第5話(2)キスしたことない人にはキスシーンは書けない
その日はぼくの家で素麺を食べようということになっていたので、四人で安曇野さんが運転する父の車に乗り込んだ。ドアを開けると、むわっ、とした空気がすぐさまに全身を包む。車の中が焼けたような臭いがする。狸とナツキちゃんは後部座席に乗り込んで、ドアを閉めたとたんに狸が人間から畜生へ姿を戻したのには、なんだか腹が立った。
「化け続けるんもしんどいんや」
狸のせいでぼくは助手席に乗らざるをえなくなった。ナツキちゃんと隣だとなにも話せなくなるかもしれないからかえってよかったのかもしれない、と、ごおお、と音を鳴らすエアコンの風の臭いを嗅いで思い返す。
国道に出て、南へ向かうと郊外型のホームセンターなどが見える大きな通りになる。別に景色を見ていても面白くないから、ぼくは運転席に座る安曇野さんの手つきをずっと眺めていた。ここ最近、安曇野さんの隣というのはどうも落ち着く場所だった。それがどうしてだかわからないけれど、安曇野さんの隣ならなんだか、何が起きても大丈夫、みたいな、そんな感じがする。
「ナツキちゃん、結局何冊買ったの?」
「五冊ぐらいやなあ」
「あれ? 安倍公房と遠藤周作だけじゃなかった?」
「文庫なんやけど、田山花袋とか」
車の中での会話はおおかたナツキちゃんと安曇野さんが先導していた。間に狸が茶々を入れるぐらいで、ぼくは黙って聞いているだけだ。頷きを入れるタイミングすら難しい。
「丹波君はなんか買ったん?」
後ろの方で、菜月ちゃんの顔が少しぼくに近づいた気がした。その言葉が放たれてから、変わることのないはずのぼくとナツキちゃんの距離がぐわんぐわんと一メートル、二メートル、一メートルと揺れ始める気がしてくる。
「えっと」とぼくは呼吸を整えるために声を出す。それがなんだか会話の呼吸を乱す引き金になって、ぼくの頭の中はさらに乱される。どうしてだろう。「文庫本の星新一を買った」と言うだけでぼくはここまで困惑する。会話の流れが読めない。エアコンの風の音が、いやに大きく聞こえる。
「星新一、だよね」
そのとき、安曇野さんは前を向いたまま、ぽつり、と呟いた。
「えっ、うっ、うん」
「そうなんや! こないだも星新一好きって言うてたもんなあ。私も、好きな作家は見かけたらついつい買ってしまうもん」
安曇野さんは、ふふん、と笑った。そんな安曇野さんの、細いけど存在感のある腕を見ると、この人がいなくなったらどうなるだろう、って思わずにはいられなくなって、素直に今を喜べなくなる。
「そうや。丹波君やから言うけどな」
ふと、ぼくの感覚の全てを遮断するような言葉をナツキちゃんは放った。エアコンの風の音も、無駄に大きな車の揺れも、シャツに染みついて冷えてきた汗の感触も、全て遮断する言葉だった。ほんの一瞬だけだけど、ぼくの感覚は全て聴覚に集められた。
「私、小説書いてんねんかあ。星新一みたいに、短編」
「えっ?」
信号が青になったのだけはわかった。
「小説?」
「そう。恥ずかしいからあんま他人には言わへんねんけど」
ぼくが後ろを振り向くと、ナツキちゃんは照れを隠すような笑みを浮かべてぼくの視線を返した。ふらふらと泳ぐようにしてしか届かないぼくの視線とは違って、ナツキちゃんの視線は真っすぐだ。照れを隠すというよりも、照れを覆い尽くすような笑みというほうが正しい。ぼくの視線は彼女へと向かうことをやめて、ふわふわと車内を泳いだ。
「そ、そうなんや」
そんなぼくを見て、安曇野さんは、にやり、と笑った。
「言ったらいいじゃん。君も、書いてるってこと」
ぽん、と頭を叩かれたような気がした。その次の瞬間にようやく、その言葉がこの場でもたらす意味がわかった。
「えっ、丹波君も、小説書いてんの?」
「そう。結構文才あるよこの子」
「そうなんや! 見てみたいなあ。そういえばメールの文章も面白いよ、丹波君」
「なんや。坊主。ただの根暗中二やと思ってたらそういうわけやないんやな」
「たぬ吉も失礼ね、私が見込んだ子なのに」
「誰がたぬ吉や」
目まぐるしく会話が流れるので落ち込んだり動揺したりする隙もない。呼吸を整える暇もないので会話にすら入れず、ただただ目でそこにいる人たちの口の動きを追っていた。皆が楽しく話しているのに、お茶を濁すようなことしか言えぬほどぼくの気持ちは澱んでいる。ただ、ナツキちゃんはぼくを見て微笑んだ。ぼくの心の澱みが、暗さが、覆い尽くされてしまって、全て浄化されて綺麗になるような微笑みだった。
「嬉しいわあ。なんか。自分以外にも書いてる人見つけられて」
そのあとはみんなで小説のことについて話した。何を話したかは別にそれこそ小説だと端折られるようなことである。ただぼくはひたすらに、ナツキちゃんと同じ話題で盛り上がれることに嬉しさを噛みしめていて、口の中がどんどん甘くなるのを感じていた。
ぼくの家に戻ると、白く輝く素麺と氷の入った大きな桶がテーブルに用意されてあった。こんな大きな桶が家にあったとは、という驚きと、ナツキちゃんがぼくの家でご飯を食べている、という驚きで、エアコンの効いた見慣れた明るいリビングは誰か他人のお家のような心地にさせた。
