第5話(3)キスしたことない人にはキスシーンは書けない
ラモーンズの黒のTシャツとグレーのハーフパンツを穿いて、眼鏡をかけた安曇野さんは、夏の街に溶け込んでいた。最近伏見稲荷の辺りの土産物屋で買ったという、安物の下駄の音が、かっ、かっ、と鳴って、じめっとした街の空気に吸い込まれていく。夜ももう二十時だというのにやはり京都の夏は気を抜かずに暑さを維持している。少しは気が緩んで、涼しい風でも吹けばいいものを。
コンビニエンスストアはぼくの家の喫茶店を出て坂を下りて、大通りの横断歩道を渡って少し歩いたところにある。歩きながら安曇野さんの話にうんうんと頷いていた。「この下駄、安っぽいね」とか「お父さんのTシャツコレクションはなんなの?」とか。
でもぼくが聞きたいのはそんなことじゃなくて、それを言いたげな目を向けようと、顔色を窺うように、首の下から顔を覗き込むように彼女の眼を見ようとする。でも、前を向いたままの安曇野さんの眼はこちらに向かうことなく、首筋を流れる汗が官能的に見えてどきりとして、ぼくはまた下を向いて歩く。
コンビニエンスストアに入って、ひんやりとした空気を纏って、すぐ用を終えて出ると、少し期待はしたもののやっぱり夜の蒸し暑さは変わらなかった。夏は、もっと手を抜くべきだ、そんなことを思ったって、べっとりと全身にまとわりつく暑さは変わらない。ガリガリ君だって、一瞬で溶けてしまわないかと不安になる。
そんな不安を察したのか、安曇野さんはすぐさまビニール袋からガリガリ君を取り出して、封をぱくりと開けた。
「フライング」
ぼくがそう呟くと、ふふん、と笑って彼女はぼくにもう一つのガリガリ君を差し出した。
「夏の夜を歩きながら食べるのも一興」
「暑いだけやん」
「今に、涼しい風が吹くからさ」
真っすぐ帰るはずだったけど、いつの間にか二人で琵琶湖疎水沿いの遊歩道を歩いていた。この川の水は琵琶湖から来たというけれど、琵琶湖なんて見たこともないし、誰も知らないからその存在は謎である。春になれば桜が生い茂るこの歩道は、アスファルトの割れ目から雑草がびよびよと伸びて、途中途中でぼくの足をくすぐる。不思議と、先ほどまでに感じなかった、暑さを払いのけるような風が吹いた。はて、と思って安曇野さんを見ると、安曇野さんは「ざまあみろ」と言わんばかりに鼻を膨らませていた。
「『恋愛』ねえ」
安曇野さんはそう呟いて、桜の木の幹を、ぽん、と叩いた。
「大丈夫だよ。アマ君。今に書けるから」
まるで木に語り掛けるように、安曇野さんは言った。
うーん、と唸ると安曇野さんはまた幹を叩いた。その振動が、なんだかぼくの肩にまで伝わるような気がする。その様子を見て、へへっ、と安曇野さんは笑った。笑い方が実に多様な人だ、と思ったときである。
「現在進行形でしょ、ナツキちゃん」
その途端だ。頭の中に何か栓でもあったのだろうか。それがはじけ飛んで、ぶわっ、と頭を支配する濃くて重い液体のような感情が噴き出した。その感情に名前をつける暇もなく、ぼくの頭を完全に埋め尽くしてしまう。どこかにいった栓を探す暇もない。感情がただただあふれ出て、自分がどんな表情しているのかもわからなくなる。頭は重くて顔は熱い。全ての汗腺が開いたように汗が出始める。不味い。いや、不味いのか。それがもうわからない。
