第6話(1)はよアイス食べな溶けんで
(六)
初めてのナツキちゃんへの電話がこんな形になるなんて、ってあとからちょっと後悔した。でも、ぼくは必死だった。
発信音が、ぷるるるる、と鳴ってる時間が長くて仕方なかった。一瞬だけ、ナツキちゃんへ電話をかけているという事態に恥ずかしさを覚えたこともあったけど、それよりもぼくの胸にずっと迫り続ける、苦しい何かがある。
「元の、世界?」
安曇野さんが、自分の世界のことを忘れ始めたのだ。
「もしもし、丹波君? どうしたん?」
ぷつっ、と音がして二秒ほど間を置いてから、ナツキちゃんの、少しおっとりした声がした。そのときは、ちょっとどきっとした。素直に嬉しさを覚えた。何考えてんだ、馬鹿野郎、と恥ずかしくなる。
「いきなりごめん! 狸いる? 代わって欲しいんやけど!」
ええよー、とナツキちゃんの声がして、そして狸を呼ぶ声が聞こえた。ちょっと待っててなー、とナツキちゃんは言うけどやはりその間がもどかしくて仕方ない。
「えっ、ナツキちゃん?」
安曇野さんは興味深そうにこちらを窺うけれど、ぼくは安曇野さんの問いに答えられる余裕もなかった。そのまま携帯電話を握りしめる力だけが強くなっていく。がさがさと電話の向こうから音が聞こえてくる。そのときはもう、ぼくの周りの音なんて耳に一切入ってこない。汗がたらりと流れる。蒸し暑いからだろうか、それとも焦っているからだろうか。その一滴が、なんだか気持ち悪くて仕方ない。
するとようやく、「なんや」と狸の声が現れた。
「安曇野さんが、元の世界のこと忘れ始めてる!」
「なんやて」
狸の声色が変わった。現状を説明しようと呼吸を落ち着けて頭を整理しようとすると、ぼくの言葉よりも狸の言葉が先行した。
「あかん。鍵が同化し始めとる」
鍵? 同化?
少し引っかかる言葉だった。ぼくの考えていた言葉は全てそいつのせいで頭から転がり落ちてしまった。そんな言葉を拾う間もなく、狸は「そっちに行く」と一言だけ述べ電話を切った。
ひとまずとぼくたちは家へと向かった。その間かわす会話は、元の世界とはなんぞやということである。安曇野さんが今まで話していたことを、まとまりなくぼくはただ話し続ける。その間も安曇野さんは、やはりきょとんとした表情で、ぼくの声なんかどこにも響いていないような顔でこちらを見ていた。
なんだか、どうしようもないことが目の前で起こっている、そんな怖さで一杯だった。
目の前で誰かが死んでいって、何もぼくは出来ずただ見ているような、そんな恐怖が胸を締め付けた。
狸がやって来たのは家の前に着いた頃だった。
空から一羽の鳥が急降下してきたのに気付いたのは、もう狸がその鳥から元の姿に戻ったあとだった。どうやら燕に化けて空を飛んでここまでやって来たらしい。いよいよ神様らしいことをするもんだ、と感心していたところで、狸はぼくの家の喫茶店の入り口にある花壇に、ぴょん、と飛び乗った。
「あら、たぬ吉」
そう、安曇野さんが言ったそのとき、狸は、がっ、と牙をむきだしにした。
「目覚まさんかい、阿呆!」
がっ。
「ああっ!」
一瞬の出来事だった。何が起こったのか、全くわからない。ただ、心臓の音が、どくん、と一度大きく鳴ったそのときに、ぼくが見た光景は、狸が、安曇野さんの首元に牙を向けて、そして噛みついた、そんなものだった。
「なっ、何、してんねん!」
ぼくは安曇野さんに飛びかかって狸を右手でぶった。ぶへっ、と狸は声を上げて、ばんっ、とアスファルトに叩きつけられる。はっ、として安曇野さんの首元を見る。
しかし、そこには傷が何もなかった。
「坊主、めっちゃ痛いやんけ」
はっ、として安曇野さんは首元に手をやった。そして、のしり、と起き上がる狸に目を向ける。狸は、バツの悪そうな顔をして、ぺっ、と唾を吐いた。
「いや、ワシもちょっと焦ってたからな、すまん、いきなりはあかんわ」
その、言葉の終わった途端、安曇野さんの表情は、はっ、と変わった。
そして、安曇野さんが、すうっ、と息を吸い込んだ。そのときだけ、周りの空気が凛とした。蒸し暑い夏の夜なんて感じられない。季節の無いような、空気。
その空気を吸い込んでから、先ほどからの夢を見ているような表情から、いつもの安曇野さんの、きりっ、として、頼りがいがあって、でもどこか遠くを見ているように感じさせるような表情になった。安曇野さんは、そして右手に頭を添えたあと、うん、と頷いた。その仕草は、少し、照れ隠しのようにも思えた。
「ああ、ごめんね、アマ君、たぬ吉」
ふう、と狸が息を吐いた。恐らく安堵のため息だ。動物もそのような息を吐くのか、と、同じように胸を撫で下ろしながら思った。安曇野さんは、少し、ぼうっ、としていたけれど、ぼくの顔を見ると、ふふっ、と笑った。
