第6話(2)はよアイス食べな溶けんで

 午前中に行けば空いているというナツキちゃんの話の通り、普段は人の多い四条通もそれほど混雑していなかった。店内にも待ち時間なくすんなりと入ることができ、注文もメニューを見ることなく「特選都路里パフェ」と述べるだけだったので、たいへんスムーズである。いや、本当はここで二人してメニューを眺めて、あーでもないこーでもないと会話して「決められへんなあ」とでも言うべきだったのだろうか。しかし、優柔不断な男はいけない、と誰かが言っていたような気もする。

ああ、何をしても間違いな気がしてくる。ただ、そう悶々としているぼくなんかの思考なんてナツんキちゃんは、ひょい、と飛び越えて、そして微笑んで佇んでいる。ぼくは、ナツキちゃんの可愛さに、ただただ降伏してそれに流されるだけしか出来なかった。

 会話は思ったよりも弾んだ。いや、弾んだかはわからないけれど、妙な沈黙に気まずい思いをすることはなかった。なにかと話すことがあったのである。安曇野さんのこと。小説のこと。そして、狸のことである。

「あの狸は――」

「たぬ神さまって言ってあげな可哀想やで」

「安曇野さんとうちの父は『たぬ吉』って呼んでる」

「ええっ、めっちゃ可愛いやん。ええなあ」

 狸の行動は、少し気がかりなことが多かった。まるで、何か、安曇野さんの世界の重大な秘密を知っているかのような口ぶりや行動をする。

確かに、神様だからそれは当然なのかもしれないけれど、神様だから、というのが理由になっているのが少々ぼくは気に食わない。そもそもあんな神様っぽくないやつが、神様と名乗っていることが気に食わない。

「確かに、たぬ神さまはどっちかというと妖怪かもしれへん」

「そやろ。ぼくもそう思う」

「でも、かわええやんかあ。それに、すごい優しいんよー。ふたばの豆餅とか買ってきてくれんねんで。わざわざ遠いのになあ。伊勢丹さんで買えばええのに、出町柳まで行って」

 ナツキちゃんの話によれば、狸の行動はそこまで奇怪なものではなく、ただ、ナツキちゃんと生活を共にして、ときたまどこか飛び回っているだけであり、別に変ったことなど言うわけではないとのことだった。

「でもたぬ神さまのおかげでええこといっぱいあったしな」

 ナツキちゃんは、ほうじ茶を啜って、うん、と頷いた。

 ああ、可愛い。そうとしか思えなくて、ぼくの視界には、その彼女の微笑みしかなかった。

「丹波君とか、安曇野さんにも会えたしなあ。今年の夏休みは、面白い夏休みになりそうやな」

 どきり、とした。そこで間もなく「都路里特選パフェ」が運ばれてきた。そのせいで感情と感情が衝突してしまい、自分が何を思ったのかとりこぼしてしまったような感覚に陥る。

結果としてはそれで良かったのかもしれないけれど。兎に角、と、ぼくは「わあ」と驚いて、手を合わせて細長いスプーンを手に取った。

「丹波君、めっちゃええ笑顔やん」

「ナツキちゃんも、笑ってるやん」

 ぼくは、少しばかりの勇気を持って、ナツキちゃんに対抗した。ナツキちゃんの笑顔はどういう意味なのかわからない。何に由来しているのか、どういう成分なのか。ぼくにはまるでわからない。そこは少し悔しいけれど、でも、それでもそのときぼくは、ただ幸せだった。

「あはは。そうかなあ。恥ずかし」

「さっきからずっと笑ってんで」

「もうちょっと、きりっ、ってしたほうがお姉さんっぽいんかな?」

「ナツキちゃんは、そんなお姉さんっぽくないと思う」

「はは。丹波君に貶されてもうた」

「別に貶してるわけやあら――」

「ははっ、何慌ててんの。かわええなあ」

「かわええって言われても」

「はよ食べなアイス溶けんで」

「ほんまや」

 アイスを丁寧にゆっくりと口に運ぶ。その時間を噛みしめるような口の動きで。

「美味しいやろ」

「うん」

「あーっ。幸せやなあ。これが幸せってやつなんやなあ」

 ナツキちゃんは、いつまでも笑顔だった。ぼくの目に焼き付くには十分だ。きっと、もう目を閉じれば彼女の顔が浮かぶほど、だった。

 食べれば食べるだけ、この時間が終わりに近づいていく。でも、食べないわけにはいかないという、奇妙な感覚。何かを消費して、何かを得て、でもその何かには限りがある。

こんな、世界からしたら、たいへん小さな出来事からも、何かこの世のすべてを学びきったかのようにぼくは勘違いする。それほどまで、そのときが全てだって思った。



 パフェは結局すぐなくなった。冷えた身体を温めるべく、温かいほうじ茶を二人で啜る。お茶を飲んで夢のような心地から解放されたぼくは、また新たな緊張を覚えていた。店内では大学生ぐらいのカップルがにこやかにパフェをつついていたり、また女子高生みたいな二人組がなにかの悪口を言いながらお茶を啜っていたりする。突然そのような周りのことが気になりだした。