安曇野さんは、にやり、と笑った。そして、ぽん、とぼくの肩を叩いて「顔、真っ赤!」と、また噴き出して笑った。
「そ、そんなんちゃうやん」
「何が違うのよ」
「いや、そんなんやなくて、そうやないねんけど、そう、そう」
「アマ君、君は恋愛してるの」
ぼん、と感情が頭から飛び出たと思った。
「いいじゃない。別に恥ずかしい話じゃないでしょ」
「そ、そういう話やないやん」
「じゃあ、どういう話よ。それも知らないくせに」
安曇野さんにはどうしても勝てない。そんなことはわかりきっていたし、今この瞬間も負けを認めるようにぼくは黙った。口はぱくぱく動いていたけど、空気を噛むことすらままならない。
安曇野さんは、ごめんごめん、と微笑んだあと、今度は木ではなくぼくの肩を叩いて、そして歩き始めた。
「締め切りまでまだあるでしょ。じっくり学んでいけばいいよ。ホワット・イズ・恋」
「でもぼくは別に――」
「小説も書けて、ナツキちゃんに恋をできて、一石二鳥」
「後半はおかしいやん」
「純粋な心で人に恋が出来るのは今だけなの。謹んで恋しなさい。大人になったらすーぐみんなセックスするんだから」
「あー、もう!」
ぼくが「もう」とか「あー」とか擬音なのか声なのかもはやわからなくなるまで声を出して、それを安曇野さんが笑いながらたしなめながらまた数十メートル歩いた。
夜風はまた吹いてくれて赤く火照った顔を冷ましてくれている。どうやらこの遊歩道は風が通りやすく出来ているらしく、川を渡って来た風は、じめっとしてるわけではなくて、そんなに嫌な気持ちにはさせなかった。噛んでいたガリガリ君の木の棒はもうぺしゃんこになっている。安曇野さんは髪をかき分けて川のほうを見ていた。
「アマ君はまだ恋愛をしたことがないのか、そっかそっか」
ぼくはまた恥ずかしさを一段階引き上げる。
「そんなに言わんでええやん、安曇野さんだってそんなときあったやろ」
「ははーん。私から何かを引き出そうとしてるってわけね」
「だって、気になるもん」
「私は恋多き女だからなあ」
「なんやそれ」
「乙女のひ、み、つ」
また数メートル歩く。そっかそっか、と言って、安曇野さんは橋へと続く石段に腰かけた。促されるでもなく、ぼくはその隣に座った。まるで、それが予め決められていたストーリーであるかのように、ごく自然に、糸に引っ張られるように。
たまに橋の上を車が通るぐらいで、音の無い静かな夜だった。ぼくは安曇野さんがどうしていきなり座ったのかと不思議に思いながら、でもなんだか聞くほどの勇気もなくて、ただただ石段についている砂の感触を確かめていた。きっと、安曇野さんが自然と口を開くのだろう、そういうストーリーなんだろう、と思った。
しかし、安曇野さんはなかなか口を開かない。風は吹いているのに、車が少し間隔をあけて通り過ぎるのに。いよいよ不安になってきて、ぼくは安曇野さんの顔を見た。遠くでも近くでも、どこを見ているでもないような眼だった。思わずぼくは顔を背けた。彼女の見てはいけない側面を見たような気がして、彼女の見ているものを見るとそれはきっと違った世界のものであるような気がして、ぼくはずっと下を向く。でも、なんだか頼りなくて、ぼくはすっと安曇野さんと距離をつめた。心では、安曇野さんに寄り掛かっているような、そんな距離だ。
すると、安曇野さんは口を開いた。そのときは、ぴたりと周りの時が止まった。
「ねえ、キスする?」
えっ?