「ありがとう、アマ君」
どういう感謝なのかはわからなかった。生ぬるい風が、少しだけ吹いて自分が汗だくであることを思い出させた。夜はいつもの夜に戻っていた。家に入ればきっとエアコンのせいで少し冷えるに違いない。それでも、やはりまずは冷蔵庫に向かって冷たい麦茶を飲もう。そう思ってぼくは、安曇野さんと狸を見た。動物の表情なんてよくわからないが、ぼくはどうしてもそのときの狸の表情が辛そうに見えた。
どうしたんだろう。そう思うと狸が自然とその問いに答えるように呟いた。
「せやなあ、あかん、わなあ」
どういう意味かはわからないけれど、そのときぼくは無性になぜだか悲しくなった。
ああ、安曇野さんは、いずれ、帰っちゃう人だったんだ、って。
「そうやなあ。たぬ神さまは、いつもどっか飛び回ってはるよ」
「飛び回ってはる?」
「うん、飛び回ってはるわ。安曇野さんと出会ってから特に。探し物してはるんかなあ」
あれから三日ほど経った。
どういうわけか、ぼくは今、ナツキちゃんと二人で、抹茶パフェを食べている。
あらゆる事象は人によって解釈が異なるので、ここでぼくがこの状況をどういう風に解釈しているのか、しっかりと説明せねばならない。例えば、「バナナを食べる」も、ある人にとってはおやつかもしれないし、ある人にとっては食後のデザートなのかもしれないし、だいたいそれが食事だと言う人がいてもまるでおかしくない。つまり「ナツキちゃんと抹茶パフェを食べる」という事柄も、ある人にとっては「日常の一コマ」なのかもしれないし、ある人にとっては「人生の全クリ」なのかもしれないのである。ここでしっかり言っておかねば、後々に支障が出るだろう。一体どういう支障なのだろう。
よし、ぼくはここに宣言する。
「初デート」なのだ。大事な大事な、「初デート」、である。
事の経緯を述べるべきか、述べないべきか。いや、だいたい言わなくたって「丹波アマヒコが富良野ナツキをスマートにデートに誘った」なんて思う人はいないと思う。そもそも「スマートにデートに誘う」ということがどういうことなのか。ぼくにとっては「デートに誘う」がそもそも「スマート」ではない気がする。本当にスマートな人ならば、きっと、人差し指をくいと曲げるだけでなんとかするもんじゃないだろうか。
事の発端はナツキちゃんからのメールだった。
「安曇野さんと三人で都路里の抹茶パフェ食べにいかへん?」
都路里の抹茶パフェ、というものは祇園や伊勢丹に存在する「茶寮都路里」という人気のお茶屋さんで食べることの出来る、「抹茶スイーツの全て」という副題がついてもいいような、特選都路里パフェのことである。抹茶のソフトクリーム、寒天、わらびもち、白玉などの緑色のお菓子を栗やあんこと合わせて、さらには抹茶のカステラまで添えるという暴挙まですると聞いたことがあった。いくら抹茶好きとはいえ、抹茶のカステラまで添えるのはやりすぎだ。ぼくの抹茶の許容範囲を超えた瞬間である。抹茶の暴力である。
そのパフェの噂は京都に住んでいる中高生なら必ず耳にすることがあると思う。しかし、ぼくはもちろん、そんなところに一緒に行く友達もいなければ、そもそも家を出ようとする行動力もなかった。そのパフェは儚くも眩しい幻として存在し続けた。ぼくにとっては幻だったのだ。
ナツキちゃんからの突然のメールにぼくは動揺した。いや、突然なわけではなかった気がする。ぼくはどうやらナツキちゃんからメールが来るだけで「突然」という言葉を使いたがる傾向がある。
「安曇野さん、他所の世界から来はったんやろ。都路里のパフェは食べてほしいと思わへん? 帰る前に」
なるほど。この様子だと、ぼくは単なるおまけのようだった。しかし、その「所詮おまけ」という立ち位置は案外気楽なもの。おまけは責任を負う必要がないからだ。勿論、勝手に責任を生み出しているのはぼくだけで、ナツキちゃんは誰にも責任を負わせようとしていない。
「ぼく、食べたことないからわからへんけど、誘ってみる」
どのような絵文字を入れて女の子から好感を得ようか、逆に入れないことで男らしさを出すべきか、悩んだ末に「業務連絡は絵文字を入れると寒い」という己の法則にしたがって、ぼくはそのまま文章だけで返信した。
そしてリビングにて本を読んでいるだろう安曇野さんに声をかけようと机から立ち上がった瞬間とき、携帯電話のバイブレーションの音が机から部屋へと伝わって、チープだけれど明るい着メロ、いつかラジオで聞いた「シャングリラ」というタイトルの曲が流れた。
誰からのメールかはすぐわかる。ナツキちゃんからメールが来たときだけに、流れる音楽だからだ。
「ほんまに? 絶対一緒に食べよ~。丹波君。食べなあかんよ~」
まずい。これではおまけからサイドメニューへの格上がりじゃないか!