「次のデートの約束したらミッションコンプリートね」


 安曇野さんは、今朝出かけるときに、ぼくの肩を叩いてそう言った。おかげで今でも叩かれた右肩がぞわぞわする。なんだか呪いをかけられた気分である。ナツキちゃんと別れが近づくにつれて、肩がどんどん重くなっていく呪いである。

 お店の外を出ると、気温は一段と上がっていた。バス停は河原町通りにあるので、二人で四条大橋を渡る。陰もなく、陽射しがたいへん強いが、鴨川を駆け抜ける風というものは少しばかり心地が良い。車の通りすぎる音も、川の流れる音も、セミがどこかしら鳴く音に交じれば夏の音になる。

橋の上で、ぼくの足取りはゆっくりになる。暑さに負けそうというせいもあるが、この橋を渡り切ってしまえば、帰路につかねばならないからというのもある。

 せっかくだから、ってこのまま寺町通りや新京極などにナツキちゃんを誘う器量もないし、そもそもお小遣いも足りない。ぼくの勝負はこの橋の上でついてしまうのである。

どうしよう、と思っていると自然とぼくの足は止まっていた。ナツキちゃんはそんなぼくを放って、二メートル、三メートルと距離を離していく。暑さでナツキちゃんの姿が歪んで見えてしまう。つらくなって、欄干に胸をついて、ぼくは鴨川の流れを眺めた。

「はあ、鯉おらんかなあ」

 なんでそんなことを呟いたのだろう、ぼくは。現実逃避というものが下手すぎるんじゃないか。ぼくのしみったれた呟きなど流すにも値しないと言わんばかりに何も反応なく鴨川はただ力強く流れる。

三条大橋のほうを見ると、ぼくと同じように川の流れを眺めている人がいた。彼もまた、鯉を探すふりをしているのだろうか、と思って、またため息をついたときだ。

「えいっ!」

 背中が、ふわっ、と浮きあがった。

「あわっ!」

 全然川に落ちるような姿勢でもなかったのに、本気でぼくは落ちると思った。何かがぼくの背中を押したのだ、ということに気づくには時間はかからなくて、振り返るとそこにはナツキちゃんがいた。

「もう。置いて帰るとこやったやん」

 ナツキちゃんは、少し悪戯っぽく笑った。天使に悪戯心が宿ったような、そんな微笑み方だった。

「ごめん、なんか、鯉おらんかなって」

「落としてほしいんかと思ったけど、ちゃうの?」

「そんなわけあらへんやん」

「なーんや。鯉、いた?」

 おらへん、とぼくは呟いて、また川の流れを確かめた。すると隣にちょこん、とナツキちゃんもやってきて、どうしてだか真剣な眼差しで川を眺め始めた。

「手伝ってあげるわ」

「えっ、なんで」

「なんか私も見たくなってきたし」

 前かがみになって、そして首を傾げながらナツキちゃんはこちらを見る。本当に年上なのだろうか、と思ってしまうほど無邪気な表情だった。不思議な女の子だ。彼女がいくつかがまるでわからなくなってしまう。彼女の出すその空気に飲まれて、自分がどういう人間だったかまでわからなくなるような、そんな感じで。

 こんな人、出会ったことなかったな、って思った。

 ぼくは、彼女の空気に飲まれて、自然と口を開いていた。

「八月の終わりに、鴨川でお祭りあるやん。縁日。一緒にいかへん?」

 そして、菜月ちゃんは、しばらくぼくを見つめたあと、「ええよ」と微笑んだ。

「楽しみやなあ」

 時はまた動き出す。ぼくとナツキちゃんは歩き始めて、バス停まで向かった。

 


 京都駅までくると、ぼくとナツキちゃんはバスの乗り換えのためにさよならして別れた。数年前より京都のバスの経路はかなり整備されていて、運行の本数も増えたために主な移動手段はバスとなっている。深草のほうまで行くバスの車内はだいぶ空いていた。ぼくは一番後ろの窓際の席に座って、ふう、と息を吐く。

 なんだか夢を見ていたような心地である。いや、決して夢ではないのはこの身で感じている。ただ、本当に全てがぼくの意志のままだったのかと聞かれると少し危うい。現実を見よう、と思ってぼくは窓の外を見る。

南へと向かうにつれて、街は少しずつ風情がなくなるのが京都である。午後になって陽射しはまた強くなっている。冷房の効いたバスを降りることが憂鬱に、出発して間もないのになっていく。

 バスが十条通を下った辺りに来た時だ。

バスの前方の席に座っていた女子高生の一人が、急に立ち上がって、のしのしとこちらに向かって来る。ちょっと美人だった黒髪のロングで、少し気の強そうな眼つきをしていた。でも、どこの制服かわからない。

そして、その人はぼくのすぐ前までやってくる。ここでようやく、えっ? と思った。彼女はそのまま、こんなに席の空いているバスの中で、ぼくの隣に、のしっ、と腰かけたのだ。

はて、とぼくは首を傾げた。こんな空いているバスの中で、わざわざぼくの隣にやってくるのは気味が悪い。

どうして、こんな女の人が、と思っていると、その人は口を開いた。


「デート、楽しそうやったやんか」


 その人が狸だと、その瞬間確信したのは言うまでもない。

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