声が出なかった。安曇野さん以外の全ての時が止まった。にい、と安曇野さんは笑ったあと、ゆっくりとぼくに顔を近づけた。
そのスピードがどのくらいかなんてわからない。一瞬のうちに近づいたのか、それとも、一分で一センチしか近づいていないのか。でも、ゆっくりと顔は近づいていく。
世界がぼくらの周り両手の伸びる半径一メートルを残してどんどん消えていく。
安曇野さんのおでこが、ぴたり、とぼくのおでこにつく。やがて、じんわりと安曇野さんの体温が感じられる。息がかかったからだろうか。額が引っ付いているからだろうか。
心臓の音なんて聞こえるはずはない。だいたい、そんなものに心を向ける余裕はない。ただ、少しばかり息が苦しい。それだけは分かる。
そして、ぼくと安曇野さんが、また一つ距離をつめた。
安曇野さんとぼくの呼吸のリズムは少し違う。そのずれたリズムとリズムがときたま重なるときがある。その瞬間、時が止まったように感じられる。動いているのは、ぼくのくだらない思考だけだ。
彼女はどういうつもりなんだろう。
ぼくはどう思えばいいのだろう。
この夏はなんなのだろう。
この夜はなんなのだろう。
そして彼女はまた一つ、近づいた。
ゆっくりと、また一つ。
「ばーん」
ふと気が付くと、ぼくの鼻にぴったりと付いていたには安曇野さんの人差し指だった。安曇野さんは、手を銃の形にして、その先端をぼくの鼻に向けていた。いつの間にかその顔はぼくから離れて一メートルのところにあった。世界は元の姿に戻っていて、車が、ぶおん、と橋を通り過ぎる音をたてた。
「あはははは! ごめん! からかいすぎた!」
何が何だかよくわからないぼくを放って、安曇野さんは笑って手を合わせる。
「家庭教師、生徒を誘惑、みたいなこと、ずっとしてみたかったの! あはは。ごめんね」
そして、安曇野さんがぼくに何かを言うたびに、頬の温度は一つずつ上がっていく。
なるほど。
安曇野さんは、ぼくをからかっていた。
こみ上げる恥ずかしさと、じわじわと広がる安心がぼくを埋め尽くしていく。一人だけあんなにも舞い上がっていたのか! と思えば頬はどんどん紅潮するし、なんだ、何も考えなくてよかったのか、と思えば呼吸がどんどん落ち着いてくる。安曇野さんはやっぱり安曇野さんだったのだ。それは、ぼくを安心させる事実、いや、解釈だ。
「あはは、ほんとにごめんごめん!」
「べ、別に、期待してたんちゃうもん」
「あはは。やっぱり好きな人と初めてなのがいいもんね」
「そ、そういうわけちゃうねんけど」
「どういうわけ?」
「うるさい」
「あれ、思ったより冷静。もっと慌ててるのが可愛いのに」
「ぼくは大人やからな」
「ははは、そっかそっか」
安曇野さんはまた笑って、そしてぼくの頭を撫でた。そうやって、いつもの安曇野さんを感じて、ぼくはまた胸を撫で下ろす。
「まあ、アマ君は大丈夫だよ」
なんだか納得がいかないけれど、納得しなきゃだめだと思って、ぼくはうんと頷いた。
そのあとは帰路につこうと、ぼくと安曇野さんは立ち上がって通りのほうへと向かった。途中話していたのは、やはり恋愛のことだった。
「彼女が出来たらどんなことがしたい?」
そんな、他愛もない、別に重大じゃないことだ。でも、そんな夢のあることは話していて気が楽だ。いつの間にか饒舌になっていた気がする。でも、ぼんやりとしたことしか言えない。
「花火とか?」
「いいねえ。夏っぽい」
「お祭りとか、浴衣で」
「私もやったことないな」
安曇野さんは少し自分の話をしてくれた。初めて出来た彼氏は高校生の頃だったとか。中学の頃好きだった人には彼女がいたとか。安曇野さんはずっと遠い人だと思っていたのに、少し近づいた気になった。別の世界の人だって、わからなくなってしまいそうになるほど。
「そうだ」
そのとき少し思いついたことがあった。安曇野さんは、んっ? とぼくを見た。
「海。海ってどうなの?」
「えっ?」
「そっちの世界にはあるんでしょ、海。ぼくは概念しか知らないけれど、彼氏と行ったりした?」
すると、だ。安曇野さんの足はぴたりと止まった。
「海?」
すっ、とぼくの顔に薄い布がかけられたかのような心地がした。それは、暑さでも風でもなんでもない。嫌な予感、そのもののような、感覚。
「海って、何?」
えっ?
「そっちの世界には、あるんでしょ?」
「そっちの、世界?」
えっ?
「安曇野さんの世界には、電車も走ってるし、東京なんて街があるし、プレステも4まで出てるし、海があって、その向こうには大陸があって」
「えっ? 東京? プレステ4? 海? 大陸?」
安曇野さんは、額に手をやった。どうも、さっぱりだ。そう語るような表情で。
「私の世界って、何?」
その言葉を聞いたとき、ぼくの手はすでに勝手に動いていた。携帯電話を取り出して、そしてアドレス帳からナツキちゃんのページを探す。
そして急いで電話をかけた。
不味い。そう。これは理屈じゃなくて、直感だ。
そうだ。安曇野さんは、自分の世界を忘れ始めたのだ。
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