第57話 影に潜むもの

 龍神は宮殿の奥──母屋に広がる黒い塊を見つけた。膨れ上がるソレはヘドロ状というよりも、数千の蛇。《物怪》になりかけて失敗したモノ。アヤカシが複数混じったのか、それとも無理やり《物怪》にさせられたのか──

 どちらであっても龍神には些末さまつなことだった。


 蛇は矢の如く執拗にを追っている。言わずもがな。冥界において特出した存在となれば、狙うはただ一人。現世の肉体を持つ──ともりだ。


(どこから入ってきた? いや、そんな事は後回しでいい──)


 無粋な輩に向かって龍神は手を翳す。それはこの国を治める王として当然の判断であった。


むか──火柱ひばしら


 龍神の言霊を込めた発語は、瞬時に凄まじいエネルギーとなって黒い塊に襲い掛かる。



 ***



「なに案ずるな。ここはアヤツの国だ。ならば任せればよかろう」


「そんな無責任な……!」


 黒々とした塊は留まることを知らず、緋色の美しい建造物を取り込み、矢の如く燈たちに襲い掛かる。だが、式神は少女を抱えたまま華麗に躱した。甲冑がない分、身軽なのだろう。蛇の牙は床や壁を貫く。

 数百、数千の蛇はゾッとするような奇声を上げると、畳み掛けるように燈を狙う。膨れ上がる殺気に少女は顔色を青ざめるが、式神は違った。


「随分と遅かったではないか、龍神」


 式神は辛辣な言葉を、燈ではない第三者に投げかけた。その声に少女は間の抜けた声が出る。


「へ?」


 轟──!!!


 燈の背後を守らんと、金色の炎が壁となって顕現する。

 蠢く数千の蛇が金色の炎に包まれて燃えていく──が黒々とした塊そのものを、消し去るには火力が足りない。


「うわぁ!? 炎で怯んだけど……決定打に欠ける?」


「いいや。龍神あの男は、そこまで甘くはない」


 式神の言葉通り、青白い蛍火が幾つも宙に浮かび黒い塊に着火した瞬間──炎が生き物のように《物怪》を包み、あっという間に燃え広がった。


「…………!」


 燈は炎の揺らめきに、瞬きも忘れて魅入っていた。


 なにか、頭の中に浮かぶ──

 緋色──否、紅焔の淵。

 燃え広がる炎は日常を容赦なく突き崩し、日が落ちた世界は絶望に染まっていた。

 その中で巨大な──けれど──

 を見たのは──もっと昔──


「主? どうかしたか?」


 式神は燈の感情の起伏に気づき、声をかける。少女は顔を俯かせながら「ううん、何でもない」と小さく言葉を返した。 


「そうか」


 少女は式神の背に担がれたまま、小刻みに震えていた。「炎を見て何かを思い出したか……? まあ、主にとってはトラウマそのものだからな……」そう式神は心の中で推測を立てる。

 しかし龍神が炎ではなく稲妻を使っていれば、燈と式神を巻き込む可能性があった。ゆえに《物怪》を迎撃するにあたっての判断は、正しい。


 燈の視界は朧気で──頭が上手く回らずに、ぐるぐると考えが浮かんでは消えていた。その出来事はまるで夢を見たときのように、曖昧でぼんやりしている。


(なんだろう……。何か……思い出しそうな……)


「姫、無事ですか?」


 龍神の表情はまったく変わらないが、その声音は震えていた。担がれたままの少女は、声に反応して視線をあげる。そこに映るのは──


「…………あ」


 燈は吐息が漏れた。

 龍神は回廊に着地し、優雅な足取りで少女の元に歩み寄る。白銀の長い髪は美しく、瞳は印象的な酸漿色──

 残り火が花びらのように舞い散る中、龍神の圧倒的な力を前に息を呑んだ。


(そうだ……。前にも、どこかで……)


 燈は思考を巡らせるが、体が気だるく頭が回らない。何かに阻害されている──そんな感覚があった。少女は無意識に龍神に手を伸ばす。

 いつだか──どこだったか──届かなかった自分の手が脳裏に過る。


「龍神……」 


「なんですか」


 龍神の手が燈の指先に触れた。骨ばった大人の──男の人の手。その手は温かいのに、なぜか違和感を覚える。

 何かが欠けているような……。

 だが何かがわからない。燈はもがくように言葉を探すのだが、それは叶わなかった。


 ──ゆるさ……ない──


 ポツリと呟かれた言葉に、龍神はハッと目を見開き少女の薄い唇へと視線を向ける。しかしその言葉は燈ではない。


 ──ぜったいに……会いにいく──


 ふと黒こげになった塊は消え去り、小さな蛇がとぐろを巻いて回廊の上に蠢いていた。すでに人の形を忘れ戻れなくなっている。龍神は速やかに排除しようと、蛇に向けて手を翳す。今度は灰も残らぬほどの火力で滅そうと掌に炎が宿る。


 ──さん……を……榎本佳寿美から……救うの──


 か細くも力強い声。燈は聞き覚えのある名に体が反応する。

 轟、と小さな蛇は炎に焼かれ消え去った。だが、少女には言い知れぬ不安がよぎる。


「なっ、今なんて……!?」


「ん。急に元気になったか。これ、主よ、あまり暴れるな」


「椿。あの蛇、今、なんて言った!?」


 式神は燈をそっと回廊に降ろすだけで、返事をしてくれなかった。


 ──私がやらなきゃ……。止めるの……絶対に──


「椿、今の、聞こえたでしょ?」


 ──無駄──


「椿? ……龍神!?」


 二人とも固まったかのように動かない。燈は戦慄した。

 声はさっきよりも近い。少女は周囲を見渡すがどこにも──いや、一つだけ確認していないものがあった。燈は視線を自分の影へと落とす。式神が出入りしているが、そもそも影がどういう役割を担っているのか燈は覚えていない。だから──