父と母もやってきて、五人と一匹で桶に手を伸ばして、薬味の入っためんつゆに少し硬くなった素麺をつけ、そしてちゅるちゅると吸い上げる。そのときぼくはきっと調子に乗っていたのだろう。お箸を巧みに動かしながら会話をし、口をもぐもぐと動かしながら、冷たい麦茶に手を伸ばし、そして誰かの話を笑い飛ばす、なんてことが出来ていた。後から思いだしたら死にたくなるかもしれないから、記憶に留めるのは危険である。ただ、楽しかった。それだけは確かだ。
その日の夜のことだった。ぼくは机に座って、原稿用紙と対座していた。他の紙と違って、原稿用紙というものは存在感がある。座っているかどうかはわからないけれど、対座する、という言葉がなんだかしっくりくるように思える。
お昼ご飯を済ませたあとは、ナツキちゃんは安曇野さんの運転する車で送られて七条のほうまで帰って行った。ぼくもついて行こうとしたのだが、「あかん。店がもう、ジミヘンや」という父の懇願のせいで、店の手伝いをするために残らざるをえなかった。(恐らく、店がギターのように炎上しているということを言いたかったのだと思う)
「そうや、丹波君」
去り際になって、ナツキちゃんは、くるりとまたこちらに振り向いた。髪の揺れ方とか、ブラウスの裾のはばたきとか、彼女の瞬きとか、ぼくの好きな瞬間ばかりだ。
「今度、短編の文学賞だしてみーひん?」
彼女は、そう言って微笑んだ。
「文学賞?」
「そう。なんか、京都新聞主催の公募で中高生限定の文学賞があんねん。原稿用紙五十枚以内やったかな」
「それって、ぼくなんかが出してええやつなんかな」
「私が出すんやから、ええに決まってると思うんやけどなあ。一緒に頑張ろう。なんか、そっちのほうがやる気も出るし面白いやん」
ぼくは、頭の先を地球に引っ張られるように、こくり、と頷いた。頷かざるをえなかった。彼女の表情が、じんわりと微笑みに変わる様子が見たかったから。そして彼女は、また、にこり、と微笑んだのだ。
しかしここで問題があった。彼女が帰ってから、リビングにあるパソコンで調べたこの文学賞のテーマについてである。その年によって短編小説部門ではテーマが決められていて、当然だがそのテーマに則った作品のみが求められていた。そして、そのテーマが「恋愛」だったのだ。
察しがつくだろうが、ぼくに恋愛経験というものはない。そりゃ、十四歳になって恋愛経験がないというのは別にそんなに珍しいことではない、と思う。最近は小学生の男女が早くもキスなどを済ませていると聞いたことがあるけれど、そんなのは伏見区や山科区の多感なヤンキーがすることで、ぼくみたいな、ドン・キホーテにも近づけない、善良な根暗引きこもりには関係ない話である。
原稿用紙が、じっとぼくを見ている気がした。というか、笑っているような気がする。「なんだ、キスすらしたことがないから書けないのか?」みたいな感じで、マスのひとつひとつの空白がぼくを笑っている気がする。
ふう、と息を吹いてみて自分の身体のなかに何かが残っていないかを確認しても、ただその息は空っぽで湿り気すらないようなもので、原稿用紙が揺れることもなかった。「キスしたことない人は説得力のあるキスシーンは書けない」と安曇野さんは言っていたが、全くのその通りで、ぼくは「恋愛したことない人」であり、恋愛というものを文章にすることが出来ないのだ。
本棚の本をぺらぺらめくってみても、例えば夏目漱石の「三四郎」や武者小路実篤の「はつ恋」の文章なんて、全然頭に入ってこない。文章が自分の頭の中でまだ消化できない、というよりもはや箸で掴むことすら出来ないようなものだった。自分の頭の中にあるものをぐるぐるとかきまわしてみても、泥水をただ無為にかきまわすような心地がした。
そんなときに、こんこん、と戸がノックされる音が、部屋を転がりまわるようにして響いた。安曇野さんがきた。「なに?」とぼくが問うと、戸は、すっ、と音をたてずに開いた。
「あっ、やっぱり書いてる」
安曇野さんは、にやり、といつものように笑ってぼくの机の傍に来た。手を机の縁について、その白くて細い腕がすっとぼくの目の前に現れる。
「あれ、進んでないじゃん」
ぼくは、うーん、とひとまず声だけあげて困っていることを表明した。安曇野さんは、ふうん、とだけ呟いてぼくの真っ白の原稿用紙をじっと見る。原稿用紙はいつの間にか笑うのをやめて、表情もなく、ただの一枚の紙になっていた。
「難しいの?」
安曇野さんの顔が少し近づいた。
「あれ、テーマが『恋愛』やから」
すると、ぼくの返答に、ぶふっ、と安曇野さんは噴き出した。きょとん、としたのはぼくである。安曇野さんは高笑いしたあとに、ひーっ、と声をあげ、動物か何か夜とかに彷徨いそうな妖怪のような鳴き方をして、そしてばんばんとぼくの肩を叩いた。
「痛い痛い!」
「恋愛! ははははは! いいじゃん。君にぴったりだよ!」
ぼくの顔は、また、きょとん、だ。
「えっ、なんで」
「ははは、なんでって」
「いやいや、ぴったりって」
「もー、この子は本当にどうしようもない」
そんなことを言って、安曇野さんはけらけら笑う。なんだか、ぼくはきまりが悪くなって、ふん、と鼻を鳴らした。そんなぼくを見て、安曇野さんはいつものように、にやり、と笑う。いつの間にか、その笑顔を見るのが、ぼくは好きになっていたのかもしれない。
「ははは。そうだ、アマ君。ガリガリ君買いに行かない?」
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