という旨を、ソファにだらしなく座りながら本を読んでいた安曇野さんに伝えると、安曇野さんは、うんうん、と頷いたあとにこう述べた。
「いや、都路里のパフェなら東京で食べたことがある」
不味い。終わった。
「安曇野さんは食べたことがないだろうから誘う」というナツキちゃんの目論見は水泡と化し淡く消え、残ったのはぶくぶくと泡を吹いて倒れそうな「特選都路里パフェ」を食べたことのない十四年の人生を悔やむぼくだけとなった。
わかりやすく項垂れるぼくを見ると、安曇野さんは「はて」と言った顔をして、そしてお馴染みの笑みを浮かべた。にやり。着ていたレッドホットチリペッパーズのTシャツのせいで、どうしてだか頼りがいがある。
「丹波君、食べなあかんよ~、なんでしょ」
「えっ、そうやけど」
「十分デートの理由でしょ。デートしておいで」
えっ! と声を出すまでもなく、安曇野さんは次のようなことを言った。
「とにかく三人で食べに行くように予定を組んでおいて、当日私がドタキャンするの。アマ君はそれまでに自分はパフェを食べたことないこと、その日を楽しみにしていることを十分にナツキちゃんに伝えておく。それだと、ナツキちゃんも、アマ君にパフェの美味しさを教えてあげる、という目的が、当日私がドタキャンしてもあるはずでしょ。もし私がドタキャンして、ナツキちゃんも行きたくなさそうにしたら、そのときはそのとき、潔くフラれなさい。もし、それでも行くのなら、楽しんでおいで」
その話にはぼくはいっぱい言いたいことはあったのだ。嘘をついているようで嫌だとか、そんな上手くいくはずがないとか、何より、フラれたらどうするんだ、とか。しかし何を言っても安曇野さんは聞く耳を持たず、ついにはぼくの携帯電話をいつのまにかくすねて勝手に返信していたのである。地獄に住む悪魔とか鬼とかはその厳かな顔に比して、間違いなく手先が器用であるとぼくが確信した瞬間である。
「童貞の君が考えたストーリーを現実世界にあてはめようなんて、おこがましいと思わない? 事実があってのストーリーなの、現実は。まずは事実を作ろうとしなきゃ。それが、フラれるにせよ、デートするにせよ」
こういうことで、ぼくとナツキちゃんはその二日後に、祇園へと出かけたのである。
ぼくの想定していたストーリーとは違い、待ち合わせの際にナツキちゃんは安曇野さんの不在に対して残念そうな表情を見せたが、「じゃあ、祇園さんで二人でパフェやなあ。デートみたいやなあ」とまた微笑んでぼくの強張った顔を覗き込んだ。もちろん、その微笑みを直視することは出来なかったのは言うまでもない。もし、麦わらのカンカン帽をかぶる彼女の顔を直視していたら、湧き上がる感情が行き場を失って、あわや失禁していたのではないだろうか、と冷房の強いバスの車内で身震いした。
そんなぼくの隣でナツキちゃんは、鼻歌こそ歌わなかったが陽気に窓の外を眺めていた。青いストライプのカットソーと白のロングスカートと黒いスニーカー。彼女は夏になりきっているとぼくは思った。
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