 ──ねえ……──


 ねっとりとした声が真下から聞こえ──人の目玉が影の中から、ぷかっと現れる。


「ひっ!?」


 燈は全身がぶるりと震えた。「アレは見てはダメ」だとわかっていても目が離せない。影から浮き出た目玉はくるくると回りながら、燈と目玉の視線が交錯する。


 ──あなたも……私とおなじでしょ?──


「なにを?」そう口にしようとしたが、遅かった。

 目が合う。声が聞こえ、言葉を返す。それは──《物怪》の専売特許。魂の同調を誘い、引きこむやり方。


(しまった。ここは既に──)


 刹那。

 燈の足下からヘドロが噴き出し、半瞬で全身が飲み込まれ──そこで意識がブツリと消えた。



 ***



 ──ゆるさ……ない──


 その掠れた声が龍神の耳に届いた。だが、発生源が分からない。燈の唇は閉じたままだ。俯いているせいで表情が見えない。


「姫?」


 声をかけるが反応が乏しい。いや、返事がなかった。あやしんだ龍神は少女の前髪を掻き揚げると──その目は闇に囚われていた。


「姫!?」


 そっと頬に触れるが反応はない。龍神は燈の意識がないのを知ると、式神の代わりに抱きかかえる。腕の中にすっぽりと納まる少女の瞼は僅かに揺らいでいた。


「肉体にダメージを与えない《雷》ならば……」


 式神は「落ち着け」と龍神を窘める。


「気持ちはわかるが、術式強化の影響がある。力任せに《物怪》を排除すれば、主にも影響が出るぞ」


 あの《物怪》は最初からうつわではなく、心から潰しに掛かる気だったのだろう。読みの甘さに式神は歯軋りする。


「……式神。姫の魂と意識が《物怪》に食われる可能性は?」


「はあ」と式神はぞんざいな溜息を漏らし、頭をガシガシと掻いた。今の彼は十代の少年の為、背丈は圧倒的に龍神の方が上だが、臆することなく睨み付ける。


「お前は本当に心配性だな。これでも某を従える主ぞ。その辺の《物怪》如きに主が飲まれると?」


「そうは言っていません。確かに以前の姫ならば、問題はなかったでしょう。ですが、現在記憶を失っているのであれば、状況も変わってくるのではないですか?」


「ふん。我が主に限って……」

「…………」


「絶対にない」と式神は言い切れなかった。斜め上の行動を取るのが秋月燈という少女なのだ。急に式神は額に脂汗を滲ませた。


「いや……うむ。たぶん、大丈夫だ」


 ぶるり、と体を震わせた燈がゆっくりと目を覚ます。


「ひめ──」


「!?」


 燈の体は龍神から離れ、宙返りをしたのち、二人と距離を取った。まるで舞うような華やかさと、身軽さに式神と龍神は身構えた。


『キャハハハ、やっと手に入れた! これでまたアオザキさんに会える……。今度は絶対に私を振り向かせてミセル。私ハもう一度、アノ人に、アオザキさんに会う。そしてあの邪魔な女を、カスミを殺す……!』


 燈の身体に取り憑いた《物怪》は、金切り声に似た声で叫んだ。

「失敗したか」と龍神と式神は珍しく声がそろった。


「完全に乗っ取られてるではないか!? 我が主よ、何を遊んでおるのだ!」


「ああ、姫があんな下賤な台詞を口にするなど……」龍神は酷く悲しい気持ちになったのか、手で顔を覆った。


「いや……。それより《他の男に会いに行く》と言っている方が不味いのではないか?」


 式神と龍神はどこかずれた会話をしていた。


『ちょっと! 何、呑気に話をしているヨ。大人しく現世ニ案内しないと……』


「……言いたいことはそれだけか?」


 龍神の怒りを孕んだ低い声に、《物怪》が本能的にひるんだ。次いで彼は言霊なしで手に稲妻を生みだし、バチバチと火花を散らす。


『なッ……?』


「それで姫。いつまで体の主導権を明け渡しているのですか? それとも私に告げた覚悟とはその程度のものだった……。そう捉えても?」


 龍神の言葉に燈の片眉がピクリと動く。


『無駄ヨ。あの子、自分で闇に飲まれてイったもの。あの中に入ったら戻っては──』


「なるほどのう。しかし、《物怪》。お前は人間を――いな、我が主を舐めすぎだ」


『キャハハ。なにを……!?』


 瞬間、燈の影から、真っ白な布が幾つも勢いよく飛び出し、少女の身体に巻き付く。

 あっという間に燈の体を包み込み、身動ぎ一つ取れなくした。


『くっ……あ……!』


 がくん、と燈は急に力が抜けたのか、床に膝を突いた。座り込む少女が顔を上げると、龍神と式神は僅かに安堵する。


「姫……」

「まったく肝を冷やしたぞ。だが、これで投了だな。あとは捉えた《物怪》を排除──」


「龍神……椿……」


 燈は二人を交互に見やって、自分の提案を高らかに宣言する。


「私、この《物怪》を──にする!!」


「は」

「は?」








 


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