼い頃の記憶を辿っても、フクスは母に抱きしめられた記憶がない。思いだすのは、父に抱かれ女としての喜びを享受していた母の姿ばかりだ。

「金魚だ」

 嬉しそうなレーゲングスの声が狐耳を叩く。狐耳を逸らし、フクスは前方にいる兄へと顔を向けていた。兄が翠色の眼を輝かせながら空を仰いでいる。夜空を見あげ、フクスはあっと声をあげていた。

 先ほどまで見あげていた金魚の提灯が、川の上に列をつくって吊るされていた。橙色の灯りをちらちらとゆらしながら、金魚たちは暗い夜空を彩っている。その明かりは遠い昔に兄と歩いた夜市の思い出へとフクスを誘う。

 兄であるレーゲングスだけがいつもフクスの手を引いて、フクスを行きたい場所へと誘ってくれた。そして今も、兄は自分を望んでいる場所へ連れていこうとしている。

「ほら、お若いの。瑠璃湖が見えてきたぞ」

 船頭の弾んだ声が聞こえる。驚く兄の声が聞こえて、フクスは前方へと視線をやっていた。暗い川の河口から、フクスたちの船は大きな湖へと辿り着いていた。湖面が眩い灯に照らされ、瑠璃色に輝いている。湖の中央に、その灯の源は鎮座していた。

 硝子の支柱を持ち、煌めく硝子張りのアーケードに覆われた建造物がフクスの視界に跳び込んでくる。美しい曲線を描いた遊廓を内包したそれは、綺羅星のごとく無数の輝きに覆われ、眩い光を放っていた。

 遊郭都市 金魚鉢。

 蒼猫島最大の湖 瑠璃湖に浮かぶ春を売る都。

 絢爛なその様相を称えるかの如く、美しい弦楽器の音色がフクスの狐耳に流れてくる。甲高い少女の歌声にも似たそれは、春を売る少女たちの悲哀を歌ったものだった。

「フクス……」

 兄の声が狐耳を叩いて、フクスはそちらへと眼を向ける。自分と同じ翠色の眼をゆらしながら、兄がこちらを見つめていた。

 兄の眼差しに促されるようにフクスは立ちあがってみせる。覚束ない足取りでレーゲングスも立ちあがり、そっとフクスへと歩み寄ってきた。

 兄がフクスの体を抱き寄せる。顔をあげると泣きだしそうな兄の表情があって、フクスは苦笑していた。

「私を売りに行くのはあなたなのに、どうしてそんな悲しい顔をするの?」

 兄の眼から涙が流れる。金魚鉢の灯を受け、その涙は星のように煌めいていた。フクスは兄の頬に指先を充て涙を拭っていた。

 自分を売りにいくようレーゲングスに迫ったのはフクス自身だ。それなのに、どうして彼は涙を流すのだろうか。

 男たちに頭を下げる兄がなんとも哀れで、フクスは叫んでいたのだ。

 自分が、母の代わりに借金を返済すると。

 兄が自分を放してくれる。フクスは背伸びをして、兄の頬を両手で包み込んでいた。頬を伝う兄の涙を舐めとって、唇を兄のそれと重ねわせる。

 柔らかい兄の唇の感触が心地よくて、フクスは眼を瞑っていた。

 唇を離すと、狐耳にあたたかな温もりが広がる。兄が狐耳をなでてくれているのだ。眼を開けると、彼は潤んだ眼をフクスに向けていた。兄の体からは、かすかにジャスミンの香りがする。

「もう、この狐耳に花を飾ることもないんだな……」

 兄が優しくフクスの狐耳をなぞる。幼い頃から、兄はフクスの狐耳を美しいジャスミンの花で飾ってくれた。フクスは僕のお嫁さんになるんだと、兄は花を狐耳に飾るたびに微笑んだものだ。

 その花を兄が贈ってくれることももうない。

 フクスの狐耳に美しい弦楽器の響きが流れてくる。フクスは雅な音楽の流れる遊郭都市へと首を巡らせていた。

 煌びやかな金魚鉢が、誘うように艶めいた曲を奏でている。

 

 ――金魚鉢は亜人少女たちの牢獄。一度入ったら二度と出られず、美しい奴隷のまま一生を過ごす。

 

 世間で囁かれている金魚鉢の風評がフクスの脳裏を過る。あんな美しい牢獄に囚われて死ねるのならそれでもいい。

 笑みを浮かべ、フクスは兄を見つめる。兄は辛そうに目を歪め、フクスの体を抱き寄せる。悲しげにゆれるレーゲングスの眼から、フクスは視線を逸らすことができない。

 フクスは眼を歪め、愛しい兄の体を抱き寄せていた。




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